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2020/12/13

こだわること と こだわらないこと

復活したのはいいけど、

このブログ

さっぱり思うようにいかない。

投稿した記事は、どこかに行ってしまった。

もう一度投稿しようと思うと、ココログの投稿画面が出てこない。。

 

ええい! こだわらないぞ! こだわるもんか

って、こだわってる。

 

このように、心の中に、何かが生まれると

普通、こだわり となる。

やがて、それは消えていく。

消えていくとき、次々、似たようなもの生ずるなら

消えずに残っているように見えて

こだわりが強い

という。

 

     ◇◇◇

 

わたしが、昔、仏法の中に論理をみたとき、

ここにこだわったのだろうか。

西洋論理学の中の真理表を使ったりした。

でも、今では、そんなに使わないし、使おうとも思わない。

だけど、

論理は、わたしの中で繰り返し生じては消えていく。

仏法をみるとき

ブッダ論理が現れる。

それは、なんだろうか?

縁起である。

縁起にこだわっている?

いや、そんなこともない。

現れて消えていくだけ。

 

    ◇◇◇

 

毎日、いろんな経典を、その日その日に読むけど、

そこに論理が流れているのを見て、安心する。

Dsc02771

行くときもあれば、帰る時もある。

『法華経』を読むときもある。

『正法眼蔵』を読む時もある。

『無量寿経』を読んだり、パーリ語仏典を読む時もある。

どれを読んでも、一つの仏法を見つめている。

いつも心の中に、ブッダ論理があって、そこを探している。

だけど、こだわっている とは、思わない。

なんだろう?

わたしの自己は、論理を求めているけれど、

論理学を求めているわけではないので、

形には現れない。

形に表れないものは、得ても得なくても、外からは分からない。

 

    ◇◇◇

 

ただ、得たとき、安心があるだけだ。

得てないときは、探し続ける。

 

『正法眼蔵』は、そうやって書かれた書であるように思う。

得たときと得ていないときが、両方書かれていて、

それが、人を安心させる。

ああ、そういうことだ。

書いてて、今、分かった。

こだわらない道元禅師は、悟りにもこだわらずに、

あるがままに筆を運んで、つねに禅定を示している。

 

「いいね」がいっぱいつくね。

皆を惹きつけ、こだわらないところを示すので、

皆の自己が、そこに惹きつけられて、こだわってくる。

そして、『正法眼蔵』の中で行ったり来たりする。

Dsc02770

行って戻れば、何だかほっとする。

自分の家に戻ったよう。

「修証一等」も「拈華微笑」も「身心脱落」も、

安心のことばだ。こだわらないのに、安心できる。

 

「色即是空なり」「空即是色なり」

「色是色なり」「空是空なり」「百草なり」「万象なり」

ここは、この順序が安心をもたらしている。

こだわっては、消える。ぽっと生じてぽっと消える。

あらゆるものが、あるようにあり、そして消える。

 

ブッダ論理が見える。常住だけど、現象する。だから、消える。

こだわって、そして、その後、こだわりはなくなる。

道元のこだわりはそこにあったけど、消えたらなくなるので、

こだわらないようにみえる、のかもね。

 

こだわるのではなく、こだわらないのではない。

 

そして、安心の自分の住処に戻ると、こんな風になる。

Dsc02768

 

やっと、ブログをいっこ書いた。

ちゃんと、ブログ表示できますように。

二度目に書いた文章は、タイトルが同じだったのに、

中身が大幅に変わってしまいました。

 

こだわらなさすぎた??

春間さま、書いたよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

25行 改行 だから、 試してみる 、、、、
( うまく 伝わるだろうか 、、、、 )

「 慎んで・・・真直ぐ・・・・喜びにつつまれて 」

  ( ヴィリヤ という 喜びに包まれて )

歩むことが 苦しみ デ アッテハ  ならない

喜びであるから 、、、、
 ( この世に於いては、「 縁起 」 が 起きる )

出会っている こと は  喜び 
 という   小さくて見過ごして は ならないモノ 
          “ MISS ”  


投稿:  春間 則廣  | 2020/12/23 05:25

「 慎んで・・・真直ぐ・・・   喜びにつつまれて  」  

  ( ヴィリヤ という 喜びに包まれて )

歩むことが 苦しみ デ アッテハ  ならない

喜びであるから 、、、、
  ( この世に於いては、  「 縁起 」 が 起きる )

出会っていることは  喜び 
        という  小さくて見過ごして は ならないモノ 
                “ MISS ”  


投稿:  春間 則廣  | 2020/12/23 05:15

> 私がスルーしていることに対して先生にご相談なされていますが、

そうではありません

あなたが スルー せざるを得ない とする事
   に 付いて
書き込んでいいるのです
   ( このことを スルー するわけです )   

>  内容が難解で私が読み解けないからではなく、

記述してある内容は 読み解けているわけです

>   内容がわかりにくいから私の心に響いてこないからです。

内容は 理解できるが、
分かりにくいこと( 書き方 )は、 あなたの心に 響かないわけです

あなたが、 分かるのであれば、 
  あなたにとっては 分かりやすいことではありませんか ?
分かりにくくて、 分からない  のであれば
    あなたは、 分からないことについて 拒否しているわけです

分かりにくい記述に対しては、 分かろうとする気 が 起きない
ということです

そこで、 “ 分かる ” という事に付いて、 尋ねたわけですが
     あなたは
>   内容がわかりにくい
      と 分かったことに対して  
>  から私の心に響いてこないからです。
     と 拒否しているわけです

あなたが分かったこと  について、
その “ 分かる ” ということが、
      あなたに日々の生き様に、 いかように反映されているのか
      ということを、 聞いているのです   

“ 泥棒にも三分の理 ” と 引きましたが、
泥棒は、 理の三分 を 得て、
       それを基 に 説教 さえ 出来るのです

あなたは、  十分に得ているから( それが九分であろうと )
  わたしに、 自らのやり方( 正当なることと思えること)を 
         アドヴァイス  するわけです

> 一方中身が整合性が取れてなく支離滅裂な指示書の場合、
  地頭が優れた人でも、愚かな人でも、
       中身の意図を読み解くには、  
  整合性を読者が再構成しつつ筆者の意図を 
  組みとかなければならなく、
  読解力の差は読解スピードの差として表層化されますが、
    どちらにとっても「わかりにくい」。  <

地頭に優れる あなたは、 “ 読解スピード は 落ちるが ”
    読み解けるわけです 
    読み解いて、 拒否するわけです
   ( 読み解けなければ、 拒否することにも 値しません ) 


あなたは、 先に
「 パーリでもサーリプッタを始めとした論理で覚者になった」 と
      論理で 成就できた  と 言っています

確かに、 舎利子 は 阿含経 に於いて、 “ 智慧第一 ” です
    しかし  パーリ経典 では
    論理で成就した と 説かれているのですか ?

「 智慧 」 を 巧みに 言語化できることを
 “ 智慧第一 ” と  漢訳では 呼びます

十大弟子 は すべて
       “ 智慧を得て 成就している ”  わけです

お掃除の達人  周利槃特 ( 十六羅漢 ) に
  智慧は具わっていたのでしょうか  
( 具わっていると、 掃除によって 他の人は知ったのでしょうか ? )

サーリプッタ は 行ないで 成就したのではありませんか ?

正しい行い  は 正見 と 正語 で 支えられてはいませんか ?


