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2020/04/20

スピード感をもって(?) ん??

どうも、引っかかることばが最近多い。

 

政府関係者の人々が使うこんな表現

「スピード感をもって、対処したいと思います」

 

なんだ、これは?

けっこう、みんな使っている。

おかしいと思う感覚も麻痺したようだ。

 

「すぐに対処します」

と、どうして言えないのだろう。

 

すぐに対処しないが、「すぐに」やっているように見せかけたい、んだろうね。

どうしても、人間は嘘をつけないようにできているらしいね。

Dsc02742

 

       ◇◇◇

 

「時」について、尊者サミッディは、神にこのように言われました。

「比丘よ、若いあなたは出家しました。

若々しく、漆黒の髪をもち、吉祥な若さをもちながら、

(人生の)第一の時代に諸欲に遊び戯れることなく。

比丘よ、人が求める欲望の中で食べなさい(=享受しなさい)。

現に見られたことを捨てて、時を要することにしたがうことはありません」と。

 

若いんだから、もっと遊びなさいよ。

すぐに若さはなくなってしまうんだから。

修行なんて後でもいいから、さ。

 

こう、神さまは、サミッディ尊者に誘いをかけたけど

サミッディ尊者は、

時を要することを捨てて現に見られたことに従っているだけ、と答えるのです。

 

「友よ(神さまのこと)、時を要する諸欲は、苦しみが多く憂いも多く、

ここにある危難はいっそう多い、と尊師は言いました。

現に見られるこの法は、時の要らないもの、来て見るべきもの、

導くもの、智者たちが各自知るべきものなのです」

 

サミッディは答えます。

現に見られる法こそ、時の要らないもの。

諸欲を求めるのは、時を要する苦しみの多いもの。

 

神さまは、意味がよくわからず、ブッダのところまで行って尋ねるのです。

 

ブッダは、「時」に注目させるのではなく、

『今、やりなさい』と、「現に見られる法」を教えます。

つまり、「空」を説くのです。

 

ここだよ!空は!

 

ブッダは詩で語ります。

「語られるべきものを心に思う衆生たちは、

語られるべきものに依止している。

語られるべきものをあまねく了知せず、

(かれらは)死神の束縛に近づいていく」

 

神さまは、何のことかわかりません。むずかしいね、わたしたちにも。

 

説明してみるよ。

 

わたしたちは、衆生です。この神さまと同じです。

コロナ・ウィルス関連のことばに心を痛めて

そのことばかりを考えています。

コロナをあまねく知っていれば恐くはないのに、

知らないので、不安がつもり、逆にどんどん死に神に近づいていくのです。

 

ブッダは、神さまに説明します。

具体的にやることを言うのです。

 

ブッダは言います。

「『同じである』とか『勝れている』とか『劣っている』とか考える者は、

これによって争論することにもなりましょう。

これら三種の中で動揺しない人―かれには『同じである』も『勝れている』も

(『劣っている』も)ありません」

コロナの感染が起こって、差別が生まれてくる。

コロナ感染の恐れがある人を、露骨に遠ざけたりする。

医療関係の人たちですら、差別されてしまう。

中小企業の弱者の人々は、切り捨てられていく。

 

ブッダは、さらに言うんだよ。

悟った者について、説明してくれる。

「(悟ったかれは、)名称を捨て去って、天宮に到達することなく、

この世における名称と色かたちにおいて渇愛を断ちきった。

神々と人間たちは、この世でも、他の世でも、天界でも、あらゆる住処において、

結び目(=束縛)を断ちきって苦しみなく求めるもののないかれを、

探し続けているが、得られなかった。

もし、あなたが、識っているなら、告げてください、ヤッカ(この神さまを指す)よ」

 

神さまは、ピンときたね。

難しいことばに惑わされず、何をどうすればいいのか、つかんだんだ。

悟ったブッダを見て、悟った者の言うことを、悟った!

 

わかった神さまは、答えます!

 

「あらゆる世界において、ことばによっても、心によっても、身体によっても、

いかなる悪も行わないようにしよう。

諸々の欲望を捨てて、気づきをもち、正しく知って、

利益をともなわない苦しみにしたがわないようにしよう」

 

神さまと同じように、わたしたちも、わかるよね。

互いに差別せず、いろんな欲望をがまんして、

今、やるべきことを、ただちにやるのさ!

 

「スピード感もって」じゃなくて

「現に」見えていることに「ただちに」対処すべし!

悪をなすな、ただちになすべきことをなせ!

