三日連続で書いてます!
こういう日もあるんだなあと思います。
三日坊主すら出来ない。。って嘆いていたのに
なんと、三日連続書き込みでっす
書くこともあるんだよ。
最近、snsなどの情報を鵜呑みにする人たちのことが言われているけど、
わたしは、こんな事を思うんです。
ブッダに出会ってから「知らない」と思うことはなくなったな、って。
縁起は、今ではただの迷信のように言われたりするけど、
わたしは「理法」だと思ってます。
起こったことと起こらなかったことによって知る
と考えます。
<これ>があるとき<これ>がある
<これ>がないとき<これ>がない
たとえば
<戦争>があるとき <人の死>がある
<戦争>がないとき <人の死>がない
死はどこにでもある、というかもしれないけど、この式がそうだなと思うのは、
戦争がないと戦争による死は起こらないということです。
私たちは自分たちの判断として選び取っていくことが出来るのです。
起こったことと起こらなかったことを考えることによって。
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コメント
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> 鳩摩羅什がいなければ、ここまで仏教が広まったかどうかは分かりません。
> 『大智度論』がここまで読まれたのかどうか、何とも言えないと思います。
龍樹がいなければ 鳩摩羅什 は いません
ブッダ( 釈迦牟尼 ) が いなければ 龍樹はいません
ブッダ が いなければ、
存在 の 「 性 」 は 明かされなかったのです
釈迦牟尼 が いなければ 諸仏 は いないのです
いてもいなくても (この) 「 法 」 は 存在しますが
存在 というものが 明かされることはないのです
> 特に、日本人はそのまま読んでわかるものとして鳩摩羅什訳に親しんで来ました。
そのまま読んで わかる人 が 日本にいるから
わたしに も わかる ということが わかるわけです
わたしが 読んで知る のではなく (わたしは)
読んで知った人 が いると 知るのです
あなた ( “ 達 ” ) は 知っていますか ?
> どんな訳も、訳されたというだけで尊いと思わなければなりませんね。
それは、 牟尼が明かした ( 「 有情 」 の )
「 平等 」 に 関わることです
どのような 有情でも 生きているだけで 尊い
尊い 卑しい(尊くはない) ということは 「 縁起 」 に起きます
尊い という 尺度 で “ 量る ” かぎり
卑しい心 が (そこに) “ 存在 ” しています
ここ・そこ 尊卑 等は 量る心 に
「 有 」 として 有漏 して 存在となるのです
龍樹が証し 天親が 論とした 「 唯識 」 に 明かされています
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/12/02 05:05
*
空海 は 「 唯識 」 「 中観 」 を 梵語で 直接読む為に入唐
( 興福寺南円堂 は 空海の助力で完成した )
慈恩の 漢訳 だけ では 不足があるのです
また、至極当然 ではあるが、 “梵語” の「 中観 」があれば
必要なものであれば、読み通すのは “ 当たり前 ”
般若三蔵の元で 梵語に磨きをかけた( 既に、梵語には 相当通じていた )
『梵字文殊五字真言儀軌』なども持ち帰っている
『梵字悉曇字母并釈義』 を 著わしている
華厳 東大寺 別当となったのは 当たり前で、東大寺が
“仏教の流れに沿って” 、 密教化を進めたのも当然
三月で恵果から学ぶことを 全て納める ことができるほどの
( 密教に関連する )知 また、 梵語に関する知 を
すでに、日本に 於いて、持っていた
( 一年で 梵語の不足を補い、“ 諸宗教 ” に通じた )
法隆寺に 世界唯一 の 貝葉 般若波羅蜜多心経 が あるのは
当時の日本(人)の 梵語能力 を 表する 一例です
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/50/0/50_KJ00009324654/_pdf/-char/ja
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投稿: 春間 則廣 | 2024/11/29 10:59
春間さま ありがとう。
> 空海 は 梵語辞典も編纂しています
> 入唐したのも、 主目的 は サンスクリット原文 を 直接 “読む為”です。
ふうむ。。そうかぁ。
空海さんは、声字実相義とか著しているからなあ。中論をサンスクリットで読んだかどうかは、わたしもちょっとわからんです。
だけど、簡単には言えない感じがありますね。
そもそも、中論のサンスクリットはパーリ語がかっていたりするんじゃないか、って思っています。つまり、俗語っぽい感じです。
龍樹は、言語については、私の及ばないところにいます。。「パス」って言いたくなっちゃう。
投稿: 管理人エム | 2024/11/29 04:39
>空海において鳩摩羅什経由などということは、 ありえない
問題はサンスクリットの中論を空海が実際に読んだか?という所ですね。私の印象・推測にすぎませんが、読んでいないのではないかと思います。
