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2020/12/31

道元(1年が終わる)

数年、大つごもりは、すごくあわただしく過ごしてきました。

今年も変わらないけど、

気持がちがう。

気持が弛緩してしまっている。

出来事だけがあわただしい。

 

     ◆◆◆

 

コロナの1年でしたね。

明日からコロナ2年目といわれるのかな。

足下を見つめて、灯りをともさなくちゃね。

朝日カルチャーセンターで、4回だけ

『正法眼蔵』の「現成公案」を読んでいます。

この時だけ、気持と出来事が一致して進んでいる。

 

「現成公案」は、道元が33才か34才の頃に書いたものです。

仏教のエッセンスが、行き渡っている。

どこをとっても仏教、というところを、道元みずからが

自然の中に題材を求めて描ききっています。

ゴータマ・ブッダがいて、龍樹がいる。

縁起があり空がある。

道元の一切智が光っている。

 

     ◆◆◆

 

誤ることのない縁起の世界は、禅定からやって来ます。

Dsc02772

道元に寄せる信頼は、ブッダに寄せる信頼と同じです。

決して誤ることのない ものの見方 があります。

Dsc02773

写真にうつるそれぞれのちがいは、

このようにあきらかです。

草は棄嫌におふるのみなり。。雪の中にも残ってる。

 

そして、それだけではない。

ことばがあります。

ことばは智慧を表すのです。

ここでも、かれは、決してミスを犯さない。

流れることばは、流れの中に真実の音を響かせます。

「法」ということばが、道元の中では、

あきらかに!「ことば」という意味をもっている。

 

    ◆◆◆

 

龍樹の使い方と同じです。

眼横鼻直(がんのうびちょく)

これでつかんだ、道元の仏法。

 

目は横についていて、鼻は縦まっすぐ。

目は、諸仏の正等覚を指す。

鼻は、祖師の阿羅漢を指す。

こうやって、道元(曹洞宗)は、ブッダの法を伝えてきたのです。

Dsc02775

縦と横とで、縁起の網がはり巡らされる。

これだから、ミスを犯すことがないのです。

真実が語られているとき、誤りはなく、

ことばは意味をもってせまってきます。

人の心に訴え、惹きつけ、捉えて放さないことばとなります。

Dsc02774

来年は、そういうことばを探していこう、っと。

 

コロナで遅れたけれど、来年こそは、龍樹!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

> 早く、 今年に 気付きなさい !


はいっ !

投稿: 管理人エム | 2021/01/28 11:03

「 一度(だけ) の 生を生きる 」 ということが 「 不死 」 です

    生きている  のです
    「 不生 」 にある

> 「 生きることは、まずは、時間に縛られると思うけど、


時間 という 太陽の周りの 刻み方  に  拘るわけです

「 時 」 というものは、 そこにある、 そこに起きている
                「 場所 」  の  表現方法であって
    何処に起きる     「 場所 」 も
      “ 一処 ”  という “ ところ ” に、起きている

> そうではない、という意見もあるかもしれないしなあ。 」

「 そうではない 」  という時に( ということを起こすと ) 
「 そうである 」    ということが    起きる


そういうこと  ( どういうこと ? ) を  「 縁起 」  と呼ぶ


去年 という 虚念 は
         いま此処に 起きて、 今年  とされる

今年から コロナ が コロコロ と 廻りだす 、、、、


早く、 今年に 気付きなさい !



投稿:  春間 則廣  | 2021/01/28 08:43

>>     順 も( を )     否定しないから
>>                 順が起きないわけです

>  わたしからみると、変な人だけど、

わたしから、 あなたをみると、 変な人 には見えない

そこに、 はっきりとした、 「 齟齬 」 が 起きている

>  そういうこともありうるか、と、 思うことにします。

ありうること ・ あり得ないこと  は  ともに起きる    
   (  「 縁起 」 )


時空を超えて
    そうして、 そこに起きていることを知り、
 超える というところ を、 ( 自由に )知ることとなる

 ( 自由に )知ること  とは、
 その様  を  しることのない者   には
  不自由  という
   自由    を       “選択する” ところ   
   に   起きてしまう  ( 自由 の 構造 )
                 「 至道無難唯嫌揀択 」


自由であることは、 
  なんという 不自由 を 引き連れていることか 、、、、


投稿:  春間 則廣  | 2021/01/05 09:21

>>     順 も( を )     否定しないから
>>                 順が起きないわけです

>  わたしからみると、変な人だけど、

わたしから、 あなたをみると、 変な人 には見えない

そこに、 はっきりとした、 「 齟齬 」 が 起きている

>  そういうこともありうるか、と、 思うことにします。

ありうること ・ あり得ないこと  は  ともに起きる    
   (  「 縁起 」 )


