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2021年5月

2021/05/31

5/31 牡丹のいのちは

牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置の確かさ

という短歌を読んだことがある。

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牡丹花は咲き定まらず、風におおゆれ。

雨をたっぷり吸い込んで花が重たいので、

枝が広がってさがってきた。

折れるかと心配。

牡丹は低木に整えるわけがわかったわ。

花びらが色あせて、かつ、茶色に変色してきた。

 

     ◇◇◇

 

花の命は短くて… とはよく言ったもの。

人の命も短くて… 苦しいことばかりかな?

だが、芽は出てくる。

生じたものは滅するきまり。

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澱みに浮かぶうたかたは、かつきえかつむすびて

とどまりたるためしなし。。か。

 

昔の人は、えらかった。

うたかたを語る時、輪廻と解脱の両方を

見据えているかのよう。

 

今日も、大地は輪廻している

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2021/05/27

5/27 日記だけは順調に時を刻む

ボタンがまっさかり。

数日の命だな。28個の花が咲いた。

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どんどん伸びるので、上を伐採したら、

下から生えてきて花が咲きました。

ボタンは丈を低めにするみたいです。

よそのおうちの庭を見ながら、研究してます。

 

      ◇◇◇

 

公開講座の題材を練っています。

コロナがおさまってることを願いつつ、

考えてみよう。

今年は、昨年のような「オンライン一筋」観がない。

そのせいなのか、

コロナ蔓延はおさまらず、危機感は増して、やりにくい。

 

ブッダの覚りに集中してみようかな、って、思ってる。

覚りが生じた時、

大地はどうなっていたのだろう。

ボタンは咲いて、スズランも咲いて、雑草が風に揺れていたのかな。。

ムチャリンダ竜王は、ブッダの禅定を雨から守るべく

頭上をみずからの鎌首で覆っていた。

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wikから拝借しました。

 

雨や風にさらされないように、守るムチャリンダ竜王。

ブッダのこの上ない悟り。

それを表す仏像。

 

ブッダの頃から雨風は吹いていて、

大地は豊かだったことが分かる。

ブッダの覚りが無上で正しい覚りであることが分かる。

2600年経っていても、ブッダを頼りにする

わたしたちがいる。それもわかる。

 

大地は輪廻している。。

 

 

 

 

 

 

 

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2021/05/24

5/24 スズランとボタンが咲いた

今日は、コーヒーとパン。

「そうだと思った」、って。

毎日、書いてると、バレますね。

 

庭にキツネの足跡がある。

キツネの通り道になっている。

ボタンがキレイだ。

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一瞬のことだけど、咲くときは咲くね。

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スズランが次第に、オオイヌフグリに圧倒されている。

(オオイヌフグリじゃなくて、わすれな草だった。

家のまわりに雑草化しつつ咲いているので、そのままにしている。)

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雑草だけどキレイだから野放しにしている。

スズランは、花が小さくなって衰退気味です。

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芝桜も白が咲いた。

自然界も栄枯盛衰がはげしい世の中だ。

 

      ◇◇◇

 

最近、日記が書けているのはうれしい。

世間から見捨てられてきているからかもしれない。。

いいのか悪いのか?

コロナウィルスが主役になってきているせいかな。

人の世はままならないね。

 

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2021/05/23

5/23は、くすぶる日曜日。

朝起きたら、パンがあった。でも、

コーヒーを入れて、昨日の残りのホットケーキを食べた。

雨模様の日曜日。

雨にぬれつつ、ボタンは咲いた!

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このためだけに、日記を書こう。

 

     ◇◇◇

 

北海道は緊急事態宣言が出て、街中は

人通りが少なくなったとニュースにあった。

イスラエルとパレスチナは停戦した、とニュースにあった。

疫病と戦争。

人々を苦しめるものは、変わらない。

 

いなくなったと思われていた

アミメニシキヘビが屋根裏で見つかったとニュースにあった。

生き物と命。

人々とホッとさせるものは、安全・安心である。

 

善いことも悪いことも、

こうして見ると

人間が作っている。

      ***

この世において、実に、恨みによって、

諸々の恨みが止むことはない。

どんなときにも、恨みのないことによって止むのである。

これは、永遠の真理(ダンマ)である。

『ダンマパダ』第1章第5偈

      ***

 

生きていることを望むなら、

知恵によってかしこくなるべしね。

 

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2021/05/22

5.22は土曜日。

朝起きると、パンがなかった。

コーヒーを入れて、ホットケーキを作ったら、5枚焼けた。

小麦粉と米は、生きる糧。

命がつながれば、よしとしよう、という生活になってきた。

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サクラソウが咲いた。

 

     ◇◇◇

オダマキは、白の中に一つだけ紫がある。

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ボタンが咲きそうだ。

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草木は活動的で、わたしの思いとはうらはらに

どこにでも生活の場を広げていく。

人間が、何でもできると思うのは、本当に間違っている。

何もできないと思うのも、それも違うけど。

 

     ◇◇◇

 

できるのでもなく、できないのでもない、ということ見つめてみると

ブッダの生き方が見えてくる。

いつでも中道をよく知って、それに合わせて生きると、

生きやすい。

 

今も昔も、なんも変わらんね。

世界は、ブッダの教えの通りにあるのじゃない?

 

こうして生きるから、過去世があり、どこにでもウィルスがいて、

疫病があって、人々が難儀をしながら生き抜いてきたんだね。

 

思ったことを、思いつくまま、思った通りの順序で書いてみたら、

こんなになりました。

いいのか悪いのか分かりません。

 

これでも日記なのか?

 

 

 

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2021/05/12

5.12の日記 今日はまだ始まってない?

