« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »

2015年3月

2015/03/29

無我について 非我について どうでもよいについて

みなさん、ダンです、こんにゃちわ。
Dsc01113s
僕って、礼儀正しいのです。顔は、ちょっとあれだけど。
Dsc01112s


あ、にゃんだ! く、くじら、まさか!
Dsc01114s

はぁ、サムくん登場!
Dsc01116s
すごい現れ方だ、疲れるぼくにゃん

Dsc01118s
何か、文句あっか、にゃ~。

はぁ~、のびぃぃ、さあ、行くかにゃん。
Dsc01122s
ダン、きみもねぇ、仏像やってないで、少しは動けばぁ。

ダン、君は孤高の、勝義諦にゃー。
さむ。。君にゃー、世俗諦っちにゃ。


           ◇◇◇


ご無沙汰してます。

日記に「ご無沙汰してます」は、にゃいかもにゃ。
でも、すぐ時間が過ぎてにゃー、

「毎日書こう」と、書いてるときには思うのに
気づくと、二週間。。。時は光陰。


さて、、そんなことをいっていると、
「無我」の話しに行く前に日が暮れてしまう。

前回、『現代仏教塾Ⅰ』をご紹介しました。


その中にあった、「無我」説の批判について、

ちょっとあいまいにしていましたら、
やっぱり、ご質問がきてしまいました。

ちょっとはっきりさせましょう。

三木悟氏の 「近代仏教学の誤り」 という章の中に

そのことは説かれていて、このようにあります。

=========
お釈迦さまが亡くなってから、いつの頃かわかりませんけど、
一〇〇年か三〇〇年ぐらい経った頃に、お釈迦さまの教えは
「無我」だと――「私がないという意味の無我」だと誤解されて、
それ以来二千年にわたって、仏教の中に続いている混乱です。
これが「無我論」なのです。
=========(『現代仏教塾Ⅰ』p.129)

「自己はない」とするのは、間違った考えだとするのが三木氏です。
では、どういう考えが、正しいのでしょう。

======
お釈迦さまがいわれたのは、私のこの身体、
これは我ではない、「自己ではない」。
私が考えている私の心、思い、そういうものは
常に動いていくものですね。ですからそれも「私ではない」。
私が持っている持ち物、私のこういう着物とかね、
財産とか、名誉とか、それも「私ではない」。
そういう意味で、「アナッタン、アナッタン。
我ではない、我ではない」と言われたのです。
======p.129。

となると、三木氏は、「自己(我)」については、どのように、
考えるのでしょうか。

=========
そして、お釈迦さまの教えも実はですね、先ほど言いましたように、
エゴですね、自我意識――「自分が自分が」という意識は
真実の自己ではないのだ、そういう自我に対する執着を離れて、
真実の自己に目覚めなさい、というのがお釈迦さまの真意である、
というふうに私は思うのです。
=========p.133

「自己がない」というのが、「アナッタン(無我)」の意味ではない
「自己でない」というのが、「アナッタン(無我)」の意味である、

ということです。
そして、お釈迦さまは、「真実の自己」を認めたのだ、
というご意見のようです。

「自己はない」とする無我説に、対して

「自己でない」とする無我説を説く人たちは、

最終的には、自己を認める立場である、となりますね。

三木悟氏は、自己を認めて
=======
私の考えでは、「自己」と言っても、
三つの区別があると思います。
<迷っている自己…目覚めた自己…目覚めつつある自己>
の三つです。
=======p.155

と述べています。

今まで、いろいろに言われている議論を、
三木氏の検討をもとに
ここで簡単に整理してみたいと思います。

★「無我(アナッタン)」とは、
「自己がない」ということだとする説は、
説くとおり、「自己」を認めないということだ。

★「無我(アナッタン)」とは、
「自己でない(=非我)」ということだとする説は、
実は「自己はある」と、自己を認める立場である。

こうして、議論の中では
「自己はない」は、「無我説」と呼ばれ
「自己でない」は、「非我説」と呼ばれて
争ってきたのですが、

これら二つの議論は、結局は

自己を否定する立場 と 自己を肯定する立場
             の争い

として、整理することができるでしょう。
だから、長い間もめてきたのです。

この紛争の歴史というのが、実際上、長いことは、
いろいろなところから推測することもできますし、
仏教の歴史の中のさまざまな説からも知られます。


          ◇◇◇


経典そのものの中にも、その混乱は、はっきりと出ています。

わたしも、長い間、まったくふれられないこの個所をみて、
あやしくいぶかしく思っていました。
『サンユッタ・ニカーヤ』12.15 「カッチャー(ヤ)ナ」という経典です。

http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/kaccayanagotta.html
======
6この世間の多くは、カッチャーナよ、
近づき、執って、とらわれ、縛られるのである。
だが、かの者(仏弟子)は、近づくこと、執ること、
心に確立すること、とらわれること、潜在させることに、
近づかず、執らず、確定しない。
すなわち、「わたしにとって自己がない(自己がある)」と。
======

