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2015年10月

2015/10/30

『ヨーガの樹』のご紹介

久々に、本の話題を。

Photo

これは、ヨーガの実践に関わる内容を扱った本です。

B.K.S.アイアンガー氏の著した The Tree of Yogaという書を、
吉田つとむ氏が和訳したものです。

中に出てくるサンスクリットのことばの翻訳をわたしが担当しました。

ちょっとご紹介してみます。


世界的なヨガ・ブームを牽引してきたアイアンガー氏は、
昨年8月に95歳で亡くなりました。

生涯を、ヨガとヨーガに身を捧げた人物と言ってもよいと思います。

The Tree of Yogaは、1988年に出された書で
講義録や講演などを元に、
まとめられた一冊です。

具体的、実践的なヨーガを知るためには、
役に立つと思って、
自分でもほそぼそと訳しては、
ヨガスクールで講義などに使っていました。


身体技法としての、ヨガ
冥想・思想をもつ、ヨーガ

と、一応二分して考えますと、

そのどちらも扱っている、という点で、
貴重な本だと思います。

バランスが良い本です。


       ◇◇◇


インドのヨーガの思想史上に
アイアンガー氏は、その名を刻むことになると思いますが、

様々なアーサナの指導だけではなく、
その思想的な側面も、注目されるのではと思っています。

わたしは、そちらの方に興味があります。


ヒンドゥー教のバラモンに生まれたアイアンガー氏は、
シュリーヴァイシュナヴァ派に属し、
ラーマ―ヌジャのヴィシシュタ・アドヴァイタ思想の流れにあります。

『ヨーガの樹』では、
このような個人の宗教的な側面は、明らかにはなっていません。

世界中の人々のニーズに応えるため
自身の宗教観などは、おもてには出てこないのですが、

亡くなる直前に出版された書

Core of the Yogasutras には

ヴィシュヌを頂点とする、二十七原理からなる体系を
明らかにしているようです。
「ようです」 というのは、まだ、完全に読んでいないからです。

ですが、これが、氏の完成した境地であるとすると、
ヨーギンとして、現代ヨガを教えては来ましたが

かれ自身は、ヨーガを道具にして、
ヴィシュヌのバクティ思想を確立しようと考えていた

とも考えられて、興味深く思っています。


       ◇◇◇


何でこんな話しをするんだ、と思われた方もいるかも。

アイアンガー氏は、ラージャ・ヨーガとハタ・ヨーガは同じであるとして、

ハタの教典
『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の
拠り所であるアドヴァイタ思想と

ヨーガ学派の
『ヨーガ・スートラ』の
拠り所であるサーンキヤ思想を

結びつけることに力を入れました。

その上に、ヴィシュヌはのバクティ思想も、
ドッキングさせようとしているとすれば、


ヨーガというのは、

かなり融通の効く、
かなり普遍性ある

行法 ということになります。


ここです! 
行法としてみるとき

サーンキヤを入れると、その行の中に
倫理的な要素が、グッと入って来ます。

そして、ここは、
アイアンガー氏は気づいてないかもしれないのですが、

大半仏教の影響を色濃く受けているのです。


また、

『ヨーガ・スートラ』の アシュターンガ(八支ヨーガ)も

仏教などの影響が認められるでしょう。


思想がいかに様々であっても、

ヨーガの修行においては、
普遍的な部分を多くもつ

ということを

アイアンガー氏の著作を読むと、
ひしひしと感じます。


かれは、ヨーガを

サールヴァバウマ(普遍的な修養)

としているのですが、

かれ自身、それを信じて、
実践していったのだ、と思って
親しみを感じます。

ヨーガは一つである

と、信じて疑わなかった実践者です。

ただ

わたしは、そこに、「仏教を除いて」という
但し書きをつけると、
いいかな、と思っています。
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2015/10/23

輪廻する秋 輪廻するわよ、わたし

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しばらく前の写真ですが、久しぶりに自転車に乗ったので。

母の病院に通うとき自転車で行っていました。
堤防の上でパチリ。

もう廃車になりそうなほど、
乗っていませんでしたが、
ようやく乗るチャンスがめぐってきた

ってのは良いけど、
入院した母のお見舞いではなあ。。

それもつかの間、転院して、
また、自転車は、廃車路線を歩み始めていますだ。

秋ですね。

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そう言えば、病院のまわりに公園があって、
病院を抜け出して
車いすで母を連れて散歩している時、

