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2015年5月

2015/05/24

詩の経典  ヴァンギーサのうた

庭のボタンが咲きました。
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モロッコインゲンも、元気です。
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パンジーも咲いています。
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黄色いのは、わからない。


        ◇◇◇


亀の歩みのようですが、少しずつ進んでいる
『スッタニパータ』です。

第二章12「ヴァンギーサ経」をやりました。

ここは、なかなか複雑な経典です。


如来の   「授記」  


が問題になっているけど、
ストレートに現代人は理解に入ってこない部分です。


信者の○○さんは、亡くなった後、どうなっちゃうんですか

という疑問に、

ブッダがいちいち答えてくれる個所だからです。


どうして、現代のわたしたちは、こういうところでひっかかるのかなあ。

素直に、書いてあるとおりに読めばよいだけだと思うけど、
どうもむずかしいようだ。

わたしには、理屈の通った話しだと思うので、
何の疑問もわかないのだけど、
いろいろ疑問もわく人も多いのかもしれないね。

そもそも輪廻を信じられない、ということがある。
輪廻を信じられないから、
死んだ後どうなるかを語るということも、信じられない。
しかも、あのお釈迦さんが、死後を予言するなんて、
という感じになるようだ。

ここでは、無余涅槃か有余涅槃かが、問題になっているけど、
そこにも、多くの疑問があるようだ。

まあ、やっかいな点だと思うから、
わたしも、今回は、あっさり流して読みました。


       ◇◇◇


で、今回、問題にしたのは、
ヴァンギーサ尊者の試作について。

かれは、お師匠さんのニグローダカッパが

般涅槃し(亡くなっ)たのを知って、

お釈迦さまに尋ねます。

=====
354 カッパ師が、求めて行った清浄行は、
かれにとって虚しいものだったのでしょうか。
かれは、消え滅びた(=無余涅槃した)のでしょうか。
それとも、生存の元を残して(有余で)いるのでしょうか。
かれがどのように解脱したのか、それを、わたしたちはお聞きします。
=====

質問は、単純です。
しかし、ヴァンギーサは詩人なので、
それを尋ねる詩が、なかなか凝っていておもしろいのです。

真面目で、師匠思いのヴァンギーサ尊者。
まだ、煩悩を残しているような詩の表現が
何とも言えず、ほほえましい。

思ったとおりに素直にうたう、
純粋なほとばしる気持ちが、
共感を呼びます。

=====
350 速やかに、妙なる上にも妙なることばを発してください。
白鳥たちが首を伸ばしておもむろに鳴くように、
整った簡潔な声によって語ってください。
わたしたちはみな、あなたにまっすぐに向いて聞きましょう。

351 生と死を残りなく捨て、抑止して汚れを浄めた方に、
法を説いていただきましょう。
なぜなら、
凡夫は、
望む願いすらかなえること(カーマ・カーラ)はできませんが、
如来たちは、
考えるべきことがらをかなえる者(サンッケーヤ・カーラ)で
あるからです。

352 この完全な授記は、
真正な智慧をもつあなたによって
つかみ取られているのです。
この礼拝者(であるわたし)は、最後に敬礼いたします。
最高の智慧者よ、知っているのに、
(わたしたちを)迷わせないでください。
=====

羽を休める白鳥たちが、首を伸ばして、
高く声を発するように、
お釈迦さんも、おもむろに、
簡潔に声を上げてください。

みなが、固唾を飲んで待ち望む様子が
ありありとしますね。

351の詩で、おもしろいと思ったのは、

カーマ(欲、愛欲)という煩悩用語(?)が、
ヴァンギーサには、よい意味で用いられていることです。

凡夫は、どんなに悟りたいなあとカーマを起こしても、
そんな願いをかなえることすらできませんが、

如来たちは、カーマももたずに、
「考慮すべきである」とクールに出てきた結果のとおりに
その道を進んでいける、
そんな点も、すごいなあ、と
ヴァンギーサが感嘆しているさまが浮かびます。

なんだか、用語の使い方が、
仏教の説くとおりじゃないけど、
でも、要所がきちんと押さえられていて、
しっかりそれらをわきまえた上で、

しかし、

ちょっとひねった使い方になってるところが

おもしろいでしょう?
すばらしいですよね。

また、352では、

授記が「つかみ取られている」というところ、
ユニークです。

「つかみ取る」は、ふつうは、
執着しているさまを表すことばです。

それが、お釈迦さんに用いられています。

お釈迦さんは、師匠のカッパが般涅槃した詳しい内容を
「つかみ取っている」
と表現して、
お釈迦さんは、「知っているのに」
教えずにいて、
わたしたちをじらしたりしないでください

