ブッダの直説
岩波文庫の『スッタニパータ』の訳、中村元先生の『ブッダのことば』は、
仏教理解に関するわたしたちの常識の一つになっています。
ブッダは教えを残さなかった。特別なことは言わなかったのだけど、仏弟子たちが、経典を編纂して伝えてきたので、仏教という宗教が残ったというものです。
どうもひっかかる意見です。
仏教徒たちは、誰一人そうは考えていないだろう。
ブッダのことば、つまり、ブッダの口から出るものはすべてそのまま法である、と受けとめて、
そして、そのまま仏弟子となっていったのだろう。
編纂され、増広されて、経典は増えてはいったことだろう。
しかし、仏弟子たちが主導したのではないだろう。。いや、主導はしたかもしれない。。無我の行為として、また、煩悩の行為として。
つまりは、自分たちの理解に資する指南書として編纂されたと思う。
私の常識では『スッタニパータ』は、ブッダの直説です。
そこには弟子の意見の入る余地はない!
最初から最後まで、法に貫かれて、結晶している。
ブッダの法 そのものだと思います。
この教えを弟子たちに教えていきながら、「これを一章にして最初におきなさい」とか、
「これは第四章におきなさい」とか、言ったんだろう。そして、『スッタニパータ』と名前をつけなさい、とも言ったかもしれない。
あらゆる生き物たちに語りかけているブッダ。
どんな生き物も、のがさなかった。
サンガにいる仏弟子たちだけを相手にしたのではない。
世間にいる名もない生き物にも、聞く耳があれば、すかさず語りかけた。
こうして、
ことばを使って、法は伝えられ、
瞑想を使って、法は体感して伝えられていった。
だから、衣をあらためてもあらためなくても、仏教は法として知られていっている。
お坊さんの衣を着ても着なくても、ということです。
なぜ、そう言うかというと、『スッタニパータ』は最初に「蛇品」という詩の形で組み立てられているからです。
なぜそう思うかは、ここでは言わないでおこう。本に書きます。龍樹の本に。
この『スッタニパータ』の構成から翻って、
『中論』はなぜ、ああいう構成になっているのか、ずっと考えてきました。
そこがわからないと本は書けないと思って今までやってきました。
完全にわかったわけじゃないけど、
いつまでもダラダラ引き延ばせないので、集中しようと思ってます。
龍樹の空はかなりつかんだと思います。
龍樹の空と言っても、ブッダの空だけどね。
私の知らないことを知っているほとけに会いたいと思っています。
たぶん、阿弥陀仏が救ってくださるんだろうと思ってます。
龍樹もすがった阿弥陀仏。法然上人もすがった阿弥陀仏。親鸞聖人もすがった阿弥陀仏。
本当にそうだったんだなあとわかるとき、空が私にやって来る。
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コメント
> 伝えられて 存在する 「 法 」 は
> “ 「 瞑想 」 に ある者 ” の 体感 に 「 無 」 として
> 起きている ( 寝て はじめて 起きる が 起き上がる )
> 起き上がらなければ 知ることが起きない 寝ている ということ
なるほど。
寝てはじめて起きるが起き上がるから、ですね。
つまり、わたしたちは、無明からしかはじめられない、ということでもある。
投稿: mani(管理人エム) | 2024/03/21 04:33
*
> あらゆる生き物たちに語りかけているブッダ。
あらゆる という “ゴ” に 含まれている “誤”
吾 に於いて の 語感
それら は 聞いたアト に 起きるのではなく
聞く 前(ゼン) の コジン の 体験(禅)
に(依存して・相関して) 起きている・起こさざるを得ない
自分で起こしているように 錯覚 することもある
聞いて 聞く主体があって そこに 語る・聞く が 生まれ
主体 が 客体化されて 聞かれている 内容が 成り立つ
> どんな生き物も、のがさなかった。
生きている という 実感 が 生き物 を 規定する
のがさない(=つかまえている) 手の内(外)に捉える
生物・無生物 = 有・無 どちらも 「 有 」
> サンガにいる仏弟子たちだけを相手にしたのではない。
> 世間にいる名もない生き物にも、聞く耳があれば、すかさず語りかけた。
「 世間 」 には “ことば” が 生成 されている
己 と 場 に 於いて の 存在 が 生まれ出る
( あくまでも ローカ・通路 で の いきき )
光り輝く 磨き上げられた LOKA において
すべらずにあゆむ ・ 生成されたもの を 聞き取る
> こうして、
どのようなわけで( どうして ) 言葉が必要か
> ことばを使って、法は伝えられ、
> 瞑想を使って、法は体感して伝えられていった。
伝えられて 存在する 「 法 」 は
“ 「 瞑想 」 に ある者 ” の 体感 に 「 無 」 として
起きている ( 寝て はじめて 起きる が 起き上がる )
起き上がらなければ 知ることが起きない 寝ている ということ
寝巻 を 決めて いる 世間の基準 → パ邪魔
パジャマ を 脱がない “わたし”
→ 邪魔 な 迷惑 な 存在 が 起きている・記述している
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/03/09 14:33
> 「 空 」 であるから
> わからなくともある 「 仏教 」
「空」って便利だね。
理屈で追えるし、理屈からはずれても追える。。終える、かな?
こうだもの、惹きつけられるんだわねぇ。
投稿: mani(管理人エム) | 2024/03/04 03:20
お、ぎんたさま、おひさぁ
がんばるぅ~。阿弥陀くじぃ でぇす。
くうをきわめるぞ、っと!
カプレカ数は、インドの人の名前を取った、って書いてありました。
不思議だね。偶数二個と奇数二個からなる数、6174。。なぞすぎる
投稿: 管理人エム | 2024/03/04 03:12
≪…知らないことを知っているほとけに会いたいと思っています。 たぶん、阿弥陀仏…≫から来ている阿弥陀籤を、20世紀で気が付いた桁表示の異なる4桁数での帰結の[阿弥陀籤]変換も[阿弥陀仏]さまとの[合体]か・・・
こんな記事をみつける。
カプレカ数の阿弥陀籤
6174ほぞの アミダくじ
ほぞのむきで 大と小
無視(64)され隠さるばかりの偶の数
7と1 1と7 とで挟み込む
ほぞのお相手 大と小
凸凹の阿弥陀籤の横線結合で、最大と最小に変換できるコトらしい・・・
投稿: ブッダの公式(大原問答) | 2024/03/03 16:06
わーーー頑張って~~
\(^O^)/
せんせぇが阿弥陀にゃのーーーー
各自であみだーーーー!!!!
投稿: ぎんた | 2024/03/03 14:54
*
> 本当にそうだったんだなあとわかるとき、空が私にやって来る。
本当 のない 仏教
嘘ばかりの 「 仏教 」 も ある
( 嘘の量りで 読んでしまう 仏教 )
そこに 「 空 」 があり
そうだったんだなあ と わかるとき
わかることがある 「 仏教 」
「 空 」 であるから
わからなくともある 「 仏教 」
そこにも 「 空 」 がある
どこにでもある 「 空 」 ではあるけれど
あること の ない 「 空 」
( 何かが ある ・ ないものもある )
*
投稿: 春間 則廣 | 2024/03/03 08:45