あなたの語る言葉は 「 正語 」 ですか ?
「 正見 」  を 基に、 「 正思惟 」 で 語って いますか ?


わたしに、 「正見」 が 欠けていると、
   何を根拠に アドヴァイスしますか   ?


分かりやすく て(も)、 行い難き事  を、  どのように分からせると   
  難き事    を、    日々の行い と、   出来ますか

あなたの語り方 が 正しいとするから  
その正しさの 根拠の下で、 わたしに対して
  “ 不備 ” ・ “ 不具 ”  を 諭すわけです

あなたは、 それを、 正当なこととする 、、、、


わたしは、 あなたのようには、
難しい言葉を使えません
( わたしは、  「 瞑想 」 で 語っているからです )
          そのようなことを
「  行住坐臥 すべて 禅  」 と 漢訳では  名付けます
「 四威儀 」 が すべて、  「 瞑想 」  なのです

わたしの文章が、 分かりにくいのは、
   言葉づかいや、 考え方のせいでしょうjか 、、、、


あなたが、  「 瞑想 」 にある時に、 これ等の言葉を 聞いてください

あなたが、 「 赤い 」 と 言おうとも、
  その  “ 赤 ” は (  「 瞑想 」 を 離れては )
   「 色 」 としては、 決して 共有できないのです

同様に、  あなたの “正しさ”    は
 “ 色界 ” に 於いて 共有されるのみ  です


話しは、 変わります

かつて、 管理人エム 様 と 東大の  ある 論理家    
       との  論争がありました

彼にとっては、  「 赤 」 は   “ 赤 ” なのです
彼にとっては、  「 空 」  を    知ることがない限り
  「 赤 」 は  “ 赤 ” として  存在しないのです

パーリ経典 には 「 解空第一 」 とは ありません( わたしは見ていません )

「 空 」 を 知る者が、  「 色 」  を 知る

あなたが、 「 空 」 を知る時

わたしの記述が、 すべて 腑に落ちる 、、、、

途中ですが、 することが起きたので
他へ 移ります



投稿:  春間 則廣  | 2020/12/22 11:53

エム先生

ついうっかりメルアドもコピペしてしまいました。


このメルアドは削除しているので受信不可にはなっているのですが、

管理者側で文面を操作可能であれば、
切り取って頂ければと思います。


お手間をおかけして申し訳ございません。
よろしくお願い致します。

投稿: 武林壮太 | 2020/12/22 10:18

春間 様

<管理人エム 様 に  聞いている のです

<どうしても すれ違う ( 聞いてもらうことが出来ない )

<読まれないことを、 読ませたい 、、、、


私がスルーしていることに対して先生にご相談なされていますが、

お返事も頂けたことですし少しお答え致しましょう。


もっとも、私のこれから申し上げる意見は、
春間様的にはたぶんとっくの昔にマニカナ掲示板の方々などから
ご指摘をお受けになられているかもしれません。

しかし、しがらみがないからこそ改めて申し上げることもできる内容であるとも思うので、
少し意見を申し上げます。

さて、このブログ記事のコメント欄にて
以前春間様のコメントにお返事させて頂きましたが、


確かに私の返事は春間様のお伝えしようとなされている話の中身については一切触れていません。


なぜなら、春間様のお話のされ方は、
内容が難解で私が読み解けないからではなく、
内容がわかりにくいから私の心に響いてこないからです。

「難解な」内容と「わかりにくい」内容、
どちらも共通して意図を読み「解き難い」。


例えば難解な指示書の場合、
難解さというものは相対的で主観的なモノ

地頭が良い人にとっては、その優れた読解力により、
その難解な指示書を難解であると認識しない場合もあり得る。

一方中身が整合性が取れてなく支離滅裂な指示書の場合、
地頭が優れた人でも、愚かな人でも、

中身の意図を読み解くには、整合性を読者が再構成しつつ筆者の意図を組みとかなければならなく、

読解力の差は読解スピードの差として表層化されますが、
どちらにとっても「わかりにくい」。


「難解な」内容と「わかりにくい」内容、
どちらも共通して意図を読み「解き難い」。

しかし、その「解き難さ」は、それぞれでそのニュアンスが異なる。


・・・お分かり頂けたでしょうか?

私も先生にコメントさせて頂いた時に申し上げたように、

自分の意見を相手にお伝えしたい時は、
ある程度論理的であることは前提の上で、

自分が言いたいように言うのではなく、
相手に興味を持って頂けるようにお話しさせて頂かないと、

その内容がどれだけ整合性が取れていて論理的で普遍的事実に沿った真実であったとしても、
誰からも聞いて・読んで貰えません。

春間様から頂いたアドバイスは、
様々な経典や哲学を引用なされていることみても、
ちゃんと吟味させて頂けば、凄く良い中身の内容であるかもしれませんし、

意図が読み解き難いですが、私に対して何かお教え頂こうとわざわざ労力を割いて下さっているという、
お気持ちは伝わってきます。


だから春間様は癖はお強いですが、根は良い方ではいらっしゃるなとは思っております。

ただし、だからといってすぐに春間様のコメントを熟読して参照させて頂こうと思うかは、
また話が別です。


春間様は、一般的で無いそのお癖の強い言い回しを、初見の私にもなされていますが、

そのわかりにくい表現のされ方には、お伝えしたいという善い気持ちも読み解けますが、

それ以上に自分が言いたいように想うがままにお話しされているという、自我的なニュアンスが強く感じられます。

そこに悪気は無いことは承知しておりますが、
私は心の苦しみの情緒を取り除こうと日々努めている者ですので、

相手の読解について配慮が薄いエゴ的なモノに対しては、真剣に向き合おうとは思いません。

(こういうと、私の長文気味になってしまうスタイルも、
話す内容が情緒的なモノで端的に説明しにくいことと、
掲示板という特性上、
第三者が読んで意図を読み取れるように詳しく書いているという面があり、やむを得ない面もあるのですが、
人によっては配慮が足りないと思われても仕方がないので、申し訳なく思っております。)


結局せっかくアドバイスをされているのに、
意図を汲んで貰いにくくて、モヤモヤ感を感じられるのは、
私では無くて春間様ですから、
もう少しわかりやすく表現を変えられたら、良い反応が返ってくるようになるかもしれません。


また、どれだけ掲示板とかコメント欄で熱く語っても、
人の行動を変えるほどに、他人の情緒に意見を響かせるのは、まずほぼ不可能であるとも思っているので、
意図が伝わっただけでも良しとする、知足の気持ちで割り切られたら、満足できるようになるかもしれません。

それなので私のこの意見もまず春間様を変えるほどには響かないと思いますし、
先生に対して申し上げた意見もむしろよく少しだけでも共感頂けたのだなと思っているぐらいなのですが、

個人的に自分の意見や見解は、
意見交換の場では意図を汲み取って貰うだけでもそれなりに価値はあると考えておりますので、

読んでもらえただけでそれで良いのではと思っております。

個人的には春間様の表現自体は中身があるのかはわかりかねますが、

他に無いユニークさは感じなんか読んでいて楽しいとは感じておりますので、
ぜひそのままの感じで頑張って下さいね。

投稿: 武林 壮太 | 2020/12/22 08:58

   管理人エム 様 に  聞いている のです
  ( 管理人エム 様 に  問うている のです ) 


どうしても すれ違う ( 聞いてもらうことが出来ない )

すれ違わせるのは、 “わたし”  のせいか 
    「 無我 」 ・ 「 非我 」  に 起きることか 

読まれないことを、 読ませたい 、、、、      

>> 私は阿羅漢ではないので、
> 阿羅漢 とは “何を得ている”者 に対しての “ 名称 ” ですか ?

