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2016/05/07

人を くう お話し (コワいよ、コワっ)

Dsc01997s
こぶし。


空(くう)について考えています。


空(くう)  は、  人を食う(くう) ってのにも、通じているかも。

一つのことばが、一つの意味ではないことを、
否応なく
教えることばです。


        ◇◇◇


この前、「他心通」 が話題になったことがありました。

「他心通」と言えるのかどうかは、わかりませんが、
経典には、このような表現がよく出てきます。

例えば、「梵天」(『サンユッタ・ニカーヤ』18.57)

=====
3 その時、サハンパティ梵天は、
尊師の心慮することを、
心によって了解して、
=====
心に沁みる原始仏典「梵天」

ここは、サハンパティ梵天が尊師の心を心によって、知る場面です。

わたしは、ここを、このように訳したのですが、
本来の語順を考えると

====
さて、その時、サハンパティ梵天は、
尊師の、心によって
心慮することを了解して、
====

とした方が、よかったと思っています。

直せばよいかもしれませんが、
まあ、これでもまずいわけでもありません。


心によって
心の思いを知る

という表現ですが、

「誰の心によって、誰の心を知るのだろう?」

ということが、疑問になるでしょう。

サハンパティ梵天が、尊師の心を知ろうとしているのは
わかっているので、「誰の心を知るのか」はわかります。

そうすると問題は、「誰の心によってか?」というところです。

二とおり考えられます。

サハンパティ梵天が
1:
尊師の心に依って
尊師の心の思いを知る
2:
梵天の心に依って
尊師の心の思いを知る

どちらでしょうか?


「他心通」という神通を用いたと思った人は、

梵天が、自分の心を使って、
尊師の心の思いを知った

と理解するかもしれません。

しかし、可能性としては、
1も大いにありそうです。

間違うことなく、知るためには、
梵天の心を用いても、無駄でしょう。

尊師のことは、尊師の心を用いて、尊師の心の思いを
知る方がたしかです。

尊師の心によるならば
尊師の心の内は、
梵天にも見てとれるのではないでしょうか。


どれが正しい訳なのだろう
と思われたみなさん


どれも、ありえましょう。

文字通り、語順どおりには

========
サハンパティ梵天は

尊師に関して

心によって

心の思いを

知って
======

となっているのです。

「尊師に関して」を、次の「心によって」に
かけて読むことも出来ます

★尊師の心によって
尊師の心の思いを知って★

「尊師に関して」を、その次の「心の思いを」に
かけて読むこともできます。

★(梵天の)心によって
尊師の心の思いを知って★

「心によって」にかけて読まないことで、
「梵天の心によって」であることが導かれてきますね。

それぞれが、それぞれに読むなら、

ある人は、1の読みを執る
ある人は、2の読みを執る

その解釈のちがいは、その人の理解のちがいになるのです。

どの程度理解しているのか が

ただ読みにあらわれてくるだけなのです。


       ◇◇◇


これが、「空(くう)」

だから、読みの深さが、理解の深さに通じていて

あれが正しい、これが正しいと争うわたしたちを、

経典は、黙って見つめているのです。


これが、 「人を 空(くう)」

ということで、

煩悩多きわたしたちには、経典は

「人を喰う(くう)」

とも見えるのです。

やあ、こわっ!


例えば、他人の心を読んでやろうと意欲満々なら、
結局、自分の心を用いて、他人の心を察知する、ことになりましょう。

自分の心に、「自分」という思いが強ければ
他人の心を写す鏡のようにはなりません。
曇ってしまって、他人の心を見誤ることもありましょう。

自分の心は使わず、‘無’にして
相手の心によりそうならば
相手の心の思いは自分の思いのよう。。

あるがままの観察 が、できるのではないでしょうか。

相手の心を知るには
自分の心のない時の方が
うまくいくのでは、って思います。

他人の爲に(利他)

