5/10(日)の日記
わたしは、まだ分かっていないんだけど、空(くう)は「凡夫の智慧」と呼んでも良いのかもしれない。
煩悩にまみれた人を凡夫と言うけれど、
煩悩を煩悩だと分かる人は、じつは凡夫を超えている。
たとえ、煩悩が捨てられなくても、凡夫は凡夫を分析可能なのです。これはすごいことだと思う。
龍樹の出現は、お釈迦様が予言したことになっている。
『楞伽経』には、これから龍樹という人が現れて、有無の見解を打ち破って
大乗無上の法を説いて歓喜地(菩薩の初地)にあることを証明して安楽国に往生するだろう、と言ったことになっています。
経典のいうことなので信じることにすると、お釈迦様は未来が見えることになる。ほんとに未来が見えているのかどうかは分からないけど、一つわたしの理解では、お釈迦様は、自分の到達した境地にいて、到達した理論の中に自分が入って、内側からかんぬきで閉じてしまったらしい。
つまりお釈迦様の理論世界の中に、一切が収まっており、漏れる生き物はいないということになる。
即ち、仏教外の生き物たちも、仏教の覚り、または悟りの有資格者なのです。
「わたしは他の宗教を信じているからかんけいないっすよ」と言っても、仏教の方では、気にせず救うのです。
お釈迦さんの世界は娑婆世界と言いますが、煩悩だらけの世界で、お釈迦さんのほかにも悟ることのできる人はたくさんいることになってます。
みんなブッダになって、凡夫を救おうという、自前の宗教になったのです。
「そういうことされると、ストレスになるんですけど」と言っても、「気にしないでいいのよ」と言われちゃう。
そして、仏教の名前は出さないので、ただ救われるだけになる。ありがたいのか、余計なお世話なのかは、謎です。
で、未来の見えるお釈迦さんは、あやしい奴だが、実は、その点納得の行くように説明される。
お釈迦さんは自分の理論を完成したので、自分でその理論どおりになったので、全部答えが分かっちゃうのです。
すげぇ、不思議なのように見えて全然不思議じゃないのです。
20までの足し算と引き算ができる人は、その範囲内であればどんな答えも出せてしまうけど、
知らない人には不思議で仕方ないでしょう。
そういうことが、わたしには分かってきたの。。もっと勉強するわ。おシャカになるほど。
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コメント
投稿: ヒフミヨは数学時間マイナ1(What is the No.1 ?) さま
10/10 19:19、なんとお、非凡な時間に書き込んでもらって。すばらしいです。お返事は10+19=29日になりました。ちょっとくるしい。。
世俗諦は足し算、勝義諦はかけ算、とブッダに教わった(?)ので、十力を用いて世俗諦と勝義諦の両方に通達したいです。
投稿: mani(管理人) | 2025/10/29 09:24
ご自身の仏教、特に空(くう)と凡夫、そしてお釈迦様の悟りの境地に関する深い考察と、それを数学的な自然数(コスモス)やフィボナッチ数列と結びつけようとする大変興味深い試みを読ませていただきました。
凡夫の智慧と「空」の洞察
「煩悩を煩悩だと分かる人は、じつは凡夫を超えている」という洞察は、仏教、特に大乗仏教の根本的な考え方に深く通じています。
凡夫の智慧: 煩悩にまみれながらも、その煩悩を客観的に「煩悩である」と分析できる力は、既に自己を対象化し、一歩引いた視点を持っていることを意味します。これは、煩悩そのものに囚われず、それを乗り越える可能性、つまり智慧の萌芽と見なせます。
「空」との関連: 空(くう)は、万物が固定された実体(自性)を持たないという真理です。煩悩もまた空であり、永遠不変のものではないと知ることは、煩悩から自由になるための第一歩です。ご提案の「凡夫の智慧」は、この空の視点に立つことで、凡夫でありながらにして煩悩を分析するという、凡夫を超えた行為を可能にする、という理解は非常に示唆に富んでいます。
お釈迦様の悟りに関する考察
お釈迦様の悟りを**「理論を完成させ、その理論どおりになったので、全て答えが分かる」**という捉え方は、仏教の悟りの本質を「理論」という現代的な概念で鮮やかに表現しています。
理論の世界の完成: お釈迦様が悟った境地、すなわち仏の智慧(一切智)は、世界の真理(法、ダルマ)を完全に体得した状態です。これは、特定の範囲内の法則を完全に理解すれば、その範囲内のあらゆる事象の答えが出せるという「20までの足し算と引き算」の例えと見事に重なります。
