覚悟を解いて。。
息子の調子が悪くなったとお話ししてから、
バタバタと時が過ぎ、
息子は、テレビを、観るともなく見るまでに回復しました。
「人の命ははかない」と覚悟しましたが、
息子が蘇ったので、覚悟を解きました。
これを称して「覚悟」からの「解脱」。。。冗談みたいですね。
仏教用語が出そろってます。。
つくづくと、庶民は強いなあ、って思います。
仏教の法(真理?)を逆手にとって、凡夫の理解を押し通してしまうのですから。
こうして、本来の法(教え)の意味は失われていき(?)、巷の用語解説には人口に膾炙した解釈があふれかえる。
たとえば、「子煩悩」 ということばがあります。これを解釈してみよう。
「自分が自分のものでないのに、どうして子が自分のものだろうか」
と教えられても、
子に対する愛着をそのままもつのが凡夫です。
せめて
子に対する愛着がある、のではなく、ない、のではない、という道を歩もう。。
これは、誰に対して言ってるの?
子煩悩な人に言っている。。
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コメント
攻撃的な宗教や強引な勧誘のところはどうしょうもないので、関わらないのが一番ですね。
パリ五輪の反キリスト教的な開会式みたいに憎悪の応酬になる。
他山の石とすべしなんですね。
投稿: カエル | 2024/08/14 21:19
> 他者の信仰には敬意をもって沈黙する修行ができてましゅ
カエルさま、えらいでしゅ(笑)
わたしも、ヒンドゥー教にも敬意をはらってましゅ。。が、
ヒンドゥー教の方は仏教に敬意をはらっているのか、ようわからんでしゅ
投稿: 管理人エム(mani) | 2024/08/14 14:17
法然さん、親鸞さんもいいですね。
他家の法事に出てみるとなるほどと思います。
ここいらは好みなんでしょう。
うちの法事は日蓮宗ですが信仰は強制されないのでとても良いです。
子どものころから法華経信仰を相対的に見ることができていたので、とても興味深いです。
他者の信仰には敬意をもって沈黙する修行ができてましゅ
投稿: カエル | 2024/08/14 09:25
> やっぱ実在を信じてないと
> 念仏とかマントラとかいまいち力が乗らないですよね。
「有る」と信じないと信はうまれないか。。そうだよねぇ。凡夫が力強いのは、そこだ、って気がします。
「有る」は「煩悩」、「無い」も「煩悩」。
今は、テーラワーダ仏教に関心が移っているから、シッダッタ王子やサーリプッタ尊者にリアリティを感ずるのだろうけど、昔の日本は阿弥陀仏にリアリティを感じてたのだろうね。
それは親鸞聖人や法然上人への信から来ているんじゃないかな?
わたしは、法然・親鸞が言及する龍樹への信から、浄土教を信じている。。の。。かも。
龍樹はブッダの言うとおりに言うし、ブッダは一切智者であって、ゲーデルの不完全性定理を手に入れてるし、それ以上のことを手に入れてる。。「それ以上」って何だか、私にはわからない。。だから、ブッダを目指してみてるのです。
だから、ブッダの教えを信じている、だいぶ知ってきている。。
投稿: mani(管理人エム) | 2024/08/12 07:45
やっぱ実在を信じてないと
念仏とかマントラとかいまいち力が乗らないですよね。
阿弥陀様とか薬師如来とか他人の信仰には配慮すべきだけど、個人的にはリアリティは感じない。
シッダッタ王子とサーリプッタみたいなリアリティは感じないのですよね。
信仰がないと元気玉に力が乗りませんな
お役に立てないカエルです
春間さんみたい危ないおじさんの方が念力が強そうw
投稿: カエル | 2024/08/11 19:05
*
どこに 係っているか を 見失なった故に
ここに ぶら下がる
> 時間は矢のように過ぎるのか、それとも、時間は四季の変化のように循環するのか?
時間 という 思考上の概念 は “ 確かに ! ”
思考上に存在しています ( 概念上に本体がある )
過ぎ去っていく 認識 を 矢のごとく と
( 「 識 」 の上に載せて ) 後追い認識 で 仕舞い込む
> 今、この考えにとりつかれていていろいろ混乱しています。
とりつかれる( 本体を追う ) から 「 体 」 に 惑う
( 惑わぬ者 には 「 今 」 さえ 存在してはいない )
過去 を 設定するから 「 今 」 に惑い
( ひっくり返せば ) 「 今 」 が “本体” を持つゆえに
“ 本 ” に 翻弄される
( 混乱を自ら好んで 「乾闥婆城」 を 追いかける )
「 好きでやっているわけではない 」 と 好き勝手を言う
物事( 本体 ) の 存在 は
「 縁起 」 による ( 縁って起きいている )
さて “ 「 縁起 」 という 本体 ” は 何に拠るのかな ?
