« 4月は去る(4/30) | トップページ | 5.12の日記 今日はまだ始まってない? »

2021/05/03

21.05.03 の日記 時をめぐり時を超える

朝出かけてみたら、桜が満開だった。

Dsc02859

Dsc02849

葉桜になって、ほとんど散ってるのもある。

Dsc02853

雨の桜、どうも晴れませんね。

コロナ感染は、とうとう日本全国で60万人を超えた。

常時、ふつうに気をつけて暮らさなくてはならない。

常時、ディヤーナ(禅定)にあるようなものだ。 

 

      ◇◇◇

 

昨日、『龍樹菩薩伝』をしみじみ眺めていた。

読むというより、眺めて、浸る、という感じ。

『中論頌』にも、浸ってた。

 

大乗の世界は、ブッダの悟りとともに開示された。

後にサンガに入る比丘たちや、孤高の比丘や、群れる沙門たちが、

競ってやって来て、ブッダの教えを受けたのだろう。

 

「八偈品」のブッダ、

「彼岸道品」のブッダ、

「蛇品」のブッダ

 

『スッタニパータ』に残された記録は、

そのまま歴史的な記録であり、

時を超えた記憶であり、

普遍の真理である。

 

「不審」からブッダの法に入る人もいれば

「信」からブッダの法に入る人もいる。

 

ブッダの法に深く入っていったものは、

思いがけなく大海の中に宮殿を見いだし、

その七宝の蔵で、さまざまな大乗の経典に出逢う。

わたしたちが「大正新脩大蔵経」を持っているようなものだ。

 

その中に浸って貪り読んだのが、蛇一匹、龍樹一匹。

 

『龍樹菩薩伝』は、

龍樹が単独でブッダの真理に気づいたことを示していると思う。

だから、大龍菩薩が憐れんで、大海の宮殿につれて行ったのだ。

 

ということは、

 

それまでは、単独では誰もブッダの法にたどりつけなかったのだ、

 

ということを示していることにならない?

どう思う? そう思うよね。

 

ここから得られる結論!

飛んでます! 飛んで飛んで、まわってまわって、わかること。

 

龍樹は、『スッタニパータ』から、

ブッダの法の「一切智」を得ているということだ。

 

なぜなら、わたしも、その道をどうやら行ってるようだから。

 

       ◇◇◇

 

そういう意味では、龍樹ってのは、ものすごく興味深い。。

もしかすると、仏法を壊すこともできたかもしれない。

もしかすると、デーヴァダッタも真っ青のすごいワルになっていたかもしれない。

望むと望まぬとにかかわらず。

 

龍樹本人は、ゴータマの法に帰依して、実践しただけなのだけど。

しかし

完璧にやり過ぎて、ゴータマの法を、乗り越える寸前まで行った、

ということだろうか。

 

それでも、龍樹は、大龍菩薩のおかげで、

ブッダの法の中になんとかおさまった。

 

ブッダの法におさまらないものは、どこにもない。

どんなものも、ブッダの法の中。

たとえ、龍樹のような、トンデモ龍であっても。

 

本人も『大智度論』に書いている。。わかったよ、書くなよ。。イヤ、書いてよ。。

 

ああ、どっちがよかったのか分からない。

こんなことを書いているから引用してみよう。

 

=================

どのようなものを第一義悉檀(最高の定説)と名づけるのか。

一切の法というもの、一切の論議や言論、さらに一切の正しい法や誤った法は、

それぞれに分析するとちりぢりに破壊されてしまうだろう。

諸仏や辟支仏や阿羅漢の行ずる真実の法は、破壊されることなくちりぢりになってしまうこともない。

上の三つの悉檀の中で解釈されないものは、みなこの中で理解される。(『大智度論』『大正蔵』25,60c-61a)

====================

 

ブッダの最高の語り「第一義悉檀」

この中に、あらゆる法がすっぽりと収まることを、

龍樹は自ら見つけて、自分もそこに入るのです。

 

一切智者として。。

 

何を言いたいか分からん、って。

わたしもだ。そのうちまとまるだろう。

従来とは全然違う龍樹が出現しそうな気配になってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

|

« 4月は去る(4/30) | トップページ | 5.12の日記 今日はまだ始まってない? »