 「 名称 」 ではなく、  「 実体 」  を 表しますか ?

阿羅漢 は  “ 何を着ている ”  のですか ?
       “ 黄褐色の法衣 ”  とある時
       “ 黄褐色 ”  とは、 いかなる 「 色 」 ですか ?

“ 法衣 ”  の  「 衣 」  とは、 何ですか ?    
 “ 衣 ” として 着ている 「 法 」 とは 何ですか ?

その 「 法 」   は  身を飾ってはいませんか ?

> “得ているモノ”  は  何ですか ?

   あなた が               
    “ 着ているモノ ” は 何ですか ?

>>   パーリ経に書かれているのを根拠に述べてます。
>   “ パーリ経に書かれている ” こと は、 何ですか ?

    それは、 どのようなこと で 、何を 説いているのですか ?
    借り物の 衣  を   まとわずに、
    あなたの言葉  で   語ってください


「 法 」 について、
獲得すべく 、   「 法 」  を 読ませるために
獲得できるように  説かれているのにも関わらず、       
          獲得できない  のは 
獲得させようとする 者 の “ 科 ” ・ 課題 ですか ?
        それは、 “ トガ ” では ないのですか ?

“ トガ ” が どちらにもないのであるならば、
なぜ、 わたしに “ ないはずの トガ ” が 起きるのでしょうか ?


> ( 阿羅漢 が )得ていることを得て、
> 得たモノ について、 語ることが出来るのです      

得たこと を 語っていますが 、、、、

聞かれて、( 得ていただいて ) はじめて、
   “ 頂いたもの ”  が 存在し、
   存在してこそ、 “ 頂き ” に、 被る ことが出来
   被るモノ  が “ 頂き ” を 、 “ 華厳 ” します

   そのようにして “ 衣 ” は 、 身を守ります


       わたしは、
           いったい 何を 言いたくて   
       このように、 綴るのでしょうか ?
     ( どのように、 綴ればよい のでしょうか ? )


   「 論理 」 として    ( 飛躍するところを )
   「 教室 」  で   学び 直したい  こと です 、、、、



投稿:  春間 則廣  | 2020/12/22 04:52


こちらこそ丁寧なお返事を頂きありがとうございます!


仰って頂いた先生のご見解のニュアンスは伝わっております。

提案させて頂いていて矛盾しているかもなのですが、


私は論理はあくまで補助道具で、情緒で以って情緒を制すという、
心の意思力、モチベーションこそが一番重要だと考えている者ですので、


先生の後世の智見までも総括した「空」の論理で挑戦なされようという意思力に対しては、
ぜひ頑張って頂きたいと一連のやり取りで思っております。

私も論理に対しては、
意図を読み取っては頂いていると思うのですが、


論理の想いに付随する情動の想いがもし表層化した場合、
恣意的に厭うことで遮断している訳でして、

論理を想うこと自体や、
論理の想いに素因が潜在している状態で論理を想うこと自体を否定しているわけではありません。
(表層化している時でないとアプローチをかけられませんので)


そのため、先生が論理的なアプローチで見出された智見を、世間の広い人々に対して
学術的に厳密に・素人でも理解しやすく発表して頂けることは、


私にとっても参考になりいつもありがたく思っております。
本当にありがとうございます。


特に先生のパーリ訳に関しましては、 
解釈する際にパーリ語原文まで当たることはあるのですが、
やはりプロの先生方の諸訳を比較させて頂けると物凄く捗りますので、
今の日本は恵まれているなぁと思っております。

先生にも私の考えをご推察頂けました通り、
確かに先生の「空」の論理の道は、

私の経験的な観点からと、

パーリでもサーリプッタを始めとした論理で覚者になった方はいるので、
哲学的なアプローチでも道は開けると忖度無しに考えてはいるのですが、


現代において論理思考で覚者になった方を、仏教以外も含めてほぼ聞かないという理由から、
危ういというよりは、茨の道ではありそうだなとは考えております。


ただ、情緒に直接アプローチする道は道で、
人によっては躁鬱との戦いという罠はある、
本気で向き合えば結構危険な道でもありますし、


また過去の龍樹を始めとした東西の宗教家や哲学者などの偉人は地頭は良かったんでしょうけれども、
その地域だけで組み立てられてきた先行研究だけしかほぼ参照できなかったという縛りはあったと思うので、


IT技術で素早く
東西の過去の智見や先人の先行研究に、

圧倒的な時短力で情報を掻き集めて、論理思考での吟味に時間を多く割り振ることができるというメリットが現代にはあると思うので、

決して不可能ではないとも考えております。
(玄奘は先行研究を持ち帰るだけで数十年かかっている訳ですしね笑)

また、ブッダも仰った通り、意見交換というのは、
少し間違えると見解を押し付け合う討論になってしまいますので、

私の見解をそれはそれとして受け止めて頂けて嬉しく思っております。

さて、このやり取りの内容に関しましては、
もう充分であると考えますのでコメントを控えさせて頂こうと思います。


初見の者にお時間を割いて頂きありがとうございました。
今後ともコメントさせて頂いた時には、ぜひお返事頂けたらと思います。

投稿: 武林壮太 | 2020/12/21 12:46

武林壮太さま

ご説明くださってありがとうございます。

いろいろご心配いただいたようで、申し訳ありません。

「非我」をいれるとよい、というアドヴァイス、受けとめました。

パーリ語仏典を中心にご検討くださっているとのことで「なるほど」と思います。
わたし自身、武林さまのおっしゃる点にも気づいているのですが、性格上、違うアプローチを試みてしまい、このあたりから路線が切り替わりはじめ、「空」へと模索を始めてしまう、という癖があります。

なぜ、そうなるかといいますと、微細になればなるほど、視野がどんどん深くはなりますが狭くなってくるのが、気になってしまう、ということがあります。そこで、「空」というマクロ的な観点から見たくなるのです。

さらにまた、「非我」ということに逆にこだわることになることも恐れているのです。

「非我」というより「無我」となりますと、わたしの見方では、少しこだわりが減り、さらには「空」となりますと、そのこだわりにこだわらなくなる、という視野の広さが得られるように思うのです。

たぶん、お話しの意味がわかってくださるのではないかと思うのですが、論理ということと情緒や感情ということをそれほど対比させて観てはいない、というところで、武林さまとは少し違うかもしれません。日常の感情や情緒の中にも、論理が溶けこんでいる、という風に捉えるので、煩悩の行為であっても、思っているほどそれを嫌っている(厭うている)わけでもないのです。厭い離れるそのやり方にこだわることをこだわらずに、煩悩は煩悩として見て、煩悩を抱えてから、そこを離れる、というのもありかな、と思っています。

武林さまにはあやういように見えるかもしれませんが(実際あやういかもしれませんが)、わたしはこんなやり方を取っているのです。我→非我→無我→空と進む道です。
しかし、ご心配をおかけしますね。

ありがたく参考にさせていただきます。

投稿: 管理人エム | 2020/12/21 09:04

末尾 の 写真 を見ると

青いサンダル と 茶色のサンダル の
積雪の量 が 違って見えます

青い方 は 一度 移動したのかもしれません

あるいは、
 建物の影響で、 雪の舞い方が 変わったやも 

人の心は 移ろいやすい  
 しかも。 銀杏の葉の舞うように
   面を見せ、 支える裏を 見せる 、、、、


人の心は 誤りやすい  表を支える 裏を見誤る 、、、、



投稿:  春間 則廣  | 2020/12/20 07:04

自動改行 で 読みにくいので

「 マジカル広場 」
    に
 転記しておきました

必要があれば、 そちらを 参照してみてください

投稿:  春間 則廣  | 2020/12/20 06:54

『 七仏通戒偈 』          

     「 諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸佛教 」  

諸仏 は 何を あなたに教え、
教えられたこと の、 何を 、 あなたは 行ないとしていますか ?

