がんばったら消えた!「信を解き放て」について
がんばって書いてたら、消えました。。消える教え(=信を捨てよ)について書いてたから仕方ないか。
『パティパダー』3月号の記事の中に、それはあります。
有名な梵天勧請のお話に関してです。
テーラワーダ仏教の解釈が説かれていると見て良いでしょう。
スマナサーラ長老が、「パーリ経典の読み方ガイド」と題して、聞き手佐藤哲朗さんの案内で語るものです。
梵天さんが三度勧請したので、お釈迦さまは法を説く気を起こしたと語る内容のところです。
増谷文雄先生訳の4行詩について解説しています。
その4行詩とはこんなものです。
彼らに甘露の門はひらかれたり。
耳あるものは聞け、古き信を去れ
梵天よ、われは思い惑うことありて
人々に微妙の法を説かざりき
お釈迦さまの時代では純粋な歴史より神話的なレトリックが入ってしまうのだと解釈しています。
ストーリーの要素をもたないと若者たちが覚えられないということを説明にあげています。
問題になったのは、「耳あるものは聞け、古き信を去れ」の個所です。
このほかにも「信を解き放て」というのもあって、意味わからんと述べています。
スマ長老は、「信」とあるのは、「信仰」ではなく「信頼」と言うくらいの意味だとしています。
そして、
仏教の「信」というのは「論理的に人を信じることだ」と説明しています。
だから、この個所はお釈迦さまの言うことを「信頼しなさい」というコトだと述べています。
「耳あるものは聞け」も「聞きたい人は私の話を聞きなさい」ということだと解釈しています。。
そうなんだ、けっこう、ふつうっぽい意味ですね。
スマナサーラ長老とは、私は解釈が異なります。
私は、全部文字通りの意味で読んでいます。
お釈迦さまは、最初は法を説こうとは思わなかったのです。
三度梵天が勧請して、そのとき、法(教え)を説きましょう、と決断するのです。
そして4行の詩を語るのです。その詩には、すでにお釈迦さまの法が満載されているのです。
え?どこに?
「耳あるものは聞け、信を捨てよ」と、あるでしょ。。ま、まさか、これ、法なの?
そうだよ、無理ムラ無駄のないお釈迦さまは、4行詩の中に教えを込めたのですじゃ、と、私は思ってます。
「中部」22の「蛇喩経」の中にも「筏の喩え」があります。
「法を捨てよ、いわんや非法においておや」
法と非法の二法を捨ててしまうべし、というのが、お釈迦さまの法であり、
そしてそのことを端的に伝えたのが「信を捨てよ」となるのだと思うのです。
『スッタニパータ』「彼岸道品」には、一番捨てにくい信を、お釈迦さまは「捨てよ」とピンギヤに語っています。
ピンギヤはお釈迦さまにメロメロなので、言われれば言われるほど捨てられないのです。思慕の情が切々とうたわれます。
ふつうは、みんな、開祖は「私のいうことを信じなさい」というもんだと思ってるので、訳せないのです。
だけど、お釈迦さまはどう考えても「信をすてよ」「法をすてよ」といってますのじゃ。
「他のどこにも喩えられず、支配されず、不動である(ところ)に、わたしは、確実に、行くでしょう。
わたしは、ここにおいて疑いはありません。
このように、わたしに、(信を)捨てることに向かう心を、たもたせてください」(1149)
こう、ピンギヤは述べて終わっているのです。
「信を捨てよ」は、「彼岸道品」の1149で、では「法を捨てよ」はどこに?。
『スッタニパータ』で探すと、これなんかそうかも。
771.(第一経第6偈)
それ故に、人は常に気づきをもって、諸々の欲望を避けていくのがよいでしょう。
それら(諸々の弱いもの)を捨てて暴流をわたりなさい。舟(の水)を汲み出して彼岸に到達するのです。
- (第十四経第3偈)
内であれ外であれ、いかなることがら(法)であっても覚知するとよいでしょう。
それによって、権勢(慢心)をなすようなことがあってはなりません。
なぜなら、それが寂滅であるとは、(聖なる)人々は述べていないからです。
お釈迦さまなんだよ、覚りをひらいた如来なのです。
どうして、最初に、覚りの内容を語れないことがありましょうか。
最初から最後まで、どこを切ってもお釈迦さまの顔が出てくる金太郎飴と同じですじゃ。
どこを切っても、法が語られている!
ストーリーも神話もない、レトリック、そんなもの、あるわけない!
ただ寂滅の法があるのみ!!
大乗で受けとったのは、法を捨てることだとは、ちょっと信じられない、って。。
そうだよなあ、言ってるわたしも信じ切れないもの。
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