みっけました。
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小さいお社。。

山の麓のこんなところにひっそりと。
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写真に撮るとめちゃかっこいいですね。

一人前のお社だ!
お賽銭を入れようと思ったけど、
賽銭箱がないわ。。

お賽銭ないけど、早く母の骨折が完治しますようにっ!
頼んだよ。


     ◇◇◇


さて、ちょっと小出しに仏教ネタでも。

最近、ちょっと調子が出てきて、進展してます。

とうとう、四縁の謎が解明しました。

四縁というのは、アビダルマに説かれているやつです。


因縁 (へートゥ・プラティヤヤ)
等無間縁 (サマナンタラ・プラティヤヤ)
所縁縁 (アーランバナ・プラティヤヤ)
増上縁 (アディパティ・プラティヤヤ)

これらは、やはりブッダ論理を用いると
出てきます。
でも、基本は、ブッダの阿含経典にしっかりと説かれています。

どういうものか、よくよくわかりました。
そのうち、きちんと書こうと思います。


     ◇◇◇


あと、輪廻も気になっています。

取著の転回という経典ですが

あの中にあった、

===
名色の集起によって、識の集起があります。
名色の滅から、識の滅があります。
===

この個所です。

ふつうの場合は
名色が滅しても、簡単には識は滅しません。

たとえ身体が壊れて死んでも、識が残って、
ちがう身体に入ってしまうのです。
これが輪廻ですね。

ですから、
=================
* 名色の滅から識の滅があります *
=================
という、この一文が実現するのは容易ではありません。

★一つには、生きている間に、

名色の「名」と「色」のうち、

「名」を確実に滅しておく、という手があります。

未練なく「名」を滅するためには、
物忘れをする、とか、記憶をなくす、とか、
そんなことで済むはずはありません。

名称でいわれるもの一切を
すべて知り尽くして、それから、消すのです。
すべて消すためには、
どうやって「名」が湧き上がってくるのか
その根元を断つしかないのです。

智慧によって「名」を知り、それを滅する
空・無相・無願の瞑想で、それを滅する

いろいろ手段を尽くして、何とか滅したとしましょう。
そうなると、つぎに「色」を滅するので、
あとは死ぬのを待つだけ、
待ち遠しいわ、早く死なないかな
これで、識が滅するぞ

って、ことになると思うかもしれません。

この場合、名も色も、きれいに滅したとします。
そうなると、完全に解脱して、涅槃に至るのでしょうか。

いや

そういう保証は、ないように思います。
どうも、はっきりしないのです。

なぜなら、輪廻するときは、

識と名色は、
識に縁って名色があり、名色に縁って識がある
という関係になっているからです。

ですから、

名色が滅して、識が滅するとしても、

この名色に関係しない識が、まだ残っている可能性があります。
つまり
識に縁って名色がある
という縁起の式が、まだ手つかずで残っているのです。

もし、その残っている識が、名色をよりどころにしたなら、
また、また、生まれてしまいます。

残っている識がなければ、解脱するかもしれないし、
何とも言えません。

わたしたちには、こういう人のことは、わからないのです。
測定する基準が、なくなってしまったのだ、と
ブッダは、ウパシーヴァに語ったのです。
『スッタニパータ』の1076です。

=======
離れ去った者を測る手段は無い、ウパシーヴァよ、と
尊師はいった。
かれにたいして、
それをあれこれ述べるようなやり方は存在しない。
すべてのもの(法)が根絶やしにされたとき、
一切の論議の道もまた根絶やしにされたのである。
=======

だから、

かれを 「独存している者(ケーヴァリン)」 と呼ぶのです。


■大乗の菩薩たちには、こういう人もいるかもしれません。


あえて、識を残して、輪廻して行く人たちです。
かれらを、「死王は見ない」 というのでしょう。

それから、
わかりませんが、

識を完全に滅していても、
この世にあえて現れる 
タターガタ(このようにやって来た者)のような者
もいるかもしれません。
化身と呼ばれたりするかもしれません。


■では、声聞乗ではどうでしょう?