パーリ経典より  (中村元訳)
「 けがれた汚物を除いていて、
  戒律をまもることに専念している人は、
     自制と真実とをそなえているから、
   黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。 」

ブッダ は 何を説いていますか ?

 あなたは、
 説かれていること の 幾ばくのモノ を 行ないとしていますか ? 

黄褐色の法衣をまとう者 は、 あなたに、 何を語った のですか ? 
( 自らの行いを支えること  を 語っていませんでしたか ? )
( その行ない=語ること が あなたを 如何様に 支えていますか ?)

あなたは、 先のわたしの “ 助言 ” を 何等 聞こうとはしない

> 私は阿羅漢ではないので、

阿羅漢 とは “何を得ている”者 に対しての “ 名称 ” ですか ?

“得ているモノ”  は  何ですか ?

>   パーリ経に書かれているのを根拠に述べてます。

“ パーリ経に書かれている ”  こと   は、 何ですか ?

( 阿羅漢 が )得ていることを得て、
得たモノ について、 語ることが出来るのです

「 このようにわたしは聞いている 」  と 語る のは、   
   「 ブッダ が この私の語ること と同様に語っている 」
ということ  と 、 同じ意味です 
    語っているのは ブッダ です

あなたがブッダ  で
    あなたが、 語っているから、
    あなたの語る その意味 が そこに起きています

「 泥棒にも三分の理 」 が ありますが 、、、、

     たとえ、 盗んだモノ(  「 理 」 )  であろうと、
         自分のモノとして
     正しいことに使う時
         自分の行いは、 「 理 」 によって 支えられています
( もっと、 詳しく説明しなければ分かりませんか ? )

他人の 考え( 生きざま )で、 自分の行いを 支えられますか ?

自分を支えるのは、 自分の得ている 「 理 」    です
  ( 何を、 どのように、  得て、 “生きざま” としていますか ? )


> 上記の理由で私自身は何者ではありませんよ(笑)

何者でもない者が 何を言うことが出来ますか ?

言っていることが “ 何か ”  である時
     その    “ 何か ”  が   あなたとして
そこに起きている

 (笑) って いる のは だれの 「 理知 」  ですか ?

その (笑) を 起こしているのは
   ブッダの言葉にある 「 慈しみ 」 ・ 「 慈愛 」 なのですか ?

> お返事頂きありがとうございます。

“ 有難い ” ということ  は   パーリ にも 残されています
    ( 友松円諦 訳  Dmp.1 )
「 意(おもい)は諸法(すべて)にさき立ち    
   諸法は意に成る   意こそは諸法を統(す)ぶ 」

「 けがれたる意にて  且つかたり 且つ行わば
  ひくものの跡を追う かの車輪のごとく くるしみ彼にしたがわん 」


Dmp.182  『  正しい  「 理 」 を耳にすることは 難しい 』
        『  諸々の ブッダ に 出会うことは 難しい 』
        ( 出会っていても、 出会いに  気が付くのは 難しい )


あなたは、
    いかに簡単に  “ 言葉を知り、 出会いを知る ”
 のであるか ということです


知る  には、 同じところに立つ
          必要があり、
必要がない者には   同じところは 出現しない
必要がない者には   出現 していても、 分からない
      ( 出会っていても、 出会いに  気が付くのは 難しい )


投稿:  春間 則廣  | 2020/12/20 06:40

春間 則廣 様

>阿羅漢より 上の境地にある人が
阿羅漢について、 述べている

私は阿羅漢ではないので、パーリ経に書かれているのを根拠に述べてます。


>先生の境地を 分析できる境地

上記の理由で私自身は何者ではありませんよ(笑)


>ここ以下について、 これ以上コメントすることは必要ない
後は、 管理人エム 様 が  間違えないように、 読み進めるだけ 、、、、

流石の春馬様も読む気が失せられたと…。
猛反省の次第です。

後、初コメントも長かったと思いますがお返事頂きありがとうございます。

後で読み返した時、今から思えば仰る通り火のくだりは要らなかった気が…。

投稿: 武林壮太 | 2020/12/19 23:27

>  阿羅漢より下の境地の人は想った時に、想いと、付随して生じた情緒的な想いの2つを想っていますが、

阿羅漢の境地 と、 それより下の境地 とを、
共に見据える境地 に 於いて 述べている

> 阿羅漢になると、想いだけ想うので、1つだけ想うようになる。

阿羅漢より 上の境地にある人が
阿羅漢について、 述べている

> 先生は、まだ覚りを完全に開いていない修行の身とご自身を理性的に分析なされている今の先生ご自身が、

先生の境地を 分析できる境地

> 私の申し上げた、1つ目の想いを想うこと自体がこだわりではないのかと考えていらっしゃるなと本記事とお返事で推察したのですが、

「 申し上げる 」 という表現を用いて、 “ 申し下げる ”

ここ以下について、 これ以上コメントすることは必要ない


後は、 管理人エム 様 が  間違えないように、 読み進めるだけ 、、、、



投稿:  春間 則廣  | 2020/12/19 21:35

エム先生
まさかこんなにも早くお返事が頂けるとは思ってもいなく、ありがとうございます!

>少し、「論理」についてお話ししますと、言葉である以上、ついて来るものは理性とか、というより、ある種の情緒になりやすいです。

>そこを語ろうとしたような気がしますが、もろ、自分の煩悩が出ましたね(笑)


ここのところが腑に落ちて頂けているんだなと思うと同時にちょっとズレて受け止められていらっしゃるなと思うところなのですが、私の語彙力不足です。

少し補足させ頂くと、

別に日常時に論理を始めとした様々な思考や想いが意識的に・無意識的に浮かび上がること自体が悪い訳ではなく、(それはただの情報です)

そこに付随して情緒的・情動的な想いが同タイミングで浮かび上がることが苦しみの基である訳でして、それを永遠に遮断する。

すると、
そもそも情緒的な想いを長年生きてきて培われてきた「癖で勝手に」想ってしまうから心の苦しみは生じる訳ですので、
その癖を矯正して取り去ってしまえば、
仮に想ったとしても、肉体の死まで、想いだけが生じ、付随して生じていた情緒的な想いは二度と生じなくなるので、心の苦しみが生じなくなる。


阿羅漢より下の境地の人は想った時に、想いと、付随して生じた情緒的な想いの2つを想っていますが、
阿羅漢になると、想いだけ想うので、1つだけ想うようになる。

(パーリ経のブッダも明らかにこれはふと想ってますよねと読み取れるシーンがありますが、
一方で中部18の冒頭の要約の説法で、


「比丘よ、人に妄執想の諸部分が起こる根拠があるとき、もしここに歓喜すべきもの、歓迎すべきもの、愛着すべきものがなければ、
これこそ、もろもろの貪という潜在煩悩の終わりです。(中略)ここには、これら悪しき不善の法が残りなく滅します(片山先生訳引用)」
とありますが、