Dsc02739

『サンユッタ・ニカーヤ』1.2.10「サミッディ」を使いました。

cf.中村元訳『ブッダ 神々との対話』(岩波文庫)、pp.28-35.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

袴谷氏については、
バラモン教的な解釈(非仏教的な解釈)というところまではいくけれど、
そこを進めてブッダの説くところを
独自に解釈する(自分の解釈)というところまで、いけない、ということかと。

その、いたらないバラモン教的な解釈のモヤモヤ感を、大乗のせいにして、批判する。

だから、“批判仏教”を、ご自分の立場とするということなのかな、と、わたしは解釈しました。

確かに、他者批判も教えの中にないわけではないが、しかし、それは、本来の目的では無い。仮設して、肯定的に語る時、苦しみのない境地が現出します。そっちも、考えないと、ダメよ、ということで。

どうでしょう?
読みが浅かったら、ごめん。

投稿: 管理人エム | 2020/04/26 11:57

>xxiv
>「 縁起 」  は     多寡   を 否定する      
> 多い少ない  は  その“多さ”  の 規定で 変わる
>  →    「 縁起 」 = 「 空 」 である

p.24をあらためて読みました。
プラセーナジット王より貧女の方が「心」が「澄浄(プラサーダ)」だったから、成仏できた、とあります。
春間さまは、多寡に着目されましたが、わたしは、それに加えて「プラサーダ」に眼が行きました。

プラサーダは、『ヨーガ・スートラ』に出てくる。
ブッダのことば「内面の寂静」をアレンジして「内面の清澄(アディヤートマ・プラサーダ)」といったのだ、と『『スッタニパータ』と大乗への道』(p.165)に書きました。

袴谷氏について、
縁起を理解できないと見るのもありかと思いますが、ブッダの縁起をヒンドゥー教がアレンジして用いているその考え方を、仏教の考え方だと誤解している、と見ても、良いかもしれないです。

これは、先ほども書いたように、
ウパニシャッドの業の思想を引いて語るその語句が、「かれの思想でないとは言えない」というところにつながります。
袴谷氏は、考えの奥底に、非仏教的な思想(実在論的なものの見方)をどうしてももってしまう、という傾向があると思います。

それを強く感じました。
今回も、かれが(正しいと思って)強く主張すればするほど、バラモン教的な思惟が顕わになりますね。

そして、それを良しとするわけにもいかない、ということもわかるから、
それを、「大乗」の誤りとして、提示しているのだと思います。

どうかな。。今までは、はっきり言わないでいましたが、
今回、春間さまに責められたので、

はっきり言ってみました。

投稿: 管理人エム | 2020/04/26 11:39

袴谷憲昭 は  「 縁起 」  を 知らない

知らない  ということを  知ってはいない

先にあげた、“ 略歴業績及び退職の辞 ” を 読んでも 分かる
( もっとも、 本人は  「 縁起 」 に ついて 知っていることを 述べている )
 xxiv
 「 縁起 」  は     多寡   を 否定する      
 多い少ない  は  その“多さ”  の 規定で 変わる
  →    「 縁起 」 = 「 空 」 である


一部 と 全部   も   「 縁起 」  にある
( 一部 は その 全部 であるが、 全部を顛倒すると、 一部しか見えなくなる )


 「 心 」 で 変わるのではなく、 量り方で 変わるのである
量る 「 心 」   は 一つだが、
その  「 心 」  の 所在は 「 我 」 には ない
量ると 量る場所が 心の外に 起される


 「 心 」  は  「 真空 」 であり  「 妙有 」  なのだから 、、、、


投稿:  春間 則廣  | 2020/04/26 10:07

春間さま

>袴谷 は 「 業 」 について その著書を基にして、 解説している

>そういうことに対しての
わたしに起きる  袴谷憲昭に対する “ 批判仏教 ” です

袴谷氏のものは、あげてくれた書は読んでいないように思いますが、ウパニシャッドをあげて語っているとき
>その引いた語句 が 彼の思想ではないとは 言えない
というのは、そのとおりだと思います。
どこかで、わたしも、袴谷氏の何かを読んで、そう思った事があります。

そもそも「業」を取り上げているというのが、わたしには、??なのです。

ブッダは、カンマに違う意味を与えているのではないでしょうか。

世俗的な表現としてカンマを使ったのは、みますが、いわゆる業(ごう)とされる潜在的な力の存在を示すような使い方は、ブッダはしていないと思います。

仏性(ブッダ・ダートゥ)の奥深さを、知らないようだなと、わたしは思っています。

如来蔵や仏性は、仏教の成熟期に出てくるものの見方である、という風に、今のところ思っています。

投稿: 管理人エム | 2020/04/26 09:16

袴谷憲昭  を引いたのは 意味がある

「 批判仏教 」 ・ 「 本覚思想批判 」 の 著者であるから です

かつて 今は亡き  ixtlan君が 拠り所 としたところです

袂を分かちはしたけれど、
松本史郎 と (かつては)同段で 論陣を張っていた
   https://nirc.nanzan-u.ac.jp/nfile/3838
『 両氏の論は、ここ数年の 間に西洋でも知られるようになってきた。 それはつまり、「仏性は仏教にあらず、本覚 思想も、京都学派も、維摩経の不二思想も、 真如も、禅のほとんども、仏教ではない」 というのである。 』


一々の 仏教学者の 言ったことの内容を 披露 する事はないけれど
それが、 内容を理解できてはいない ということを 意味しない

わたしは、 「 如来蔵 」 や 「 本覚 」 を 標ぼうしている
    その上での  引用である
袴谷 は 「 業 」 について その著書を基にして、 解説している

