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2017年10月

2017/10/28

蛇品第7偈を心にひめて

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紅葉が、高揚してる。

今日は、わたしも、意識が高揚、いや、紅葉。

「スッタニパータ」第1章蛇品第7偈

♦ 7. Yassa vitakkā vidhūpitā
ajjhattaṃ suvikappitā asesā,
so bhikkhu jahāti orapāraṃ
urago jiṇṇam iva tacaṃ, purāṇaṃ.

心の内でよく分析された諸々の思索がことごとく破壊された比丘は、
こちらの岸とあちらの岸をともに捨てる。
あたかも、蛇が、老朽の古い皮を脱ぎ捨てるように。


此岸と彼岸をともに捨てれば、
無住処涅槃ということかな。

此岸と彼岸は、
中村先生訳のように
「この世とかの世とをともに捨てる」と
訳すのもあるかもしれないが、
たぶん、
わたしの中では、それはない。

この世とかの世を捨てたら、
どこに行ったらよいのだろうか。
涅槃に行ったらよいだろう、って言うかもしれないが、

やはり、涅槃は「ここ(生死)」にある、というのが、意味があるのじゃないだろか。


この娑婆の世界で、分析された諸々の思索を
ことごとく破壊したい。。夢だが、ほそくなが~くもちつづけよ。
ヘビなんだし。

そうじゃ、そうじゃ、
そう蛇、そう蛇のぉ~、そう、蛇の道

脱皮するのが、蛇の道

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台風の影響か、イチョウもずいぶん葉を落としてる。

脱‘葉’するのが、いちょーの道

脱‘心’するのが、何の道だろか?
とりあえず、その道を行きたい

秋だから。


だんだん、わけがわからんようになってくるな。
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わからんついでに、こんな写真もあげておこ。


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2017/10/15

『空海に学ぶ仏教入門』をご紹介

Photo

吉村 均先生の『空海に学ぶ仏教入門』(ちくま新書)

この書を、ご紹介しましょう。

力のこもった一冊です。


正直に言うと、

新書のわりには、むずかしいです。
すぐに読めるかと思って、
読み始めましたが、

導入部分は、非常に読みやすいものの、

さすが 空海! むずかしい!

途中から難儀をしはじめ、読むスピードがどんどん遅くなる
がんばって、
真ん中くらいの「 第七 覚心不生心 ― 中観の心 」の章をすぎると

また、スムーズに読み進むことができました。


これは、自分の理解能力とも関係があるのかもしれません。

それぞれの人が、それぞれ
スラスラ読める部分と
難儀しながら読み進む部分をもつだろうな
と、思わせられます。

それだけ、広い仏法の領域を押さえているからだろうと思います。


        ■■■


著者の執筆の意図としては

空海の教えを通して、密教に至るまでの仏教を
現代に蘇らせようとしている

と、わたしは読みました。

いわゆる、明治以降の現代的な批判的解釈による仏教理解ではなく、
現代人が生きていく指針となるような、伝統的な仏教理解を、

古くて新しい教えとして、蘇らせようとしているように見えます。


熱いなあ!
篤いなあ!


仏教の全体にわたる、広すぎる視野
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まんだら、まんだら、曼荼羅模様

場所は 
インド、中国、日本、チベット、東南アジア、
おまけに、ヨーロッパ、アメリカに至るまで

時代は 
釈尊、部派(テーラワーダ)、大乗、密教
おまけに現代に至るまで

心は 
地獄から凡夫、声聞、独覚、菩薩、仏
おまけに色界・無色界の心まで

教えは
阿含経典、華厳経、法華経、大日経、金剛頂経
おまけに 般若心経に至るまで

身体は
法身、報身、変化身
おまけに。。おまけに。。おまけは、もうない

そして、最後に

体験は
空一つ
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空は、どうやら、(瞑想の)体験として
とらえられているように思われます。

瞑想中と瞑想後 は、仏教の二諦(勝義諦と世俗諦)に対応していて、
仏陀の境地になると、瞑想中も瞑想後も、(体験に)まったく差はなくなる

ということが、説かれます(p.200)
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ですから、仏教の説明としては、

凡夫は、「実体視にとらわれる」(p.63)とくりかえし説明され、
聖者は、「実体としては映らなくなる」(p.200)といわれます。
ここに、「空」のわかりにくさが、あるような気がします。

瞑想体験などのない人には、
わかりにくく感じるのではないか、
と、ちょっと思いました。

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しかし

伝統的な理解の立場と、著者も語っているのですから、
ここはいたしかたのないところかもしれません。


         ■■■


とはいえ、密教の核心に入っていきますと、
凡夫には敷居の高い世界であることが、
やっぱり
明らかになってきます。

空海の『秘蔵宝鑰』『十住心』にもとづいて見るならば、

公開ではない、秘密の教え(九顕一密、九顕十密)
とされるのです(pp.188-190)。

したがって

灌頂の儀式によって師と縁を結んで
密教の修行を行わなければならない

ということも強調されています(pp.187-188)。

現在でも、真言宗では(三摩地の法については)
灌頂を受けずに解説を聞くことはできないようです(p.197)。


うーん、やっぱりハードル高いぞ、厳しいぞ。


この高いハードルをやや下げるために
ここからは、わたしの勝手な解釈です。


形式としての灌頂という儀式のみにとらわれず
経典を通して、シンボリックに灌頂をとらえ、
また、仏陀を師として縁を結ぶことも可能であるように思います。

こう解釈すると、密教の伝統的な世界からは
はずれてきますね。おこられそう。

それはともあれ、

密教の世界が、ここでまた、多くの人に親しまれてくるなら、
この書は、仏教界にとって大きな一歩となりそうです。


紫の菊も あじわう秘密の蜜
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はるけくも 秘密の教えに いたりけり

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