これを私が読み取った通りに言い換えますと、

「もし人が日常生活中に何かをふと想うことがあっても、
そのふと想った想いの中に、歓喜を始めとした情緒的な2つ目の想いが付随して出てくることが二度と無かったら、心の苦しみの基(潜在煩悩=2つ目の情緒的な想い)が心から取り除かれていることから心の苦しみから解放されてますよね」

となりますので、ブッダが想っていても、心の苦しみから解放された人なんだなと認識しても問題がないわけです。

「想取蘊」がただの「想蘊」になるわけですね。)

そして、先生は、
まだ覚りを完全に開いていない修行の身とご自身を理性的に分析なされている今の先生ご自身が、
私の申し上げた、1つ目の想いを想うこと自体がこだわりではないのかと考えていらっしゃるなと本記事とお返事で推察したのですが、


今までで申し上げた通り、「想う」こと自体は悪いことでは無い訳なのです。
(先生もここまでは私が申しあげる前から「理解しているんだけど、理解できていない感じ」として捉えられていたと思ってます、もやもやしますよね。)


だから、想うこと・考える自体は「こだわり」ではないのですが、

問題は、日常生活でなにか想った・考えた時に、
阿羅漢より下は、『必ず』こだわり(=上記の2つ目の想い)が含まれているのではないのか?という疑問に対して腑に落ちた理解が無いと、想いに束縛されたままで堂々巡りとなる訳です。


そしてその答えを私は申し上げようとして失敗したのですが(笑)、

ここまで整理した上で改めて申し上げますと、

阿羅漢より下は、
想った・考えた時に、こだわりが含まれている時が「多い」ですが、
状況次第では想っても・考えてもこだわりが含まれていない時もあるのですけれども、

こだわりが含まれていない想い・考えの時でも、
その想い・考えの中には、こだわりが生じる素因は『常に』潜在している為、
それが『想いに向かうもの=渇愛』自身の能動的な効果で起動すると、こだわりが含まれた想いに転変してしまうこともあるということです。


言い換えますと、

別に一般人はいつも妄想したり欲を出したり怒ったりと、貪瞋痴が表層に出ている想い「だけ」しか想ってないわけではありません。
無貪無瞋無痴の想いだって、阿羅漢じゃなくとも想う場合もあります。


ただし、阿羅漢と違って、
無貪無瞋無痴の想いを想っている時でも、『必ず』こだわりを始めとした貪瞋痴が生じる素因は含まれているので、
その想いがその素因自身の能動的な効果で起爆すると、理性でこだわりたくなくとも、情動で、動物的な本能で想っちゃう訳なのです。


(パーリ経では、その素因のことを、「生存の素因(ウパディ)」とか、「食」などと言っています。)


つまり、アンサーで申し上げると、先生の論理を始めとしたあらゆることを想うことはいつもこだわりか?と聞かれましたら、

場合によってはこだわりではないのですけれど、こだわりの素因がある想いではいつもあります。
とお答えすることとなる訳です。

(となりますと、日常のこだわりが含まれていない想い・考えって何ですか?となりますが、

朝起きてすぐトイレに行ったり顔を洗いに行ったりするルーチンで何も考えずに日々行っている動作とか、
1人でそこそこ集中して車の運転をしている時とか、
先生が生徒に何か聞かれた時に、とっさに返事したりするとかです。

ただし、鏡を見た時点で目のクマに反応してあまり寝れていないなとかと起動するわけですね笑


渇愛は相応部56-11「転法輪経」で、「再有をもたらし、喜悦の貪りをともない、そこかしこに対する歓喜ある渇愛」

『そこかしこに対する歓喜ある渇愛』

つまり、渇愛自体が能動的に情動的に想おうと、依拠できる対象物を知覚したら、勝手に付随する形で情動的に想っちゃうという形で表層に出てくるので、

自分の言動に常に注意を払っていれば、体感としてそれは2つめの付随の想いだと気が付けるわけです。)


これが私の最初のコメントで申し上げた先生の、


こだわるのではなく、こだわらないのではない。


の微妙な心境のニュアンスを、言語化して説明させて頂いたものなのですが、


一方でその後に骨董家の例えを使って、「それは私ではない」として情緒的な想いを遮断なされたらいかがですか?と申し上げた提案は、
その素因を取り除く具体的な実践方法なのです。

そしてそれは、なぜブッダが「非我…それは私ではない」と説いたかという説明にもなるのですが、

私とかつての和井さんも共通して解釈しているのが、


非我であることが、

論理的で理性的な知賢で分析なされた上での客観的であらゆる時代で不変である人類共通の普遍的な事実だから

ではなく、

ふと想った情緒的な想いに対して、
即座に「それは私ではない」と、情緒的な想いに対した厭離の想いを「恣意的に」浮かび上がらせることは、
人間は真逆の情緒的な想いを同時に想うことは構造的に不可能なので、

想いで想いを相殺することとなり、打ち消すという、イメトレによる遮断方法が、
素因を取り払うのに、『手っ取り早い』からです。


ここで注意を払って頂きたいのは、『手っ取り早い』と申し上げたところなのです。

ブッダは、

『非我』は客観的な事実なのでそれを体感レベルで自覚しないと素因から離れられないから
だとか、

『非我』だと想わないと構造的に素因から離れることができないメカニズムに人間の心は元からDNAレベルでデフォルトで成立しているから、
『非我』と潜在意識レベルまで刷り込みなさい、
他の苦・無常も併せて潜在意識レベルで心に刷り込まないと他の手段では『絶・対・に』素因を取り除くことはできません。

とはブッダは一言も言っていないのです。


彼自身は「苦行」を行って欲をある程度遮断した上で、四禅定に入り覚ったとされるわけですが、

そんな彼が自分の経験も踏まえて、再現性があり(彼の苦行の真似をすると死者がでます)、なるべく簡単な方法で、結果が出るのが「早い」具体的な遮断方法だと提案したのが、
『非我』と想って「厭い」相殺することなのです。


心の苦しみ、こだわりによる苦しみは理性的な想いであっても、
苦しみの成分自体は先生もご指摘なされた通り、情緒的な性質で構成されているモノなので、


鬱で引きこもっている人に論理的で合理的な論説で淡々と社会復帰を促しても効果が非常に得にくいように、

アリストテレスも相手を説得する時はロゴス(論理)と同時にパトス(情熱)・エトス(信頼)で相手の情緒に訴えかけたように、

情緒的な想いに対しては、論理で訴えても、響くのには「限界」がありますので、


十二縁起を始めとした世の中にあるご自身がまず理性的な観点で腑に落ちて納得できる論理を思考することで想いをそこそこ除去して、

残りカスに対してはその情緒と真逆の想いを恣意的に起動させることで情緒の想いだけを「エゴ殺し」するのです。

それを繰り返し続けていると、
これは経験談なので割り切ってご判断頂ければと思うのですが、

心の苦しみが生じても、常に心の苦しみは別物であると、相対化した感覚として受け取るように自動的になりますので、
途上でも苦しみを「真に受けなく」はなります。

(更に言えば、『手っ取り早い』一手段に過ぎませんので、他の方法を使っても方向性が一致さえしていれば同じ成果を得ることが期待できますので、
違う手段を取っても、合わせ技を使っても良い訳なのです。

パーリにも、九想とか、中部62等で具体的な他の方法が記されています。

私はパーリ経をベースに修行していて他はあまり知らないので依拠しておりますが、
先生が大乗や他の哲学等も含めて模索なされているのも、
上記の考え方なので、好意的に想わせて頂いております。)

以上が私が申しあげた「それは私ではない」提案なのです。

そして最後に、私のコメントで、

<仏典等で語られている世に存在するあらゆる論理の中で、一番覚りへの道へ直結している良い論理やその論理の正しい理解とは何かという追求方法から離れられて、


今まで培われてこられた論理思考で、
論理を始め、日常であらゆることを思考した際に付随して生じる情緒的な想いに対して、それは私であるのかと吟味なされると良いのではないでしょうか?


