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2015年11月

2015/11/25

ふゆっ! ゆきっ! ブッダっ!

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来るべきものが来ましたわ。冬将軍。

こんなに降らなくたっていいんだよ
って、言いたくなるほど降ってます。

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冬タイヤに変えてないっ!車。。
もう、春まで埋もれっぱなしだ、きっと。

昔は、冬は大変だった。
石炭を焚いていた頃。
冬支度というのがあった。

煙突の煤掃除とか、ストーブをつけるとか、
窓に目張りをするとか、冬靴を出すとか、
大根を干して、漬け物をつけるとか。

全部、今ではなくなってしまったようです。

だけど、雪かきだけは残っているし、
車のタイヤを替える仕事もある。

雪は嫌だと言いつつ、
やっぱり、
冬が好きだわ。
景色が一気に変わるから。


        ◇◇◇


仏教の景色も、一気に変わってくれないかな、
って、思ったりする『スッタニパータ』

第四章、アッタカヴァッガ
第五章、パーラーヤナヴァッガ

ここに集中しているところです。


部派の仏教は、出家の教団が支える仏教です。

でも、特に古いと言われる第四章と第五章は、
部派の仏教の香りがするというよりは、

気分としては

原初の仏教を胚胎している、混沌とした時代を
思わせます。


いま!うまれるぞ!ぶっきょーー!


みたいな雰囲気がしてきます。

そういう意味では、新雪の深雪のごとく、
清らかなのに
ドカンとインパクトがある、
すごみを帯びたぶっきょーー がありますね。


パーラーヤナ・ヴァッガのブッダは、
三十二相を具えた超人の様相で
おそらく、そのくらい衝撃があったのだろうと
しのばれます。


当時の沙門・バラモンが、どれほど
衝撃を受けたか

そこを

感じようとしているところ。


整えられた部派の教団は、まだないけれど
みんなが、固唾を飲んで
ブッダのことばを見守っている
そんな新鮮な衝撃に満ちた時代。。。

いいなあ、

驚けよ、みんな!

こ~んな、

へんてこな

「 教えでない教え 」 が あるなんて

誰が、想像しただろう。。。

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アッタカヴァッガ
パーラーヤナヴァッガ には

そんな教えが、たしかに説かれているね。

あきれ果てたのち、
徐々にやって来る 
沈黙と衝撃

そして、

大きな感動と喜び

こうやって、仏教は迎えられた。

      ◇◇◇

って、感動にひたっていていいのか!
仕事だぞ、大雪の中。。。くっ!


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2015/11/21

雪はまだかな

年々、冬の来るのが遅くなる
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晩秋、って、こんなの?
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濡れ落ち葉。。。
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集めた落ち葉
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そうかと思うと、庭には、花がまだ咲いてます。
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いつまで咲いているんだろ?
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昔は、11月は、もう根雪の季節だったのに
いつまでも同じ、ということは、ないですね。


 今日は、簡単日記にしてみました。
これだと更新しやすいかしらね。。ただ無精なだけかな。

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2015/11/10

『スッタニパータ』にかじりつく

本格的に『スッタニパータ』に取り組んでみようとしています。

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(赤いっ!)


とくに、古いと言われている

第四章「義品経」 といわれている「八つの詩句の章」

第五章「彼岸に至る道の章」


『スッタニパータ』は、スッタ(短文)の集まり(ニパータ)なので、

この作品が、いつできたかとか、どのように編纂されたかなどの問題は、
視点が変わると、いろいろな見方ができると思います。

『スッタニパータ』を一つの作品とみて、
これがいつ頃編纂されたか、ということは、
いろいろ考えなければならない要素があるので、
にわかには結論が出ないでしょう。

でも、とにかく、
『スッタニパータ』は、最古に属する経典と一般にはされています。

そのように述べる学者も多いのです。
中には、ブッダの直説もあるだろうと言われています。

この、一応の承認を受けて、
これを、虚心に読んでみようと思っています。

「虚心」と言っても、わたしの「虚心」なので、
すでにある種の「行(志向性)」がはたらいています。


       ◇◇◇


その志向性とは、

「ほぼ始めて、ブッダに出会った人は、どのように反応するのか」

ということを大事にする視点です。


わたしたちは、最初から、仏教というものがあったかのごとくに
受け取りがちですが、

もし、本当に最古に属する経典であれば、
仏教ということを、まるきり知らずに、
他の沙門たちの教えと並べて、
受け取る人たちもいるでしょう。

★★★
つまり、何の価値判断もおかずに、
どれが勝れているのかを、
自分のもってるもので、
判断しようとしている人たちの
記録してきたもの
★★★

として、
経典を読んでみてもいいかな、と思っているのです。


そこに 「 虚心 」 ということの意味も
ありそうに思います。

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(赤紫っ!)


       ◇◇◇


第四章と第五章のこれらの経典は、
ただ書いてあることだけのそのことも、
十分受けとめられているとは言いがたい

思うのです。

どことなく、わかったような、わからないような、
謎に満ちています。


『ブッダのことば』(岩波文庫)は、

中村先生の訳ですが、

これは、先生がみずから語るとおり、
註に力が入っています。

自身でも、そのように述べられていますが、
しかし、その註釈も、
すごく参考になるときもあれば、
まったく参考にならないときもあります。


語られたものは、そのとおり語られたものとして
どのように読みうるのか

という解釈の視点が、ほしいかも。。

と思うのです。

いろいろな読み方があるものを、
とにかく、一つの視点で読んでみるとどうなるのか、

『スッタニパータ』という経典は、
そういう「短い文」の集まりなのかもしれない

と思っています。

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(飛べっ!)

