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2024/11/02

なんと11月です。。

良くもなく悪くもないという中道の人生を送っています。

 

息子は、イマイチ。

絶好調というというわけではありませんが、目立ってひどいというほどでもありません。

息子も中道。

血圧が低いときがあるし、以前は、高いときもありました。

高い方で90台をマークするときがあって、心配になります。79というときも過去にはありました。

普通は100台、110台くらいで安定してます。

めまいが出るようになり、これもやや心配です。

 

わたしには、息子は病気だという意識はないのです。

栄養は胃瘻だし、痰の吸引はしなくちゃだめだし、ほとんど寝ていて、車いすなんだけど、普通に暮らしてると思ってます。

まあね、いろんな人生があるからね、

だから、わたしも『中論頌』を普通に読んでます。介護の合間に、ですが。

 

昔『方便心論』を読んでた時を思い出したりしています。

時間がたっぷりあったのに、わかったことはごくわずかだったなあ、って思い出したりしています。

でも、それがあるから今があるのかもね。

 

少年老いやすく学なりがたし。。いまいちばんしみる。。

 

何回も輪廻するから気にしないことにしよう、っと!

 

最近、思うことはこればっかです。つぎだ、つぎ、ってね。。

空ですね、死王は見ない、っていわれているし。

 

ブッダも輪廻してたんだから、八万大劫かけて悟れればいいや、って!

 

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コメント

>  何回も輪廻するから気にしないことにしよう、っと!
   
>  最近、思うことはこればっかです。つぎだ、つぎ、ってね。。
>  空ですね、死王は見ない、っていわれているし。

   文章が おかしいのか 考え方 が おかしいのか 、、、、
        ( 論理的 構造  に 不備がある )

  輪廻している  と知るとき 輪廻は止まっている
   ( 真理 に ) 気づけない 故に 輪廻 する

  生まれ変わる  ということは インプット は ないということ
    「 顛倒 」 の上に 積み重ねられたこと を インプットする


      わかるかな ?


  知った者 は  知ったように 言動を為す
           ( ことを 要求されている )

   それは    誰からも  要求されてはいない
        ( そのようなこと を  「 空 」 と呼ぶ  )
   誰もいない   ゆえに      いないと知る    人が
          いる・いない ( と 「 縁起 」が  起きる )


   母親 として 言動するが  母親であってはいけない


     親 は 親である故 に  「子」 であり  「 己 」 である

     「 己・小 」 でありつつ 「 衆・集 」 である

   衆(人) は  「 自己 」 に  “執” し 着(住) している

     照顧  ( 証・勝 己 ) の人  は  自己を離れる

  離れるには 固着している必要性 が あるけれど 、、、、

     離れる 故に   固着 ということが 起きている ( と知る )

    そのような意味 を 論理的整合性 を もって

  “ 気づく ”  だけではなく  “ きじゅつ ” 筆 要 が ある


 わかっているだけでは   わかっていない者      との
    違い は ない( “ 知 ”害 が あるのみ )


  “ 知 " というものは 正されて
   「 智 」 という 言動 となる

   どのように 正されて “ 起きた ”  かを

    いつも 忘れないようにするところ  に

        「 論理 」  が 起きる


投稿:  春間 則廣  | 2024/11/20 08:42

24.11.16 未投稿 11.07日記 降りました白いのが  とおく に

    「 たゝ かたはら に
       下根を  やとひて     不生の念佛
              兩三返 を   申して やみぬ 」


>  法然上人には仏の影をみるけど、親鸞聖人はわたしの善き友。

    善き友 と 歩み を 進める

>   ブッダは、わたしにはブッダだけど、

    “わたし”  って  どこにいるのかな ?

>  龍樹はわたしの善き友、って感じに近いかな。。

  “私たち” は 自らのこと を  “わたし” って 呼ぶ
    わたしの善き友  に  “近い”  “私たちの善き友”
    わたしの善き友  に  “遠い”  私たち の 位置
     近くて 遠い   人々   の   立つところ

  “漢字 を 捨てて”   “ひらふ” かな
     ひらふかな   なければ  とおい  とい
  
 ブッダ は  “  生まれた地 の  言葉で語れ ”
      と     生まれた地 の 言葉で語る
   わたし は   生まれた地 で  生れた 「 智 」  の
    ことばをきいている    
       横に並んで おなじに きいている

> ほんとはブッダと龍樹は並んでいるのに、

   ほんと  って  どこにもない “ 位置 ”
        だけれども
   ほんとは あなた と 龍樹  は 並んでいる
 ( これを読む  あなた が  並んでいる  「 智 」 )

 “わたし” は これを読む人  を  “あなた” と 呼ぶ

> なぜか、そんな気がしてしまう。ふしぎ!