最後の

「わたしにとって自己がない(自己がある)」
(アッター [ナ] メー)

の一文です。
ここに混乱があるのです。

PTSのテキストでは、「ナ」の文字が入っています。
これにより  「わたしにとって自己はない」
と訳せます。

他の、たとえばCSCD版では「ナ」は落ちています。
こちらは  「わたしにとって自己がある」
と訳せます。

わたしが問題だと思うのは、
これらの二つの読みがあることを、知っていても、
異読があるとして、注のところに書いてないことです。

読みに違いがあれば、注記して、書いてあるのに、
ここだけ、何も問題がないかのように、PTSの出版も、CSCD版も、
沈黙して、一つの読みだけを採用しているのです。

この、「注に何もない」 という事実によって、

「自己」をどうとらえるかが、経典の編纂者にとっても、
大きな問題だったのではないだろうか、と怪しむのです。

うすうす、かなり混乱があって、その時の力関係で
決まったのかもしれない、と疑問が出るのです。


で、どっちが正しいのか、って?
どう考えればよいのか、って?
また、
お釈迦さまは、何と言ったのか、って?


そこを探りましょう。

今までの、
いわゆる「無我説(自己がない)」も、
いわゆる「非我説(自己はある)」も、
お釈迦さまの説ではない

と、おそらくは、気づいておられるでしょう。

そうだと思います。先ほどの、カッチャー(ヤ)ナの経典を
今一度みます。

======
6この世間の多くは、カッチャーナよ、
近づき、執って、とらわれ、縛られるのである。
だが、かの者(仏弟子)は、近づくこと、執ること、
心に確立すること、とらわれること、潜在させることに、
近づかず、執らず、確定しない。
すなわち、「わたしにとって自己がない(自己がある)」と。
======

これが、わかれば解決です。

「わたしにとって自己がある」でも「わたしにとって自己がない」でも
どちらでも、

近づくこと・執ること・確立すること・とらわれること・潜在させること

こういうこと全部に、
近づかないし、執らないし、確定しない

とすれば、どうなる?

こういう問題は、こういう問題ごと、放り投げて捨ててしまう、

ということではないでしょうか。

ほっとけよ!
ほっとけよ!

ほっとけ、ほっとけ、ほとけさん。


       ◇◇◇


おい、逃げるなっ!
って、声も聞こえてきそうな展開ですので、
もう少し、詳しくお話しましょう。

「アッタン」「アッタン」言わずにおけよ、ということだとは思いますが、
でも、
「お釈迦さん自身も、「アッタン」と言っているではありませんか」
という反論もあります。


では、言いましょう。
「自己(アッタン)」ということばは使いました。
でも、お釈迦さんの教え(ダンマ)としては、「自己」は説かれていません。
真実の「自己」は、内心では認めていたのだ、などということも、
どこにも見当たりません。

それは、「アッタン」がこんな風に表現されてくるからです。
「自己」ということばは、他のものと同じように、
生じ滅するもののように説かれているからです。

『スッタニパータ』919(926)
=====
比丘は、自己のうちにおいて寂静でありなさい。
外から寂静に行ってはならない。
自己の内に寂静となったものには、自己はない(ナ アッティ アッター)。
ましてや、どうして、自己を欠くもの(nirattan)があるだろうか。
=======

「アッタン」は、こんな短い詩の中に山ほど出て来ます。

最初「自己の内では」 と、自己が出てくる。
でも、
「自己はない」 ともはっきり述べている。
なのに
「自己を欠いていること(ニルアッタン)もない」と示唆している。

ええい、何だ、これは?!

