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2016年10月

2016/10/30

『龍樹『根本中頌』を読む』

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新著です。さっそくご紹介します。『中論』の和訳解説が出ましたね。

  桂紹隆・五島清隆著 『龍樹『根本中頌』を読む』 (春秋社)

帯には、

『中論』の画期的な現代語訳!

とあります。

ざっと内容のご紹介といきましょう。

前半は、桂先生の 『根本中頌』の翻訳
後半は、五島先生の『根本中頌』並びに龍樹の著作・生涯の解説

共著ではありますが、それぞれ役割分担している点を考えると、
独立したものと考えてもよいかもしれません。

ただ、徹底的に議論して翻訳したともあり、
意見の合わないところは、別訳として示した、ともあります。


       ◇◇◇ 


率直な第一印象は、

『中論』の読みと解釈に関しては、
これまでの研究成果を十分取り入れて、吟味検討し、
よくまとまった内容が非常に丁寧に説かれている、

という感触をもちました。

集められた諸説の中で、多くの研究者の賛同を得るような、
もっとも合理性のある解釈が選び取られた、という感があります。

たとえば、龍樹の説く「縁起」について
「相互依存の縁起」と解釈する従来の解釈を紹介し検討して、
これを龍樹の説くものではないとして否定しています。

龍樹は、相互依存関係を説いているのではなく、
「依存関係そのものを否定しているのです」(p.253)
という理解を示しています。

その理由は、縁起と空性を一つととらえることによります。

第二十六章に関してですが、その解説の中で
縁起の還滅門にある十二支を、空性の理解によって一気に滅へと
導き出していきます。(pp.201-.205)

これによって、「依存関係」という見方を採らないことも
同時に示されていくことになります。


ここは、龍樹解釈として、
たいへんうまく説明してあると思います。

『根本中頌』において、
第二十六章に十二支縁起が説かれる理由を、
はっきりさせることにもなり、
これまでの龍樹研究より、明らかに前進しています。

『根本中頌』を一貫した龍樹作品ととらえ、
最終章第二十七章の最後におかれる、
ガウタマ(=仏陀)への帰敬偈を根拠にして

===
龍樹にとっては、自らの思想の基盤とする空性が
釈尊の説かれた縁起に他ならないこと、
この「縁起=空性」によって世に蔓延している
アビダルマ論師や文法かたちの実在論を
戯論による邪見・謬論として撃破すること、
さらにこの「縁起=空性」がもたらす吉祥の境地を
言葉で明示することが重要だったのです。
====(p.208)

と、結論づけています。


ただ、問題も、ありますね。。。


ここははっきりさせておきたいのですが、

五島先生の考えでは、
『根本中頌』において「縁起」は十二支縁起のことであるから、
これをあらためて空性の光で照らす必要はない、
とのことです。(p.201)

さらに、続けて、
====
龍樹にとって、「説法者中の最高の説法者である仏陀」が
説かれた縁起こそが、空性であり、この空性によって、
第十八章で示したように「空性→戯論の滅→分別の滅→
業・煩悩の滅→解脱」という還滅門が可能になるのです。
=====(p.201)


(帰敬偈によれば)

「縁起こそが空性である」

ことを、龍樹は示そうとした
と、五島先生は考えています。

縁起は、空性の光に照らす必要はないが、
縁起こそが空性であり、
その空性によって、還滅門が可能になる。。。

どういう文脈。。なのだ?

鶏が先か、卵が先か、みたいな感じもしてきます。
空性が先か、縁起が先か。。。

この点は、うーーーん、というところです。
どっちが先なの?
この文章。

おそらくは、帰敬偈を採るとすると、
五島先生は、
縁起のもとに、空性ありとしているような感じもありますね。

そうなら、

せっかく、「空性→戯論の滅→…→解脱」の構図を見いだし、
その「業・煩悩の滅」の項目に、
十二支縁起の鎖を対応させながら(p.204)、

なぜ、縁起 「こそが」 空性であることを、示そうとした、と見るのでしょう?

素直に見れば、図の通り、

空性の図式の中に、縁起(還滅門)が位置づけられているのではありませんか?

