なんと11月です。。
良くもなく悪くもないという中道の人生を送っています。
息子は、イマイチ。
絶好調というというわけではありませんが、目立ってひどいというほどでもありません。
息子も中道。
血圧が低いときがあるし、以前は、高いときもありました。
高い方で90台をマークするときがあって、心配になります。79というときも過去にはありました。
普通は100台、110台くらいで安定してます。
めまいが出るようになり、これもやや心配です。
わたしには、息子は病気だという意識はないのです。
栄養は胃瘻だし、痰の吸引はしなくちゃだめだし、ほとんど寝ていて、車いすなんだけど、普通に暮らしてると思ってます。
まあね、いろんな人生があるからね、
だから、わたしも『中論頌』を普通に読んでます。介護の合間に、ですが。
昔『方便心論』を読んでた時を思い出したりしています。
時間がたっぷりあったのに、わかったことはごくわずかだったなあ、って思い出したりしています。
でも、それがあるから今があるのかもね。
少年老いやすく学なりがたし。。いまいちばんしみる。。
何回も輪廻するから気にしないことにしよう、っと!
最近、思うことはこればっかです。つぎだ、つぎ、ってね。。
空ですね、死王は見ない、っていわれているし。
ブッダも輪廻してたんだから、八万大劫かけて悟れればいいや、って!
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コメント
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> 何回も輪廻するから気にしないことにしよう、っと!
> 最近、思うことはこればっかです。つぎだ、つぎ、ってね。。
> 空ですね、死王は見ない、っていわれているし。
文章が おかしいのか 考え方 が おかしいのか 、、、、
( 論理的 構造 に 不備がある )
輪廻している と知るとき 輪廻は止まっている
( 真理 に ) 気づけない 故に 輪廻 する
生まれ変わる ということは インプット は ないということ
「 顛倒 」 の上に 積み重ねられたこと を インプットする
わかるかな ?
知った者 は 知ったように 言動を為す
( ことを 要求されている )
それは 誰からも 要求されてはいない
( そのようなこと を 「 空 」 と呼ぶ )
誰もいない ゆえに いないと知る 人が
いる・いない ( と 「 縁起 」が 起きる )
母親 として 言動するが 母親であってはいけない
親 は 親である故 に 「子」 であり 「 己 」 である
「 己・小 」 でありつつ 「 衆・集 」 である
衆(人) は 「 自己 」 に “執” し 着(住) している
照顧 ( 証・勝 己 ) の人 は 自己を離れる
離れるには 固着している必要性 が あるけれど 、、、、
離れる 故に 固着 ということが 起きている ( と知る )
そのような意味 を 論理的整合性 を もって
“ 気づく ” だけではなく “ きじゅつ ” 筆 要 が ある
わかっているだけでは わかっていない者 との
違い は ない( “ 知 ”害 が あるのみ )
“ 知 " というものは 正されて
「 智 」 という 言動 となる
どのように 正されて “ 起きた ” かを
いつも 忘れないようにするところ に
「 論理 」 が 起きる
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/11/20 08:42
24.11.16 未投稿 11.07日記 降りました白いのが とおく に
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「 たゝ かたはら に
下根を やとひて 不生の念佛
兩三返 を 申して やみぬ 」
> 法然上人には仏の影をみるけど、親鸞聖人はわたしの善き友。
善き友 と 歩み を 進める
> ブッダは、わたしにはブッダだけど、
“わたし” って どこにいるのかな ?
> 龍樹はわたしの善き友、って感じに近いかな。。
“私たち” は 自らのこと を “わたし” って 呼ぶ
わたしの善き友 に “近い” “私たちの善き友”
わたしの善き友 に “遠い” 私たち の 位置
近くて 遠い 人々 の 立つところ
“漢字 を 捨てて” “ひらふ” かな
ひらふかな なければ とおい とい
ブッダ は “ 生まれた地 の 言葉で語れ ”
と 生まれた地 の 言葉で語る
わたし は 生まれた地 で 生れた 「 智 」 の
ことばをきいている
横に並んで おなじに きいている
> ほんとはブッダと龍樹は並んでいるのに、
ほんと って どこにもない “ 位置 ”
だけれども
ほんとは あなた と 龍樹 は 並んでいる
( これを読む あなた が 並んでいる 「 智 」 )
“わたし” は これを読む人 を “あなた” と 呼ぶ
> なぜか、そんな気がしてしまう。ふしぎ!
