時空
昨日、一昨日と「時空」について書こうと思って、wikiを調べていて、そこで止まってしまいました。
wikiは便利だけど、「流れているなぁ」という印象です。
調べたかったのは、「時空ついてどういう意見があるのか」だったんだけど、
「時間と空間は時に結びつけて語られる」ということがわかって、「なるほど」と思いました。
ブッダの教えで間に合うな、って分かったので、自分で考えることにしました。
「ブッダの教え」は、わたしにとってスタンダードなのです。
ブッダのことばを味わっていると、考えるべきことが分かってくる、という感じなのです。
というのは、ブッダは煩悩に詳しいから、そして、それを超えているからです。
では、時空の話を!
縁起をまず説いたブッダは「時を語る」者でありました。
それから空を説いたブッダは「空間を語る」者ともなりました。
時を語った後で空間を語れ、と私は理解しました。
順序がつく、ということは、私は時を語っているのです。だから、この語りでよいのです。
語る対象は、自分の中のことです。そこに世界があるからです。
そして、「その世界は無我なのだ」と知るのです。
この辺になると、こんがらがってきますね。
自分の中のことを語るしかないけど、その語りは無我として語るのですから。
「諸法無我」という教えは、簡単には出てこないことが分かりますよね。わからない?
無我にならないと、自分の中で、こんな風には思わないからです。
つまり、ブッダは、無我を得てから、無我だと語ったということを知ることになります。
そこから、また、ブッダには、知っていることと知らないこともあったのだ、ということを知るのですが、
知らないことを知らないと知っていることによって、ブッダは一切智をもっていた、と知るのです。
誰が何を言おうと、ブッダには、知っていることと知らないことがあって、知らないことをも知らないと適切に知ることにより、
かれは、一切を知っていた、といえるということ、ここを確認しました。
わたしたちは、知ってることも知らないことも一緒くたですよね。
そのことすら知らないことに、ブッダのことばを聞いて、気づくのです。
時空は我にあり。。と知るのです。
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コメント
> 【 「4以上の偶数は、素数の和である」というゴールドバッハの予想 】
に相当するモノが、[進み行く素数] である。
数の不思議。.一つずつ増える数というところを掘り下げてみないといけないかなぁ。
わたしたちの煩悩が眠っているところ。
岡潔数学体験館に行ってみたいな。
投稿: 管理人エム | 2024/02/02 04:08
「Newton」2023 7 悪夢の数学―不完全性定理に、
【 ゲーデルは、論理学は完全だがそこに自然数論を加えると不完全になることを明確に示したのだ。 ・・・ ゲーデルは論理主義が成立しないことも明確に証明したことになる。 】
とあり、
【 「4以上の偶数は、素数の和である」というゴールドバッハの予想 】
に相当するモノが、[進み行く素数] である。
100まで程度の素数なら、『幻のマスキングテープ』の物差しで眺められる。
令和6年4月に、開設の岡潔数学体験館で観られるといいのだが~
投稿: 虚明自照(ブッダの公式) | 2024/01/31 15:55
*
> と予想される・・・
予 という意味 想するところに於いての
“相・二つ” を 眺めている 一つだけしかない 自・自我
( ながめているのは成就者 ではないけれ ど 絶対者 )
絶対に ソウ(“相・二つ”)ではない とする 絶対者
> これは、[偶素数2]の黄泉帰りと観えるのだが・・・
黄泉 という 字 を よみきれない
( 予見 ) を 持つ と 「 緑 ・ みとり 」 に 囚われる
黄泉 とは 夜見 であり、 見通せないこと !
( 冥 であり 瞑 に起きる 想 ではない )
よみまちがえて つかいまちがえる
その “テイド” の 数式
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/01/31 10:46
*
> 順序がつく、ということは、私は時を語っているのです。だから、この語りでよいのです。
ブッダ は 時を語る ト キ でも
止まる キ( 起・記・“気持ち” ) を 用いない
登る(ト) 気ウン を アウン の ナ カ に 語る
( 名を 借りて 、 仮 を カ タル )
(順序) づける ということ と
(カタリで) 良い ということ
( 良い ~ 悪い と 順序つける )
記 するとき には 記する対象 は
止めて “見”られる 「 世間 」 の 目
止めずに 留(トト)める 「 止観 」 の 観察
あなたは “ 時に ” ・ ときおり
「 止観 」 の 芽 を そだてて いる
> 無我にならないと、自分の中で、こんな風には思わないからです。
自分を捨てて
> ブッダは、無我を得てから、
我を捨てることを得つつ
> 無我だと 語ったということを知る ことになります。
語る 過去 が 今・未来 を 越えて
“ 仮 去 ” に 起きる
> 知らないことを知らないと知っていることによって、ブッダは一切智をもっていた、と知るのです。
知らない という 対象 を 知っていて
知る・知らない を 知っている
玄奘 は 「 一切 」 を “ 使わなくてはいられない ”
( 「 一切 」 に 触れるとき “一切” は 逃げていく
触れた対象 は 手の内に 止まる )
玄奘 は ナーランダ で “ 知る ” ということを
気築 挙げてしまった
( “自ら” の 瞑想 を 記そうと “ 努力する ” )
「 瞑想 」 派 記するモノではなく するもの
している者 だけ が “気” ということを “ 知って行う ”
行っている こと を 知る に 止める
( 止めて 「 観 」 することを ) 見て 知るに 囲う
> そのことすら知らないことに、
ブッダのことばを聞いて、気づくのです。
気付いている( 気付き 続ける 過去完了 ) 者 が
気づいた者 へ 導きの道標 を 置く
気付いている( 気付き 続ける 過去完了 ) 者 が
気づいた者 へ 導きの道標 を 置く
置かれている 「道標」 は
置く道 の すべて を 指している
( 置いて 留まり 「 止観 」 の “眼” で 指さす )
・
投稿: 春間 則廣 | 2024/01/31 08:31
> [ある既素数]+[ある既素数] -1 =[進み行く素数]
> と予想される・・・
> これは、[偶素数2]の黄泉帰りと観えるのだが・・・
[偶素数2]の黄泉帰り。。なるほど。。
数の不思議。
「予想される」ところにわれらの煩悩がある。これは、予想されない。。
投稿: 管理人エム | 2024/01/31 04:24
≪…縁起をまず説いたブッダは「時を語る」者でありました。
それから空を説いたブッダは「空間を語る」者ともなりました。…≫を、[円環の△□]と[『自然比矩形』]に想う・・・
前者は、[π][1]と回転(時)で、後者は、[i][e][1]とピストン運動(空間)で、あたかも静止させるようにして[数の言葉ヒフミヨ]の世界が、眺望良好となる。
[数の言葉ヒフミヨ]の世界は、止まらない世界を描く、
数学屋の7以上の素数は、奇数の
[ある既素数]+[ある既素数] -1 =[進み行く素数]
と予想される・・・
これは、[偶素数2]の黄泉帰りと観えるのだが・・・
≪…一切を知っていた…≫を、茶道の[稽古とは一より習い十を知り、十よりもどるその一]のように、十の五色の[五蘊物指]に[ヒフミヨ道]を・・・
投稿: 『でんぐり返り素数』 | 2024/01/24 14:55