« 何か善いこと | トップページ | 昨日はたいへんだった »

2024/07/08

毎日毎日同じ話題です

仏教の話題を発信し続けて今日に至ります。

見えてるものが、本当に見えてるとおりにあるのかどうか、

そこを問い続けて今日まできました。

 

見えてるとおりにある と書こうと

見えてるとおりではない と書こうと

そんなに変わらないことに気づきます。

 

人の思いは変わっていくからです。

変化するから日常があるのです。

 

わたしたちは、肯定したり否定したりして暮らしているのだと知るのです。

肯定と否定で一切である、と見たのはブッダだけれど、同時に、それは、

三つに分かれることも見てとりました。

肯定と否定の極端な答えと、共に、「どちらでもない」という選択肢があることを知るのです。

二つに分けるか、三つに分けるかで、世の中は成り立っていると知ります。

 

二つに分けると争う。

三つだと争わずにすむ。

 

そこで、人は争わないようにしようと三つの道を歩むのです。

三つ目は、仏教では、中道という。

 

二つに分けた肯定と否定でも、三つ目を選べるのが、おしゃかさま。。

 

それはなに?

それは、そこに近づかない、という道だよ、と教えてくれる。

 

なるほど、はだしでどこまでも歩くブッダは、何かに近づくことはない。

孤高のブッダは、ひとりでどこまでも行く。

 

涅槃の楽を味わっている。

 

そういえば、息子は自宅介護になって、今日で二年七ヶ月です。

 

 

 

 

|

« 何か善いこと | トップページ | 昨日はたいへんだった »

コメント

>  二つに分けた肯定と否定でも、

    これは “ 肯定 ” という  一つ
  ( 一つ   という 概念は  不達・2 である=分かれる )

> 三つ目を選べるのが、おしゃかさま。。

     不達 のところに 達する  一つ

> それはなに?

> それは、そこに近づかない、という道だよ、と教えてくれる。

 そこに “近づく” ということ は
           できない
   遠近  永久・とは 
 「 縁起 」 に 起きている概念


 教えていること  を 受取るのが
        “教えられている者”

  ただし、何を教えられているか は
      受取ったモノ で 知るのみ  

 そこから いくら推し量ろうと

  “ 手の上を飛び舞う 孫悟空 ”

 地団駄 を   踏まず
  小便 で 「 駄弁 」 に カエル


投稿:  春間 則廣  | 2024/07/10 09:28

> 人の思いは変わっていくからです。

  変ると知る   変らない “基盤” ・ 「 真理 」 

> 変化するから日常があるのです。

    変化すること なき  「 恒常 」 
 ( 「 無常 」 である と “ 知ってしまって 存続する ” )
    ブッダ と  “ 呼ばれる ” 「 真理 」 
              呼ぶとき・観るとき  変化を知る

> わたしたちは、肯定したり否定したりして暮らしているのだと知るのです。

   そのようにして 暮らしている  と  見える( 見えない )
        みえる( 肯定 )   見えない( 否定 )
   否定でも 肯定でもない    という  見え方 の 肯定

> 肯定と否定で一切である、と見たのはブッダだけれど、同時に、それは、

>  三つに分かれることも見てとりました。
> 肯定と否定の極端な答えと、共に、「どちらでもない」という選択肢があることを知るのです。

    「 世間 」 ( ローカ・loka-dhaatu )  を 見すえる  Buddha
           肯定 のみ である

    伝統的( ウパニシャッド )  “ 否・否 ” (neti neti)
                     としてのみ 起きる アートマン 
    ヤージュニャヴァルキヤ
    ( 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 3..2.13 )
 

> 二つに分けるか、三つに分けるかで、世の中は成り立っていると知ります。

     世の中( 「 世間 」 ) は  “どちらでもない” 
      ネーティー ネーティー    と  “ 実有 ”
                       ウッダーラカ・アールニ  
> 二つに分けると争う。

  ( 対立 しつつ 存続する )   本質としての アートマン

>  三つだと争わずにすむ。

    否定でも肯定でもない  たった一つ  の  「 真理 」 

> そこで、人は争わないようにしようと三つの道を歩むのです。

    三つ目は、仏教では、中道という。

> 二つに分けた肯定と否定でも、三つ目を選べるのが、おしゃかさま。。
> それはなに?
> それは、そこに近づかない、という道だよ、と教えてくれる。


>  孤高のブッダは、ひとりでどこまでも行く。

      「 同行  二人 」 
        ( そこに 親鸞がいる 「 二人いれば ミタリ 」 )

> 涅槃の楽を味わっている。

   味わいつつ 共と歩む ( 共に歩む )

> そういえば、息子は自宅介護になって、今日で二年七ヶ月です。


    今日という 日に 非(ネーティー) を 数え挙げてみる
                 ネーティー ネーティー

       「 我 」  と    非我・梵  


    あくまでも 伝統を否定してはいない Buddha

    一切の存在は ことごとく性質をもっている
    そこでまた、一つであるとなす ( 1.3.7.9 石飛 道子 訳 )
       ( 下記  p.343 )

  < 参考 >

  「 方便心論 」   p.244
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BB%E9%BE%8D%E6%A8%B9%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE%E3%83%BC-%E7%9F%B3%E9%A3%9B%E9%81%93%E5%AD%90/dp/490702228X/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=3FJBIU2B5W2EZ&dib=eyJ2IjoiMSJ9.xSYBNi9Kneqj3JFM-1_9xw.p16BW7JBXMkQaAeS_GB1RjQ0s5Gvrh-1I3f_7iIVrgg&dib_tag=se&keywords=%E7%9F%B3%E9%A3%9B%E9%81%93%E5%AD%90+%E3%80%8E%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6+%E2%80%95%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BB%E9%BE%8D%E6%A8%B9%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE%E2%80%95%E3%80%8F&qid=1720385766&sprefix=%E7%9F%B3%E9%A3%9B%E9%81%93%E5%AD%90+%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6+%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80+%E9%BE%8D%E6%A8%B9+%E3%83%8B%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE+%2Caps%2C696&sr=8-1    
    石飛道子
  『古代インド論理学の研究 ―ブッダ・龍樹・ニヤーヤ学派―』



投稿:  春間 則廣  | 2024/07/08 06:23

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 何か善いこと | トップページ | 昨日はたいへんだった »