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2019/12/30

悟ること(誤らないこと・揺れないこと) 

お気楽掲示板に、次のように書きました。

 

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Re: ご参考までに  管理人エム 2019/12/01(Sun) 20:47 No.55781

言葉の誤謬は、それがすべてです。その人のすべてです。
理解できたとき、会得できたとき、あるがままに語ってミスがありません。
口から出て来るのは智慧の言葉なのです。

仏陀は、どんな場合にもあやまつことがありませんでした。

言葉というのは、行いなのです。

行いを尋ねているのですから、もし、真剣に追求していれば、

おのずと何かが口をついて出てくるでしょう。

それを待っているのです。

 

=======

「智慧」ということについて、

わたしは、ずっとこう思ってきたのです。

なぜなら、ずっとわたしは、ことばの誤謬をおかしつづけて、

今日にいたっているからです。

 

       ◇◇◇

 

仏教の世界を体験してから、

「なぜ、ブッダは、まちがわないのか」

これをテーマにして研究してきた、といっても過言ではないのです。

それは、「揺れたくない。判断を誤りたくない」と思い続け、

自分でも、「語ることばは常に真実でありたい」と願ってきたからです。

 

       ◇◇◇

 

で、28日、最後の「朝日カルチャーセンター」の講義に行ってきました。

『スッタニパータ』「彼岸道品」を読んでいるのですが、

“誤りをおかさない”、そして、常に“揺れない”でいるブッダに出合いました。

まずは、質問したティッサ・メッテイヤ学人のことばから。

 

=====

1040「この世界において、誰が満足した者なのですか。

誰に、諸々の動揺することがらがないのですか。

だれが、両極端を知って、中間においてよく考慮して染まらないのですか。

誰を、偉大な人と語るのですか。だれが、この世で、愛着(縫い子、sibbanī)を超えたのですか」

と、ティッサ・メッティヤ尊者は言いました。

=====

 

これに対して、“揺れない” ブッダが答えます。

=====

1041「諸欲の中で清浄行をもち、渇愛を離れて、常に気づいており、

考量して寂静となっている比丘、かれには、諸々の動揺する事柄がありません。

1042 かれは、両極端を知って、真ん中においてよく考慮して、染まることがありません。

かれを「偉大な人」とわたしは言うのです。

かれは、この世において愛着(縫い子、シッバニー)を超えました。」

=====

 

「両極端」とは、苦楽や善悪のような相対的な判断のことで、

人は、その判断の中で、どうしても揺れてしまうのです。

ここには、仏教の「中道」が説かれている、と見てもよいし、

ただ、ウパニシャッドに説かれるバラモン教の思想を否定している、と見てもよいでしょう。

あら、これは揺れてるわけじゃないですねん。

 

この世で「愛着(縫い子)を超える」のうち、

縫い子(縫う女とも訳される)は、刺繍を縫う縫い子のことで、

古くなった縫い取りを取りはらい、新しい縫い取りを施す縫い子の技を指しています。

 

新しい縫い取りをそこに施すことは、新しい身体を得ることの喩えです。

だから、アートマンが古い身体を捨てて、(縫い子が新しい刺繍を施すように)

新しい身体を得ることを指しているのです。

輪廻を語っているのです。

『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』には次のようにあります。

 

====

刺繍の縫い子が、刺繍の一つの断片(ユニット)を取って、他のいっそう新しい、より美しい形を作り出すように、同じように、アートマンはこの身体を捨てて、無明をおいやり、より新しくより美しい形を作り出すのである。祖霊の、あるいは、ガンダルヴァの、あるいは、神霊の、あるいは、プラジャーパティの、ブラフマーの、他の生き物たちの(姿形を)。(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』4.4.4)
====

 

ブッダは、1042で、こう言っています。

「両極端を知って、

真ん中においてよく考慮して、

染まることがありません」

 

「両極端」は、あれかこれかと迷う選択肢のうちの、二つの限界点を指しています。

それを「如来所説経」でやってみるよ。http://manikana.la.coocan.jp/canon/tathagata.html

 

そこ(両極端)を見て考慮してみると、

「3 それは、愛欲において欲楽の生活に耽溺することであり、下劣で卑しく、

凡夫に属するものであって、聖ならざるものであって、利益のないものである。 

そして(もう一つは)、苦行を実践することであり、苦しみであり、

聖ならざるものであって、利益のないものである。」

と出てきます。

真ん中を考慮すると、「中道」です。

どちらにもよらない、染まらない道が見つかります。

それが、具体的には、「八正道」ということになるのです。

 

