直証しながら進む道(菩薩道)
そういえば、と、またまた昔の話題を引っ張り出す。
日記は毎日書くもの、というけれど、三日坊主すらできないわたしは、どうしようもない。
三日坊主というのは三日は書くということだからなあ。。1日で終わる私には、ハードル高いっす。
雪が降って昨日は寒かったけれど、今日もあいかわらず寒いです。
「稲芋経」を読んでいます。
読んでいると、道元が浮かんできた。
彼の「現成公案」は、稲芋経から来ているのか。。って思いました。
道元は中国語が堪能だったから、そこを通じて仏法(空)を手にいれたのね。
なるほどぉぉぉぉ。
こういう風に何を読んだから、身となり骨となったか見えてくるのが、
仏法の分かり方なんだなあと思う。
縁起を見るものは法を見る、法を見るものは仏を観る
繋がっていって、あるとき、全部氷解する。。という風にして分かるのが、
仏法なのです。
だから、根拠を示しても、根拠だと思われないかもしれないのです。。空だからね。
だけど、なぜか、わかる人にはわかるのね。
仏法の不思議
アートマン(我)をもつ人には、なかなか分からない。。エビデンスのない道。
いや、エビデンスがないのではない、しかし、あるのではない、そんな道。
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コメント
私も読み返しました
觸は受を縁じ 受は愛を縁じ 愛は取を縁じ
取は有を縁じ 有は生を縁じ 生は老死憂悲苦悩を縁ず
衆苦聚集して大苦陰と為り 因縁を作る
欲楽の父母の精気衆縁和合の故に名色の芽を生ず
主無く 我く 造無し 寿者無し
猶し虚空の如く 幻の如し
衆因縁和合よりして生ず
識 実 仮にして衆縁和合して生ず
次第に 諸根の
識 を 生ずること(実)も
亦是の説の如し
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投稿: 春間 則廣 | 2024/11/21 06:25