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2024/03/09

つながる。。古城にいたる

ブログには、アクセス解析というのが付いていて、

誰かが読んでくれるとわかるようになっている。

このブログも書かない時は誰も来ないけど、

書き始めると、ぽつぽつ誰かは来てくれる。

 

不思議だけど、不思議でもない。

 

むかし、ナヴィヤ・ニヤーヤをやってた時、古い専門書を読みながらよく思ったものだった。

インドは大体暑いだろう、だけど、日本の片隅で雪に埋もれて、

ナヴィヤ・ニヤーヤのこんな専門書を読んでるヤツがいるなんて、作者はしらないだろな。。って。

 

どんなところにも、時空を超えてアクセスする生き物がいる。。

当時、わたしは、ナヴィヤ・ニヤーヤとつながっていた。

わたしが知らなくても、どこかの誰かとつながって、このマイナーな思想のことを

共に考えることになる。

 

釈尊も、古道を行き、古い城跡を見つけた、と語っていた。

みんな、いつでも、誰かの歩んだ思想を考えている。。途中までのことも多いけど。

城跡までいたるものは少ない。

 

城跡がなく、行き止まりもあるだろう、行き当たってばったり倒れたものも多いだろう。

その点、インドは、必ず城跡が残る。

ヨーガがあるからね。

それなりに自己完結しようと願うから。

 

インドにはヨーガがあって

だから

ときに壮麗な寺院の跡がジャングルの中に隠れている。

 

あれ? 思わぬところに不時着したみたいだ。

こんな日もある。残しておこう。

 

 

 

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コメント

> ( “ 「 瞑想 」 に ある者 ” だけが  自分に出会う   )

>    自分と 対峙する自分  に  対峙できますか  ?
>   (  やってみれば   見えないことに 誰でも気づく  )

現成公案ですね。

投稿: mani(管理人エム) | 2024/03/21 04:25


> どんなところにも

  鈍 な 思い でも  思いでは 思いでとしての 位置 が ある
      思っていること  は   思い出 としてしか 存在できない
   「 今 」 とは 存在がない ( 存在は過去にしか起こせない )

   過去 の 存在 を 今に思う  という  残像( 残 想 )
     見ている自分  を  見得るまで  見ている自分は 存在しない

     自分がいる と 思う自分   は    自分には見えない 
  ( “ 「 瞑想 」 に ある者 ” だけが  自分に出会う   )
    出会っている自分 は  「 瞑想 」 に 於いて、のみ 存在する

   自分と 対峙する自分  に  対峙できますか  ?
  (  やってみれば   見えないことに 誰でも気づく  )

     瞑想 できた と  信じたい 自分  は
  「 瞑想 」 の 外  に  存在している
      ( 信じている 自分  は  「 信仰 」  を 持ってはいない )
     『  大乗の 大海 は  「 信仰 」  の 岸辺から 始まる 』

      大海 に うち出でて  溺れている 自分( 生き物 )

> 時空を超えてアクセスする生き物がいる。。

     時空 を  越えることができようと  
           「 今 」 に 溺れている  わたくし

      雪にうもれなくとも  「 今 」 に うもれる もまれる

      「 今 」 という 波の合間 に 口 を はさむ

                 はさむ 口 を つまむ 口

       もって あそぶ  くち  なのではあるが 、、、、


投稿:  春間 則廣  | 2024/03/11 07:47

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