時空を超えて
    そうして、 そこに起きていることを知り、
 超える というところ を、 ( 自由に )知ることとなる

 ( 自由に )知ること  とは、
 その様  を  しることのない者   には
  不自由  という
   自由    を       “選択する” ところ   
   に   起きてしまう  ( 自由 の 構造 )
                 「 至道無難唯嫌揀択 」


自由であることは、 
  なんという 不自由 を 引き連れていることか 、、、、


投稿:  春間 則廣  | 2021/01/05 09:21

「 古城 」 (  「サンユッタニカーヤ」   )


> 時代 は  親鸞に、 道元に  空を示し、 理に導く
>  示されて、   ( 偶然 )    得たわけです

「 古城へ至る道 」  に  足を踏み入れる 、、、、

   (  「サンユッタニカーヤ」   )
   比丘たちよ
「 私も同じように過去の仏たちがたどった
     古道、古径(こけい)を、 たまたま、 偶然に 発見した
   過去の仏たちのたどった  古道、古径 とは何なのであろうか   」

「 七仏通戒 の 道 」   である


投稿:  春間 則廣  | 2021/01/05 08:55

>ズレる なァー

>あなたとの、 齟齬 が はっきりする


そうか。。ずれてたか。。やっぱりね@@

変だな、って思ったけど

まあ、書いてみるかと。


>わたしは、 拘るところ を 知らずに、
>    順 も( を )     否定しないから
順が起きないわけです


わたしからみると、変な人だけど、
そういうこともありうるか、と、
思うことにします。

生きることは、まずは、時間に縛られると思うけど、そうではない、という意見もあるかもしれないしなあ。

時空に自由な春間さま、了解! 

投稿: 管理人エム | 2021/01/05 07:55

ズレる なァー

あなたとの、 齟齬 が はっきりする

> > ( どこに  どのように いますか ?)

> そこを読み取ることが求められています。
> 「どこに」  
> 「どのように」

求めなくとも、 ここにある
読み取れなくとも そこにある

ここに
このように

> なぜ、道元は、空まで会得したのでしょうか。

どうやって、得た  のか ではなく
どうしても、 得ざる を  得なかったわけです

道元 が 求めて得た のではなく
求めざるを得ず、 ( 得させられて ) 得た  わけです

自の要求ではなく
他の 思い示す( 思し召し )  です

時代 は  親鸞に、 道元に  空を示し、 理に導く
示されて、   ( 偶然 )    得たわけです

> 「眼横」が先に来る、そのあと、「鼻直」が来る、
> この順序によって、縁起を学んで空を知る、という過程が知られると同時に、そこに考察を加えて、「空を手にする(空手)」、乃ち、一切を捨てる智慧を得ていることが、わかります。

あなたは、 順序に拘って それを知ればよいでしょう

わたしは、 拘るところ を 知らずに、
    順 も( を )     否定しないから
順が起きないわけです 

かといって、  ここに、 あなたが、
   順を見るのは あなた次第のことです

> 一切を捨てられるなら、諸仏の智慧は横並び。

「 順 」 は 順序 を 要求します
順序がなければ、 順がないから 、、、、

> 煩悩を捨てられるなら、祖師の鼻は、香りをかぎ分ける。

順序 を 捨てる時、 “ 祖 ” は なく 
起きるところ の  「 生 」 もなく
   やがて 起きる 「 師 」 も ない

> 無量の法が、ここからでてくる。

量があるから、 最小 の 祖  が 起き
順に続いて、  「 量 」 を重ね、
順 を 起して、 いたる処( 万法 ) に 、 至る 

至らないところがない  から  至る処しかない

わたしは、 至らないところのことを  記述している 、、、、


いいたりない  ではなく   至り ない



投稿:  春間 則廣  | 2021/01/02 16:04

> ( どこに  どのように いますか ?)

