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2016年5月

2016/05/21

脇道を行ってはいけません 迪(みち)に恵(したがえ)えば…

通勤途中、北大を抜けて行くとき
ちがう道を行ってみたら。。。こんなことに
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恵迪寮という北大生の寮の跡が
原始林化していました。

いや、もともと原始林だったの?
よくわかりません。

前の恵迪寮は、今は、「開拓の村」というところに
一部移されて、観光されています。

現在も、恵迪寮はありますが、
そこには、わたしは行ったことがないので、ウィキで
見てみよう。
恵迪寮
ふうん、そうなのか。。

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エンレイソウなの?ちがうかな?

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字が書いてあるのでパチリ。
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後で読もう。
さっさと行かないと、どこを歩いているのかわからない。

北大は広いなあ。
こんな人の歩かないようなところもあるんですね。

道をかき分け、踏みつけ道みたいなところを歩いていると。。
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おお、羊が寝ている

アップにすると
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草むらから抜け出して
いつもの道に来た。。ああ、よかった
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学校に行くだけなのに、
スリリングなことをしてはいけません。

よい子は、まっすぐ学校に行きましょう の巻。


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2016/05/16

『スッタニパータ』から『中論』へ

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紅白で、ご覧ください。

もう、桜も終わりかけていますが、
八重桜の系統は、まだまだ花盛りです。

       ◇◇◇


『『スッタニパータ』と大乗への道』

いろいろなご感想もいただいています。

本は、出版されてしまうと、
勝手に歩き出すので、
もはや、著者の手を離れて、
独立の存在です。

『スッタニパータ』と、大乗仏教を
結びつけているところに
関心をもつ人も多いようで、
そのようなご指摘もいただきます。


そうなのか。。。

って、思っているところです。


『スッタニパータ』第4章

「八偈品」


ここは、わたしの目には、
はっきりと、
龍樹が見えるのです。


まんま、龍樹だな、って感じなのです。


ブッダの意図を、しっかり読み取った龍樹。


ブッダは、相手にあわせた対機説法によって
あらゆる人にわかりやすく教えを説いた

といわれています。

それは、まったくそのとおりだと思うけど、
ブッダに教えがあるなら、
ブッダの意思や意図もあるはずなのです。

主張はしない
見解はもたない
言い争わない

これらを守りながらも
しかし
教え(法)があるなら

何かは、ブッダの中から出てきているものが、
あるはずなのです。

あらゆるものを傷つけず
しかし
苦しみだけを取り除く

そういう方法を開示する
その「理論」みたいなものが
なければおかしい。。。

何かは言っているのだから
何かはなければならない  はず


こういう意識でさぐると
出てくるものは
  論理
ということになるのです。

「理論」をひっくり返して「論理」にしたのね
って、思った人もいるカモしれない

「家出」をひっくり返して「出家」 みたいに


ブッダだから、まあ、そういうことも言えますが、
ブッダの道は、

出したものは 引っ込める
という道なんでしょうね。

理論を出して、論理で回収

こんな感じなのかな。


こうすると、
あらゆる世界の生きものに
迷惑もかけないし
傷つけないし
壊すこともない


そういう枠組みだよね

「八偈品」は、
そういう枠組みを示す経典です

だから、

ブッダの、意思と意図が、

やっぱり
明確にある


ブッダの、意思と意図をつかんで、

独自に開いたのは
龍樹が最初なんでしょう。


『中論』が、はっきりと見えてきましたね。


「見解を捨てる道」 を説いた龍樹

龍樹の考えたことが、
今なら
ようやく見えてきたかな、というところです。

ブッダに行かなくちゃ
龍樹もわからない

っていう、よく考えれば
あたりまえのことに
ようやく気づいて、ここまで来ました。


『中論』を解明するまで
下積みが長かったけど、
下積みから中積み、
中積みから上積みまで

だいぶ来たようです。


積み上げたものを
きれいに
壊す
中の道、『中論』

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2016/05/07

人を くう お話し (コワいよ、コワっ)