自己の内で静まってしまったら、
こうなってしまう。

もう「自己」なんて、どっかにいっちゃうんだ。
そうだ、いらない、このことば。
だから、「アッタン」がないなら、「ニルアッタン」だって
どこかに行くだろう、と述べています。

919の詩を、順序にしたがって味わうと、

自己があったものが、
寂静の境地を得ていくと
自己がなくなり、
そうこうするうち
「自己がないこと」もなくなっていく。


    あったものが
    なくなること


こういうことが、ブッダの教えからわかります。

「自己がある」と思っても、やがて、「自己がない」と得ていく。
「自己がない」と得ても、「自己がないこと」も消えていく。

こうなるのです。
「自己」にかかわるすべてが、消えていくみたいですね。

「  生じる性質のものは、滅する性質のものである  」
ということばを思い出します。

龍樹の『中論』のことばをあげてみましょう。

========
自己がもし(心身の)あつまり(=五蘊)であるならば、
生じ滅し住するものとなるだろう。
もし、もろもろの(心身の)あつまりとはちがうものであれば、
あつまりの相をもたないものとなるだろう。
============18.1

もし、自己というのがあると仮定してみると、
それは、五蘊と同じか同じではないかどちらかでしょう。
同じなら、生滅するし、そうでなければ、生滅しないだろう。

さあ、どっちですか。
どうやら、お釈迦さまのことばによれば、
自己も、あるとかないとかいいながら、消えていくようです。

       ◇◇◇


では、また、龍樹の『中論』からです。

=======
自己である、と教えられていることもあれば、
自己ならざるものである、と示されていることもある。
しかし、いかなるものも自己ではなく、
そして、自己ならざるものではない と諸仏により示されている。
============18.6

このとおりですね。
「自己である(自己がある)」 と言っていることもある

「自己ならざるもの(自己がない、自己でない)」
と言ったりもする。

(でも、本当は)いかなるものも
「自己であるのでなく、自己ならざるものではない」
というのが、諸仏の教えである。

この
最後の文は、919の詩の中についてあてはまっているように見えます。


どうです。

みなさまの「自己」は、

ここまで読んで、さらさらと砂のように、
崩れていきましたか。

ああ、自分というのは、あるわけではなくて、でも、
ないわけでもないような、

まあ、むずかしくなるから、どうでもいいような気もしてきて、

今まで、考えてたことが、ただのこだわりだったんだなあ

と思えてくるような。。。


そんなこと言ってるのが、「カッチャーヤナ」の経典なのかもね。


6この世間の多くは、カッチャーナよ、
近づき、執って、とらわれ、縛られるのである。
だが、かの者(仏弟子)は、近づくこと、執ること、
心に確立すること、とらわれること、潜在させることに、
近づかず、執らず、確定しない。
すなわち、「わたしにとって自己がない(自己がある)」と。

Dsc01109s
ふきのとうは、はなざかり。

サムとダンは、自己も忘れて寝とるがな。
Dsc01107s

| | コメント (29) | トラックバック (0)

2015/03/11

『現代仏教塾 Ⅰ』を読んでみました

出版されたばかりの著作をご紹介。

『現代仏教塾 Ⅰ』(幻冬舎)です。
Photo

著者は、三人の方です。

吉村 均氏/三木悟氏/岩井昌悟氏


帯には

「 日本の仏教界は
このままでいいのか?
求めるべきは
宗派主義を越え、
社会に開かれた

仏教だ! 」

とあって、

危機感 とともに なんとかしよう感 

がいっぱいの 問題提起 の書と言えます。


ご著者のひとり 吉村均氏は、
このサイトにも書き込んでくださったことが
ありますので、
みなさまもご存じかもしれません。


この書は、
「現代仏教塾」という名の講話会での
講演録をまとめたもので、
それぞれ、質疑応答なども付け加えられていて、
講演の雰囲気も伝わってくる、
臨場感のある一冊になっています。


