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2021/01/28

一月二八日 の 日記(まんまだわ)

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何と、掛けたカレンダーも、このページが終わろうとしている。

はやいなあ。

コメントが、さっさと更新しろ、って言っている、トホホ

実は、管理人はショックなのです。

なぜかというと、仕事が今年もあるのだ。

 

別に仕事が嫌いなわけじゃないけど、

はやく龍樹をべんきょしたい。

なんとしても、はかばに行く前には決着つけたい。

はかばかしくないのが、ショックなのです。

 

下を向くな、上を向け、管理人。

そうだ、空でも見るか?!

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いつもとかわらん。

「そら」と読まずに、「くう」とみて

龍樹に思いを馳せよう。。何か詠嘆調です。

 

       ◇◇◇

 

龍樹については、ほんとにいろんなことが言われてる。

多くの学者や注釈家がさまざまに語っている。

 

龍樹は、部派などが陥った実在論を否定したのだ。

否定の論理を駆使して、仏教の中の反対派や非仏教徒たちと争ったのだ。

般若経典の入門書として『中論』は著されたのだ。

プラサンガといわれる破邪の論法で批判したのだ。

 

別に反対はしない。そういう側面も認められる。

だけど、わたしの意図ではない。

 

わたしが伝えたいこと、

それは、龍樹がブッダの唯一無二(言いすぎだけど)の理解者で

ブッダの註釈者だということです。

 

龍樹を読むと、そのまま、一切損なうことなく、

ブッダの教えにいける。

寸分違わぬ等身大の教えに到着できる、ということ。

 

つまりだ!

 

龍樹だけ勉強しても、ブッダを学んだことになる、ということ。

 

ここを、叫びたい!

空に向かって。

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ああ、ちょっとスッキリした!

 

大乗が、立派な仏教になるのは、龍樹を祖と仰いでいるからです。

大乗が生き残るためには、

ブッダの権化が龍樹であることを示さなくてはならない。

 

ことばをもって、

寂滅の道を説け!

寂滅の道を、

ことばによって示せ!

 

龍樹は、ブッダの法である。

ブッダの法は、龍樹になった。

 

だいぶスッキリ。

そういうことを示すべく、

今年も頑張ればよい、と分かって、

下でも見ますか。。あれ?

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こんなところに丸まってる。

クウ、クウ。。やすらぐ猫たち。

悩みなし!

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コメント

井筒氏は、遊んでるだけだ。
つまらない。

ディグナーガは、仏教論理学で少しやったけど、その時はよく分からなかった。

でも、ウッディヨータカラが躍起になっているのがよく分かる。
必要があって、ディグナーガは、ニヤーヤのためにも論を著したんだなと思います。

すべては『スッタニパータ』から始まっているのか。。。って、思ってます。

投稿: 管理人エム | 2021/02/03 07:37

>  日本の祖師達や、ディグナーガなどについても論じるという道

   “ このみちー はー ♪ いつかきたみーちー ♪ ”

  祖師 とは  論ぜられる者 に対する 「 名称 」  ではない

ディグナーガ について 論じるのは
井筒 について論じる のとは
難易度 が 随分と違う

井筒 は 消え去る 思想でしかない
( 千年後 に 残り得る 思索 だ  と思うのは
     日本国憲法によって  保証される “ 思想信条の自由 ” です )

ディグナーガ・陳那 は
「 因明正理門論 」     に  於いて、
「 現量 」 と 「 比量 」 との 分別 を説く

これを 学ばずには、
  「 唯識 」  は  “遠い” ところに離れてしまう
           ( 近くて遠い  のが  「 仏教 」 である )


空海 が 唐へ渡ってから 千二百年 の 時を経ている


わたしの横には
  ( 真言宗 豊山派 吉田敬学 によれば )
“ 鎌倉時代 の 作 ” の 釈迦三尊像 が  壇上にある
         ( 壇の下には 江戸時代の 隷書による細字肉筆 の
              大般若経 六百巻 が 据えてある )
 三尊像 は 
  ( 真言宗 豊山派  重鎮 の  吉田敬学 の見立て によれば ) 
鎌倉 からいえば、 おおよそ800年(くらい) の 時を経ている
  ( わたしは、 江戸中期 の 作だと 思っている )
             それだけの時を経ている 故に
   この先にも 、  500年・千年 の  時も 、  経ることが 適う

間違いなく言えることは、 
慶派 の伝統を正当に受け継ぐ 定朝様式 の 如来像であり、
脇侍 の 二菩薩 は ( 平安の )院派 の 様式に拠っている
 
国 の 重要文化財  に  匹敵する 像  である


翻って、 井筒( の思想 ) を 眺める 、、、、


はたして、 どれだけの、 束の間の生 を 過ごすことか 、、、、



投稿:  春間 則廣  | 2021/02/01 06:10

わたしも、龍樹が大事だなと思います。

たぶん、『スッタニパータ』も絡んできそうな雰囲気がしてきました。


ほんとに急がば回れだな、と。

みなさん、ありがとうございます。

投稿: 管理人エム | 2021/01/31 02:49

“ すべて ” 龍樹の上で 構築すれば、 問題は解決している

教授職 は
    それはそれとして 考えなければならない

全ては、 摩訶衍 の 敷衍 なのです


投稿:  春間 則廣  | 2021/01/29 07:35

先生、菩提心を発したい訪問者のお陰で、なんだか面白いことになっていますね。というか、面白く読ませてもらっています。急がば回れで補助線を引きながら、日本の祖師達や、ディグナーガなどについても論じるという道が浮かび上がってきましたね。まあ、焦ることもないようですね。応援してまっせ。

投稿: えび天サンバ | 2021/01/28 11:37

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