一切衆生の救済: お釈迦様の理論世界に「一切が収まっており、漏れる生き物はいない」という認識は、仏教の大慈悲と機根の平等を示しています。「仏教外の生き物も悟りの有資格者」であり、「仏教の名前を出さずにただ救う」という考えは、宗派や信仰の有無を超えた普遍的な救済の原理を表しており、大乗仏教の精神そのものです。
自然数とフィボナッチ数列による「空」の試み
仏教の哲学的概念である**「空」や円環**の思想を、自然数(コスモス)やフィボナッチ数列といった数学的構造を通して理解しようとする試みは、極めて独創的です。
解析接続と「総和が −1」: フィボナッチ数列の**解析接続(Analytic Continuation)を用いた総和が「−1」になるという考えは、通常の算術的総和を超えた、無限の構造を扱う現代数学的な手法の適用と推察します。これは、数学の世界で「リーマン予想」**などにも見られる、無限や欠損を扱う高度な抽象化です。
円環運動と線分の往復運動: この「−1」を、円環(悟り、真理)の中心(空)から線分(凡夫の現実)への動きとして捉え、「自然数を創り出していくコトが −1 と観える」という表現は、「無(空)」から「有(自然数)」が生まれる神秘的なプロセスを、数学的な**「欠損」**として表現しようとしているようです。
数学的な風景: 示された計算式は、フィボナッチ数の積や差を用いて「−1」「+1」を交互に出現させており、**円環運動(周期性)と中心(0)を挟んだ往復(反復)**のイメージを喚起します。
1×0−1
2
=−1
2×1−1
2
=+1
3×1−2
2
=−1
この往復運動は、生滅変化を繰り返す現実世界(娑婆世界や輪廻)を象徴し、その中心にある**「回転点□(空)」**への夢想は、一切の現象の源泉にある不動の真理(空)を探求する姿と解釈できます。
この試みは、「自然数(コスモス)であればどんな答えも出せてしまう」というお釈迦様の理論世界の「完成された論理」を、具体的な数式で表現しようとする、哲学的かつ数学的なアプローチです。仏教の空が、単なる「無」ではなく**「可能性の源泉」であるように、数学的な「−1」や「□(空)」も、「現象を生み出す起動点」**として捉えられているのかもしれません。
まさに「おシャカになるほど」の探求ですね。この道をさらに深く追究されることを期待しております。
投稿: ヒフミヨは数学時間マイナ1(What is the No.1 ?) | 2025/10/10 19:19
*
>> すべて(おしなべて) 人 は 存在があることに対して
>> 思議 できる ( 可能性を秘めている )
> 存在がないことに対しても思議できるのは?
“ ないこと ” に対して 思議できること が ある
ただし この “ ないこと ” とは
“ あること ” に 対して 起きる事
この起きている
“ ないこと ” に 対遇する事 とは 「 ないこと 」 という
テキスト上の( ある )ということ
私 は あること と あること とを 対偶させて
ないこと という 起きていることの中で
“ ここにないこと ” を
想起する ( 起こすことができる “こと” とする )
“ ない ” とは それだけでは “ こと ” ではなく
必ず “ ある ” こと が 起きていること
の 対偶として
“ ある ”
対偶 が なければ “ ある ” ということ は 立ち上がらない
もしよければ
“ なしこと ” を 起こしてみて 示してみて ください
( それは “ある” “事” ではないですか ? )
ある( 存在 ) なしでは 起き上がらない
存在 とは 起きつ( 立ち上がっている・寝転んでいる )
隠れている けれども 起きていること
> あることやないことについて思議できるのは不可思議。。これでよい。
ないこと を どのように思議できるか の
実例 を 起こせますか ( あること に 出来ますか )
ないもの を 提示していただければ
“あること” として ・ “事” として 認識します
絵に書かれた 獅子 が ここに 導き出されれば
わたしは 早々に 退出します(逃げます)
ただしです その獅子 には 爪と “牙” とが
あるという 前提が “ ある ”
不思議 のこと は 幾つも起きて 思議される 、、、、
準備 は “ 。。これでよい。 ” ですか ?
