「完全」について考察したので、次は「一切」について考察しよう。
「一切」を考えはじめると、普通の人は身がもたない。
そこで「一切」を限定する。この身の一切とか、我が家の一切とか。
それでも、けっこうたいへんなのです。
ブッダは、いつでも「一切」を想定している。
実際は「一切」とは考えてないかもしれないけど、実質的に「一切」に行き渡るので、「一切」を考えている、と言ってよいのです。
わたしがよく「ブッダは形而上学に行かない」というけど、これは「一切」を忘れないためなのだ。
だから、まず、自分はどうか、と考える。
自分の「一切」を考えるため、「身体」と「心」に分ける。
分かるのは身体と心のことだけ、と「一切」を規定する。
「分かること」と「分からないこと」に分ける。
分かることを考察する、
分からないことも考察する。。え?どうやって?
分からないことは、分からないままにするため、禅定・瞑想する。。ヨーガだね。
分からないことと分かることが体験される。。分かったことにする。。いや、分かったのだわ。
自分の「一切」を考えたけど、「自分の」っていうのは、「いらないや」と思う。
だって、分かることと分からないことを’考えた’んですもん。
いや、まだ、足りないよ。
’考えた’ことと考えないことを考えなくちゃ、一切じゃないでしょ。
考えたことを考え、考えないこともあれこれ分類して考えると、想非想処定という瞑想になる。
考えないことと考えないではないことも考えておくことにしよう。。非想非非想処定。。なにこれ?
こんがらがった?
いいのよ、気にしないで。
こんなことあんなこと、もういらない。。ぽいっと捨てるんだから。
全部捨てたら、「一切合切」がきれいさっぱりするね。
で、「一切」の考察を終わります。。おわったの?
おわったよ。。すっきりしたでしょ、涅槃だよ。
すっきり ちゃすっきりだけど、涅槃にいる感じしないんですけど。
すっきりしないときは、まだ涅槃じゃないのさ。
なんか、この世に未練が残ってるんだよ。。「自分」がさ、なんか残ってるんだね。
まあ、いいよ、お釈迦さんはこうやってすっきりした、って分かれば、ね。
分かることがあるうちは、涅槃じゃないんだ。
分かることがなくなったら、涅槃だということかな。。
じゃ、またね、今日は、よく考えたよ、考えないことまで考えたんだから。。
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