揺れないブッダの、揺れない答があります。

しかし、考えてみると、

これは、ティッサ・メッテイヤ学人に語っていて、

かれは、仏教の教えなど、まったく知らないのです。

だから、かれが聞いているのは、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』に

合わせて語ってくれるブッダのことばなのです。

聞いてる本人も、そこを意識してたずねてもいるのです。

 

ところが、なんとなんと! ブッダは、自分の弟子たちにも

ティッサ・メッテイッヤに語った教えと、寸分違わぬように見える教えを語るのです。

それが「如来所説経」です。有名な、苦楽二辺の中道が語られるのです。

だから、スマ長老は、『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』の中で、

Photo_20191230103101

「縫う女(sibbani)」という文学的な表現で、渇愛を示している(p.133)

と、説明するのです。

 

それぞれ立場の異なる、

バラモン教のティッサ・メッテイヤ学人と上座部スマナサーラ長老に対して

ブッダは、一つの答を与えていて、そこでしっかりとおさまっているのです。

 

ティッサ・メッテイヤ学人は、満足し、

スマナサーラ長老も、この章の終わりで

「渇愛が消えたら、満足に達しているのです」(pp.133-134)

と、満足の色を浮かべて答えているのです。

つまり、輪廻からの解脱を語っている、と説明しているのです。

 

       ◇◇◇

 

なんなんだろうか、いったい!

どう考えたらよいの??!!

 

はるか2500年前のバラモンのティッサメッテイヤを満足させ、

現代に生きる上座部の智慧者スマナサーラ長老を満足させ、

そして、それを見ているわたしを、大満足させる ブッダさまさま

 

おがみます

おせちをお供えします

おもちもお供えします

御神酒はやめます

 

今年も1年、智慧で救ってくれて、ありがとね!

 

来年は、“揺れない” わたしになりたいわ。

智慧のおすそ分け、ってないのかな。。

 

お、しゃしん写真

Dsc02691

ふんわり雪をかぶったナナカマド(朝カル教室の帰り道)

 

みなさま、良いお年を!

 

 

 

 

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コメント

> 「さあ」は、‘ハンダ ダーニ’ でしょう。
> ‘ハンダ’は 「いざ」
> ‘ダーニ’は 「今」

> やるのは、今でしょ、って言ってるな。

言っていることは それに従って、 行われるときに 決まる
意味とは そういうこと
あなたの聞き方に沿って、 あなたの行いが決まっていく

どう決まったかは、 あなたの手を離れる 、、、、

「 やるのは  さあ今 」 と言われて、 
やることが起き、 やるかどうかが 起きていく 、、、、

時が 永遠ではない限り、
過去今未来 は 決まってはいない

永遠を知る者のみに、 「 今 」 が ある


> これを誤謬としてやってしまうと、ことばで語れないことになります。

> ことばがことばとして一つの意味しかもたない

一つの意味を持たせて、 語ることはできます

“ 今 ”  の意味を  過去とすればよい
“ 未来 ” の意味も、 過去とすればよい
“ 過去 ” の 意味を 未来 とすればよい

今と未来 の意味を 未来に決めればよい
( 過去に )決めたことを  未来に展望すれば
展望したことが、 過去に 置かれ、
未来に 決まっていく

過去に決めたことが、 今 決まった通りになっているかどうかは、
未来に決まる ( 未だ決まってはいない )

過去にどう決めたかを、 今 決めるのであれば
何を決めたかは、 まだ決まってはいない

未来があるから、 牟尼たちは 「 今 」 に 生きている


「 そのようなことは、 過去にすでに決まっている 」

決まっているかどうかは、 あなたの決め方 が 決める

決まっていますか ? 
あなたの決め方は 、、、、


意味は 決められた のだろうか ?



投稿:  春間 則廣  | 2020/01/06 11:51

>ここに 言葉の 誤り(誤謬) がある

>「  今  」  とは 未来であり、過去にしか存在しない


もう誤りが!
といいたいところですが、
これを誤謬としてやってしまうと、ことばで語れないことになります。

ことばがことばとして一つの意味しかもたない

という考えを捨てるなら、わたしたちはまだ話し合える。

「今」とブッダも臨終の時、語っています。

「さあ、修行僧たちよ。おまえたちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と」(中村訳『ブッダ最後の旅』より)

「さあ」は、‘ハンダ ダーニ’ でしょう。
‘ハンダ’は 「いざ」
‘ダーニ’は 「今」

やるのは、今でしょ、って言ってるな。

投稿: 管理人エム | 2020/01/06 06:33

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 智慧」ということについて、
わたしは、ずっとこう思ってきたのです。
なぜなら、ずっとわたしは、ことばの誤謬をおかしつづけて、
今日にいたっているからです。 」 
           ・・・・・・・・・・・・・・・・・

「 ずっとわたしは、ことばの誤謬をおかしつづけて、 今日にいたっている 」

今日 に “ 今 ” は 入りますか ?