そういうことに対しての
わたしに起きる  袴谷憲昭に対する “ 批判仏教 ” です

ウパニシャッド を 引いているからといって 
その引いた語句 が 彼の思想ではないとは 言えない
( 引くのには、 目的があり、 その目的に沿って 引かれることが 起きる )

佐保田鶴治 を 引いたのは、
ヨーガ ( 瑜伽 「 唯識 」 ) に 関係するからである

袴谷憲昭 は 曹洞宗 の 釜の飯を食って 育った ( 駒沢で教鞭をとっていた )
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/32643/rbb042-01-hakamayanoriaki.pdf#search=%27%E8%A2%B4%E8%B0%B7%E6%86%B2%E6%98%AD++%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97%27

その 袴谷の 坐禅 を 批判する  “ 批判仏教 ”  が  わたしが 引く目的である


それを分かれ  とは 言わない
分かるには 分かるだけの ( 学問的 )積み重ねが 必要となるからである


わたしにそれがない  ( = どのようにあるか )  ということは
  あなたの知るところ      にある



投稿:  春間 則廣  | 2020/04/26 06:14

ブッダに眼を向けると、
ブッダもまた同じ眼で見返してくれていることに気づくのです。

あ、そうだったんだ!
わたしのことを知っていて、
心配してくれていたのか、

って、分かるのです。

無量光仏が見えてくる。
無量寿仏が見えてくる。

投稿: 管理人エム | 2020/04/22 06:18

>> 「あなた」がブッダと同じことをするのかどうか、

>  なのではなく、
>  ブッダは、いつでも「あなた」と同じことをしていて、それでもなお!覚りにいった、
>  と思うからこそ、ブッダに眼を向けるのです。

目を向ける    ( かどうか )  
  ということに  するかどうか

目を向ければ、目を向けているブッダ  と 同じ所にいる

    けれども
いるところ( 同じ所 )  は いないところ( 不同の所 )の 内にある
    そういうこと を        「 平等 」  と 言う語で 表現する


投稿:  春間 則廣  | 2020/04/21 08:54

>あなたが仏教徒であるためには
> ブッダと 同じ事をしなければならない
>同じ事をしているあなたは ブッダ との> 差異が 行ないに於いて無い

「あなた」がブッダと同じことをするのかどうか、
なのではなく、
ブッダは、いつでも「あなた」と同じことをしていて、それでもなお!覚りにいった、
と思うからこそ、ブッダに眼を向けるのです。

こういう風に考えると「仏教徒」ということばを使わなくてもすみます。

投稿: 管理人エム | 2020/04/21 06:45

「 四食 」

「比丘よ、若いあなたは出家しました。
若々しく、漆黒の髪をもち、吉祥な若さをもちながら、
(人生の)第一の時代に諸欲に遊び戯れることなく。
比丘よ、人が求める欲望の中で食べなさい(=享受しなさい)。
現に見られたことを捨てて、時を要することにしたがうことはありません」


「 勝論経 」  金倉円照 「 印度哲学仏教学研究 2 」 381p. ~  

「 食べる 」 「 断食 」


  『ブッダ 神々との対話』  中村 元 訳 

わたしも。これを読んでいます
他の訳も読みますが、中村元 は よい

ただし 中村元 は 仏教徒ではない
だから、 よけいに良い とも言える
( 「 信 」 を 持ちさえすれば、 訳の誤謬は どうとでもなる )

自分が、 仏教徒だと思う  人  の   ほとんどすべては、
その仏教を 仏教徒ではない者から 学んで、 その根拠としている

誰が、 仏教徒か を 決めているのが、 思い込みにある自分である

仏教徒 ではない者の言を 仏教徒から聞くのは 仏教徒ではない者
( 意味が分かるかな ? )

あなたが仏教徒であるためには
ブッダと 同じ事をしなければならない
同じ事をしているあなたは ブッダ との 差異が 行ないに於いて無い

あなたの五蘊を 形作るのは 
あなたに沿って 積まれた  「 行 」 である
それを     「 業(ごう) 」  とも   呼ぶ

袴谷憲昭 は 「仏教・印度思想辞典」 において
業とは、死後にも残存する潜在的な力 だと
 「 プリハッド・アーラニヤカウ・パニシャッド 3-2-13 」   を引く
( 佐保田鶴治 「 ウパニシャッド 」 平川出版社 101p. → 349p. )


強をもってして 柔を制す  ( 逆である )

「 自由 」 を もって(根拠) して(行ない)  「 業 」 ・  「 行 」   を 制す

あなたが好き勝手に、 正否 を 判断することは  「 自由 」 ではないし
 「 平等 」 に 基づいてはいない

 「 平等 」 に 基づく という 思い は、 
それと隔てる 対象  を  確立しない限り 起せない

自分が どういう根拠で、 “ 対象外 ” にあるかを
正しく思惟  してほしい


投稿:  春間 則廣  | 2020/04/20 22:41

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