コメント

そもそも  ( 狭義 ) ヨーガ( 古代・中世・近代 ) は
       「 仏教 」 によって、 補強されています

一般に、 ヨーガ は 「 ヨーガスートラ 」 に於いて、 体系づけられています

それは、 “ ウパニシャッド の 構造を明かす ”  という  テーマに沿っています

      ( ヴェーダ に対する パーニニ の 『アシュターディヤーイー』 に 沿います )
           https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%8B

しかも、 それらは 「 サーンキャ 」 にも、基づく

エリアーデ は
 「 インドの伝統はサーンキャを最古のダルシャナとみなす 」  と 言います
     ( エリアーデ著作集 9  立川武蔵 訳 ) 


    ******

人は 呼吸する( 息する )
地球に於いて、  生きる
宇宙に於いて、  生きる
宇宙は、 ひとの 「 止息 」 ・ 「 保息 」 ( 細く長く 保息する )
  に於いても  弛まず・絶えることなく
           呼吸( 鳴動 )  している

          その 「 鳴動 」 を “ 聞く ”  のが  ヨーガ  です

                      2021/05/05(Wed) 09:33 No.480

投稿:  春間 則廣  | 2021/05/06 04:34

>張りつめ思  思いから  解き放たれる

>取・捨  選択 ( 種々選択 )
>     集(取) ・ 拾  は 「 我 」 に あり


「解き放たれる」 のは 「我」。。これが捨てられる

集(取)・拾は「我」にあり。。真理だなあ

ところで、ヨーガではクンバクを「保息」と訳している。ムム、と思ってます。

投稿: 管理人エム | 2021/05/05 07:35

保身  と 捨身  とは 少し違う
    (  掲示板にも  貼っておく  ・ 重ねおく  )


捨身  と  惜 身
        借「 信 」  では、 得られない

身 は 五蘊であり
「 信 」 は  身 を 捨てる   にあり


   ( 理解 されにくいよう   に  もう少し付加する )

   「 五蘊 」   を     シャリ する  ところ
             リスル   こと   あり
           (  利得  とは  何か ? )
  捨てシャリ 「 捨離 」
            に    捨 「 理 」   ありて 
   此岸 に    捨利 し    悲願・彼岸  に 至る

   射するところ  が  捨 するところ

   シャシュ 選択  ・  シュシャ 選択

    重ねて 学ぶ

捨 は 射 に 通じ 、   謝 を 感ずる

張りつめ思  思いから  解き放たれる

取・捨  選択 ( 種々選択 )
     集(取) ・ 拾  は 「 我 」 に あり

投稿:  春間 則廣  | 2021/05/05 06:51

> "武の神様はケチでしみったれなんだ あれもこれもどれも全て差し出すものにしか本物はくれねぇよ 

このせりふ、ほんとにあたってると思います。

大乗のジャータカには、捨身飼虎のように、身を差し出す行為をする菩薩たちがたくさんでてきます。

昔、スマ長老は、そういう行為を愚かだと述べていましたが、きっとそうしなきゃ得られないのだろうと、わたしは思いました。

保身にいったら、絶対得られない

ここに無我の極致があるんですね。

投稿: 管理人エム | 2021/05/05 05:54

エム先生

ぬぅーーー、なるほどーーー…!

> なぜなら、わたしも、その道をどうやら行ってるようだから。

先生、長生きして、仏法の真実義を解き明かしてくださいませ。としか、なんか、言いようがない笑


> もしかすると、仏法を壊すこともできたかもしれない。

ああ、たしかに!仏法を会得するとは、そういうことも含まれていそうですね、直感的には。縁起の仕組みがわかるんですものね。

仏法(ブッダと龍樹)ということを考えると、語られなかったこともたくさんあるっていう感じも、なんとなくありますね。


なので、仏法や経典の集まりを「蔵」というのは、うまい喩えだなって思います。あけないと出てこないっていう意味で。

そういえば、ある格闘マンガに登場する空手家のセリフで、

"武の神様はケチでしみったれなんだ あれもこれもどれも全て差し出すものにしか本物はくれねぇよ 武に全てを捧げるのではなく、武が己に全てを捧げたとカン違いしているおまえさんにゃとうていできねぇ芸当だ"

というのがあるんですけど、先生の龍樹伝を聞いていると、仏法も同じようなもんだなーっと思います。

投稿: PL | 2021/05/04 00:03

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 4月は去る(4/30) | トップページ | 5.12の日記 今日はまだ始まってない? »