と訴えています。
ちょっと、
お釈迦さんが意地悪してるような言い方を
あえて使っているところが、
何とも愛らしくおかしいのです。


ヴァンギーサ尊者は、吟遊詩人だったとも、
遊行の占い師だったともいわれているのです。

人々を惹きつけてやまない放浪の詩人。
そんなかれの姿が浮かんできます。


どこか哀愁のただようような

悲しい凡夫の性を知っていて

そこを歌にこめつつ

お釈迦さんにたいする尊敬と思慕が

あふれている感じがしますね。

さらに、師匠のことを思う切々とした気持ちも
伝わります。

かれは、修行を積んで、阿羅漢になりました。


優しいかれの歌は、

経典になりました。


ブッダも、喜んで聞いた

ヴァンギーサの詩。


経典は、様々な人々によって

言い伝えられているのだと

知るのです。

誰が残しても
真理は、真理だね。

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2015/05/16

<種>があるとき <芽>がある おお!

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カラフルなパンジーを、上から目線で撮りました。

上から目線じゃいけないか。
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では、下から目線でも、一つ。
となりにあるコンテナのパンジーです。
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なんて言うのかな。花の名前が分からない。

さて、雑草に埋もれて
ミニ牧草地化していたうちの庭。
一念発起して、花を植えることにしました。

何でもいいのよ、花なら、ね。
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パンジーが68円だったので、いくつも買いました。
手前のプランターには、数年前のモロッコインゲンの種を植えました。
芽がでてきたのには、びっくり。。種をまいて土をかぶせただけです。
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それが、これ ↑


さて、最初の庭の写真に戻ると


手前の何もないように見えるところは、
花の種を植えたところ。
ここも小さい芽がでてきています。不思議だわ。
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何か1種類をばらまいてみたら
あまりに小さくて植えたかどうか分からなくなったので、
もう一つちがう種類もばらまいてみました。

それはたぶんナデシコだと思うけど、
最初にまいたのは何だっけ?

いろいろあるように見えるけど、
母の日に送られてきたカーネーションとか、ミニガーベラとかも、
鉢植えで並べてあります。
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球根を植えたら芽が出ました。
まさか、芽が出るとは思っていなかったので、
何の花か分からないのだ。
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たぶん、グラジオラスのような気がする。
あと、一個で400円もする球根が中にあるけど、
それも、どれだか咲いてみなければ分からない。

花の名前より、値段で覚えているってのが、なさけないっす。


       ◇◇◇

『スッタニパータ』を地味に読んでいます。

昨日読んでいて、ビビッときたところです。


779 =======
想いをあまねく知って、暴流を渡るとよい。
諸々の愛着に、聖者は汚されることはない。
かれは、(愛着の)矢を抜いて、怠らずに行じながら、
この世もかの世も望むことはない。
=========

どこにビビッときたかというと、

「想いをあまねく知って」 というところ。

サンニャン パリンニャー

っていうんだよ。

そうか、輪廻の暴流を渡る前に、
「想いをあまねく知る」ことが、必要なんだ!!

こう思って、そうか、そうか、
輪廻するぞ、
って、思った次第です。


変ですか?

イヤイヤ、そうじゃない。
だいたい、すべてのサンニャー(想)をものにするには、
わたしのこの一生では、とうてい無理だろう。

想(サンニャー)をきわめるまで
輪廻の暴流にもて遊ばれて、
さんざんボロボロになってから、
渡るとよい、って、

もしかして、お釈迦さんは、言ってるのかも?

って、思ったのです。


      ◇◇◇


あと、金岡秀友氏の『密教の哲学』(講談社学術文庫)を、
開いて、眼に入ったところを読んでいました。

p.240=====
…ここにもまたわれわれは、空海の自己の没後にたいする
烈々たる仏法弘通の志をみるのである。同じ『性霊集補闕抄』
第八にみえる、つぎの有名な一句がそれである。

虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願ひも尽きなむ。
金峯(金剛峯寺)高く聳えて安明(須弥山)の
培塿(ぼうろう)(蟻塚)を下し睨(み)、
玉毫光を放って忽ちに梵釈の爀日(かくじつ)を消さむ
(仏の眉間よりでる光りは、一瞬のうちに梵天・帝釈天等
外道の神々の光りを消し去るであろう)。