図式では、「空性」という項目が頭にあって、その中の、「業・煩悩の滅」に
十二支縁起があたるのだから、
龍樹は、

「空性は縁起でもある」

と見ているとした方が、
自然の流れのように思います。
縁起それ自体は、最後の方の第二十六章に説かれ、
メインに説かれているのは空性なのでありますから。

中頌の解釈そのものは、一貫した論理で
非常にうまくいっているのに、
出てきた結論が、
その論理に逆らうような解釈であるのが残念です。

何か作為的な印象を受けてしまいます。

『根本中頌』は、釈尊の「縁起(=十二支縁起)」を空性と見ることを
目的とした書である

と、意図的に印象づけようとしているかのような。

五島先生のこういう解釈から、また、,

空性と縁起についても

「依存関係そのものを否定しているのです」(p.253)

とする見方は、採用できないのでしょうか。

そうなると、ブッダは何も説かないことになって、
それなりにつじつまが合うような気もします。  


          ◇◇◇


本書の、もう一つの注目点は、「仏陀観」を検討していることです。

単数形で示されるブッダ(釈尊)
複数形で示されるブッダ(諸仏)

これらの違いに目を向けているのは、非常によい観点だと思います。
が、ここも残念なことに、作意が見られます。


単数形のブッダは、
十二支縁起を説いた歴史上のガウタマ・ブッダ(釈尊)

複数形のブッダは、
龍樹の主張する教説の称讃者・支持者、つまり、「大乗の諸仏」

(p.209)としています。

複数形のブッダが、「大乗の諸仏」であるとする根拠が、はっきりしません。
過去仏たちもいますから、それらのブッダも、複数形のブッダの中に
含まれると見るのが、ふつうの考え方ではないでしょうか。

取りあげられた用例の一部(MやQ)は、「過去の聖者」「過去の諸仏」と
解しているので、五島先生は過去仏も考慮されていることがわかります。
(pp.212-216)

そうであれば、

龍樹が、複数形のブッダとしているとき、
それは、複数のブッダをいうのであって、
大乗の諸仏であれ、過去仏であれ、未来仏であれ、
どんなブッダも対象になっている、と、
読めばよいのではないでしょうか?

また、「大乗の諸仏」とカギカッコ付きで述べるなら、
それらが、何を指しているのか、どのような根拠なのかも、
一般読者に向けて語る必要があるのではないでしょうか?

と、疑問を呈したところで、

このような仏陀観が、
その後の龍樹文献群の解説に反映されていますので、
ここは、問題があるように思います。

このような仏陀観をもって、『根本中頌』と他の龍樹文献群とを
比較し検討しているからです。


      ◇◇◇


龍樹文献群には、八つの著作をあげています。
1 『六十頌如理論』
2 『空七十論』
3 『廻諍論』
4 『ヴァイダリヤ論』
5 『宝行王正論』
6 『勧戒王頌』
7 『大乗二十頌論』
8 『因縁心論頌』

主要八文献のいくつかは、
『根本中頌』と同じ著者である可能性はある(p.320)
としながらも、
空観・縁起観・仏陀観などの検討にもとづいて

「縁起観や仏陀観のような
個人の宗教的信条の根幹にあるものが
そう簡単に変えられるとは思えません(p.320)」

として、これらの作品が龍樹作であることを疑問視しています。

五島先生の説としては

「龍樹著作は『根本中頌』のみであって、
それ以外の著作は彼の名のもとに作成された文献であるという
「仮説」を立てたいと思います。」(p.261)

ということです。

ここは、その理由になっている、先ほど述べた

「縁起観や仏陀観のような
個人の宗教的信条の根幹にあるものが
そう簡単に変えられるとは思えません(p.320)」

という部分が、確固としているかどうかによるでしょう。


        ◇◇◇


『根本中頌』と龍樹文献群との関係について

===
私は、『根本中頌』の作者のみを太陽に、
その他の諸文献の作者たちを惑星に見立てているのです。
===(p.262)

と五島先生は述べて、

その他の「龍樹文献群」の作者たちは空性の光のもとで、
それぞれ独自に主張を繰り広げたのだと考えています。


先入見を抜いて、素朴に考えてみます。

もし、すべて五島先生のいうところを認めてみますならば、

釈尊にしたがうという「宗教的な信条をもった」
『根本中頌』の作者龍樹が、
「空性」を唱道して、
実在論的な立場の者たちを斥けたことになりますが、
(あえて主張を立てなかったとはいえ)


そのような龍樹の釈尊への「宗教的な信条」は、

「空性」とは相容れないのではないでしょうか?


