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2019/12/02

覚ること

記事を書いていたら、消えました。

「覚ること」というタイトルだったのにぃ…

消えたよ。

 

何か、未来を象徴するかのようですが、気にしないぞ…

気にするもんかぁ。

 

って、書けば書くほど気にしていることが、ばれちゃうわ。

 

          ◇◇◇

 

悪魔とお釈迦さんが対話しているところでした。

『大般涅槃経』には、こうあります。

悪魔は、さかんに、お釈迦さんにこう言います。

「尊師よ、今、涅槃にお入りください。善逝よ、涅槃にお入りください。

尊師にとって般涅槃の時は、今です、尊師よ、尊師はかつてこのようなことばを述べました。―― 

『パーピマンよ、わたしの比丘たち、声聞たちが、聡明であり、訓練され、畏れなく、(1)

多くを聞いて、

法を保ち、法にしたがった法を具えて、正しく得て行じ、法に随って歩むものであり、(2)

自らまたは師によるものを獲得したのち、

告げて(ācikkhanti)教示して(desenti)分からせて(paññapenti)、(3)

設定して(paṭṭhapenti)開いて(vivaranti)分析して(vibhajanti)明らかにし(uttānīkaronti)、(4)

起こった異論を、法をともなうことによって、よく説き伏せて、敗北させて、(5)

奇蹟に満ちた法を説示しない限りは、わたしは、涅槃には入らないだろう』と。」

 

         ◇◇◇

 

じつは、この悪魔の言葉の中にある

お釈迦さんの教授法に目を奪われていたのです。

すごい方法だ。誰でも、この通りにやれば、お釈迦さんになれる、ブッダになれる。

覚れるのです。

(1)(2)は、学習の初期で、教えを習うという段階。

(3)(4)は、会得したものを他に教える段階。

(5)は、ほんとうに得ているという応用の段階。相手を敗北させる、ってあるね。

相手を説得して、うなずかせてこそ、真実であると示せるわけだね。

「奇蹟に満ちた法を説示する」は、おまけみたいなもの。

ここまで来たら、ほんとにすごい。

 

覚りに向かう法というのは、ここまですごいんだぞ、

と示しているようでもあり、

これだけ完璧に行えば、あなたも覚るよ、

と言っているようでもあり、

勉強でも何でも、わたし(お釈迦さん)はこうやったんだよ、

と言ってるようでもあり、

行うことの手本を示しているようでもあります。

 

究極の学習指導要領だわ。

 

あたりまえすぎるが故に、奇蹟なのです。

ブッダの教えがすごいのは、あたりまえすぎるからなのだ。

 

いつも、そのあたりまえさに気づいて、

驚愕するのです。

Photo_20191202055001

この本では、pp.72-74に載っています。

 

学校に行こう。。

今日は、『大般涅槃経』の勉強をするのです。

 

 

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コメント

>しかるに、 龍樹に出会ったときには そうではなっかた

>なんで こんな 当たり前のこと を 当たり前なるが如く 語るのだろうか ?
>と 疑問を起こした

そうですか。
わかるような気がします。

何も考えないとき、すごくよくわかる。

誰かの意見を聞いて考え始めると、全然わからないことが書いてあるように見える。

変化(へんげ)の妙。

投稿: 管理人エム | 2019/12/10 12:39

>  あたりまえすぎるが故に、奇蹟なのです。

当たり前のことが 奇跡なら
奇跡 は 当たり前です

言い伝えが、 どう( どのような構造に於いての )当たり前 かを
考えます
それぞれの 比喩によって 説かれていることが
当たり前 、、、、

> ブッダの教えがすごいのは、あたりまえすぎるからなのだ。


わたしは そうは受け止めなかった
過去形であるのには わけがある
ブッダ の 声を 伝聞 によって、 聞いていたから

しかるに、 龍樹に出会ったときには そうではなっかた

なんで こんな 当たり前のこと を 当たり前なるが如く 語るのだろうか ?
と 疑問を起こした

そこには、 やはり  複雑に 伝承 が 混じっていた

それでも、 龍樹とブッダ は 一つではなかった
龍樹 と ブッダ と 菩薩  という  二つの名称に 彩られていたから


今気づいた  ともいえる
気付いていたことに 今 気付いている ともいえる



投稿:  春間 則廣  | 2019/12/03 09:00

>  起こった異論を、法をともなうことによって、よく説き伏せて、敗北させて、   

   説き伏せられているかどうか は、お釈迦さんが 知る事

> (5)奇蹟に満ちた法を説示しない限りは、わたしは、涅槃には入らないだろう』と。」

   説示しているかどうか も お釈迦さん の 領域


わたし は 何も知らない ということさえ 知らない  から
知っていることから 離れることが出来ない

ただ、 オーム のように 繰り返すしか 術がないが、
オーム のように繰り返しているという事は、
お釈迦さま が 決めること

それを、 あなたは 決めることが出来る

オームのように 繰り返したのでは、
 繰り返したこと とは   なりはしない


投稿:  春間 則廣  | 2019/12/02 12:15

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