これでみれば、空海は、自分の没後も真言の教えは絶対に
不滅であるとの志を述べているのである。
なぜなら、虚空や衆生や涅槃が尽きるということは、
けっしてありえないからである。
===============

前後の文脈をまるきり無視して、眼に入ったところだけで
反応すると、「あれ?」という気がしました。

空海は、真言の教えは不滅だと思ったのだろうか。
虚空や衆生や涅槃が尽きるということは、
けっしてありえないのだろうか。

現実には、われわれのレベルでは、このように思えるのは、
わかるのですが、
でも、空海は、やはり、ことばどおりではなかったのだろうか、
という風に思います。

虚空が尽き
衆生が尽き
涅槃が尽きる

これが成し遂げられたなら

わたしの願いも 尽きる


そのまんま、受けとめるのが、よいのではないだろうか。

目標があって、
そこに到達したら、
それが終わりである。完成である。


けっして終わらない
という教えは、どこか恐ろしい。


完成を示すからこそ、
精進努力がある。

だから、空海の仏法の追究がある。

いつか、終わるとき、
仏法が完成して

虚空が尽きて、衆生が尽きて、涅槃が尽きるとき

そこに初めて、’永遠’がある。いや、ないか。。

<種>があるとき <芽>がある
<種>がないとき <芽>がない

輪廻の種がなくなるとき、もう虚空も衆生も涅槃も尽きる。
芽は出ない。芽が出ないことが示されて、完成する。
縁起は、閉じて、終わりを告げます。

それまで、空海さんは
わたしたちと一緒にいるんだね。
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2015/05/12

花は盛りに

荒れ地に雑草が生い茂っていた牧草地状態の
うちの庭。

少し花の苗を買ってきたりして、植えています。

その写真は、また今度載せるよ。

今は、他の家々や公園などに咲き乱れる花々を
ご覧あれ!
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ヤナギの芽吹きと、八重桜のハーモニー。

やえざくらだぁ~っ。
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アップにすれば、こんなに大輪です。
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と思ったら、もう、ライラックが咲いてました。
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早いなあ。。ライラック祭りの頃には花はないよ、これじゃぁ。
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紫もきれいだ。
最後は、タンポポでしめよう。
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やっぱり、西洋タンポポは、北海道の花かな。

昔は、ほんとにどこにでもあって、山のように一面タンポポだった。
最近は、それほどでもなくなったけど。

昔は、雑草の王さまのように君臨していたタンポポ。

今では、日陰の身。。。って、ことはないな。
でも、昔ほど、にくらしいほどの繁殖力が無いように見えるのが
さびしい。

何でも、諸行無常 なんですね。

考える頭の枯渇した管理人は

花に頼って日記を書いてます。

では、いざ仕事へ!


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2015/05/02

さくらよ、さくら、なぜ散るの?

よし!書こう日記を。
桜の写真を出すために。
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白っぽい桜。

ピンクの桜。Dsc01231s
こちらは、今では、もうすっかり散ってしまいました。

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空を覆う桜。

ほんとに、桜は、気ぜわしい花です。
あっという間に、咲いて散ってしまう。

こんなに暖かい日が続くと、すぐ散るし、
寒い日が続いても、散るし、
風が吹いても、はらはら散るし
雨に当たっても、すぐ散ってしまう。

「もう知らない」

といっても、やっぱり散ってしまう。


困った木だなあ。


桜の写真ばかり、何年もたまっていくけど、
やっぱり、写真を撮ってしまうのは
なぜでしょうね。


       ◇◇◇


いつも、桜の花びらや花を眺めて思うこと。
どうして、みな同じなんだろう。
どうして、みな同じに美しいんだろう。
どうして、枯れるときたなくなるんだろう。
どうして、同じにきたなくなってしまうんだろう。

毎回、なぞだ!

もしかして、わたしのせいかな?

いつも、そのようにしか認識できない

わたしが

万年アホだ、ということかな。。


そうかもしれないけど、
やっぱり、
咲いてるときには、はらはらドキドキして、
散って花がどこにも見えなくなると、

なぜか

なんだか、ホッとするわたしがいます。


ああ、もう、「散るか、散るか」と
苦しむ必要はないな。。ああ、よかった。


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なぜか、木肌にほっとする。
下にあるのは、キバナノアマナというレアもの。

こっちは、見ると、うれしいだけなのに、ね。
あ、アップも見たい?

ほいよっ!Dsc01244s


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