道元(1年が終わる)
数年、大つごもりは、すごくあわただしく過ごしてきました。
今年も変わらないけど、
気持がちがう。
気持が弛緩してしまっている。
出来事だけがあわただしい。
◆◆◆
コロナの1年でしたね。
明日からコロナ2年目といわれるのかな。
足下を見つめて、灯りをともさなくちゃね。
朝日カルチャーセンターで、4回だけ
『正法眼蔵』の「現成公案」を読んでいます。
この時だけ、気持と出来事が一致して進んでいる。
「現成公案」は、道元が33才か34才の頃に書いたものです。
仏教のエッセンスが、行き渡っている。
どこをとっても仏教、というところを、道元みずからが
自然の中に題材を求めて描ききっています。
ゴータマ・ブッダがいて、龍樹がいる。
縁起があり空がある。
道元の一切智が光っている。
◆◆◆
誤ることのない縁起の世界は、禅定からやって来ます。
道元に寄せる信頼は、ブッダに寄せる信頼と同じです。
決して誤ることのない ものの見方 があります。
写真にうつるそれぞれのちがいは、
このようにあきらかです。
草は棄嫌におふるのみなり。。雪の中にも残ってる。
そして、それだけではない。
ことばがあります。
ことばは智慧を表すのです。
ここでも、かれは、決してミスを犯さない。
流れることばは、流れの中に真実の音を響かせます。
「法」ということばが、道元の中では、
あきらかに!「ことば」という意味をもっている。
◆◆◆
龍樹の使い方と同じです。
眼横鼻直(がんのうびちょく)
これでつかんだ、道元の仏法。
目は横についていて、鼻は縦まっすぐ。
目は、諸仏の正等覚を指す。
鼻は、祖師の阿羅漢を指す。
こうやって、道元(曹洞宗)は、ブッダの法を伝えてきたのです。
縦と横とで、縁起の網がはり巡らされる。
これだから、ミスを犯すことがないのです。
真実が語られているとき、誤りはなく、
ことばは意味をもってせまってきます。
人の心に訴え、惹きつけ、捉えて放さないことばとなります。
来年は、そういうことばを探していこう、っと。
コロナで遅れたけれど、来年こそは、龍樹!
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コメント
> 早く、 今年に 気付きなさい !
はいっ !
投稿: 管理人エム | 2021/01/28 11:03
「 一度(だけ) の 生を生きる 」 ということが 「 不死 」 です
生きている のです
「 不生 」 にある
> 「 生きることは、まずは、時間に縛られると思うけど、
時間 という 太陽の周りの 刻み方 に 拘るわけです
「 時 」 というものは、 そこにある、 そこに起きている
「 場所 」 の 表現方法であって
何処に起きる 「 場所 」 も
“ 一処 ” という “ ところ ” に、起きている
> そうではない、という意見もあるかもしれないしなあ。 」
「 そうではない 」 という時に( ということを起こすと )
「 そうである 」 ということが 起きる
そういうこと ( どういうこと ? ) を 「 縁起 」 と呼ぶ
去年 という 虚念 は
いま此処に 起きて、 今年 とされる
今年から コロナ が コロコロ と 廻りだす 、、、、
早く、 今年に 気付きなさい !