という気持ち が 必要なんですね。
Dsc01983s

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コメント

方便するなら、右耳は左耳を憂慮せず、また、左耳は両目を憂慮せず、この様に六根は無心にして各々も自他分別もなく機能しています。
それは全人類および全有情の共有財産とも言えるでしょう。

全てが無心ならどれが他己を思うでしょう。

投稿: 路石 | 2016/05/30 14:57

他心通が言われる有名な経典は沙門果経でしょう。
そもそも沙門の果報を言われた経典です。
沙門になるとはどう言う意味か、真意を知らねば何も解らないでしょう。
もっと言えば、人は生きながらに既に沙門だと言う事に、多くの人が気付いてない事を悟らせる為の説示だったと言えるでしょう。

その本来本沙門は常に他心通を使っているのです。
勿論その他の六神通全ても言うまでもありません。
論理でこれを幾ら紐解こうとされても、勝義は論外なので無理なのです。

投稿: 路石 | 2016/05/30 14:45

他心通が云々より、無心には自他分別が無いので、誰が誰とか、何がなにとかあり得ないでしょう。
それが他心通。

投稿: 路石 | 2016/05/30 14:25

「 涅槃 」 という 概念は (それが現実にあろうとなかろうと) 宗教的な概念です

それは、個としての 人の 
特定な生き様において、成り立つものです
独りという立場において、赤裸々な、行動に対する感情の認識 
それを、成立の基礎とし、
“ 聖なるもの ” (と 対面してそれ)との 関連として成立します

そういう “宗教的 名称” には、それを支える 思想体系が必須です

大乗において、それを宗教と観るのであれば、
「道」 の 概念は 大乗の理念において決まっています

「道」の 半ばがあり、迷えるものに、「化城」 が示されるとて、
それを、半ばにあると 規定するのは 大乗にはあり得ないことです

法華経から出でる 禅を主とする 仏宗においても 
そこに そのままの 道があるから
その道が、即今に 涅槃となる わけです

人の心は どこへでも 行くことが叶うけれど
行ったところが、洲の上で、 行った時が 即今です

それは、天上天下・三世 その何処においても 成り立つことです
小乗 から 大乗へと 同じ道の上にあるけれど、
いまある道は 蜜 にある

明々白々 としていても 自ら 翳障を引き寄せれば 曇るか隠れる

諸行無常 は 世間において 例外なく成り立つ
世間以外 に  思いを置くところは無い  から 無常です
別の表現では 無明(行)の起きるところ です

どういう風に 組み合わせを間違えて、思考を組み立てているかを
よくよく “思いめぐらせて” どこへでも行けるという 「 心 」 の
ありようを つかんでください

それが 、 フリダヤ  です


投稿:  春間 則廣  | 2016/05/10 14:39

> 諸行は無常

言ってることが 行
如何様に 無常 に 有情 を 置くか を 有情は選ぶ
その置き方を 常住 という

常住は 真理
だけれども、 「真理」 は 名称

言う“ところ”が 常住のところでは、恒常 と 言うに同じ

> 涅槃寂静までの道だもの

涅槃寂静 の 地があると仮定しよう
どこから 涅槃に入っていることになるのかな ?

わたしとあなたの 境目 は “ 寄り添うことで知られ、知られてきた ”
その何処にあるのかな ?

その地と この地 を 結ぶ道は 今ある道 で
その地と この地 とは 何の違いがあるのかな ?

「でも、ちがうことは、良いことだ。」 って、臆面もなく言える

チガッテルン ジャナイノ ?

ここに、今いるところ 以外に 涅槃があろうと
今から離れることができた者はいない

だから、三世 は 一つにあり 永遠がある


投稿:  春間 則廣  | 2016/05/10 09:33

> まあ、
 と
> そうかもしれない、って気もしました、

 同じことの 繰り返し
なん て 言ったんだった かな ?