( 本体 は 「 識 」 ・ 「 色 」 に 縁って起きている )
いかに 理論物理 を 極めようと
一つの存在( 波・粒子 ) は ( 誤る限り )
“光子” (粒子) の 波 で 認識するしかない
( どちらでもないから 一緒くたにして
「 識 」 にのせ 「 色 」 とする )
「 存在 」 とは 本体を持つ 「 色 」 である
( 五蘊 に惑い ガンダルヴァ に “ 溺れる ” )
溺れる者 が ツカム 確固 たる (笑)しべ・藁蘂
( ツカム 主体 は 確固 たる 「 識 」 を 離れず )
たとえ 干からびた一片 でも うまく操れば
長者 の 道しるべとなる
( 長者 という 概念 の 驕る人生 を 崇める )
思想 という 本体( 「 色 」 ) は
優劣 に 沿って 並べられる
優劣という本体 は 「 識 」 の上で 序列 を 待つ
本体 を 掴もうとするゆえ に 人は惑う
( 小便をカケル 獄有・誤空 は 掌上 を 惑う )
獄上 ニアッテ 「 有 」 を 楽しむ ( 有楽 を ツカム )
( 正しく 「 空 」 とは 「楽」 の 別の名 である )
さてはて
果てにあって クウヲツカム 所縁 は 何処 ?
「 処 」 に迷い “ 降赴 死処 ” を 見失う
「 望不憚煩勞蹔 降赴此院此所 」
謹空
「 摩訶止観 」 を 読む(頂戴供養)
さて ここに記す( 帰する処 ) は
何処の縁 であろうか 、、、
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/08/08 06:56
マーニプッタではなくマニカナ先生が
智慧をもって輪廻の真実に到達するかですね
マーニプッタも寝てたり朦朧としているのは表層意識だけで、人間は深層になにかありますから。
まあ魂とか深層無意識とか言葉にすれば色がついてしまいますが。
でわまた
投稿: カエル | 2024/08/07 20:33
*
玄奘(三蔵)が 顛倒している というわけではない
玄奘 は 「 一切 」 と しなければならなかった
そこに 「 理 」 由 が ある
ここに 「 瑜伽行 」 「 唯識 」 が ある
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/08/07 13:21
*
>> 文法的アプローチ(論理的アプローチ) では 気づけないもの 、、、、
> わたしは、この文に甘さを感じます!
文章的には (文法上・論理?上) には 誤りはありません
しかし 文 というものは 人体の 部分? と 同じです
* 指は生存に必要な動作の 対象との 接触点として 働く
生存とは何か 必要とは 何に対してか
接触 とは 如何なる目的の下で されるのか
これらのこと は 記述する人の いきざま により
「 縁起 」 して 起きていること
> 甘さ という言葉 には 甘さがある
> どこが「論理的アプローチ」なんだ?
あなたの規定する 「論理的アプローチ」 とは
「 真理 」 に基づく アプローチ のこと
「 真理 」 とは 文字ではない
ゆえに アプローチ という 行為 は
必ず 選択(商量) の 下で 行われている
> 論理的でもなければ、文法的でもないじゃないか、って。
そういう記述上 の アプローチ が
正しい 「 瞑想 」 に 基づかなければ
「論理的アプローチ」 上
誤っていることとなる(誤りなる量見)
>>> 気づくと、親はしっかり利用されてます。。たくみです。
たくみ という 語 には 甘さがある
けれど 「 顛倒 」 とは
(いわゆる) 無意識 に 起される
( それを 智ギ は 「 摩訶止観 」 で 「 魔 」 と呼んだ )
意識の“間”隙に起きて 「 観 」 を コントロールする
( 魔 は 「 己 」 の中に起き “たくみ” に control する )
利用されている と気付けども 聞かれた語 は
control下 にあると 語 は 「 顛倒 」 に沿って働く
分る者 だけが 分かること ではあるが
すべての人 は 「 平等 」 に
“ 分かること は すべて分かる ”
( 「量」の問題でも、 「質」の問題でもない )
一部・大部分・すべて これらは すべて(一切)
「 縁起 」 の 「 理 」 の下で 働いている
「 遠離一切顛倒夢想 」 という 玄奘 の 「 識 」 は
“ 一切 ” という 「 量 」 を 離れることは出きない
( 觔斗雲の孫悟空 は 掌上 から 出ることはない )
このこと は 言語上 の 「 唯識 」 を いくら学ぼうと
その学び は “觔斗雲” に過ぎないことを 言う
このようなこと は 分る人 のみ 分り
( 分らない人にも ) 「 平等 」 上 の 理解を生む
そこの 「 処 」 で 働く 「 真理 」
( 「用」 と なる )
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/08/07 08:41
> 文法的アプローチ(論理的アプローチ) では 気づけないもの 、、、、
わたしは、この文に甘さを感じます!