   思議  に ならぬ  を   思議する
       それが        “  ふしぎ  ”

不思議 を  思議する   ゆえに  不思議 が ある

   “思議”  とは  不思議にあるけれど
      それを    不思議とも思わぬ  思議

     “思わぬところ” に ある   思議

   “ 思うところ ”  を  思議 と 呼ぶ

    ふしぎ  とは  思わぬ  思議


    思議 を 用いている “ 私議 ”
 ( “わたし” なんぞは  どこにもいなくて 見つけられない )

  わたしのいっている   「 こと 」  が  聞こえる こと
   “ こ と は ”     聞かれてはいない  ということ

   聞いてはいない  アナタ  に  かたり  かける

> スーパーなどで買うものになってしまいました。

   ふりつもる   しろきゆき
     ゆきさき  みつめ  あしさき は
      あわきゆきふみ    パーラー  へ



投稿:  春間 則廣  | 2024/11/16 08:22

> よー !  元気か ? 

元気でありたいと考えるようになってしまった。。わい!

だんだん、終わってくるなあ。

『中論頌』何とかしなくちゃな、って思ってます。

投稿: mani(管理人) | 2024/11/09 05:12

> 普通に読んでるつもりなんだけど、

  “ つもり ” を 離れて 読んでいます
               (  詠んでいます )

> 他の人が読まない読み方になるのは、なぜ?

   「 止観 」 にある人
      が    いない というわけではありません
  いても だれも  それを “認めない” だけ

  認められなければ そこに 存在は認められない

     それらの人  は
         『中論頌』  を 読まないのです


     あなた    は
        読めるケレド  詠み方を忘れているだけ
  ( 忘れていようと 別に  問題はありません )

 “ 読めるか 読めないか ” に  問題はあります


    誰か が   “わたし”  を  ヨンデイル
      ヨッテ ノム    『中論頌』 
    ようほどに ヨウ    『中論頌』

    よー !  元気か ? 


    元気なこと に  “要”
              用 「 常見 」



投稿:  春間 則廣  | 2024/11/05 07:46

>> わたしも『中論頌』を普通に読んでます

>   他の人 が 読まない読み方 で 読んでいます

それって、どんな読み方?

普通に読んでるつもりなんだけど、他の人が読まない読み方になるのは、なぜ?

「念仏止観」かぁ。。親鸞は菩薩なんですね。そうなんだなあ。いろいろ考えてます、わかってないけど。

投稿: 管理人エム(mani) | 2024/11/05 04:24

> 普通に暮らしてると思ってます。

   普通 かどうか は 自分で決めることではない

> まあね、いろんな人生があるからね、

   まあ いろんな人生が あるとしましょう

    しかし  それらの 人生  を
          見ている 人生  は 一つ

   人 には   ひとつ( 人津 ) の  人生しかない
     いくら   どこかに   たくさんの人生があろうと
           ひとつところ  に  しゅうせきする


  ただし ( である )

    一つ ということは   必ず ささえられて 成り立つ
      浄土 を 観る    故に  “ 一つがある ”


> わたしも『中論頌』を普通に読んでます

    わたしも  『中論頌』 を  読んでいます
      普通  には  読んではいません
   他の人 が 読まない読み方 で 読んでいます

     「 行 」 として   「 瑜伽行 」 として 読みます
  ( 菩提流支 の訳 では 「 如実修行 」 に あたります )

  これは  「 念仏 」 と 同じ意義 であり
        「 浄土止観 」 とも 同義 です

 親鸞 は 常行三昧 の 堂僧  を経て
     「 念仏止観 」 を 得たのです

     「 他力広大威徳の心行いかでかさとらまし 」


    菩薩地 に 「 止 」まりて 足の向く先 を 「 観 」る

    「 止観 」 の (あしゆび)先に 如来地 を  観る・止る



投稿:  春間 則廣  | 2024/11/03 23:28

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