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2021/08/21

8/21 法を聞くことについて考えてみるよ

ひまわりは今日も咲いている。朝の六時前。

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グラジオラスも咲いた。

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うっそうとした荒れ地の庭(?)の中で

咲いてる花だけアップにするので、

荒れ地度がわからないかもしれないが、相当ひどい!

まあ、いいか。。自然がいっぱい、って言っておこう。

 

      ◆◇◆

 

パーリ語の原始仏典の中に、日本の大乗の仏教と同じ感覚を見つけることが、

最近多い。

 

自分で書いたんだけど、「道場」に

こんな文を載せていた。

 

[No.22207] Re: 仏教徒と非仏教徒

>わたしがすごいなと思うのは、浄土真宗など、浄土系の信者さんです。

>何も言わずにただ聞いてくれるのですが、それが、けっこう恐ろしい(?)です。

>見通されている感じがあります。信者さんが、説法者を育てている、という感じがしますね。

 

ここ読んでて、どこかでこれと同じ感覚、感じたなあと思ったら、

「沙門果経」だった。『長部』第2経にある沙門の成果について、

アジャータサットゥ王が、沙門たちに尋ねてまわる経典だ。

 

アジャータサットゥ王は、六師外道と後に呼ばれる大沙門たちのところに行って、

こんなことを言う。

 

この世の中には、いろんな技能を持つ職業があって、

その技能を使ってみな生活し、家族を養い、多くの人のためになっている。

また、沙門・バラモンたちにもお布施をしている。

この世において、目に見える形で成果を得ているけれど、

沙門のみなさんは、目に見える「修行の成果」を示すことができますか?

 

いろいろ大沙門たちは、自分の説を話したけれど、

沙門たちは、誰も、アジャータサットゥ王の質問に

求める答を示すことはできなかった。

 

その時、アジャータサットゥ王は、修行の成果を尋ねたのに、

それを示してくれないので

「マンゴーについて聞かれたのにラブジャについて語り、

ラブジャについて聞かれたのにマンゴーについて語るようなものだ」

と思って、内心不満なのだけれど、そこは謙虚にこう思うのです。

 

「どうしてわたしごときが、沙門やバラモンを非難しようと考えてよいだろうか」

 

それで、賞賛もせず非難もせず、黙って席を立つのです。

 

これですね。

 

浄土宗の系統の聴聞する人たちは、何かためになるよい話しを聞こうと思っているのですが、

黙って聞いていて、得られなくても、「賞賛せず非難せず黙って席を立つ」のです。

 

      ◆◇◆

 

外道の沙門は、要望に答えられなかったのだけれど、

ブッダは、自分で考えかれらに合わせて、

それでも成果と言えるだろう、というものを、

かれらに合わせて話したのです。

 

もし、自分が奴隷だったとして、出家して修行したら、どうだろうか。

王は「連れ戻せ」というだろうか、それとも、尊敬の意を表してお布施するだろうか。

アジャータサットゥ王はどうですか?

王は、「尊敬の意を表してお布施をして、その沙門を守ります」と答えます。

そうなら、やはり、沙門の修行の成果は、目に見える形であるのではありませんか?

王は、頷きます。

 

こうして、教えをどんどん説いて、成果を確かめていき、

ブッダは四聖諦を説きます。

説明したあと、この修行をして阿羅漢となれば

「もはやこの(輪廻の)状態に戻ることはない」と知ります。

これは眼に見える修行の成果ではありませんか、って、ダメ押しするのです。

 

一つ修行をするごとに苦しみが減っていくさまを確かめて、

人々は、満足するのです。

アジャータサットゥ王も、すっかり満足し、最後に自分の罪も認めます。

 

       ◆◇◆

 

で、この「賞賛も非難もしないで黙って席を立つ」ところ、

仏教の教えに預かる人は、意識せず、ずっと守っている。

えらい先生や有名な指導者が話しをすると、

それを傾聴するのだけれど、不満があっても黙っている。

黙って聞いて賞賛も非難もしない、というところ、

ものすごく「仏教っぽい」なあ、って思う。

 

つまり、

不満があっても言わないので、語る方は一方的に話すだけだと

気づかないことが多いのです。

うーん、聞法者は鍛えられるけど、説法者は気をつけなければならないね。

 

「聞法」と言って、「法を聞く」ことを大事にするのが仏教だ。

「説法」と言って、「法を説く」ことを大事にするのが仏教だ。

「法施」と言って、「法を施す」ことを大事にするのが仏教だ。

「方便」と言って、「方向づける」ことを大事にするのは智慧なのです。

 

聞法・説法、どの宗教でもあることかもしれないけど、

どうやってそれをするか、というところに、仏教があるのだ、と思う。

 

おもしろいことだなあ。

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ミックスグリーンという種から育った菜っ葉。

ほったらかしのすえ、こんなにおがってしまった。

これも、成果? それとも、成れの果て?

巨大だけど、食べれるの?

 

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コメント

心なしか

グラジオラス の 花の色が 淡く 

ほんのりと 心に もたれかかってくる


イメージの 中では
  濃い 黄 や 赤みがかったオレンジ の 花が咲いている

   “ おがる ” とは、 わたしの地方では使わない言葉

調べると、 津軽 でも おがる が 使われている 


     草も花も 棄嫌 に おがっていく

投稿:  春間 則廣  | 2021/08/22 05:46

> 最後に 自分の 罪を認めて 
>        自分に 満足する アジャータサットゥ王

ここは端折ったので、誤解されるところかもしれません。

自分の父王を殺して位についたアジャータサットゥ王は、ブッダに自分の罪を罪として受け容れてくれ、と頼みます。

未来の自分を護るためだとしています。
輪廻の仕組みには例外がない、ということだな、と思っています。

投稿: 管理人エム | 2021/08/21 09:47

>  アジャータサットゥ王も、すっかり満足し、最後に自分の罪も認めます。

最後に 自分の 罪を認めて 
       自分に 満足する アジャータサットゥ王

そこに    「 果 」 は  アルン果 ? 

                慢業 果 ?


   愛惜があって、 言葉の裏に   五蓋 は隠れる


投稿:  春間 則廣  | 2021/08/21 08:43

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