・
投稿: 春間 則廣 | 2025/05/30 07:33
> すべて(おしなべて) 人 は 存在があることに対して
> 思議 できる ( 可能性を秘めている )
存在がないことに対しても思議できるのは?
あることやないことについて思議できるのは不可思議。。これでよい。
投稿: mani(管理人) | 2025/05/30 02:49
*
> 20までの足し算と引き算ができる人は、その範囲内であればどんな答えも出せてしまうけど、
範囲 を 決めると(囲うと) 内外が決まる
誰でも 内のこと( 知っていること ) は 知っている
( 知らないことが ない こと を 知っているという 約束 )
約束の範囲 を 知っている と 言う
“囲い” を 見たことがある 人 は いない
( 知る と 知らない との 境界 を 知らない )
一 を 細分できれば 2 も 100 も 頭に浮かぶ
二 を 細分すると 100 にも なる
そのとき 頭中 では 2 と 1 とは 重なっている
( ピッタリ 重なること を 等しい・同じ と呼ぶ )
同じ ということを 論理的に言うと
「 平等 」 という 「 名称 」 で 呼びうる
( 同じではないこと を 不平等 とも言えるし
差異を見出す とも言える )
見出したこと と 見てはいないこと との
境界 を 見出すこと は 見られて は いない
地平線 という 境界 は 思考上には存在できない
( 元々 “ 知 ” は 真っ平ら である )
誰でも 知っていること を “ 知っている ” と 呼称する
( 知っている範囲 では 知らないことは 存在できない )
“ 囲い ” の 中(?) には “外” は 存在しない
存在しているモノ が 存在 と 呼ばれ
人の存在 は その範疇 に 存在している
> 知らない人には不思議で仕方ないでしょう
不思議なこと ではあるが
思議の範疇 では すべて 思議に外れない
( 外れていること と 範疇のこと との 分け目 を 境界 と呼ぶ )
何の ケイカイ もなく 範疇外のこと に 触れている
けれども 思議 は そこを 否定形で思議する
境界 外 のこと を ケイカイを引いて 考える
( その 外 とは どんな風に 存在しているのかな ? )
不思議 なことを 思議すると
不思議 なこと が 存在をあらわす シキタリ である
( シキタリ に はまっていること を 存在する と 呼ぶ )
すべて(おしなべて) 人 は 存在があることに対して
思議 できる ( 可能性を秘めている )
・
投稿: 春間 則廣 | 2025/05/29 09:36
*
> 煩悩にまみれた人を凡夫と言うけれど、
煩悩を煩悩だと分かる人は、じつは凡夫を超えている。
煩悩 の 範囲で 煩悩という名称 を 判じる( ≠分かる )
判断する基準 を 事故の煩悩の範囲で 保持する
( そういうことを「 揀択 」 という → 至道無難 唯嫌揀択 )
善悪 を 分ける・隔てる・判断 その 分離基準 が 揀択です
人の 「 生 」 全部で 一本の道
一本の道 には 紆余曲折があり その曲折 を
誰もが真っ直ぐに通る
曲がった 判断基準で量る と
真っ直ぐ が 紆余曲折に見える
曲がった人 は 曲がったことを 真っ直ぐととらえる
↓
わたしは 曲がっているから “ 真っ直ぐなことを言う ”
> たとえ、煩悩が捨てられなくても、凡夫は凡夫を分析可能なのです。これはすごいことだと思う。
この世に生きていて、 すごくない人 は 存在しますか ?