輪廻 リンエン 重ねて 言を為す

大まかにいう と 、何でも 大きなところに入ってしまう
それは マハー の 大 とは 階梯が違う

> 書いてるとき。

書いていないときであって、書いてる時は、書いてることに向かって立っています

自分の立つところが
洲にある時は 洲にあると はっきり分かる (分別に乗って、知に顕し得る)

キノセイジャナイノ ?

気にせん といた 方が 得策かな ?

> でも、ちがうことは、良いことだ。

唐突に  悲痛 いた 観 
 チャッタ !    引っ付いた(!) 感 

同じことを  「平等」 といい
違うことを  「差別」 という

分別に乗って、違うと言い張る
言ったところで、名称に過ぎない ( と、 名称を提示するわたし )


付いて離れない のを 膠着とも 執着 ともいう

君に癒着する このわたしの書き込み
“わたし” の 所為じゃない と あらゆる 所為 を シュカン(主幹) する
わたしが言っても “わたし”のセイ   かな ?

わたしに分からんことが、あなたにも分からん  というのは わたしの “所為”
為さぬ所を 為して頂戴    

供養 施す (えひもせす)


投稿:  春間 則廣  | 2016/05/10 09:06

前世は一在家さま

>普通に「自分の心を使って、相手の心の思いを知った」と考えます。
> 梵天は自分の心を使って、悟った直後の釈尊の心の思いを知ったと。
> 釈尊は自分の心を使って、バラモン達の心の思いを知ったと。

梵天は、まだわかるとしても、釈尊は「自分の心」と言えるものはあったのかな、と思ったので、「相手の心」にしてみました。
こういう風に他人の心を知る時、間違わないのも、特徴の一つですよね。

自分でも、相手の心を知るとき、どうやっているのかと考えてみたら、相手の心に寄り添うことで知られてきたことを思い出して、こうして見たのです。

いろいろ考え方があるのかな、という風にも思います。


春間さま

>今ある“ところ”以外のところに 行き着いたと思っても、そこが 観音の手の内であり、悟空 と 立つ“ところ”

まあ、そうかもしれない、って気もしました、書いてるとき。

でも、ちがうことは、良いことだ。

諸行は無常。

涅槃寂静までの道だもの。

投稿: 管理人エム | 2016/05/10 07:14

えび天サンバさま

「小さな荘厳経」「大きな荘厳経」とも、異様に難しいですよね。

わたしは、かみ切れてないです。歯が欠けたかも。。ほとんど 

投稿: 管理人エム | 2016/05/10 06:57

ミチ先生、住人各位、こん**は。

>「他心通」という神通を用いたと思った人は、
>梵天が、自分の心を使って、尊師の心の思いを知った

釈尊の後世の神格化という話はよく聞きますが、少なくとも「他心通」は実際にあったと思います。
長部経典の「沙門果経」、「大本経」、スッタニパータの5章の序、等々非常に度々記載されてますので。

普通に「自分の心を使って、相手の心の思いを知った」と考えます。
梵天は自分の心を使って、悟った直後の釈尊の心の思いを知ったと。
釈尊は自分の心を使って、バラモン達の心の思いを知ったと。

更に「宿命通」も実際にあったと思います。
釈尊は自分の心を使って、相手のカルマを知ったと。

八万四千の法門の大半は説法相手への処方箋と仮設。
それを可能にするには「他心通」と「宿命通」はあれば便利です。

多分、釈尊の心を使うと空っぽで意味不明ではないでしょうか。

投稿: 前世は一在家 | 2016/05/09 21:05

*********

例えば、他人の心を読んでやろうと意欲満々なら、
結局、自分の心を用いて、他人の心を察知する、ことになりましょう。
自分の心に、「自分」という思いが強ければ
他人の心を写す鏡のようにはなりません。
曇ってしまって、他人の心を見誤ることもありましょう。
自分の心は使わず、‘無’にして
相手の心によりそうならば
相手の心の思いは自分の思いのよう。。
あるがままの観察 が、できるのではないでしょうか。
相手の心を知るには
自分の心のない時の方が
うまくいくのでは、って思います。
他人の爲に(利他)
という気持ち が 必要なんですね。