この「宗教的信条」、これが、龍樹の「 自性 」として、
『根本中頌』のみに認められることになり、
それによって、他の文献は龍樹作ではない

とされる
そのような五島先生の論理そのものを、

『根本中頌』の作者は、「空性」によって否定しようとしている
ようにも見えます。


      ◇◇◇


『根本中頌』の作者を龍樹として、
それ以外の文献群を、他の作者の作品としようというねらいは、
よく分かりましたが、

仮説を立てることにより
仮説であっても見解を持つことになって、

「見解をもたないこと(=空性)」を説く『根本中頌』の内容そのものに
反することになったのは、残念なことです。


もし、ほんとうに、「龍樹文献群」が龍樹作品でないのならば、
そのことは、自ずと知られていくことになろうかと思います。


     ◇◇◇


たいへん興味深く読みましたが、

ブッダ(釈尊)と龍樹の関係は、
いまだ完全に解明されたとは言えない

との結論をえました。

また、諸仏についても

===
勝者(=仏)たちによって、空性はすべての見解を取り除く手段であるといわれた。
しかし、空性を見解として持つ者は、救いがたいとも言われた。(『根本中頌』13.8)
===

この詩については、「勝者たち」と、複数形のブッダになっている理由が、
以下のごとく説かれていますが、
今ひとつすっきりしません。

===
「釈尊=空性を説く大乗の仏陀」の証明が為されていない、
本頌のこの章の段階では、大乗の立場に立っての説者は、
単数形のブッダではなく、複数形のブッダでなければならないのです。
===(p.214)

と、あって、やむなく「大乗の説を説く論者」としての立場を、
龍樹が採らざるをえなかったかのごとくに説明されています。

ここも、過去仏なども含めて、ただ「諸仏」では、ダメなのでしょうか。


あらかじめ仮説を立ててしまうことにより、それが、
本書の主張を形成し、解釈を限定してしまっているようです。

読者に解釈を任せる、という態度とは、うらはらに

読んだ印象は、

ずいぶん主張に満ちた龍樹理解である

という感想を抱きます。


     ◇◇◇


わたしは、
『根本中頌』は、龍樹が、ブッダから受け取ったもの
一切の表出であると、考えています。

見解をもたないこと

それを空性としたのが、
『根本中頌』の著者、龍樹であるなら、


読み終わったあとに


たしかに空性(=見解がないこと)が説かれていると、
実感できることが望ましい、のではないか

ということを思いました。


自分で自分に課した、この条件をクリアできるように、
『根本中頌』の解明を急ぎたいと思います。


 

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2016/10/20

ああ!

一ヶ月に一回しか、更新できないこの無念。
ようやく写真も撮って、更新だ。

ああ、もう秋ですね。
Dsc02143s
三色そろって、きれいだな。

我が家では、いろいろあって、いろいろです。
母が入院してまして、今度、退院します。
わたしも、浄泉寺の法話会でお話しして、とっくに帰ってきました。
猫だけ元気で、人を見るとエサをねだる癖がついてしまいました。

あんまり、いろいろ、やるべきことがあるものだから、
いつも、
何か、忘れているんじゃないだろうか、と、
強迫観念がつきまとっています。

だから、

いつも、この世で一番何が大事か、ってことを、

考えてます。

いっちばん大事なことだけ、忘れまい!


この世で一番大事なことは、

     生死

である。


親鸞の語ったことばでいうなら

「生死出づべき道」

ブッダのことばなら

「みずから死ぬ存在であるけれども、
死ぬ存在の中に危難のあるのを知って、
死ぬことのない、
無上の安らぎである涅槃を求めてみたならばどうだろう」
(「聖求経」)

っていうことに、関わること。


しかし、他の立派な人たちは、
さっさと「生死を出る」ということを
考えているのに、

わたしの場合、
「大事なのは生死である」
と気づいただけか。。。

うーん

「生死を出る」という考えにたどり着くまで

まだまだかかりそうだな。

Dsc02144s

道は遠いなぁ

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