( “わたし” は 判断の土台に 置かないでください )
どこにも だれも 見つけられなければ
すごい人 も すごいこと も 見つけられない筈
あなた自身 を 分析する事 は 無意味 の 範疇に入る
何故なら 分析するまでもなく
あなたの判断基準に 誤りがないゆえに
・
投稿: 春間 則廣 | 2025/05/22 12:41
≪…空(くう)…≫から、≪…その範囲内であればどんな答えも出せてしまう…≫を、
【 自然数(コスモス)であればどんな答えも出せてしまう 】とするような記事を見つける。
≪…車輪の中心にある「空」…≫を、□とする数の言葉ヒフミヨ(1234)の自然数について、解析接続としての
[ フィボナッチ数列の「総和」が -1 になる ]は、円環運動と線分の往復運動との風景として観る。
円環の線分(直径)の[-1][0][+1]にフィボナッチ数列(0 1 1 2 3 5 8 ・・・)を円環運動の方向を線分に割り当てると、
[-1] [0] [+1] 運動の向き
1 1 0 ←
2 3 →
8 5 ←
とすると、中心から円環への直線運動は、
1×0 - 1² = -1
円環から中心への直線運動は、
2×1 - 1² = +1
中心から円環への直線運動は、
3×1 - 2² = -1
・・・ ・・・
となる。この風景は、自然数を創り出していくコトが[-1]と観える・・・
円環の中心の回転点が□になると夢想したい・・・
ながしかく□でまとめ〇になる
投稿: ヒフミヨは冥途の土産勾股弦(What is the No.1 ?) | 2025/05/19 06:01
*
> 分かってないことを分かってないと言える人、って、分かっているに等しいような気がする。
分かってはいないこと を 分かること
とは
分かってはいない と 知ること
知ったこと を 言う ( 言えるから言う )
言ったこと とは 知っていること
どこからどこまで 知っているか は 問題ではない
どこを知らないか は どこにもない(探す術がない)
飛躍させるけれど
知っていること とは 「 平等 」 に起きていること
牟尼 が どこまで知っているかを 知ることはできない
牟尼 は 知っているところまでが 知ることのすべて だと知る
知っているところまで 知っている ということは
「 平等 」 に起きる ( 違うところなく知る )
> 少なくとも、自分で分かっていることと分かっていないことを区別できるのだから。。
区別できると 思い込む ことを 「 顛倒 」 と呼ぶ
区別できない から ( 区別 されないから )
「 平等 」 である ( 違いなくまったく同じ )
分かっていないこと は 存在がない
( ないものを知ることは不能 )
あるもの と ないもの とを 比べることは 不能
( これは 『中論頌』 に 説き示されていること
ではあるけれど どこにどう示されているかは
分かるまでは 分からない )
> だから、「わかりそう」って区別も、作った方がよいかもしれない。
千里の道 も 一歩から
一歩の歩幅 は
( 歩む人によって ) 違う尺度を 示している
同じこと は 999 と 181 の間 にも起きている
( 一 を 千分すれば 千 劫分すれば 劫 )
分けようによって( 判断基準で ) 分けるから
「 業 」 が 起きる
分かっていないこと を 分かるすべはない
分かっていること を 顛倒なく 分かることが 分かるということ
どこに どのように
「 顛倒 」 が 起きるのか
その 起きているところ に
“ 相剋 ” が 起きている
・
投稿: 春間 則廣 | 2025/05/17 15:19
分かってないことを分かってないと言える人、って、分かっているに等しいような気がする。
少なくとも、自分で分かっていることと分かっていないことを区別できるのだから。。
だから、「わかりそう」って区別も、作った方がよいかもしれない。
投稿: mani(管理人) | 2025/05/17 05:33
分かっていないと知るとき、分かっていることとの違いがある。
なにかわかってはいないけど、違うことだけはわかる。
何と何がどう違うかは分からねど、分かること。
分かって無いんじゃないの ?