そこを読み取ることが求められています。

「どこに」  

「どのように」

なぜ、道元は、空まで会得したのでしょうか。

「眼横」が先に来る、そのあと、「鼻直」が来る、

この順序によって、縁起を学んで空を知る、という過程が知られると同時に、そこに考察を加えて、「空を手にする(空手)」、乃ち、一切を捨てる智慧を得ていることが、わかります。

一切を捨てられるなら、諸仏の智慧は横並び。
煩悩を捨てられるなら、祖師の鼻は、香りをかぎ分ける。

無量の法が、ここからでてくる。

投稿: 管理人エム | 2021/01/02 10:49

「 鏡を磨して鏡となす 」
「 甎を磨して鏡となす 」  も  能わざることなし

    然 あれど も

「  しるべし、いまいふ古鏡は、磨時あり、未磨時あり、
  磨後あれども、一面に古鏡なり。
  しかあれば、磨時は古鏡の全古鏡を磨するなり。
  古鏡にあらざる水銀等を和して磨するにあらず。
   磨自、自磨にあらざれども、磨古鏡なり。
  未磨時は古鏡くらきにあらず。
    くろしと道取すれども、
    くらきにあらざるべし、活古鏡なり。
  おほよそ 鏡を磨して鏡となす、甎を磨して鏡となす。
    甎を磨して 甎となす、 鏡を磨して 甎となす。
  磨してなさざるあり、なることあれども磨することえざるあり。  」


投稿:  春間 則廣  | 2021/01/02 08:29

開けて シマッタ !
  一月二日
   ( フツツカ ヨイ ではないけれど  、、、、 )

>  眼横鼻直は、論理のありようを示したことばだと
    思っています。
>  このように言うのはよくありません。
>  嗣法に言及したことばでもあります。


>  眼横鼻直は、論理のありようを示したことばだ

> >  このように言うのはよくありません

相 だ、 想 (いうこと)    には、
      “ 思い ”   を  及ぼさず


      > > そうではない
  この      ように  言( 双 論 )

  「 眼横鼻直 」     は  心の  ありよう
     だが
  坐る 「 姿 ・ 造 」  に   起きている

   眼( 日本に於いては 芽 ) と
   鼻( 日本に於いては 華 ) との

   ( 眼 の ) ありよう( 像 ) なのです


>  嗣法に言及したことばでもあります。

嗣法 に 言及できない 
    「 言葉 」 は ありません
    その意味では、
姿   ( 「 山川草木 」 )
       が  嗣法   している
        「 言葉 」 で
それらを 、 「 造 ・ 使  法 」 しています

>  道元は、     たくみに
    限定されない ことばの意味
       を     伝えて   います。

     ( どこに  どのように いますか ?)

  限定 を 眼底 に 横に  奥 ( 蔵 )ゾー

>  受けとめた人のことばを謙虚にきかなくちゃね。

「 謙虚 」  という言葉の  「 見取見 」  に
       “ 虚  ”    を 知る


言葉 を “学ぶ” という  姿・視   が 「 坐禅 」   
 
    『臨済録』  < 示衆 >  
「 シ ニ オウテ ハ  シ  ヲ  サッ シ 」 
  視   横       私     察


師察 の 眼 前  ( 先生 は 如何にあるか ? )
 


投稿:  春間 則廣  | 2021/01/02 06:49

眼横鼻直は、論理のありようを示したことばだと思っています。

> そうではない

このように言うのはよくありません。

嗣法に言及したことばでもあります。

道元は、たくみに限定されないことばの意味を伝えています。

受けとめた人のことばを謙虚にきかなくちゃね。

投稿: 管理人エム | 2021/01/02 05:18

> ・・・・・・・・・・・・

龍樹の使い方と同じです。
眼横鼻直(がんのうびちょく)
これでつかんだ、道元の仏法。

目は横についていて、鼻は縦まっすぐ。
目は、諸仏の正等覚を指す。
鼻は、祖師の阿羅漢を指す。
こうやって、道元(曹洞宗)は、ブッダの法を伝えてきたのです。

> ・・・・・・・・・・・・

そうではない

目を 横に使うのではなく
鼻を まっすぐに使うのでもない

眼 は 横を知り
鼻 は 縦を知る

只管  それだけ、 意味を求めず 、、、、

鼻は 目 を 横切って、 立つのです


投稿:  春間 則廣  | 2020/12/31 23:43

> ・・・・・・・・・・・・

龍樹の使い方と同じです。
眼横鼻直(がんのうびちょく)
これでつかんだ、道元の仏法。

目は横についていて、鼻は縦まっすぐ。
目は、諸仏の正等覚を指す。
鼻は、祖師の阿羅漢を指す。
こうやって、道元(曹洞宗)は、ブッダの法を伝えてきたのです。

> ・・・・・・・・・・・・

そうではない

目を 横に使うのではなく
鼻を まっすぐに使うのでもない

眼 は 横を知り
鼻 は 縦を知る

只管  それだけ、 意味を求めず 、、、、

鼻は 目 を 横切って、 立つのです


投稿:  春間 則廣  | 2020/12/31 23:43

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