名色を滅して、識を滅した者で、
まだ、残っている識があれば、
欲界・色界・無色界のうちのいずれかに生まれます。

欲界・色界なら、再生してしまいます。
しかし、何度か輪廻したら、
解脱に到達することは保証されています。

無色界に生まれたら、どうなるのでしょうね。
ほんとにわかりません。
「色」のない世界なので、再生もできず、
どうなっているのか、わからない、と言われます。

だから、名色を滅して識を滅するのではなく、
十二支縁起のように

識を滅して名色を滅する

という、順序で滅して、確実な解脱への道をめざすのです。


こういうことだと思うな。
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輪廻する秋 りんねりんね


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2015/10/06

こころは空気のように

すっかり、ご無沙汰の日記です。

9月は、母が腰の骨を折って、入院して、
あたふたしました。

もう10月ですね。

あれ? そう言えば
スマナサーラ長老の講演・冥想会からも、
10日近く経ってしまいました。

秋ですね。ほら!
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秋の深まりとともに、
はるか昔にも思える
講演会と冥想会をふり返ってみましょう。


       ◇◇◇


講演会や冥想会で、
また、
札幌ダンマサークルの会で

年々といいますか
念々といいますか

強調されてくるのが、慈悲の冥想 です。

慈悲の冥想のパンフの中に

=========
「慈悲の心がなければ、
もはや仏教ではないといってもいいと思います。
=========

とすら書かれていて、 おお!
テーラワーダの心意気みたいな感じがしました。


今回、ダンマサークルの会で
チョー・ロングヴァージョンの
慈悲の冥想を書いたものを
頂戴しました。

何と、3頁半にわたる、冥想のことばが連なっています。

全部丁寧に読んでいるだけで 1時間近くかかりそう。。

「わたしは幸せでありますように」から始まって

大きな項目だけを挙げると

# 私に、他者に対する慈しみが現れますように
# 全ての生命は兄弟
# 私は、釈尊の言葉を念じます
# こころは空気のように
# 心は大地のように
# 皆、業を相続します
# エゴの錯覚
# 苦しむ世界で苦しみなく
# 慈しみの拡大

と、いろいろな内容のものが、取りあげられています。

全部、スマ長老さまが唱えてみなで唱和したのですが、

わたしは、その間、一生懸命、ことばチェックをしていて、
忙しかったのです。

経典のことばをもとに、組み立てられているんだな
と思いながら、

それにしても、膨大な内容を盛り込んであって、
これ、真面目に全部冥想しようと思ったら、
一日じゃ足りないかも。。。

と、いささか、「どうすりゃいいの」気分で読み終えました。


わたしとしては、個人的にフィットしたのが、これです。
=========
# こころは空気のように
 ・ 空気と空気が何の対立もなく一体になるように、
   私の慈しみの気持ちが、全ての生命のこころと一体になりますように。
=========

おお、これこそ ’仏教的な’ 慈悲だ、
って、思いました。


       ◇◇◇


で、なぜ、こんな話しをするかといいますと、

休憩時間になって、スマ長老さまに、

「慈悲の冥想がパワーアップしましたね」

と申しましたら、

長老さまは、

「こんなに長くやらなくても、いいんですよ。
『空気のように』
だけでも、十分です」

と、述べられたのでありました。

お!たった、一言になっちゃった。
しかも、わたしの心とぴったりフィット。

無精心を見抜かれたかもね。
でも、短くて、ホッとしますわ。


で、さらに、考察。

わたしの中では

「自己が愛しいなら、他を害するな」
という、ブッダのことばと

「空気のように」
ということばは

同じように聞こえるのです。


空気は、生きものを害さない
空気は、あってもじゃまにならない
あることすら、気づかれない

でも、

もし空気がなかったら、生きていけない、どんな生きものも。
自分も含めて。

慈悲の心も、同じようなものである。

慈悲は、生きものを害さない
慈悲は、あってもじゃまにならない
あることすら、気づかれない

いいんじゃない!
まるで「慈悲」のことじゃないみたいに聞こえるところも
気に入ったっす。

そんでもって、慈悲の心がなければ、
生きものは生きものらしく生きていけないのだ。


自分が愛しいなら、空気のように
生きなきゃならない、

って、ことなのか。

慈・悲・喜・捨の四無量心の中で
「捨(無関心、平等)」というのが、
けっこうむずかしいけど、

「空気のように」

は、「捨」のこころも、入ってるようです。

他を害さず、自分を害さず、
あるのかないのか、気にならない。。空気
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何か、雲が鳥の形をしてますね、

空気は、雲も遊ばせる

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