とコメントさせて頂きましたが、


改めて自身で読み返しますと意図を汲み取って頂きにくいわかりにくい言い回しになっているなと思ったので触れさせて頂きたいのですが、

「追求方法から離れられて」と申し上げましたのは、
先生に論理を考え・探求することを止めて下さいという意図ではないのです。


言い換えますと、
先ほどの相手を説得する時のロゴス(論理)・パトス(情熱)・エトス(信頼)の例のように、
日常で勝手に生じた想いに対し、論理だけでアプローチをかけるのでなく、

「並行して」時には「非我」を始めとした恣意的に作り出した情動の想いででもアプローチをかけてみてはいかがでしょうかということです。


哲学とか宗教などで覚りとか真我を目指されている世の中の方々を見ると、

世の中多々ある内から洗練されて選び抜かれたこの思想家・宗教家の論理を私の理解力を鍛えて適切に理解することができれば、覚りや真我が開いたりわかるのだ。

とか

心は情緒的なモノであるから、ひたすら瞑想したり山に籠って自然と一体になったりしてひたすらに自身を感受して向き合わなければならないのだ。


的に偏った道の追求をされている方が結構いらっしゃると思っているのですが、


私自身忘れないようにしているのですが、

心の苦しみ自体は散々指摘した通り、
根本的には情動的なモノであるのですが、

一方で、他人に説得する時のように、
ある程度は論理的でないと、心に響かない程度には情動は賢い?モノでもありますので、
バランスよくアプローチをかけないと、情緒を取り除く方向に心が動かないということです。


ブッダも欲が潜在しているので情緒的な想いは捨てろと繰り返し言っていますが、
一方で明らかに相手の情緒的な想いに訴えかけて自説を納得させている場面もあります(笑)。

先生はご自身が学ばれた論理が浮かび上がる度に、恐らく、

過去に学ばれた通りに想いだせているなぁとか、前に学んだ時よりも良い理解として思い出せたりして嬉しいなぁとか、

前にこう思惟した論理はちょっと違っていたのではないかなぁとか、前に結構頑張ったのにぼんやりとしか想いだせない、ヤバい

など、ブログで記されていたように、一喜一憂なされて、その情動に釣られていたことにふと気づき、
こだわらないぞ! こだわるもんかと

その勝手に生じた論理の想いに対して、想うと煩悩が出るので想うのをやめよう、想うのをやめようと理性的な想いと無思考になろうとする想いで永続的に消滅させようと思われていて、

結果的になかなかこだわりの想いが勝手に生じるのを止め難くなっている。

そういう形で悩まれているのだと思うのですが、(違っていたらごめんなさい)

論理の想いの内容の良し悪しに意識を向けられるのでなく、想ってしまったことに意識を向けられるのでもなく、

想った時に釣られる感覚を始めとした、今明らかに付随していると自覚できる情緒的・情動的な何かに対して、その情緒と真逆の感情(普通厭う)を、

時には論理的な思考を使って、時には情動的な想いを使って恣意的に新たな想いを浮かび上がらせてぶつけてみる。

時にはいきなり無思考になることにチャレンジされてみる。


これを続けていくと、いきなりは想いが生じなくなるわけではないですが、情動的な想いを生じさせることを心が反発するようになっていくので、

(なぜなら想わない方が苦しみが生じないので楽だと潜在意識レベルで心が腑に落ちて納得する感じがするからです)


徐々に、想った時に含まれる情動が少なくなっていき、想いはするものの情動に釣られてもの想いにふけることがなくなり、何か対象物を知覚しても想い自体があまり生じなくなっていくのだと、
経験談と、中部20でも近いことを書いているという一応エビデンス付きで考えているのです(笑)。

・・・。お返事で長文であるとご指摘頂きましたが、気が付けば大学生のレポート並に長くなってしまい、申し訳ございません。

私にとっては普段感覚的にやっていることなのですが、感覚的なことをいざ他人に最低限伝わる程度の長さで言語化しようとしたら、この有様です。


これだけ書いていて
結局は最初のコメントの一部を詳細にお伝えしただけと言えるのですが、


私も他人の意見は論理的でかつ、私の情緒的な想いにもびびっとくる見解でないと参考にしてみようとはまず思いませんので、

伝わっている部分かつ先生にとって役に立つとお想いになられたことだけ、試されてみても良いのかもしれません。


お返事頂けて嬉しかったのですが、このコメントに関しては読んで頂くだけでも大変だと想うので、
お返事は頂かなくても大丈夫です。
コメント欄を汚してしまい申し訳ございません。


今後とも頑張って下さい。


※「想いに向かうもの=渇愛」と記させて頂きましたが、
「想いに向かうもの」という表現は先生の「小空経」訳から引用させて頂いています。

片山先生の訳は優れているのですが、この経に関しては訳がイマイチであったため、先生の訳を読ませて頂いて、腑に落ちました。

ありがとうございます!

投稿: 武林壮太 | 2020/12/19 19:54

あなたには
文章を 読みたいように読む癖がある

 その癖 は、 人が共通して持つ 癖である
しかし、 それは、 一律ではない

あなたの場合は、 その人の 先行きを見越す 癖であり
他の人の場合は、 その人なりの 背負っている 「 業 」 による 癖である
   ( そのような癖 を 「 薫習 」 と言い、 サンスカーラである  )

あなたは、 間違ってはいない
何故なら、 あなたの読む対象 の人  は  必ず 成就するからである

そこに起きる、 順序 を 絶対のモノとすれば、
そこに   違順  が 起きている
     “ 後のモノを 先に置く ”  ことになる からである 

しかし、 順に拘らなければ、
あなたの読みは 必ず 正しいこととなる

他の人の場合 は 逆となる
  ( どのような構造で 逆となるかは よくよく考えて分かること )

考えが及ばないであろうから

考えがこれからも及ぶことのないように、 ここに記す

他の人の場合は、
      “ 前に起きていた こと(モノ) を、 後に置く ”   からである   
       起している誤り を、 今に “ 薫習 ” する  からである 


しかし、 論理に 順序 を 、  目暗滅法 に 適用すれば
         正しいことも 、  誤りとなる

“ 順序を 顛倒しても 誤ってはいないこと   が  あるのです ”


ここで、 武林壮太さん に 目を向けます

 順序 以前に  思考が 順をたがえている

言葉を それなりと言えども、 規定して 使ってはいないからです
( そのようなことに対して、 決して 肯定的な評価をしてはならない ! )


わたしが、 疑問形で書いたこと  を  真摯に考えなければなりません

「 熱 」 とは 科学的に言って、 何ですか ?
“ 触れる ” ということは、
  如何なる感覚機能によって “ 触れている ” と 認識されるものですか
更には、 感覚機能 とは  いかなる 物理現象であるか ということです