投稿: えび天サンバ | 2024/11/28 21:10
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> 空海さんの中論解釈も鳩摩羅什経由ですよね
空海 は 梵語辞典も編纂しています
入唐したのも、 主目的 は サンスクリット原文 を 直接 “読む為”です。
そのために、まずは、インド僧 醴泉寺般若三蔵をたずねた。
恵果の元には 実質三ヶ月ほど
あと6ヶ月は、受け継ぎ儀式のようなものです
もちろん 「 唯識 」 も 原語直接です
天台智顗 の 「 摩可止観 」は 帰国後、
唐招提の鑑真由縁のモノを最澄から手にした
般若波羅蜜多心経 は 言うまでもなく、サンスクリット
決して、鳩摩羅什を 疎かにしていたのではないが、
それに頼ってなどいない
わたしも、 「 法華経 」 は 幾種もの翻訳を 重ね読み、
サンスクリット、西蔵訳 を 参照しつつ、 内容を把握している
空海において 鳩摩羅什 経由 などということは、 ありえない
( ただし、 「 法華経 」 の訳 は 鳩摩羅什 が 一番だと思う )
以上 鳩摩羅什経由について 一言
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/11/28 11:12
*
論理的 思考 とは
> 私たちは自分たちの判断として選び取っていくことが出来るのです。
( 判断 という 語 には ある種 問題を孕むが 、、、、 )
>> ブッダの理法を当てはめるとするならば、争いをやめさせるためには、イランとイスラエルの関係を仲介せねばなりません。それができるのは日本政府だけだと思います。
> 私も、そう思います、ほんとに。
思想的に仲介ができるのは、日本だけのような気がします。
日本政府 や 日本 が できること は ありません
あなた が 考えること( そして、その 「 正念 」 から生まれる )
あなたの 「 行 」 だけ が 、
あなた( から始まり )わたしに 波及する 「 世間 」 という
「 界 」 を 変えていきます
社会 が あなたを変えてゆく のではなく
あなた が 社会を変えて往く
往く道 を 足下に作っていかなければ
道が作る 足下の世界 は 変っていきません
( ここを 「 論理 」 で 正しく知らなければなりません )
あなたが 考えなければ 世界は変わりません
( 変ろうと 気づくことはありません )
“気付き” を 起すこと が 「 菩提 」 です
つまり、 あなたにとっての 「 ボディー 」 とは
何であり、どのような「行」 なのか ということです
ここに “気付き” を 起さなくとも
“ あなたの「行」 に 起きている 気づき ” は
「 菩提 」 ではない とは 限らないのです
“気づく” と “気づきに気付く” との間には
気付かなくとも そこに 階梯 が 起きています
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/11/27 08:34
春間さま
>あちらのサイトには 書き込み不能は直りません。
> わたしのPCの不具合かもしれません。
WORDPRESSは、どうやら問題ないようなので、こちらでは出来ることはほとんどありません。
春間さまのPCの問題かなぁ。
どこでもいいので、好きなところ、というか、書けるところに書き込んでください。
こちらは、その旨了解すれば、問題なしです。
投稿: 管理人エム | 2024/11/27 04:37
えび天サンバさま
>ブッダの理法を当てはめるとするならば、争いをやめさせるためには、イランとイスラエルの関係を仲介せねばなりません。それができるのは日本政府だけだと思います。
私も、そう思います、ほんとに。
思想的に仲介ができるのは、日本だけのような気がします。
国際刑事裁判所の所長も日本人の女性だし、ノーベル平和賞は被団協だし、国際平和に貢献できる条件もあります。
投稿: 管理人エム | 2024/11/27 04:24
戦争がある時、という公式についての感想です。
まず、戦争は国家間でしか行われない、という定義上の問題があります。たとえばイスラエルはテロ組織との抗争なので、現在の状況は戦争ではなく、紛争となります。しかし人が争いによって死ぬときには、ブッダの公式は当てはめられます。
これがある時にこれがある、について言えば、今、イスラエルは宗教を守ることによって、国を守り、他を殺すことを正当化しています。
ブッダの理法を当てはめるとするならば、争いをやめさせるためには、イランとイスラエルの関係を仲介せねばなりません。それができるのは日本政府だけだと思います。
投稿: えび天サンバ | 2024/11/26 22:42
あちらのサイトには 書き込み不能は直りません。
わたしのPCの不具合かもしれません。
こちらには、いまのところ、書き込み可能ですので、
書き込みたい時には、 こちらのサイトに、ことわってから、書き込みしますので、
ご了解いただき、書き込みさせてください。
もし、 紛らわしいので、
こちらへの(転記)書き込みを止めて欲しいようであれば、お知らせください。
投稿: 春間 則廣 | 2024/11/26 09:45
春間さま
> カレーな日記 に書き込なっているのですか
> わたし は
> 書き込み禁止 と なっているのですか ?