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こぶし。


空(くう)について考えています。


空(くう)  は、  人を食う(くう) ってのにも、通じているかも。

一つのことばが、一つの意味ではないことを、
否応なく
教えることばです。


        ◇◇◇


この前、「他心通」 が話題になったことがありました。

「他心通」と言えるのかどうかは、わかりませんが、
経典には、このような表現がよく出てきます。

例えば、「梵天」(『サンユッタ・ニカーヤ』18.57)

=====
3 その時、サハンパティ梵天は、
尊師の心慮することを、
心によって了解して、
=====
心に沁みる原始仏典「梵天」

ここは、サハンパティ梵天が尊師の心を心によって、知る場面です。

わたしは、ここを、このように訳したのですが、
本来の語順を考えると

====
さて、その時、サハンパティ梵天は、
尊師の、心によって
心慮することを了解して、
====

とした方が、よかったと思っています。

直せばよいかもしれませんが、
まあ、これでもまずいわけでもありません。


心によって
心の思いを知る

という表現ですが、

「誰の心によって、誰の心を知るのだろう?」

ということが、疑問になるでしょう。

サハンパティ梵天が、尊師の心を知ろうとしているのは
わかっているので、「誰の心を知るのか」はわかります。

そうすると問題は、「誰の心によってか?」というところです。

二とおり考えられます。

サハンパティ梵天が
1:
尊師の心に依って
尊師の心の思いを知る
2:
梵天の心に依って
尊師の心の思いを知る

どちらでしょうか?


「他心通」という神通を用いたと思った人は、

梵天が、自分の心を使って、
尊師の心の思いを知った

と理解するかもしれません。

しかし、可能性としては、
1も大いにありそうです。

間違うことなく、知るためには、
梵天の心を用いても、無駄でしょう。

尊師のことは、尊師の心を用いて、尊師の心の思いを
知る方がたしかです。

尊師の心によるならば
尊師の心の内は、
梵天にも見てとれるのではないでしょうか。


どれが正しい訳なのだろう
と思われたみなさん


どれも、ありえましょう。

文字通り、語順どおりには

========
サハンパティ梵天は

尊師に関して

心によって

心の思いを

知って
======

となっているのです。

「尊師に関して」を、次の「心によって」に
かけて読むことも出来ます

★尊師の心によって
尊師の心の思いを知って★

「尊師に関して」を、その次の「心の思いを」に
かけて読むこともできます。

★(梵天の)心によって
尊師の心の思いを知って★

「心によって」にかけて読まないことで、
「梵天の心によって」であることが導かれてきますね。

それぞれが、それぞれに読むなら、

ある人は、1の読みを執る
ある人は、2の読みを執る

その解釈のちがいは、その人の理解のちがいになるのです。

どの程度理解しているのか が

ただ読みにあらわれてくるだけなのです。


       ◇◇◇


これが、「空(くう)」

だから、読みの深さが、理解の深さに通じていて

あれが正しい、これが正しいと争うわたしたちを、

経典は、黙って見つめているのです。


これが、 「人を 空(くう)」

ということで、

煩悩多きわたしたちには、経典は

「人を喰う(くう)」

とも見えるのです。

やあ、こわっ!


例えば、他人の心を読んでやろうと意欲満々なら、
結局、自分の心を用いて、他人の心を察知する、ことになりましょう。

自分の心に、「自分」という思いが強ければ
他人の心を写す鏡のようにはなりません。
曇ってしまって、他人の心を見誤ることもありましょう。

自分の心は使わず、‘無’にして
相手の心によりそうならば
相手の心の思いは自分の思いのよう。。

あるがままの観察 が、できるのではないでしょうか。

相手の心を知るには
自分の心のない時の方が
うまくいくのでは、って思います。

他人の爲に(利他)

という気持ち が 必要なんですね。
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