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2025/11/02

息子の反応

息子は、意志の疎通が出来ません。

コミュニケーションがとれないことになっています。

「なっています」って言いましたね。

目が見えなくて、耳が聞こえなくて、声も出せません。

でも、でも、反応があるのです。

 

だれかが「さようなら」と言って触ると、気配を察知するのか、手をあげたり、手を振ったり、

何かしらの反応があったりなかったりします。

 

看護師さんなど皆さん、大喜びして帰って行きます。

手がぶつかったりすると「ごめんごめん」というように手で合図したりなでたりします。

 

こういうことが「コミュニケーション」ということなのかなと思ったりする今日この頃です。

 

本日庭のローズマリーを、鉢植えの形で家の中に入れました。来年までぬくぬく過ごします!

 

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コメント

   こんな 投稿が保存されていた

   ************

投稿:  春間 則廣  | 2013/06/19 07:11

> 人の素朴な疑問には付き合えない、ということなら、それはもちろん相手の自由だと思っています

「素朴」 という言葉をここに使うなら、
素朴 の 意味 は、汎用性を失う

「自由」 と いいながら 拘束しようとしている

自由を認めるなら(肯定するなら)
相手の主張を肯定しなければ 、、、、

否定の自由を行使するには、
自由を肯定するところに立つ必要がある

「 自由 」 とは、洲に立っているという意味です

「 洲 」 にたてないモノは

みずからを、 「 パパンチャ 」 というものに追い込んでいる


心の動きは、囚われに支配されると 覆われる

“ この ? ” 覆い を とると、
自らの覆いも取れる

何がどのように覆われているかをつぶさに見る

つぶさずに、怠りなく読み取ると、
そこに精進という 正道 があることに気づくことになる

   ************

投稿:  春間 則廣  | 2025/11/10 07:04

> でも、でも、反応があるのです


   でもでも  って 「体」  を 振る
  ( 主 )体  の「 集 」

    集まり・重なり 意味を通づる


  あるもの は 無い     というところ に  のみ

 “ あるものである ”

 そこを  『中論頌』  では

    “ 釈 して ”  ないとする


   あるものとはないのである

    とは

   ないない こと である


   「 でもでも、反応があるのです 」

  と  のたまう( のたう 知 まわる )

  それほど 大げさな事  ではなく

  誰にでも いつも起きている

        “ 些細 ”  ( な できごと )


  自分の子( という 財 )  だから

  おおげさ に 記する ( 多かろうと  あなたの財 なる ブログ )


   ( ま   大小  は
       「 縁起 」 と  言う・主張する
                 口 の 葉・端  に  宿る ) 

投稿:  春間 則廣  | 2025/11/06 08:43

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