ここで、 更に、 物理現象  とは何か は  ( 敢えて ) 問いません


物理現象 は ジネン のことではないけれど 
     ( 自己という 「 五蘊仮和合 」 に起きる 故に、 避け難いからです )
 「 世間 」 においては、 “自然”な事  だからです


無闇に 闇のことを 自明のこととする時に
      「 言うまでもなく 」
という、     言辞      が 、 用いられる

このことについての、 説明ではあるが
    どれが、     その説明か  を   
説明している  のか    ということは

      “ 言うまでもないことである ”
    ( 言わずとも、 自明のことである )



投稿:  春間 則廣  | 2020/12/18 13:51

>拘らなくなっても、 拘りが起きると、 >拘る こととなる

>そのようなことはない   と 拘りを起こすから、           
>               そのようなことについて、 考えてしまう

わたしの「こだわることとこだわらないこと」は、春間さまの上の文章の中身だったな、と思いました。

そこが、武林壮太さまによって、指摘されたところでもある、と。

投稿: 管理人エム | 2020/12/18 12:17

“ 感じること ”  ( その対象 ) に 対して、
        「 実体 」 という名称を与えます

つまり、 「 実体 」 には “ 実体 ” が ないわけです
   ( 感じ方によって、 “ 感じること ” =  「 実体 」  は 変わります )        

      *********
(火の正体は熱で、一般的に熱が1000度を超えると可視化するものが火らしいのですが、その熱は科学的に分類すると個体でも気体でも液体でも無い、すなわち触れられる癖に、物質ではないそうです。
つまり、火は物質のように有る、とか、無い、とかで捉えられる代物ではないみたいです)   
      *********

> 火の正体は熱で
     熱の正体 は 何ですか ?
> 一般的に熱が1000度を超えると可視化するものが火らしいのですが、
     温度 の 正体は何ですか
     可視化する  ということは  どういうことですか

“ 炎 は 炎( 「 自体 」 ) を 照らさない ”
( 「 自体 」 とは 対象 を 認識すること= “ 感じること ”   自体 です )
 「 自体 」  とは、 起きていること・事態  です

感じること自体   が  「 自体 」 ですから
    “ 炎 は 炎( 「 自体 」 ) を 照らさない ”

>  熱が
>  科学的に分類すると個体でも気体でも液体でも無い、すなわち触れられる癖に質ではないそうです
     その分析 を 受け入れることは 科学的ですか
     触れられる・触れる  ということは、 何ですか
     物質 とは 何ですか 

これらの 疑問に対して、
       正しい 科学的な 理解があって、
その理解による、
       正しい “ そう・そうではない ” という “判断” が 起されます

しかし、 その “ 判断 ” は
     「 実体 」 という 与えられた 「 名称 」 の下の
選ばれた 「 実体 」 です

      *********
ただ、論理はそれを適切に理解できている者にとっては理性的で普遍的なモノであるはずで、
本来はその時々の感情次第で良し悪しが左右されるものでは無いとも思っております。
(素人の私が先生にこのようなことを言うと正に釈迦に説法ですので、言うまでもないことではあるのですが…)
      *********

> 論理はそれを適切に理解できている者にとっては理性的で普遍的なモノであるはずで
      そのはず( 理性的で普遍的なモノである ) 
      であるのに、  「 実体 」 は 変わっていく
            理性  とは 何ですか
            普遍的 という時の、 普遍  とは  どういうことですか

“ 正しさ ”  「 自体 」  が 量る基準によって 変わり、
量る基準 は 量る者によって 変わる

    殺人 は 正しいことではない
    正しくない者に、 死刑をあてはめる
        死刑  とは  殺人  です
        殺人 は 時と場合によって 理由付けされる
            理由 によって 殺人は 正しい選択とされる
       ( その、 理由 が 裁判の判決  です )
    殺人者  には   個々の理由がある
    裁判 は       殺人 の “ 正当なる ” 理由付けです
    理由によって は  殺人は 正当化される 、、、、

個々  は、 あなたという個 によって、 構成されていて
 その個 の判断によって 個々の判断は 皆の判断とされる


ジャンヌダルク は “ リンチ ” によって、 火あぶりにされ
“ リンチ ” によって、 バチカン  では、 聖者の列に並べられている
   ( バチカン の “ リンチ ” です )

理由付けによって   リンチになったり、 聖なる判断  となったり
    そのような     理由付けがされる

みんな で すれば、 “ リンチ ” ではない
  (  何人から みんな    ですか  )

火あぶりに処す者  には  処すことへの  理由があり
聖者に   処す者  には   処すに   適う 正当な理由   がある

理由によって、 正当・不当  が 決められる


“ 科学的 ” という 名称を冠すれば、
     その冠の下には     
科学的な考察( 名称 ) が 起きて、 立っている

その 「 名称 」   の  下での   冠の被り方  です


このように記述すると

考察の 無謬 に ついて 悲観的になってしまうかもしれませが
 “ 謬見 ”  が 起きる時、  「正見」 が 起きる
          そのことを、   「 縁起 」 に起きる   と言います

あらゆる考察  は “ 謬見 ”  です
(  「 識 」 は 「 無明 」に起きる )

       「 無明 」 には
         「 明 」  が  「 妙 」  として  起きている 



投稿:  春間 則廣  | 2020/12/18 07:22

武林壮太さま

こんな長文のご感想を頂けるとは!

じっくり拝読させていただきました。

なるほどなぁ~って、思います。
おっしゃるように、
「それはわたしではない」というところが欠落した感じは、実際のところわたしにもあります。こだわってますよね。

ここでのこだわりは「論理」という言葉とその意味ですね。

こだわらないぞ、とこだわってます。
そして、
こだわるぞ、とはこだわらないようにしようとしています…。

少し、「論理」についてお話ししますと、言葉である以上、ついて来るものは理性とか、というより、ある種の情緒になりやすいです。

論理(縁起)そのものが、やって来る時は、別段何と言うことなく自然と腑に落ちるのです。
それを表そうとするときに、「論理」という言葉がやって来る、いろんな装置がやって来る、それから、情緒もやって来る、ということでしょうか。そして、最後に「わたし」が付随する、ということなのかもしれないですね。

ブッダが論理を表に出さずにいて、後代5世紀になってディグナーガが仏教論理学(因明)を打ち立てた、というのもなぜなのか、ようやくわかってきました。

人々の煩悩を目に見える形にしようと思ったのですね。

「論理(学)」という言葉で示されているのは、ここでは煩悩という言葉で示されるものと同じで、ブッダが「論理」といったときは、強いて言葉でいうなら縁起ということだったのだなあと思います。

そこを語ろうとしたような気がしますが、もろ、自分の煩悩が出ましたね(笑)
でも、そこを鋭く読み取ってもらって、心の中では「しまったな」と思うと同時に「あ、伝わっているのだな」とも思います。

今回は、たいへんありがたく、伝わっている部分について感謝したいと思います。
骨董品の鑑定と同じように「わたしではない」を徹底しなくちゃいけませんね。
ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

投稿: 管理人エム | 2020/12/18 06:24

エム先生、こんにちは。

普段は読ませて頂いているだけの者なのですが、読ませて頂いてびびっとインスピレーションが湧いたので、自身の頭の体操も兼ねてコメントさせて頂きたいと思いました。


私はどちらかというと感性的な人間であるとも思っており、論理的に精密な文章を書くのが苦手であるので控えさせて頂いている面があるのですが、
それゆえ今読み返すと自論をストレートに申し上げている感じになっちゃっているように感じます。