**********

サンユッタ・ニカーヤ 第Ⅰ章-第3篇-第1章-第8節  マッリカー  岩波文庫


どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない

コーサラ相応 マッリカー  http://handshakeh.web.fc2.com/ainituite.html

コーサラ国王パセーナディは世尊に申し上げた。
「師よ、私はマッリカー妃と王宮のテラスに登り、マッリカー妃に『マッリカーよ、そなたには自分よりも可愛いものが何か他にあるか』と言いました。
こう言うとマッリカー妃は、『大王さま、私には自分より可愛いものは他に何もございません。それでは大王さまはいかがでございますか』と私に言いました。
師よ、こう言われて私はマッリカー妃に答えたのです。『マッリカー妃よ、私にも自分より可愛いものは他に何もない』と」

 ときに、世尊はそのことを知って、そのときこのウダーナを唱えられた。

 心して至るところを遍歴したが、どこにも自分よりも可愛いものには出会わなかった。
この自分が可愛いということは他の人々にとってもそれぞれ同様である。だから、自分を愛するものは他を傷つけてはならない、と。


****************


> 相手の心を知るには 自分の心のない時の方が うまくいくのでは、
   って思います。 他人の爲に(利他)という気持ち が 必要なんですね。 <

(利他)という気持ち  は 自分の心  ではありませんか ?

自分の心を  遍歴させ・どの方向へも 探し求め、 
行き着くところと言われる“ところ”にある
利他という自分の心を持った  他人(世尊) のところへ 赴かせたとき

自分よりかわいいものは見出しはしないが、
自分と等しく可愛い者・他 を 見出す 釈尊に出会う

自らの心 とは、 自らの(心の) 中に ある 心
その心を 心の中で 遍歴し、探し求め 出会う

自らの心は、その心の中の どこへでも(如来としてある“ところ”へでも) 赴かせることが叶う

赴かせないところには、訪れるということがなく、訪れることができないところだと、結論づけられる

人の「行」 は 無明に起きる ( 「無明」から「行」を起こす )
行き着くところを 「 識 」 するから、 
行き着くということ が 無明に起きて、
行き着くこと が 叶わなくなる
と 「 認識 」 を 起こさざるを得なくなる

明に向かうことが 修行で 
怠りなきことが 怠りに起きる から 無明に行が起きる
( 怠り が “ない”  ということは、 
怠りが “ある”   ということと  同値・同じ  である )

行き着くところは   今ある “ところ”
目的に向かう途上の  “ところ”
そこ の “ところ”   が、 行き着いているところ

「 修証一如 」  とは  そこ の  “ところ”

自分の心を、 偏に因る という ところに固定する ヨーガ の意味
も ヨーガ と呼んで 憚りない

瑜伽唯識 の ヨーガ は 手綱で 捌く(裁かれる) 

中道は 今あなたの 足下にある ( 脚下照顧 )
“ある”  けれども、 
名称に拘りを持つ人は、 “ない”  という(ありように対する) “名称”
 を用いる

今ある“ところ”以外のところに 行き着いたと思っても、そこが 観音の手の内であり、悟空 と 立つ“ところ”

その“ところ”が、あなたの思いとして、いかようにも 巡らすことが叶う
それを 無常 と呼ぶ
巡らさないことを、 固執 とも 執着 とも 拘り  とも 呼ぶ
無明にあるとは 行き着くところが 今より他に おかれること

釈尊の 在世 が “わたし” の 在世
「 わたし を 見る者 は 法を見る 」 わたしという拠り所は 洲であり、
脚下にある “ 証拠 ショウコ ” としてある


投稿:  春間 則廣  | 2016/05/09 08:44

エム先生

只今、小さな荘厳経を食っている所です。咀嚼のためには、歯医者に行く必要もあるかも(*´∀`*)

投稿: えび天サンバ | 2016/05/09 00:58

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