つながる。。古城にいたる
ブログには、アクセス解析というのが付いていて、
誰かが読んでくれるとわかるようになっている。
このブログも書かない時は誰も来ないけど、
書き始めると、ぽつぽつ誰かは来てくれる。
不思議だけど、不思議でもない。
むかし、ナヴィヤ・ニヤーヤをやってた時、古い専門書を読みながらよく思ったものだった。
インドは大体暑いだろう、だけど、日本の片隅で雪に埋もれて、
ナヴィヤ・ニヤーヤのこんな専門書を読んでるヤツがいるなんて、作者はしらないだろな。。って。
どんなところにも、時空を超えてアクセスする生き物がいる。。
当時、わたしは、ナヴィヤ・ニヤーヤとつながっていた。
わたしが知らなくても、どこかの誰かとつながって、このマイナーな思想のことを
共に考えることになる。
釈尊も、古道を行き、古い城跡を見つけた、と語っていた。
みんな、いつでも、誰かの歩んだ思想を考えている。。途中までのことも多いけど。
城跡までいたるものは少ない。
城跡がなく、行き止まりもあるだろう、行き当たってばったり倒れたものも多いだろう。
その点、インドは、必ず城跡が残る。
ヨーガがあるからね。
それなりに自己完結しようと願うから。
インドにはヨーガがあって
だから
ときに壮麗な寺院の跡がジャングルの中に隠れている。
あれ? 思わぬところに不時着したみたいだ。
こんな日もある。残しておこう。
| 固定リンク
コメント
> ( “ 「 瞑想 」 に ある者 ” だけが 自分に出会う )
> 自分と 対峙する自分 に 対峙できますか ?
> ( やってみれば 見えないことに 誰でも気づく )
現成公案ですね。
投稿: mani(管理人エム) | 2024/03/21 04:25
*
> どんなところにも
鈍 な 思い でも 思いでは 思いでとしての 位置 が ある
思っていること は 思い出 としてしか 存在できない
「 今 」 とは 存在がない ( 存在は過去にしか起こせない )
過去 の 存在 を 今に思う という 残像( 残 想 )
見ている自分 を 見得るまで 見ている自分は 存在しない
自分がいる と 思う自分 は 自分には見えない
( “ 「 瞑想 」 に ある者 ” だけが 自分に出会う )
出会っている自分 は 「 瞑想 」 に 於いて、のみ 存在する
自分と 対峙する自分 に 対峙できますか ?
( やってみれば 見えないことに 誰でも気づく )
瞑想 できた と 信じたい 自分 は
「 瞑想 」 の 外 に 存在している
( 信じている 自分 は 「 信仰 」 を 持ってはいない )
『 大乗の 大海 は 「 信仰 」 の 岸辺から 始まる 』
大海 に うち出でて 溺れている 自分( 生き物 )
> 時空を超えてアクセスする生き物がいる。。
時空 を 越えることができようと
「 今 」 に 溺れている わたくし
雪にうもれなくとも 「 今 」 に うもれる もまれる
「 今 」 という 波の合間 に 口 を はさむ
はさむ 口 を つまむ 口
もって あそぶ くち なのではあるが 、、、、
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/03/11 07:47