今日は、決意表明でした。

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2015/11/01

(続)ヨーガは一つである、のか?

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一昨日、『ヨーガの樹』のご紹介をしたのですが、

自分で読んでみても
すっきりしてませんね。

アイアンガー氏の 

「ヨーガは一つである」 というメッセージに

賛成しているのか、反対しているのか
よく分かりませんね。


        ◇◇◇


話せば長くなりそうな予感。。


実際のところ、アイアンガー氏が、
本の冒頭で

「ヨーガは一つである」

と、タイトルをかかげて

『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』に説かれていることと
『ヨーガ・スートラ』に説かれていることは

どちらも心と魂の合一を説くから
同じなのだ

としたとき、ずいぶん疑問に思ったものでした。


『ヨーガ・スートラ』は、サーンキヤによっているから、
心と魂の合一ではないだろう、と思ったのです。


しかし、アイアンガー氏はヨーギンなので、
嘘はつかないのです。


この謎をすっきり解決するためには、ずいぶんかかりました。
絶筆となった

Core  of the Yogasutras (2014年出版)

で、サーンキヤの思想も取り込みながら、
頂点に神をおいた27の原理を見て、ようやく納得しました。

シュリーヴァイシュナヴァ派だったんだ、と分かったからです。
ヴィシュヌ神へのバクティ思想も、そこに入ってくるのだ、と思ったら、

なるほど、 ヨーガは一つなはずだ、と納得したのです。
簡単に言えば、サーンキヤは、途中に挿入される段階なのです。


彼が本当に意図していたのは、
ヴィシュヌを頂点とするバクティ・ヨーガを
ラージャ・ヨーガの中に位置づけることだったのではないか

と、ちょっと思っています。(確実ではないですが)


        ◇◇◇


ここで、アイアンガー氏の述べている

「ヨーガは一つである」の意味には納得したのですが、


しかし、


インド思想がもつヨーガというのは、
淵源はインダス文明に遡るとしても、

ヨーガを解脱への行法として確立した
影の功労者は
ブッダではないだろうか、と思うのです。

『ヨーガ・スートラ』は、仏教の影響が色濃く、
第二章は見え見えですが、
第一章でも、ブッダの説く四禅に倣っているように思います。
仏教の瑜伽行学派に対立するため
批判的に仏教を吸収しています。

サーンキヤ思想も、仏教を批判的に取り入れていて
その影響は明らかです。


ただ、仏教と明らかにちがうところがあります。

ヒンドゥー教系の思想では、基本的な考え方は
これだと思います。

=======
心と自己と身体、これら三つは三本の棒のようである。
世界は(これらの)結合によって存立している。
そこにはあらゆるものが確立されている。
======
(『チャラカ・サンヒター』1.1.46)


心と身体、それに自己(アートマン)

この三本の柱の上に世界が成りたっている、と考える。

だから、ヨーガ・冥想によって、
世界を知ることができるのです。

この三本柱はヒンドゥー教諸派では変わらないので、

「ヨーガは一つである」

が、なり立つことになります。

神の名がどんなにちがっても、
それは、アートマンに還元されるので問題はないのです。
そして、インド以外の西洋的な思想でも、大半
これが応用できます。


しかし、仏教はちがう。

ブッダは、「赤い馬」という神の子に、
いくら歩いても、世界の果てにはいけない、と教えました。

=====
歩いていっても、いつになっても、
世界の果てには到達することはない。
世界の果てに到達しないで、
苦しみから解放されることはない。
=======

また、ブッダは、こうも言ったのです。

=======
「友よ、わたしは、世界の果てに到達しないで、
苦しみの終極にいたると説くのではありません。
そうではなくて、友よ、想もあり意識もそなえた、
この一尋にすぎない身体において、
世界と世界の生起と、
世界の滅と、世界の滅にいたる道を
告げ知らせるのです。
=======
(『サンユッタ・ニカーヤ』2.26)

「想もあり意識もそなえた」 は、心のこと。
それと、身体

心と身体の上に、世界が生滅する

と説いているのです。

三本柱ではなく、二本の柱でしょう。

だから、「ヨーガは一つである」というのは、

ただし、仏教を除く、としなければならないのです。

では、仏教ではどうでしょうか?

仏教こそ、「ヨーガは一つである」と言えるかも。

身体と心、それと、アートマンの三本柱 に対抗して

身体と心、それに、法(法身) とすることが出来ます。

法は、空で無我なのです。

あるように見せて、同じ構造にすることが出来ますが、

ヒンドゥー教の三本柱を、
仏教に合わせて二本にすることは、ちょっとむずかしい。

ようやく、すっきりしましたわ。
Dsc01808s

しかし、こうして見ると

ヨーガも、思想なのだ、とも言えますね。

なぜなら、この身体と心において起こったことなら、
何でも言えることになるのだから。

そして、

何でも言えるのなら、
理屈に適ったことの方が、良いはずだ

とも言えます。


ここだけの話、
仏教以外の話しをしようとすると、
ものすごく、苦しい~~

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