       ◇◇◇


わたし自身は、仏教に首はつっこみながらも、
ここまでの、危機感も、なんとかしよう感もなく、

その意味では、
「現代仏教」とは、縁が遠かったかもしれません。

あらためて、
現代仏教の功罪を意識することになりました。

こうして

ホットな書きぶりと
ホットな情報と
ホットな問題とに

へぇ~、っと感心しながら読んでしまいました。


三人の講演者の先生方は、
それぞれに、現代にアピールする観点や論点を打ち出しています。

吉村均氏は、あまり知られていないチベット仏教の「今」を
紹介することによって
日本仏教のあり方に刺激を与えてくれます。

三木悟氏は、問題意識がもっとも鮮明に出ており、
広い学識をもとに、近代仏教学の見直しと反省を、
力強くせまるものです。

岩井昌悟氏は、初期仏教の研究を中心にして、
現代仏教学者の学説批判と問題点を
確実な文献研究から、指摘しています。


        ◇◇◇


おもしろかったのは、現代仏教学が説いてきた

仏教解釈の反省と批判が、整理されていること。


「ブッダは、輪廻を説かなかったのだ」
とか
「ブッダは、死後を語らなかった」
という説に、はっきりと反旗を翻しています。


また、三木氏は、

「アートマンはない」という意味の無我説は、
近代仏教学の犯した誤りとしています。

かれは、
無我説を否定するあまり、逆に、

輪廻の主体である「霊魂のようなもの」も、
「仮有(仮の存在)」として認める立場を、
主張しているのは、ちょっと、びっくりですが、

無我説の否定から、
このような説も、時代の趨勢なのかと思わせます。


わたし個人としては、この説には、
同意することはありませんが、

無我の説が、否定されると、
反動として、
「アートマン肯定」の説が勢いづく、
というのは、
思想の変遷としては起こりうる、
思想の歴史を見るような思いで眺めています。


      ◇◇◇


さて、議論の中で
もう一つ、おもしろいと思ったのが

岩井氏のあげている 「タターガタ(如来)」に

かかわる議論です。

十難無記といわれる、ブッダの答えなかった説の中に

「如来の死後」についての議論があります。


「タターガタ」は死後生じるか
「タターガタ」は死後生じないか
「タターガタ」は死後生じ、かつ、生じないか。
「タターガタ」は死後生じるのでもなく、
生じないのでもないか。

これら四つの質問に、ブッダは答えなかった
というものですが、

それに関して、

「タターガタ」を「衆生」と解する解釈がある

という点に触れています。
近代の仏教学者たちの多くが採用したところです。

このことを最初に主張したのは、
ブッダゴーサという五,六世紀の人物だと
岩井氏は指摘しています。

そうなんですか。知りませんでした。

「衆生」という読みをとって、
ここから、
ブッダは、輪廻については無記であった
とする学者も多くいるのですが、

この点を、岩井氏は、問題視して、

「タターガタ」は「如来」と本来の意味でとった方が、
よいのではないか、と述べています。

ここは、
わたしも、たいへん興味深く思いました。


かつて、宇井博士、赤沼博士が、
「タターガタ」を「人」と解釈したと
説明がなされていました。


わたし自身も、この点を、
もう少しはっきりさせたいと思っています。


今のところ、わたしは、
「タターガタ」は「如来(=ブッダ)」と解釈した訳しか
出していませんが、

実は!

この「タターガタ」を、「衆生(サッタ)」と解しても

原理的には、ありうるか、とも思っているのです。


どうして、そう思うかは、詳しく検討して、
まとまったら、論じてみたいと思います。

       ◇◇◇


さて、話しをもどして、
このご本について、よく考えてみますと、

この書、けっこう過激、とも言えますが、

でも、近代を越えて、今、現代の

熱心な仏教の研究者たちが

何を考えているのか

ということを

熱く語ってくれた

現代仏教の法話講座

として、現在と未来の仏教に

大きな意義のあるものと言えましょう。

まあまあの、山型となりましたね。

この書、また何年か経ってから、
読んでみると、どうなっているでしょうか。

求められている仏教というのは、
でも、いつの時代も変わらないのかもしれません。

時代に合わせた教えであると同時に
いつの時代でも成りたつ仏教をめざしたいですね。


この書の姿勢も、現代仏教批判だけではなく、
そんな時代を超えた仏教を求めようとする姿勢も、
見え隠れしているように、思いました。


熱い著者たちに、乾杯!

とはいうものの

ひどいお天気で、また、春の雪。
Dsc01097s
せっかく融けてきたのにね。


| | コメント (38) | トラックバック (0)

2015/03/07

こよなき幸せ、大きな幸運

昨日(3月6日)は、朝日カルチャーセンターの一日講座の日でした。

何か、いろいろ、悶々としながら予習して、
不安をかかえて、お話してきましたが、
結果的には、おもしろかったというご感想をいただいて、
よかったです、ほっ!

