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2021年3月

2021/03/30

3月30日 の 日記

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雪がすっかり融けました。早い!

年々雪解けが早くなる。

昔、雪がすっかり融けるのは4月の終わりからか5月上旬だったけど、

今では、3月の終わりには雪が融けている。

寂しくもあり、うれしくもある。

 

   ◇◇◇

 

ところで、3月で、

わたしが講義をしていた朝日カルチャーセンターが

終わってしまいました。

コロナ禍の影響を、もろに受けたのだと思います。

最後4回ほどは、原始仏典の知識を元に、道元の「現成公案」を読みました。

「現成公案」は、自分では制覇したような気がします。

 

平成の三四郎といわれた柔道の古賀稔彦と

同じ年で亡くなった道元。53才だった。

あれ、書き方、逆かな、道元と同じ年でなくなったのが、古賀稔彦氏。

寂しくもあり、寂しくもある。

 

   ◇◇◇

 

古賀氏も道元も、弟子たちを育てましたね。

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こんな小さな芽がたちまち立派な草本に育っていくのね。

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クロッカスの芽も出てきて、やっぱり春だなあ。

 

     ◇◇◇

 

朝カルの教室に、どうして、みんな来てくれたのか分からない。

でも、ひとりの人が、

「何か、ホッとするんです、楽しみでした」とおっしゃっていた。

 

そうなのか。。わたしは、いつも、“失敗した”感が強くて

「ああ言えばよかったなあ、こう言えばよかったかも」

と、反省ばかりしていたのに、意外なこともあるものです。

世の中は、よく分からないものです。

 

よくわからないので、適当に、思うがままに生きています。

道元が述べているように、

 

「人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。

これにところあり、みち通達せるによりて、

しらるるきはのしるからざるは、このしることの、

仏法の究尽と同生し同参するゑにしかあるなり」(「現成公案」)

 

(人の、仏道を修め証する方法には、一法を得て一法に通ずることがあり、

一つの行に出逢って一つの行を修めることがある。

ここに生きるところがあり、道に通達してくると、

知られていく限界があまりはっきりしていないようであるが、

それは、このように知っていくことが

仏法のきわまりと同じく生じて同じく進んでいくから、

こうなっているのである。)

 

って、いうことが、そのまま自分にも顕れているのだと思います。

なんとなく、はっきりしないようだが、そう思って進むと、

それなりに自然と進む道ができてきて、そこを歩んでいる、って感じ。

 

    ◇◇◇

 

道元は、大好きですね。

日本人だし、それに、このように「全部分かる」とは言わないから。

今引用したところと、その次の一文が、一番好きだな。

 

「得処かならず自己の知見となりて、

慮知にしられんずるとならふことなかれ。

証究すみやかに現成すといへども、

密有かならずしも見成にあらず。見成これ何必(かひつ)なり。」(「現成公案」)

 

(得たところがかならず自分の知見となって、

考えれば分かってくるという風に習ってはいけない。

証明し究めることがすぐに現れるとしても、

密かな有りどころはかならずしも見てとれるというわけではない。

また、見てとることが必ずしも必要というわけではない。)

 

頭で分かる理論上のことは、はっきり現れるとしても、

どのように生きていくのかという「密有」に関わる部分は、

はっきり見てとれるわけではない。

どう生きるか?!

ブッダのように生きることもありうるし、凡夫のように生きることも起こりうる。

生きる道は、それぞれが選びとりまた選びとられていく「密かな生き方」なのだ、

というところに、

道元の、ブッダにも頼らない、大乗の精神が生きているように思うのです。

 

いいなあ、道元!

 

コロナ禍だろうと何だろうと、生きる道にみずから責任をもてよ、って言ってるな。

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みずからの責任で、おがってるフキノトウ。

春がいっぱい!

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2021/03/17

3月は去る

二月は逃げる、三月は去る、でしたっけね。

雪は融ける、春は来る、の図。

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定点観測ですね。

毎年、雪解けが早くなってる。

今年も、何か、終わったなあ、って感もしてきます。

2021年で東日本大震災からはや、10年。

嘘でしょ、っていうくらい早い。

おそらく、わたしたちは、辛抱する時代に入るんだと思ってます。

原発廃炉の問題を抱えて、人智が試されますね。

 

    ◇◇◇

 

仏法も試される時代になってきそう。

「人類は進歩発展する」という幻想のもとに、進んできたけど、

最近、その幻想が効かなくなってきました。

わたしの中では、まったく、そんな幻想は消えています。

学ばないと、どんどんアホになるぞ、って、心が言っています。

 

仏法も、どんどんわからなくなるぞ、って、心が警報を鳴らし始めました。

仏法アラートかな?

 

先日、「龍樹は言語を解体しましたよね」という意見を聞いて、

ハッとしました。

「いや、解体しただけじゃないんです」と言いたかったけれど、

話せば長くなると思って、黙ってしまいました。

 

実は、龍樹は、言語を構築もしているのです。

『中論頌』は第5章まできました。

ブッダが、言語を構築したように、龍樹も言語を構築しています。

むか~し、ナヴィヤ・ニヤーヤというインドの論理学派の研究をしていました。

 

それを、宮元先生と一緒に

『インド新論理学派の知識論 『マニカナ』の和訳と註解』(山喜房仏書林)

として出版したのです。

そこで、自分が解明したと思った言語論を解説したのだけれど、

なんと!なんと!

その解釈! 龍樹から来ている、ということに、

先日、気づきました。

 

それは、現代風に言えば、対象言語とメタ言語を用いて、語る言語の構造なのだけれど、

龍樹の『中論頌』を批判的に吸収したニヤーヤの学徒たちが、全部、

構築していたのだぁぁぁぁぁぁぁ、って気づいて、

腰が抜けそうでした。

 

いやはや、どおりで、ニヤーヤ学派も捨てがたいと思いましたよ。

イーシュヴァラ(主宰神)を信ずるニヤーヤ学派は、因果を支える神を唱えるのです。

その神というのは、決して、かれらは誰か言わないけど、

ブッダのことを指しているのじゃないか、って気がしてなりません。

 

すべての人々の苦しみを滅することを意図したブッダ。

ことばの行いについて苦しみをなくそうとした龍樹。

 

時代を超えて、必要とされる聖者たち。

ブッダの教えを受持した者たちは、人数は少ないかもしれないが、

現代においても有効に働いている、世界中の生き物のために。

 

『ジャータカ』というのは、ただの教訓説話ではなくて、

仏法の展開図なのだと思います。

 

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雪かき道具も、そろそろいらなくなるかな。

 

ブッダがいらなくなる日がくると。。いいのかな、わるいのかな。

煩悩があると、迷いますねえ。。 迷うなよぉぉ

 

 

 

 

 

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