・
投稿: 春間 則廣 | 2021/01/28 08:43
>> 順 も( を ) 否定しないから
>> 順が起きないわけです
> わたしからみると、変な人だけど、
わたしから、 あなたをみると、 変な人 には見えない
そこに、 はっきりとした、 「 齟齬 」 が 起きている
> そういうこともありうるか、と、 思うことにします。
ありうること ・ あり得ないこと は ともに起きる
( 「 縁起 」 )
時空を超えて
そうして、 そこに起きていることを知り、
超える というところ を、 ( 自由に )知ることとなる
( 自由に )知ること とは、
その様 を しることのない者 には
不自由 という
自由 を “選択する” ところ
に 起きてしまう ( 自由 の 構造 )
「 至道無難唯嫌揀択 」
自由であることは、
なんという 不自由 を 引き連れていることか 、、、、
・
投稿: 春間 則廣 | 2021/01/05 09:21
>> 順 も( を ) 否定しないから
>> 順が起きないわけです
> わたしからみると、変な人だけど、
わたしから、 あなたをみると、 変な人 には見えない
そこに、 はっきりとした、 「 齟齬 」 が 起きている
> そういうこともありうるか、と、 思うことにします。
ありうること ・ あり得ないこと は ともに起きる
( 「 縁起 」 )
時空を超えて
そうして、 そこに起きていることを知り、
超える というところ を、 ( 自由に )知ることとなる
( 自由に )知ること とは、
その様 を しることのない者 には
不自由 という
自由 を “選択する” ところ
に 起きてしまう ( 自由 の 構造 )
「 至道無難唯嫌揀択 」
自由であることは、
なんという 不自由 を 引き連れていることか 、、、、
・
投稿: 春間 則廣 | 2021/01/05 09:21
「 古城 」 ( 「サンユッタニカーヤ」 )
> 時代 は 親鸞に、 道元に 空を示し、 理に導く
> 示されて、 ( 偶然 ) 得たわけです
「 古城へ至る道 」 に 足を踏み入れる 、、、、
( 「サンユッタニカーヤ」 )
比丘たちよ
「 私も同じように過去の仏たちがたどった
古道、古径(こけい)を、 たまたま、 偶然に 発見した
過去の仏たちのたどった 古道、古径 とは何なのであろうか 」
「 七仏通戒 の 道 」 である
・
投稿: 春間 則廣 | 2021/01/05 08:55
>ズレる なァー
>あなたとの、 齟齬 が はっきりする
そうか。。ずれてたか。。やっぱりね@@
変だな、って思ったけど
まあ、書いてみるかと。
>わたしは、 拘るところ を 知らずに、
> 順 も( を ) 否定しないから
順が起きないわけです
わたしからみると、変な人だけど、
そういうこともありうるか、と、
思うことにします。
生きることは、まずは、時間に縛られると思うけど、そうではない、という意見もあるかもしれないしなあ。
時空に自由な春間さま、了解!
投稿: 管理人エム | 2021/01/05 07:55
ズレる なァー
あなたとの、 齟齬 が はっきりする
> > ( どこに どのように いますか ?)
> そこを読み取ることが求められています。
> 「どこに」
> 「どのように」
求めなくとも、 ここにある
読み取れなくとも そこにある
ここに
このように
> なぜ、道元は、空まで会得したのでしょうか。
どうやって、得た のか ではなく
どうしても、 得ざる を 得なかったわけです
道元 が 求めて得た のではなく
求めざるを得ず、 ( 得させられて ) 得た わけです
自の要求ではなく
他の 思い示す( 思し召し ) です
時代 は 親鸞に、 道元に 空を示し、 理に導く
示されて、 ( 偶然 ) 得たわけです
> 「眼横」が先に来る、そのあと、「鼻直」が来る、
> この順序によって、縁起を学んで空を知る、という過程が知られると同時に、そこに考察を加えて、「空を手にする(空手)」、乃ち、一切を捨てる智慧を得ていることが、わかります。
あなたは、 順序に拘って それを知ればよいでしょう
わたしは、 拘るところ を 知らずに、
順 も( を ) 否定しないから
順が起きないわけです
かといって、 ここに、 あなたが、
順を見るのは あなた次第のことです
> 一切を捨てられるなら、諸仏の智慧は横並び。
「 順 」 は 順序 を 要求します
順序がなければ、 順がないから 、、、、
> 煩悩を捨てられるなら、祖師の鼻は、香りをかぎ分ける。
順序 を 捨てる時、 “ 祖 ” は なく
起きるところ の 「 生 」 もなく
やがて 起きる 「 師 」 も ない
> 無量の法が、ここからでてくる。
量があるから、 最小 の 祖 が 起き
順に続いて、 「 量 」 を重ね、
順 を 起して、 いたる処( 万法 ) に 、 至る
至らないところがない から 至る処しかない
わたしは、 至らないところのことを 記述している 、、、、
いいたりない ではなく 至り ない
・
投稿: 春間 則廣 | 2021/01/02 16:04
> ( どこに どのように いますか ?)