朝は、4時にコーヒーを飲んでパンを食べた。

日記も書こう。

1日終わってから、日記を書くべきかもしれないけど、

そうすると永久に日記が書けない。

思いついた時が、書くとき!

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ハスカップの花が咲いた。実がなるのかな?

うちの庭には、白い花がまず咲くことになっているらしく、

白い花ばかり目立ちます。

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なでしこの系統かな?      

ユキヤナギも同じく白い。

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水仙も。            

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チューリップも白。

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          ◇◇◇

 

思いついた、今日の考察。

いつも思うことではあるけれど、書いてみよう。

 

思想と瞑想は、別のものだと思っている人がいるけれど、
インドにおいては、それはあたっていない。

ヨーガ(瞑想)のない理論はなく、理論のないヨーガ(瞑想)はない。

現代人には異質かもしれないが、伝統的にインドではそうなっている。

なぜかといえば、

思想と瞑想は、行いとして一つにまとめられるからだろう。

だから、「知ることは、そうなることだ」というのだろう。

 

理論は、瞑想がただことばになっただけである。

たとえば、
瞑想の境地を「不立文字(文字では立てられない)」というのも、

ことばで表したものとも言えるからだ。

 

ことばと瞑想が一つになると、

それは、その語る人の生き方にもなる。

 

だから、インドの思想を知ると

「今」を実感するのだと思う。

思想が流れ込んで、そこに浸るのは瞑想であり、

人生だからである。

 

だから、わたしたちは、ウパニシャッドがわかり、

ブッダの教えが分かり、インドの哲学が分かるのである。

 

こういう状態になることを、

「現前する」というのだろうね。

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ひなぎく(?)は、うすむらさき。

どんなところにも例外はある。

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2021/05/03

21.05.03 の日記 時をめぐり時を超える

朝出かけてみたら、桜が満開だった。

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葉桜になって、ほとんど散ってるのもある。

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雨の桜、どうも晴れませんね。

コロナ感染は、とうとう日本全国で60万人を超えた。

常時、ふつうに気をつけて暮らさなくてはならない。

常時、ディヤーナ(禅定)にあるようなものだ。 

 

      ◇◇◇

 

昨日、『龍樹菩薩伝』をしみじみ眺めていた。

読むというより、眺めて、浸る、という感じ。

『中論頌』にも、浸ってた。

 

大乗の世界は、ブッダの悟りとともに開示された。

後にサンガに入る比丘たちや、孤高の比丘や、群れる沙門たちが、

競ってやって来て、ブッダの教えを受けたのだろう。

 

「八偈品」のブッダ、

「彼岸道品」のブッダ、

「蛇品」のブッダ

 

『スッタニパータ』に残された記録は、

そのまま歴史的な記録であり、

時を超えた記憶であり、

普遍の真理である。

 

「不審」からブッダの法に入る人もいれば

「信」からブッダの法に入る人もいる。

 

ブッダの法に深く入っていったものは、

思いがけなく大海の中に宮殿を見いだし、

その七宝の蔵で、さまざまな大乗の経典に出逢う。

わたしたちが「大正新脩大蔵経」を持っているようなものだ。

 

その中に浸って貪り読んだのが、蛇一匹、龍樹一匹。

 

『龍樹菩薩伝』は、

龍樹が単独でブッダの真理に気づいたことを示していると思う。

だから、大龍菩薩が憐れんで、大海の宮殿につれて行ったのだ。

 

ということは、

 

それまでは、単独では誰もブッダの法にたどりつけなかったのだ、

 

ということを示していることにならない?

どう思う? そう思うよね。

 

ここから得られる結論!

飛んでます! 飛んで飛んで、まわってまわって、わかること。

 

龍樹は、『スッタニパータ』から、

ブッダの法の「一切智」を得ているということだ。

 

なぜなら、わたしも、その道をどうやら行ってるようだから。

 

       ◇◇◇

 

そういう意味では、龍樹ってのは、ものすごく興味深い。。

もしかすると、仏法を壊すこともできたかもしれない。

もしかすると、デーヴァダッタも真っ青のすごいワルになっていたかもしれない。

望むと望まぬとにかかわらず。

 

龍樹本人は、ゴータマの法に帰依して、実践しただけなのだけど。

しかし

完璧にやり過ぎて、ゴータマの法を、乗り越える寸前まで行った、

ということだろうか。

 

それでも、龍樹は、大龍菩薩のおかげで、

ブッダの法の中になんとかおさまった。

 

ブッダの法におさまらないものは、どこにもない。

どんなものも、ブッダの法の中。

たとえ、龍樹のような、トンデモ龍であっても。

 

本人も『大智度論』に書いている。。わかったよ、書くなよ。。イヤ、書いてよ。。

 

ああ、どっちがよかったのか分からない。

こんなことを書いているから引用してみよう。

 

=================

どのようなものを第一義悉檀(最高の定説)と名づけるのか。

一切の法というもの、一切の論議や言論、さらに一切の正しい法や誤った法は、

それぞれに分析するとちりぢりに破壊されてしまうだろう。

諸仏や辟支仏や阿羅漢の行ずる真実の法は、破壊されることなくちりぢりになってしまうこともない。

上の三つの悉檀の中で解釈されないものは、みなこの中で理解される。(『大智度論』『大正蔵』25,60c-61a)

====================

 

ブッダの最高の語り「第一義悉檀」

この中に、あらゆる法がすっぽりと収まることを、

龍樹は自ら見つけて、自分もそこに入るのです。

 

一切智者として。。

 

何を言いたいか分からん、って。

わたしもだ。そのうちまとまるだろう。

従来とは全然違う龍樹が出現しそうな気配になってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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