「 振り返ると、“ 過去 ”になる。 」
その見ているところに 過去が 存在し、 そこから
「 前を見ると、“ 未来 “になる。 」
という 未来が 今にある


ここに 言葉の 誤り(誤謬) がある


「  今  」  とは 未来であり、過去にしか存在しない


・ 

投稿:  春間 則廣  | 2020/01/04 10:04

春間さま

あけましておめでとうございます。

>今日 には “ 今 ” は 含まれますか ?

今日ただいま、2020年の幕開けですね。
“ 今 ”は、いつでも、 今 だなぁ。

振り返ると、“ 過去 ”になる。
前を見ると、“ 未来 “になる。

気にせず生きよう、って思っています。

今年もよろしくお願いします。


投稿: 管理人エム | 2020/01/01 07:23


>    「智慧」ということについて、
>    わたしは、ずっとこう思ってきたのです。

> なぜなら、ずっとわたしは、
>  ことばの誤謬をおかしつづけて、
>  今日にいたっているからです。

今日 には “ 今 ” は 含まれますか ?

もし含まれないのなら、
そのどこを探そうと、 「 ことばの誤謬 」 は 見つかりません

誤謬 が  「 縁起 」 を  離れて 存在できるとする のであれば、
誤謬 は  「 永遠 」 に その存在  を 置きます

“ ずっとこう思ってきた ”   ことは 今思っていることの  “ 足 ”  です

その 足   の下に 「 道 」 が 見つけられている

====
刺繍の縫い子が、刺繍の一つの断片(ユニット)を取って、他のいっそう新しい、より美しい形を作り出すように、同じように、アートマンはこの身体を捨てて、無明をおいやり、より新しくより美しい形を作り出すのである。祖霊の、あるいは、ガンダルヴァの、あるいは、神霊の、あるいは、プラジャーパティの、ブラフマーの、他の生き物たちの(姿形を)。(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』4.4.4)
====

*************

「両極端」は、あれかこれかと迷う選択肢のうちの、二つの限界点を指しています。
それを「如来所説経」でやってみるよ。http://manikana.la.coocan.jp/canon/tathagata.html

そこ(両極端)を見て考慮してみると、
「  それは、
    愛欲において欲楽の生活に耽溺することであり、
    下劣で卑しく、
    凡夫に属するものであって、聖ならざるものであって、利益のないものである。 

   そして(もう一つは)、
    苦行を実践することであり、苦しみであり、
    聖ならざるものであって、利益のないものである。                  」

と出てきます。

真ん中を考慮すると、「中道」です。
どちらにもよらない、染まらない道が見つかります。
それが、具体的には、「八正道」ということになるのです。

*************


> はるか2500年前のバラモンのティッサメッテイヤを満足させ、
> 現代に生きる上座部の智慧者スマナサーラ長老を満足させ、
> そして、それを見ているわたしを、大満足させる ブッダさまさま

順序が違います

> わたしを、大満足させる ブッダさまさま
> そして、それを見ているわたしを
> 現代に生きる上座部の智慧者スマナサーラ長老を満足させ、
> はるか2500年前のバラモンのティッサメッテイヤを満足させ、

大満足という 極端 を 歩む あなたを満足させるのは
あなたの 
ブッダに対する “ 認識 ” です

その認識 が スマナサーラ を 知恵者  ではなく、 智慧を持つ者 と呼び
“ティッサメッテイヤ” という “ 認識 ” を 創り上げています 
「如来所説経」 は 「 仏説 = 仏教 」 ではありません

>  『了解したのは、じつに、友よ、コンダンニャだ。了解したのは、じつに、友よ、コンダンニャだ』

コンダンニャ が 了解したのではなく
あなたが 了解しているのです
あなたの了解を コンダンニャ が 了解しているのです
あなたが、 尊師 を “ 友 ” と しているのです
(  “ 友 ” は 相互依存関係によって 「 友 」 と 呼ばれます  )

ブッダ は あなたに 依存して(  「 縁起 」 して ) 存在するのです

あなたが 縫い子であり
あなたが 縫い上げられたる 刺繍 なのです

満足 が 一つの   極端 であり
( 大小 で 区別する必要はありません。 大小は  「 縁起 」 だからです )
不満 は もう一つの 極端 です
( 不満だから、 「 苦行 」 を とります )

12月31日  と 名付けられる日に
あなたに 起きている 智慧 によって
わたしは 智慧に 触れることが出来ています

よいお年が
この足の下の道にあるように
わたしは
そっと 手を合わせ、
あなたのぬくもりに 思いを馳せます

マウス  を 持つ 右手 の指は 冷たく 痛い


投稿:  春間 則廣  | 2019/12/31 06:42

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