そこを読み取ることが求められています。
「どこに」
「どのように」
なぜ、道元は、空まで会得したのでしょうか。
「眼横」が先に来る、そのあと、「鼻直」が来る、
この順序によって、縁起を学んで空を知る、という過程が知られると同時に、そこに考察を加えて、「空を手にする(空手)」、乃ち、一切を捨てる智慧を得ていることが、わかります。
一切を捨てられるなら、諸仏の智慧は横並び。
煩悩を捨てられるなら、祖師の鼻は、香りをかぎ分ける。
無量の法が、ここからでてくる。
投稿: 管理人エム | 2021/01/02 10:49
「 鏡を磨して鏡となす 」
「 甎を磨して鏡となす 」 も 能わざることなし
然 あれど も
「 しるべし、いまいふ古鏡は、磨時あり、未磨時あり、
磨後あれども、一面に古鏡なり。
しかあれば、磨時は古鏡の全古鏡を磨するなり。
古鏡にあらざる水銀等を和して磨するにあらず。
磨自、自磨にあらざれども、磨古鏡なり。
未磨時は古鏡くらきにあらず。
くろしと道取すれども、
くらきにあらざるべし、活古鏡なり。
おほよそ 鏡を磨して鏡となす、甎を磨して鏡となす。
甎を磨して 甎となす、 鏡を磨して 甎となす。
磨してなさざるあり、なることあれども磨することえざるあり。 」
・
投稿: 春間 則廣 | 2021/01/02 08:29
開けて シマッタ !
一月二日
( フツツカ ヨイ ではないけれど 、、、、 )
> 眼横鼻直は、論理のありようを示したことばだと
思っています。
> このように言うのはよくありません。
> 嗣法に言及したことばでもあります。
> 眼横鼻直は、論理のありようを示したことばだ
> > このように言うのはよくありません
相 だ、 想 (いうこと) には、
“ 思い ” を 及ぼさず
> > そうではない
この ように 言( 双 論 )
「 眼横鼻直 」 は 心の ありよう
だが
坐る 「 姿 ・ 造 」 に 起きている
眼( 日本に於いては 芽 ) と
鼻( 日本に於いては 華 ) との
( 眼 の ) ありよう( 像 ) なのです
> 嗣法に言及したことばでもあります。
嗣法 に 言及できない
「 言葉 」 は ありません
その意味では、
姿 ( 「 山川草木 」 )
が 嗣法 している
「 言葉 」 で
それらを 、 「 造 ・ 使 法 」 しています
> 道元は、 たくみに
限定されない ことばの意味
を 伝えて います。
( どこに どのように いますか ?)
限定 を 眼底 に 横に 奥 ( 蔵 )ゾー
> 受けとめた人のことばを謙虚にきかなくちゃね。
「 謙虚 」 という言葉の 「 見取見 」 に
“ 虚 ” を 知る
言葉 を “学ぶ” という 姿・視 が 「 坐禅 」
『臨済録』 < 示衆 >
「 シ ニ オウテ ハ シ ヲ サッ シ 」
視 横 私 察
師察 の 眼 前 ( 先生 は 如何にあるか ? )
・
投稿: 春間 則廣 | 2021/01/02 06:49
眼横鼻直は、論理のありようを示したことばだと思っています。
> そうではない
このように言うのはよくありません。
嗣法に言及したことばでもあります。
道元は、たくみに限定されないことばの意味を伝えています。
受けとめた人のことばを謙虚にきかなくちゃね。
投稿: 管理人エム | 2021/01/02 05:18
> ・・・・・・・・・・・・
龍樹の使い方と同じです。
眼横鼻直(がんのうびちょく)
これでつかんだ、道元の仏法。
目は横についていて、鼻は縦まっすぐ。
目は、諸仏の正等覚を指す。
鼻は、祖師の阿羅漢を指す。
こうやって、道元(曹洞宗)は、ブッダの法を伝えてきたのです。
> ・・・・・・・・・・・・
そうではない
目を 横に使うのではなく
鼻を まっすぐに使うのでもない
眼 は 横を知り
鼻 は 縦を知る
只管 それだけ、 意味を求めず 、、、、
鼻は 目 を 横切って、 立つのです
・
投稿: 春間 則廣 | 2020/12/31 23:43
> ・・・・・・・・・・・・
龍樹の使い方と同じです。
眼横鼻直(がんのうびちょく)
これでつかんだ、道元の仏法。
目は横についていて、鼻は縦まっすぐ。
目は、諸仏の正等覚を指す。
鼻は、祖師の阿羅漢を指す。
こうやって、道元(曹洞宗)は、ブッダの法を伝えてきたのです。
> ・・・・・・・・・・・・
そうではない
目を 横に使うのではなく
鼻を まっすぐに使うのでもない
眼 は 横を知り
鼻 は 縦を知る
只管 それだけ、 意味を求めず 、、、、
鼻は 目 を 横切って、 立つのです
・
投稿: 春間 則廣 | 2020/12/31 23:43