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2021/05/12

5.12の日記 今日はまだ始まってない?

朝は、4時にコーヒーを飲んでパンを食べた。

日記も書こう。

1日終わってから、日記を書くべきかもしれないけど、

そうすると永久に日記が書けない。

思いついた時が、書くとき!

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ハスカップの花が咲いた。実がなるのかな?

うちの庭には、白い花がまず咲くことになっているらしく、

白い花ばかり目立ちます。

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なでしこの系統かな?      

ユキヤナギも同じく白い。

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水仙も。            

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チューリップも白。

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          ◇◇◇

 

思いついた、今日の考察。

いつも思うことではあるけれど、書いてみよう。

 

思想と瞑想は、別のものだと思っている人がいるけれど、
インドにおいては、それはあたっていない。

ヨーガ(瞑想)のない理論はなく、理論のないヨーガ(瞑想)はない。

現代人には異質かもしれないが、伝統的にインドではそうなっている。

なぜかといえば、

思想と瞑想は、行いとして一つにまとめられるからだろう。

だから、「知ることは、そうなることだ」というのだろう。

 

理論は、瞑想がただことばになっただけである。

たとえば、
瞑想の境地を「不立文字(文字では立てられない)」というのも、

ことばで表したものとも言えるからだ。

 

ことばと瞑想が一つになると、

それは、その語る人の生き方にもなる。

 

だから、インドの思想を知ると

「今」を実感するのだと思う。

思想が流れ込んで、そこに浸るのは瞑想であり、

人生だからである。

 

だから、わたしたちは、ウパニシャッドがわかり、

ブッダの教えが分かり、インドの哲学が分かるのである。

 

こういう状態になることを、

「現前する」というのだろうね。

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ひなぎく(?)は、うすむらさき。

どんなところにも例外はある。

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コメント

>『 C(半周・【π】)と【₁】
    おなじとちがう おともだち』

おなじとおもえば、おなじよう
ちがうと思えば、ちがうよう

周りと半分ずつ分けるπ
チョコπ、バニラ、クリームπ。

πを分けると おともだち

円満具足は、ブッダのパイ

投稿: 管理人エム | 2021/05/22 10:34

≪…ヨーガ(瞑想)のない理論はなく、
理論のないヨーガ(瞑想)はない。≫で、
 数の言葉(自然数)の創生を、
 『 C(半周・【π】)と【₁】
    おなじとちがう おともだち』

  射水市大島絵本館
   2021.5.22~6.6 

   モノを観なくても、
   《瞑想》でコトたりよう~

投稿: 六波羅蜜 | 2021/05/20 11:53

> 当時の人たち(瞑想修行している人たち)が、たちどころにブッダが正等覚者だと分かった、というのもすごく納得しますね

今の人 に 伝えてほしい

今  正等覚者  は  いますか ?

( いると分かる人 は 除いてください )

投稿:  春間 則廣  | 2021/05/15 06:21

えび天サンバさま おはようございます。

ブッダのおかげで、当時の思想や瞑想の状況がすごく良くわかるように思います。

ウパニシャッドなんて、書いてることが、どれだけ深いか想像がつかないようですが、その深さまでも知ることができますね。

ウパニシャッドの表現やことばの使い方は、そのまま後代にまで伝わっていて、使い方も変わらないのは、瞑想の伝統が生きているからだと思ってます。

だから、当時の人たち(瞑想修行している人たち)が、たちどころにブッダが正等覚者だと分かった、というのもすごく納得しますね。

『スッタニパータ』の「彼岸道品」は、当時のレベルがいかに高かったかを示していると思います。

本当に起こったことが書いてあると思います。

投稿: 管理人エム | 2021/05/15 05:42

> ヨーガ(瞑想)のない理論はなく、 
> 理論のないヨーガ(瞑想)はない。

行いを語るが
行いが、 全うされてはいない

ヨーガ( 瑜伽 ) を語るが、 その拠り所 に ヨーガ はない
    「 瑜伽 」  は     「 名称 」 に 過ぎない
    「 瞑想 」  は     「 名称 」 に 過ぎない

全う ( 成就 )    するところ・されているところ  に
   「 瞑想 」 が   ある けれど
成就 している者 は   ブッダ である

おこない を 全うすると、 成就が起きている
      ( 全うしない    成就  も あり
        成就しないという 成就  も ある )

上手に考えを運ばないと、 “ 乗り物 ” から、 成就がこぼれ落ちる

こぼれてしまう 乗り物  は  小さい  からである
     自分が ヒーナ から  出発すれば、
           ヒーナ の  道を歩むことになる
     ( 一人の成就  でさえ、 落ちこぼれてしまう )
     ( 落ちこぼれなない乗り物  を マハー と呼ぶ )


> ことばと瞑想が一つになると、
> それは、その語る人の生き方にもなる。

一つ  ということ  が   ヴィジュニャー  出来る( に起きる )
     分ける時   に、  嵩   が 起き、
     多い少ないという  多寡  が 起きる
   ( 寡  という  “一つ” を    言うのではなく、
             「  多 」 という  他 を言う )
    「 自他 」 とは、 不一不二・不一不異  である


> インドの思想を知ると
    インドに いなくとも 今にいる
>  「今」を実感する のだと思う。
   「今」を実感   しなくとも    今にいる
     思う      思わず
         と    雖も      今にある

今にある  から  今あることが分かる
分かり方  には  “ 方法 ” が ある
   ( 色々 な 「 色 」  が
     一つ の  「 識 」  に 起きて ある )

誰でも、 考えているときには

      “ 実感 ” に  ある 


投稿:  春間 則廣  | 2021/05/15 05:18

>思想と瞑想は、別のものだと思っている人がいるけれど、インドにおいては、それはあたっていない。

なるほどー。ブッダに教えた仙人と呼ばれる人々は思想を語らず、ブッダの八正道や六波羅蜜は瞑想と関係がない、ということにはならない、ということですね!ありがたい法話をいつも、ありがとうございます。

投稿: えび天サンバ | 2021/05/14 04:43

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