思議 に ならぬ を 思議する
それが “ ふしぎ ”
不思議 を 思議する ゆえに 不思議 が ある
“思議” とは 不思議にあるけれど
それを 不思議とも思わぬ 思議
“思わぬところ” に ある 思議
“ 思うところ ” を 思議 と 呼ぶ
ふしぎ とは 思わぬ 思議
思議 を 用いている “ 私議 ”
( “わたし” なんぞは どこにもいなくて 見つけられない )
わたしのいっている 「 こと 」 が 聞こえる こと
“ こ と は ” 聞かれてはいない ということ
聞いてはいない アナタ に かたり かける
> スーパーなどで買うものになってしまいました。
ふりつもる しろきゆき
ゆきさき みつめ あしさき は
あわきゆきふみ パーラー へ
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/11/16 08:22
> よー ! 元気か ?
元気でありたいと考えるようになってしまった。。わい!
だんだん、終わってくるなあ。
『中論頌』何とかしなくちゃな、って思ってます。
投稿: mani(管理人) | 2024/11/09 05:12
*
> 普通に読んでるつもりなんだけど、
“ つもり ” を 離れて 読んでいます
( 詠んでいます )
> 他の人が読まない読み方になるのは、なぜ?
「 止観 」 にある人
が いない というわけではありません
いても だれも それを “認めない” だけ
認められなければ そこに 存在は認められない
それらの人 は
『中論頌』 を 読まないのです
あなた は
読めるケレド 詠み方を忘れているだけ
( 忘れていようと 別に 問題はありません )
“ 読めるか 読めないか ” に 問題はあります
誰か が “わたし” を ヨンデイル
ヨッテ ノム 『中論頌』
ようほどに ヨウ 『中論頌』
よー ! 元気か ?
元気なこと に “要”
用 「 常見 」
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投稿: 春間 則廣 | 2024/11/05 07:46
>> わたしも『中論頌』を普通に読んでます
> 他の人 が 読まない読み方 で 読んでいます
それって、どんな読み方?
普通に読んでるつもりなんだけど、他の人が読まない読み方になるのは、なぜ?
「念仏止観」かぁ。。親鸞は菩薩なんですね。そうなんだなあ。いろいろ考えてます、わかってないけど。
投稿: 管理人エム(mani) | 2024/11/05 04:24
*
> 普通に暮らしてると思ってます。
普通 かどうか は 自分で決めることではない
> まあね、いろんな人生があるからね、
まあ いろんな人生が あるとしましょう
しかし それらの 人生 を
見ている 人生 は 一つ
人 には ひとつ( 人津 ) の 人生しかない
いくら どこかに たくさんの人生があろうと
ひとつところ に しゅうせきする
ただし ( である )
一つ ということは 必ず ささえられて 成り立つ
浄土 を 観る 故に “ 一つがある ”
> わたしも『中論頌』を普通に読んでます
わたしも 『中論頌』 を 読んでいます
普通 には 読んではいません
他の人 が 読まない読み方 で 読んでいます
「 行 」 として 「 瑜伽行 」 として 読みます
( 菩提流支 の訳 では 「 如実修行 」 に あたります )
これは 「 念仏 」 と 同じ意義 であり
「 浄土止観 」 とも 同義 です
親鸞 は 常行三昧 の 堂僧 を経て
「 念仏止観 」 を 得たのです
「 他力広大威徳の心行いかでかさとらまし 」
菩薩地 に 「 止 」まりて 足の向く先 を 「 観 」る
「 止観 」 の (あしゆび)先に 如来地 を 観る・止る
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/11/03 23:28