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2024/03/03

ブッダの直説

岩波文庫の『スッタニパータ』の訳、中村元先生の『ブッダのことば』は、

仏教理解に関するわたしたちの常識の一つになっています。

 

ブッダは教えを残さなかった。特別なことは言わなかったのだけど、仏弟子たちが、経典を編纂して伝えてきたので、仏教という宗教が残ったというものです。

 

どうもひっかかる意見です。

 

仏教徒たちは、誰一人そうは考えていないだろう。

 

ブッダのことば、つまり、ブッダの口から出るものはすべてそのまま法である、と受けとめて、

そして、そのまま仏弟子となっていったのだろう。

編纂され、増広されて、経典は増えてはいったことだろう。

しかし、仏弟子たちが主導したのではないだろう。。いや、主導はしたかもしれない。。無我の行為として、また、煩悩の行為として。

つまりは、自分たちの理解に資する指南書として編纂されたと思う。

 

私の常識では『スッタニパータ』は、ブッダの直説です。

そこには弟子の意見の入る余地はない!

 

最初から最後まで、法に貫かれて、結晶している。

ブッダの法 そのものだと思います。

この教えを弟子たちに教えていきながら、「これを一章にして最初におきなさい」とか、

「これは第四章におきなさい」とか、言ったんだろう。そして、『スッタニパータ』と名前をつけなさい、とも言ったかもしれない。

あらゆる生き物たちに語りかけているブッダ。

どんな生き物も、のがさなかった。

 

サンガにいる仏弟子たちだけを相手にしたのではない。

世間にいる名もない生き物にも、聞く耳があれば、すかさず語りかけた。

こうして、

ことばを使って、法は伝えられ、

瞑想を使って、法は体感して伝えられていった。

 

だから、衣をあらためてもあらためなくても、仏教は法として知られていっている。

お坊さんの衣を着ても着なくても、ということです。

 

なぜ、そう言うかというと、『スッタニパータ』は最初に「蛇品」という詩の形で組み立てられているからです。

なぜそう思うかは、ここでは言わないでおこう。本に書きます。龍樹の本に。

 

この『スッタニパータ』の構成から翻って、

『中論』はなぜ、ああいう構成になっているのか、ずっと考えてきました。

そこがわからないと本は書けないと思って今までやってきました。

完全にわかったわけじゃないけど、

いつまでもダラダラ引き延ばせないので、集中しようと思ってます。

 

龍樹のはかなりつかんだと思います。

龍樹のと言っても、ブッダのだけどね。

私の知らないことを知っているほとけに会いたいと思っています。

 

たぶん、阿弥陀仏が救ってくださるんだろうと思ってます。

龍樹もすがった阿弥陀仏。法然上人もすがった阿弥陀仏。親鸞聖人もすがった阿弥陀仏。

 

本当にそうだったんだなあとわかるとき、空が私にやって来る。

 

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コメント

>    伝えられて 存在する  「 法 」 は
>     “ 「 瞑想 」 に ある者 ”  の 体感 に  「 無 」 として
>         起きている ( 寝て はじめて 起きる が 起き上がる )
>    起き上がらなければ  知ることが起きない 寝ている ということ

なるほど。
寝てはじめて起きるが起き上がるから、ですね。

つまり、わたしたちは、無明からしかはじめられない、ということでもある。

投稿: mani(管理人エム) | 2024/03/21 04:33


> あらゆる生き物たちに語りかけているブッダ。

    あらゆる という “ゴ” に 含まれている “誤”
                吾  に於いて の   語感
     それら は    聞いたアト に 起きるのではなく
   聞く 前(ゼン) の     コジン の 体験(禅)
   に(依存して・相関して) 起きている・起こさざるを得ない

    自分で起こしているように 錯覚 することもある

  聞いて  聞く主体があって  そこに 語る・聞く が 生まれ
  主体 が  客体化されて   聞かれている 内容が 成り立つ

> どんな生き物も、のがさなかった。

   生きている  という 実感  が   生き物 を 規定する
   のがさない(=つかまえている)   手の内(外)に捉える
     生物・無生物 = 有・無     どちらも  「 有 」 

> サンガにいる仏弟子たちだけを相手にしたのではない。
> 世間にいる名もない生き物にも、聞く耳があれば、すかさず語りかけた。

    「 世間 」 には  “ことば”  が  生成 されている
       己 と 場   に 於いて の  存在 が 生まれ出る
   (  あくまでも ローカ・通路 で の    いきき   )
      光り輝く 磨き上げられた LOKA   において
    すべらずにあゆむ ・ 生成されたもの を 聞き取る

> こうして、

   どのようなわけで( どうして ) 言葉が必要か

> ことばを使って、法は伝えられ、
>  瞑想を使って、法は体感して伝えられていった。

   伝えられて 存在する  「 法 」 は
    “ 「 瞑想 」 に ある者 ”  の 体感 に  「 無 」 として
        起きている ( 寝て はじめて 起きる が 起き上がる )
   起き上がらなければ  知ることが起きない 寝ている ということ

   寝巻 を 決めて いる    世間の基準 → パ邪魔 
      パジャマ を 脱がない  “わたし”
  → 邪魔 な 迷惑 な 存在 が   起きている・記述している


投稿:  春間 則廣  | 2024/03/09 14:33

>  「 空 」 であるから
>  わからなくともある  「 仏教 」 

「空」って便利だね。
理屈で追えるし、理屈からはずれても追える。。終える、かな?

こうだもの、惹きつけられるんだわねぇ。

投稿: mani(管理人エム) | 2024/03/04 03:20

お、ぎんたさま、おひさぁ

がんばるぅ~。阿弥陀くじぃ でぇす。
くうをきわめるぞ、っと!


カプレカ数は、インドの人の名前を取った、って書いてありました。
不思議だね。偶数二個と奇数二個からなる数、6174。。なぞすぎる

投稿: 管理人エム | 2024/03/04 03:12

 ≪…知らないことを知っているほとけに会いたいと思っています。  たぶん、阿弥陀仏…≫から来ている阿弥陀籤を、20世紀で気が付いた桁表示の異なる4桁数での帰結の[阿弥陀籤]変換も[阿弥陀仏]さまとの[合体]か・・・

 こんな記事をみつける。 

  カプレカ数の阿弥陀籤

 6174ほぞの アミダくじ
 ほぞのむきで 大と小
 無視(64)され隠さるばかりの偶の数
 7と1 1と7 とで挟み込む
 ほぞのお相手 大と小

 
 凸凹の阿弥陀籤の横線結合で、最大と最小に変換できるコトらしい・・・

投稿: ブッダの公式(大原問答) | 2024/03/03 16:06

わーーー頑張って~~

\(^O^)/

せんせぇが阿弥陀にゃのーーーー

各自であみだーーーー!!!!

投稿: ぎんた | 2024/03/03 14:54

> 本当にそうだったんだなあとわかるとき、空が私にやって来る。

  本当 のない 仏教

  嘘ばかりの 「 仏教 」 も ある 
 ( 嘘の量りで 読んでしまう 仏教 )
     そこに 「 空 」  があり

  そうだったんだなあ と わかるとき
    わかることがある 「 仏教 」 

  「 空 」 であるから
  わからなくともある  「 仏教 」 
    そこにも 「 空 」  がある

 どこにでもある 「 空 」 ではあるけれど
        あること の ない 「 空 」 
      ( 何かが   ある ・ ないものもある  )


* 

投稿:  春間 則廣  | 2024/03/03 08:45

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