見てみたけど、何もなっていませんでした。
大丈夫だと思うけど、書き込んでみてください。
wordpressのバージョンアップしてなかったからかなぁ、わからんです。。
バージョンアップしてみましたが、どこがどう変わったのかちんぷんかんぷん、です。
だけど、なんだか仕様がコロコロ変わるよね。よく分からないことがいっぱいです
投稿: 管理人エム | 2024/11/26 05:14
*
> 「戦争による死は起こらない」ってのに、論理の甘さを追求されるかな、って思ったけど、「やっぱり」というところです。
“論理の甘さ” では (これを読む人には) はっきりしません
戦争がないとき
( 当然 ! ) 戦争によって 引き起こされること はない
この “当然” が 大きな問題 ですが
大きい・小さい は 「 行 」 の 問題なること
“ 当然 ! ” 衰滅 は 「 縁起 」 に 起きる
> 「衰滅するのは行である」
此処に於いての 問題 を 発見したのが ブッダ です
故に 新たなる「 生 」 は 起きず 「 不生 」 が 起き
「 不生 」 故に 「 永遠 」 が ある (起き得る)
( 生死 の 故は 永遠 に 起きない? )
この 「 理 」 が 分かるとき 理法 は そこに起きている
この 「 理 」 は わからない のではなく
受け入れがたい から わかる理 は 見出せない のです
人( 衆人 ) は (自分の)好みに沿った “ 事実を見る ”
受け入れ難きこと ・ 受け入れたくないこと には 目をつぶる
目を開ければ 観 得る 「 観法 」
「 止観 」 において 決して瞑られない 半眼
目を見開く とは 自己を見つめて起きること
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/11/24 06:40
> わたし は
> 書き込み禁止 と なっているのですか ?
いえ、違うと思いますが。
あれ、書き込めませんか?
調べてみます。少しお時間いただくかも、です。
「戦争による死は起こらない」ってのに、論理の甘さを追求されるかな、って思ったけど、「やっぱり」というところです。
「衰滅するのは行である」(ブッダ臨終のことば)
これを考えなきゃいけない、ってところかな、と思ったりします。
総ての理論をきれいに完了させるには?
って考えてます。
うーん、むずかしい。。
投稿: mani(管理人) | 2024/11/24 02:44
カレーな日記 に書き込なっているのですか
わたし は
書き込み禁止 と なっているのですか ?
投稿: 春間 則廣 | 2024/11/23 09:15
*
わたしは「理法」だと思ってます。
> 起こったことと起こらなかったことによって知る
> と考えます。
起こらなかったこと は 知るということに 値しません
知るということが起こらなかった ということが 起きる時
知らない という ( 知ること ) も 起きません
この時 知ったことは 何でしょうか ?
“知る” が あるとき
“ 知ること ・ 知る対象 ” が ある ( 起きている )
> <これ>があるとき<これ>がある
> <これ>がないとき<これ>がない
これら の こと が ないとき
これらのこと が ない
< これ > が ない
> たとえば
> <戦争>があるとき <人の死>がある
> <戦争>がないとき <人の死>がない
<これ> は
<これ> が あるとき <それ> が ある
<それ> が あるとき <これ> が ない
と言い換える と 意味がはっきりしませんか ?
< これ > が あるとき < それ > は ない
“逸れ” とは
これ と それ との間に 違いがある時に起きる
> 死はどこにでもある、というかもしれないけど、この式がそうだなと思うのは、
> 戦争がないと戦争による死は起こらないということです。
< これ > に “戦争” が 代入されれば
< 戦争> が ないと < 戦争 > は 起こらない
< これ > が ないとき < これ > は ない
<死が起こらない> が あるとき
<死が起こらない> が ある
戦争がないと 戦争によること は 起きません
死は どこにでもある と 言うけれど
「 生 」 が あるときに 「 死 」 が ある
「 これ 」 が あるときに 「 これ 」 が ある
“ 「 戦争 」 が あるときに 「 戦争 」 は ないと知る ”
“ このこと ” は 「 縁起 」 を 知ることがないときには
起こらないこと
という風に “わたし” の 理法 を 組み立ててみました
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/11/23 07:30
*
> <戦争>があるとき <人の死>がある
< 人の死 > が ある ときに
ときに は
そこに 生がある と 知る人もいる
世間において死す 「 不生 」 において 生きる
> <戦争>がないとき <人の死>がない
戦争があり ( 争い があり )
生死(争い) に おいて 生があり、死がある
そこに起きる 「 不死 」 ・ 「 不生 」
> 死はどこにでもある、というかもしれないけど、この式がそうだなと思うのは、
> 戦争がないと戦争による死は起こらないということです。
ありがたき
戦いにおいて ( 此処に起きる 争いの中にでさえ )
ショウギ ( 正理・勝利 ) が 起き 不死が起きる
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/11/22 12:58