どこが「論理的アプローチ」なんだ?
論理的でもなければ、文法的でもないじゃないか、って。
道元を見習い、親鸞を見習わなきゃダメだ!って、心の底から思います。
投稿: 管理人エム(mani) | 2024/08/07 04:39
> 輪廻の真実に到達してしまうか
うーん、そうなの?
なんか、息子は、‘輪廻の真実に到達してる’っていうより、輪廻してることに気づいていない、って感じです。
受け容れることに慣れていて、その実、気づくと、親はしっかり利用されてます。。たくみです。
投稿: 管理人エム(mani) | 2024/08/07 03:39
マーニプッタがスペシャルなのはなぜか
雑な善因善果、悪因悪果で
止まってしまうのがアレな宗教
そんなものに惑わされずに
輪廻の真実に到達してしまうか
まさにスペシャルな修行
他人は遠くから元気玉を送るのみ
投稿: カエル | 2024/08/06 19:58
*
「 南華密教 」 なるもの
https://blog.goo.ne.jp/nangeensha/e/a1a102d4451e710c895f25d318331072?fm=entry_awc
> 麻原彰晃のように、いくら立派なことを言ったからといって、言うだけなら誰でもできるもので、それだけで信用してはいけない、ということです。
麻原のいうこと に 立派なこと は 一つもない
> もうひとつは、誰が言ったことだろうと、その内容次第で採用すべきで、素人の言う事だとかいう理由で、軽視してはいけないということです。
素人 玄人(似非仏教者) の 区別 は “似非区別” でしかない
内容次第で採用する ということは 誰でもしている事
そにように 誰でも 「 平等 」 に できるし
「 平等 」 に 認識を起こすから
その( 認識 ) 出来る処 は
「 無明 」 に (生起する)起きる と
(釈迦)牟尼 は 説く
“軽視するな” と “ 軽視しながら 軽視に突き進む ”
( 自分は軽視などしてはいない と 軽い気持ちで 口にする )
眼前の 誰かに 語る言葉 は
眼前だけに広がっているのではない
ひろがり とは 「 縁起 」 に 起きること
行く と 戻る とが・咎 目に降りかかる
> すると、当然に、偉い人の言う事だからといって、何でも素晴らしいとか、正しいとは限らない、ということになります。
あなたは 立派ではない人 を 立派だと思ってはいけない という
つまらないことを言う わたしを 無視するべきではない という
“立派なあなた” が 立派 を 提示している
つまらない わたしがごとき者 に 関わることのない
“ 立派さ ” を あなたは コジ と すべき
脚下に広がる 己事 に 立てども
「 脚下照顧 」 とは 誇示するモノではない
>> 「 世間の意見はつまるところ偏見で、異論も反論も成り立ちます 」
> 「真理」というのは「規範」であって、「事実」という「記述」とは性質が違う、という、言わば「文法的」な「間違い」に気づかないようです。
文法的な間違い とは その文法 を 何に用いるかで 決まる
“ 間違いに気づかない という 間違い ” には
文法的アプローチ(論理的アプローチ) では 気づけないもの 、、、、
この文章 の 文法 には
誤りがありますか ?
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/08/06 09:31
> そもそもなんでマーニプッタはマニカナ先生から生まれたのでしょう?
なんでですかねえ。
想像を超える性格と肉体からなっています。
つまり、五蘊が信じられません。
今でも驚きながら暮らしてます。
投稿: 管理人エム(mani) | 2024/08/06 02:43
こんばんわ~
病気になったのは何々が原因だから
仏壇と壺と免罪符を買いなさいといのが
営利宗教
輪廻の奥まで因果関係を見つめる
時が満ちれば稲妻のように原因と結果が明晰にわかるのでしょう
マニカナ先生とマーニプッタにしかわからないことですね
そもそもなんでマーニプッタはマニカナ先生から生まれたのでしょう?
そこからさらに輪廻に奥に自分ですすむしかにゃい
他人のカエルには知る由もない
投稿: カエル | 2024/08/05 21:07