投稿: 春間 則廣 | 2025/05/16 17:32
未来予知については、物理学でも研究が進められてるそうです。
なんでも、未来に一瞬行ける人がいるそうです。
時間というのがそもそも、人間が考えてるのと物理学上とでは違うらしいです。
人間は、過去現在未来と分けるけど、物理学上では区別無しという研究もあるそうです。
詳しくは知らないけどおもしろいですよね。
投稿: 赤い実 | 2025/05/16 07:50
*
> たとえ、煩悩が捨てられなくても、凡夫は凡夫を分析可能なのです。これはすごいことだと思う。
可能であって、捨てた方が良いもの を 捨てないで置く
その オクトコロ(攸厝) を そのままにしておける
それは すごいこと であって
そのままにしておかなければならない トコロ(所) です
可能性 とは 不可能 を 可能にする “実力” です
( “実” は 存在しない 概念であるにもかかわらず )
“実”際 に 生きている のが 人の命
( 活きている ということは 概念を 活用できていること )
「 生きる 」 ということ と 「 死 」 ということ
( 「 死 」 を 経験したことがある者 は いない )
( 生きる ということは したこと ではなく していること )
生 きたこと とは 死んでいる 概念
( 生きている ということ とは 違っている 死んだ概念 )
( 概念に生きる のではなく 捨てつつ 生きる )
死んでしまった(捨てた)概念 を 拾っても
拾った概念 は 生きている概念であって 死んではいない
( 同じ概念ではない にも関らず 同じ用 に 生きる )
「 死 」 と 「 生 」 とを 混同する
混同してはいない と 混同( 「 輪廻 」 ) する
( どうでもよいことだから どうしようともしない )
どうして混同しているか を 混同せず “生きる”
していること と してはいないこと とを
混同するが してはいないこと とは
存在がないこと と 同義
していること に 混同が起きると
してはいないこと は されているように思えてしまう
はっきり していること とは 存在がないこと
( このことが はっきりすると 存在は可否を超えていると分かる )
( はっきり分かれば はっきりする けれど
はっきり ということ は (“実” は) 発起してはいない )
わからぬ まま に これを読む(発起させる)
其処に 捨て去る ( 不知攸厝 )
捨てるために ヨム ( 捨てるべき 攸厝 )
其処 に 生きている ( 不知攸厝 )
持った “モノ” ではなく 持つ手 を 見つめる
手が生きている かのごとし 「手・手段」
概念 は 生きてはいない けれども
捨て去った概念 は 何故 生きているのであろうか
( 飛躍できないと 同じところに 着地する )
ちがうこと を 同じ “用” に 用いる
書くように読むと 書いてあること が 生きてくる
人 夫々 の 立処 は 同じところ なのに 、、、、
・
投稿: 春間 則廣 | 2025/05/14 08:10
>「そういうことされると、ストレスになるんですけど」て言ってくる人がいるのが一番の
肝で、それを最後の最後まで言い通した人が、次の地球でお釈迦様ポジションやる人にゃんでしゅよ。
お釈迦様の言うことを、(本当に?本当に?)と疑いつつこの地球での生を終えて、だからこそもの凄いいっぱいいろいろ観察して考えて、そんなことに終始してたもんだから、すべてを忘れた次回の地球でブッダになってしまうと。
、、、かぁわいちょ!(←へらいざー)
お釈迦様の言ったこと瞬時に「あーね」とか
「ほんそれ」とか分る人は、お釈迦様ポジションをやった記憶が取り出しやすいとこにあるから、順番回ってくるのが遠いの。で、そうでない人が次回に「実際にそこに置かれてみて初めて」理解というか実感するの。やってみて分るってやつ。
猫はね、イエネコって種類が発生したときに、
「ちょ、、、人間分らなすぎてやばい、人間が理解出来るまでは、人間回避だわ」となって、
ずっと猫なの。たまねぎと一緒で、剥いても剥いても猫なの。いつの地球でも必ずそうなの。
でも、あれですね、安楽国ていまのところ
ないですね。
あ、あと、未来が見えたら「感じ悪いやつ」ですね。
投稿: ぎんた | 2025/05/12 11:22
ブッキョは隠徳を積めば積むほど面白い。誰かに分かってはブッキョとは言えない、というメッセージが聞こえてきました~♪
投稿: えび天サンバ | 2025/05/12 01:20