息子の反応
息子は、意志の疎通が出来ません。
コミュニケーションがとれないことになっています。
「なっています」って言いましたね。
目が見えなくて、耳が聞こえなくて、声も出せません。
でも、でも、反応があるのです。
だれかが「さようなら」と言って触ると、気配を察知するのか、手をあげたり、手を振ったり、
何かしらの反応があったりなかったりします。
看護師さんなど皆さん、大喜びして帰って行きます。
手がぶつかったりすると「ごめんごめん」というように手で合図したりなでたりします。
こういうことが「コミュニケーション」ということなのかなと思ったりする今日この頃です。
本日庭のローズマリーを、鉢植えの形で家の中に入れました。来年までぬくぬく過ごします!
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コメント
こんな 投稿が保存されていた
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投稿: 春間 則廣 | 2013/06/19 07:11
> 人の素朴な疑問には付き合えない、ということなら、それはもちろん相手の自由だと思っています
「素朴」 という言葉をここに使うなら、
素朴 の 意味 は、汎用性を失う
「自由」 と いいながら 拘束しようとしている
自由を認めるなら(肯定するなら)
相手の主張を肯定しなければ 、、、、
否定の自由を行使するには、
自由を肯定するところに立つ必要がある
「 自由 」 とは、洲に立っているという意味です
「 洲 」 にたてないモノは
みずからを、 「 パパンチャ 」 というものに追い込んでいる
心の動きは、囚われに支配されると 覆われる
“ この ? ” 覆い を とると、
自らの覆いも取れる
何がどのように覆われているかをつぶさに見る
つぶさずに、怠りなく読み取ると、
そこに精進という 正道 があることに気づくことになる
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投稿: 春間 則廣 | 2025/11/10 07:04
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> でも、でも、反応があるのです
でもでも って 「体」 を 振る
( 主 )体 の「 集 」
集まり・重なり 意味を通づる
あるもの は 無い というところ に のみ
“ あるものである ”
そこを 『中論頌』 では
“ 釈 して ” ないとする
あるものとはないのである
とは
ないない こと である
「 でもでも、反応があるのです 」
と のたまう( のたう 知 まわる )
それほど 大げさな事 ではなく
誰にでも いつも起きている
“ 些細 ” ( な できごと )
自分の子( という 財 ) だから
おおげさ に 記する ( 多かろうと あなたの財 なる ブログ )
( ま 大小 は
「 縁起 」 と 言う・主張する
口 の 葉・端 に 宿る )
投稿: 春間 則廣 | 2025/11/06 08:43