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2019年8月

2019/08/19

カメラ壊れてない?かも

  昨日は、パソコンが不調でさんざん苦しみましたが、

なぜか今日は、普通です。

ガーガー言わないし、写真が取り込めました。

なので、8月の最初に撮った写真を。

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ブログに文句を書いたので、反省したのかな?

カメラとパソコンが。

それとも、少し暑さが和らいだから?

 

自然現象は、わからないな。。

 

     ◇◇◇

 

昨日は、初心に還る話と、龍樹の『中論頌』の話を書いたけれど、

今日もまた、初心に還って『中論頌』の話。

 

1984年に出た『理想』という雑誌は、「空」を特集した内容です。

今、ぱらぱら見てたら、

仏教学者三枝充悳氏と

西洋哲学者で「空」の研究者でもある矢沢羊吉氏の対談が冒頭にありました。

 

お二人で『中論頌』の中身を議論しています。

ふうん、なるほど。。さすがに専門家どおしだ。

軽く語っても、中身が深い。

 

さっそく、『中論頌』が縁起の否定からはじまる、という問題を話し合っています。

部派批判としての縁起を否定しているのか、縁起そのものを全部否定しているのか、

です。

この詳細は、略します。

 

    ◇◇◇

 

ぱらぱら読みですが、結局、わかってしまうのです。

何が?

龍樹の『中論頌』を「自分がいかに読んだのか」という問題に帰着するだけだ、ということを。

 

三枝氏は、こう言ってます。

「空を説いているということは、

人間が矛盾の底に徹するということを説いているのであって、

あるいはそれがあるがままなのかもしれませんけれども。。」(p.47)

「ある」ということの中に「ない」をつねにはらむのが人間存在で、矛盾している。

そこを「空」として示したのだ、と三枝氏は考えています。

これが、龍樹の思想なのだ、と。

 

矢島羊吉氏は、三枝氏を認めつつも、そこで、異なる見方を提示します。

「人間は必ず死ぬものであって、死という否定を含むものとして生きるしかない」(p.49)

ので、「人間は生の否定である死をも来るがままに受け容れるほかないことになるでしょう」

とのべ、死が肉体的苦痛を伴うなら苦をも含めて死をあるがままに受け容れることになる、としています。

 

『中論頌』を語る人は、多くは、このような思考のパターンに陥っていきます。

龍樹を解明しているつもりで、そして、その意図を持ちながら、

一生懸命「自分自身の倫理・人生観」を語ることになってしまうのです。

 

三枝氏が語っているのは「何であれ、生ずる性質のものは滅する性質のものである」という

仏教のダンマを受け容れたご自分の信条です。

 

矢島氏が語っているのは、仏教なのかどうかわかりません。

あらゆることを受け容れて、一切肯定の立場で生きること、を説いています。

死が苦痛を伴うならそれを受け容れよ、ということは、ブッダは言わなかった、のですが。

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    ◇◇◇

 

ここ(このような書き方)を乗りこえるにはどうするか、そこが問題なのです。

 

自分がどう考えるのか、ということを聞いているわけじゃない、

龍樹が何を説いているのか、そこを知りたいだけなのだ。

どの作品を龍樹が書いたのかを知りたいのじゃない、

龍樹が説いたことは何なのか、そこを知りたいだけなのだ。

 

どうして、龍樹の周辺ばかりをうろうろするだけで、

龍樹自身が見えてこないのだろう。

もしかして、空だから?

 

龍樹も、生きて死んだ人ならば、どういう風に生きようとしたのか、

それを知ることもできるでしょう。

ブッダの教えをどう受け取ったのか知ることもできるでしょう。

 

それがなかなか見えてこないのは、

そして

見えないのに無視できないのは、

もしかして、龍樹が、確実にブッダの教えを受け継いでいるからでは?

と、思うせいなんだろうなぁ 。。

研究者の煩悩が見えるだけだったりする??

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龍樹を研究するというのは、

トンデモないことだ。

自分がどんな目に合うかわからない、ということを、

認めた上で、その運命を全うすることなのだ。

 

トンデモないけど、飛んでいる。

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2019/08/18

カメラ壊れたかも

前回の更新が、なんと6月16日。。

7月中に更新しようとした気配がある。

さらに8月に入って、二度ばかり更新しようとしたらしい。

 

なぜわかるかというと、写真を撮っているからです。

庭の写真なんだけど、

撮ってはみているけど、更新できないのは、

どうやら、カメラの画像をPCに落とせないのが原因だと、

 

何と、何と、今の今 わかりました。

 

変だ変だとは、思ったけど、どうしてブログを更新できていないか、

自分でもわかりませんでした。

 

写真を撮って、PCに送り込もうとすると、なぜかトラブルが起きて、

それ以上には行かず、それ以上に行かないものだから、他のことをし始めて、

ブログを書くことを忘れ、他の仕事に向かってしまう。。

 

本当にやりたいことを先にやりなさい

と!