世の中の方々の良いと思われる見解は様々だと思うので、こだわらずに素人の一見解として受け止めて頂けたら幸いです。


こだわるのではなく、こだわらないのではない。


こだわるで非ず、「こだわるで非ず」で非ず


先生の仰る通り論理も、

論理が浮かび上がったと同時にそれに付随して生じる、その時々の状況に沿って安心になったり不安になったりとする情緒的な想いも、
火のように実態が無いのだと思ってます。

(火の正体は熱で、一般的に熱が1000度を超えると可視化するものが火らしいのですが、その熱は科学的に分類すると個体でも気体でも液体でも無い、すなわち触れられる癖に、物質ではないそうです。
つまり、火は物質のように有る、とか、無い、とかで捉えられる代物ではないみたいです)   

ただ、論理はそれを適切に理解できている者にとっては理性的で普遍的なモノであるはずで、
本来はその時々の感情次第で良し悪しが左右されるものでは無いとも思っております。
(素人の私が先生にこのようなことを言うと正に釈迦に説法ですので、言うまでもないことではあるのですが…)

ブッダは論理でもって渇愛の完全なる滅尽への道を語ったとされる訳ですが、

ブッダが経典内では論理でもって自説を語るのは、
彼の自論のメカニズムを体感レベルで聞き手読み手がわかるように説明するには、
論理を使わないと意図を伝えられないからで、

だからこそ私も日々論理を思い浮かべることは必要なことだと思っております。


そしてその論理の扱い方として、
パーリ中部74ディーガナカ経の最初には、
先生の言われた非A非非Aという考え方でさえ、却って渇愛に近づいてしまう取扱い方と、渇愛から遠ざかることができる取扱い方の2つがあるとされています。

それがどういうことかと私が考えるに、

先生の論理的思考は学者として長年日々磨き上げられて研鑽されて来られたまるで伝家の宝刀であるとも私には見えますが、


世の中の熟練した骨董品などの鑑定人は、今まで培ってきた「眼」に依拠してモノの善し悪しを客観的に判断する一方で、
「眼」に依拠した時に付随する、鑑定物に対する個人的な好みのような情緒的な想いに対しては、

「それはプライベートの骨董家としての私であって、
プロの鑑定家としての私ではない」

と鑑定に必要な「眼」はオンでもオフでも最後まで注意深く意識を向け保持し続けるけれども、付随する情緒的に揺れる想いに対しては意識的に「それは私では無い」と遮断するそうです。

つまり、先生の論理的な思考を更に探求されたり磨かれたり新たに模索されたりすることは、プロの学者のお仕事としてはともかく、

ブッダの覚りを追体験なされたいという、学問の分野から離れたオフである実践的な観点からで言えば、

仏典等で語られている世に存在するあらゆる論理の中で、一番覚りへの道へ直結している良い論理やその論理の正しい理解とは何かという追求方法から離れられて、


今まで培われてこられた論理思考で、
論理を始め、日常であらゆることを思考した際に付随して生じる情緒的な想いに対して、それは私であるのかと吟味なされると良いのではないでしょうか?


その吟味で得られる成果が、中部74でブッダが推奨している方の非A非非Aを用いての思考の仕方であり、
中部35の無我の説明の例え話の意図であり、
同時にかつて10年程前に先生と討論された和井恵さんが先生にお伝えしたいと思っていたニュアンスであるとも考えております。
(私は瞑想で先に感覚だけ掴んでいたのですが、掲示板の過去ログで先生と彼の討論を読ませて頂いて、非A非非Aという概念を言語化して理解しました。)


すなわち、ブッダが残した渇愛の滅尽の真に正しい論理とは何なのかというアプローチをされることから離れて、
記事で記されていたような日常を過ごしている際に体感で知ることができる情緒的な想いに対して、仏典等から学ばれた論理で理性的に吟味する。


一言で申せば、視点を変えて観るということ、

論理を思考した時に、想いの中の、情緒的な想いを理性的な思考で徐々に取り除いていくことで心の苦しみを生じさせる原因である情緒的な想いから永遠に離れるということなんだと思います。

まるで鍋を煮た後食べる前にアクを掬い取るように、

論理で、情緒的な明らかに「それは私でない」想いを炙り出して、その論理そのもの(鍋)に意識を向けるのでなく、それに付随して生じた情緒的な楽しい・苦しい感覚(アク)に意識を向けて論理でもって吟味してみる。


それで培われて体感で現れた成果が、パーリで何度も出てくる、厭離し、離貪する、離貪により解脱するであり、
ブッダが伝えたかった、彼の渇愛の滅尽に繋がる自論の理論なのだと思っております。


わたしの自己は、論理を求めているけれど、

論理学を求めているわけではないので、

形には現れない。


ただ、得たとき、安心があるだけだ。

得てないときは、探し続ける。


先生のこの文を読ませて頂いた時に、
思考している時って、確かになんとも言えない想いもふと湧いて、その想いの気分に釣られてもの思いにふけることって世間的にもあるあるの話ですよね。と想い、
今回書かせて頂いた内容がふと思いつきました。

学者のお仕事をされながらも掲示板とこのブログに顔を出して意見交換や討論をなされているのは大変だなあといつも思っているのですが、

読者である私にとっては、知識が得られる貴重な場であり有難く思っております。


ご無理のないように、今後とも頑張ってください。

投稿: 武林壮太 | 2020/12/18 00:42

どのようなことにでも  拘りは起きる

拘りがなくなると、 拘らなくなる    ( 当たり前 か 、、、、 )

拘らなくなっても、 拘りが起きると、 拘る こととなる

そのようなことはない   と 拘りを起こすから、           
               そのようなことについて、 考えてしまう
             (   これまた、 当たり前 か 、、、、 )

ちょっとだけ、 拘ってみた 、、、、


このようなことに、 拘りを持たない時
    どのようなことが起きているか 、
      拘ってみる のも 、      一興  である  が      
一興 が  拘りに起きる とは  思いもしない 、、、、


      どうでもよいことに、 拘っていてはいけない


何が それか は、 拘りなく考える時 に 分かる



投稿:  春間 則廣  | 2020/12/17 11:30

モノ申す 人 が 写真を撮るよりも

  写真家  が 物申す 報 のがよいか

そこについて は、
   申してはいない

本がよい  とは   一度も言ったことはないが、
写真が善い とは   何度も 言っている 


言っていることが 正しいか否  かは

聞いている人 が 決めることに過ぎない 、、、、


わたしも聞いて いつつ、 語っている

  ことを、 忘れてはならない 、、、、

投稿:  春間 則廣  | 2020/12/15 09:37

写真を褒められるなんて!?

ものすごくテキトーに撮ったのに。


まあ、でも、ありがたい。
全部ダメより、ずっといいかも。

さんきゅっ。写真家になろうかな…

投稿: 管理人エム | 2020/12/15 08:54

いつも、写真がよい

論理学者になるよりも
仏教者になるよりも

写真が好い


写真が 語っている

雪 も 帰りも

浅く、淡く映る 、、、、

> こだわらなさすぎた??

こだわらなさすぎ

こだわった

投稿:  春間 則廣  | 2020/12/14 18:45

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