自分に自分で命令しよう。

 

カメラは壊れたのかもしれない。

ブログを先に書く、この後、ひまがあったらカメラをいじる

 

そういうことにしよう。

 

 

     ◇◇◇

 

8月に入ってようやく夏休みになった。

と思ったら、

採点があった。ようやく採点が終わった

と思ったら、

家事が山のように待っていた。家事はおざなりにして

龍樹を読むことにした。

 

死ぬまでに『中論頌』出さないと、

死んだ後、どうなるだろう。

どうにもならないけど、輪廻先まで、

メールが来るかもしれない。。妄想中。

 

まあ、これは冗談だけど、

とうとう『中論頌』にかじりつきはじめました。

 

     ◇◇◇

 

初心に還ったのです。

私の初心は、『方便心論』です。

 

あれを読み始めたときは、一応、宇井先生の訳があったけど、

後は何も無かった。国訳は、ほとんど読まなかった。

宇井先生のも、『方便心論』のでたらめぶりをあげてあるもので、

チャラカの「論議道」や『ニヤーヤ・スートラ』などを元にした解釈だった。

 

最初は宇井先生の言うとおりだと信じ込んで、読んでいた。

どうしても、そういう風にしか見えないような気もした。

宇井先生の方が、私より漢訳の読みは鋭く、知識もある。

宇井先生くらい漢訳読めたらなあ、って思ったけど、

梶山先生が、宇井先生を批判しているのを読んで、「ふうん」という気がした。

 

梶山先生は、私には、「うそをつかない」先生だった。

必ず「なるほど」という感じがしてくることを書いてくれる先生だ。

梶山先生は、こう言っていた。

1984年にでた「理想」という雑誌の中で、梶山先生は宇井先生を批判している。

 

「十二因縁、苦習(集)滅道、三十七品、四沙門果、是の如き等の法を仏の正義と名づく」という

『方便心論』のただこの一文をもって、

宇井先生は、龍樹がこのような小乗の教義を仏の正義とするはずがない、として

この『方便心論』は、龍樹作ではなく、小乗教徒の作とした。

 

梶山先生は、ここを批判した。

上記の種々の教義が、仏の正義であることには、間違いなかろう。

それは龍樹も認めているだろう、というわけである。

 

「詭弁とナーガールジュナ」という論文である。

 

忘れられないのは、

仏の正義として、(龍樹も)十二因縁、四聖諦、三十七道品、四沙門果をあげるのは、

当然だろう

という梶山先生の言葉である。

龍樹が自分の哲学を述べるわけもないし、これは、龍樹の信条と矛盾するわけでもない、と、

梶山先生は語ったのである。

 

梶山先生のこのことばで、

当時

龍樹が、いかに歪んで理解されているかを、ここに露呈したかっこうになってしまった。

 

私は、これを読んだ時、本当だなあと思ったのだった。

だって、私も『方便心論』を読んでいたからだ。

当時、

龍樹は、ブッダとはちがうことを述べている、と考えられていた、ということである。

 

そして、今。。

 

梶山先生の批判は、いまだに認められていない(ように見える)。

1984年5月に出ているけど、35年も経ったのに、だあれも、梶山先生の述べたことに

反応していません。

 

ただ私だけ、反応している。

はげしく、反応しています。

 

このまま反応し続けるべきだ、と心の中の何かが言っている。

 

龍樹は、仏の正義を、どのように、明らかにしようとしたのか、

『中論頌』が説くことを、

ただ、虚心に読むべしね!!

 

      ◇◇◇

 

私の初心を、明らかにしてみました。

 

先入見を持って、本を読んではいけない、ということです。

部派が言おうと、龍樹が言おうと、

四聖諦や十二因縁、三十七道品、四沙門果は、仏の正義にちがいない。

 

そこを受けとめられるなら、龍樹の『中論頌』は扉を開いてくれるだろう。

 

梶山先生は宇井批判を含んで、龍樹の理解を示してくれたけど、

私は、時間がないし紙面もないので、批判を含む暇無く

すぐに『中論頌』の釈を書くことにしよう。

 

つまり、いろいろな資料を文献的にあさる研究ではなく、

『中論頌』に自分が注釈をつける、という、内容研究になるだろう。

それにしても、写真がないと寂しいね。

なので、昔の写真でも貼るかな。

 

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庭に咲いてた花々。

何となくそれなりに見えるのが、うれしい。

 

 

 

 

 

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