講座の前の腹ごしらえじゃ。

高級感いっぱいの豪華なパンケーキだ!
Dsc01091s
レモンがさわやかでとてもおいしかったんだけど
晩ご飯に食べましたら、あとで、お腹すきました。

やっぱ、じみに、400円のもりそばにすればよかったかなあ。


なんて、話しより、

「 こよなき幸せ、大きな幸運 」

のタイトル、気になりますよね。


             ◇◇◇


一日講座のタイトルです。
『スッタニパータ』の、第二章4の経典の題名は

岩波文庫『ブッダのことば』の、中村訳によれば

「 こよなき幸せ 」

となっています。

特別、何も問題がないような気がしますよね。

内容的にも、おかしくないし、
どこからも文句の出ない訳のようでもあります。

どんなお話しかって?


ブッダと神さまの対話です。

神さまに「最上の幸福」を尋ねられて、
ブッダが次々に答えていく、という内容です。

たとえば、259の詩では、こんな風。
=====
愚かな者に親しみ近づかず、賢い者に親しみ近づくこと、
そして、尊敬供養すべき者を尊敬供養すること、
これが、最高の(=こよなき)幸せです。
=====

ふうん、なるほど、って感じですよね。


心の中にふか~~い感動がぁ~

別に

ひろがり


ませんよね。


意外と、地味目に展開していく
この経典。

ですが、自分で訳してみて
びっくり仰天。

どんどん、仰天、あら、仰天。

この経典、
題名が、

マハー・マンガラ・スッタ
(大吉祥経)

という名前なのです。

「幸福」とか「幸せ」とか訳されていたことばは、

マンガラ

という語なのです。

「マンガラ」

ってのは

「吉祥なこと」「幸運なこと」
つまり
縁起のよいこと

って、いう意味で、

ふつうには、

「おみくじ」「まじない」「占い」「運勢」

がかかわる範疇なのです。


そんな意味だったのね。
「最高に運のいいことって、なんすか」
みたいな質問だったのだわ。


        ◇◇◇

Dsc01088s
これは、メニュー表。
立体感があって、パンケーキが浮き出てみえますね。
本物より、おいしそう?


おっと、パンガラ、じゃなくて、マンガラマンガラ
神さまの質問にもどりましょう。


そこで、答えたのが、ブッダ。
259は、こんな意味になるのです。
====
愚かな者に親しみ近づかず、賢い者に親しみ近づくこと、
そして、尊敬供養すべき者を尊敬供養すること、
これが、最高の幸運です。
====

こうして、わたしは、「最高に運のいいこと」について、

あれこれ、あれこれ、お話したのです。


まあ、いろいろあるんだけど、
日記なので、

わたしの受けた衝撃はどこか、ってことを、
お話して、簡単にまとめます。


259の二つをじっとみて比べていくと、


自己をもつ、つまり、エゴをもつ

ということが、どういうことか、わかってきます。


「こよなき幸せ」と訳している方には、
自己や自我があるのが、わかりますか。


幸せは、自分でつかむもの。
自分が導くものだと思っている。

愚か者とつき合わないこと  も
賢い者とつき合うこと     も
供養すべき人を供養すること も

みんな自分が決めて、そんな風に行える
という意識が、どこかにある


だから、


そうできることは、こよなく幸せなことだ

と思うのです。

そうしない人もいる、できない人もいる、
でも、自分でがんばれば、
そうでないことは可能だ

幸せは、歩いてこない
だ~から、歩いていくんだね ♪

ふつうの歌だと思ってたけど、
そんなに、ふつうでもなかったのかも。。。


       ◇◇◇


ブッダは、それら三つのこと

愚か者とつき合わないこと  も
賢い者とつき合うこと     も
供養すべき人を供養すること も

そうなれるなら、とてもラッキーなんだよ

と教えるのです。


自分だけで、決めたからといって、
愚か者とつき合わないことができるとは限らないのです。

だって、だって、自分が愚かなら、

どうしても、
自然に

いい人で賢いなあ、とか思いながら

愚か者とつき合っちゃう、ことも、あるだろね。

その都度変化するできごとを、
きちんととらえられなければ、
愚かか賢いかの判断も容易ではありません。

縁起の理法を知らないときは、
論理学は西洋が一番だ と思ってました。

愚かだったけど
自分では、「やっぱ、勉強すると賢くなる」って、
心底思っていたのであったった、いたた。

ブッダの法に出合えた
龍樹の論に出合えた

これは、人生、最高のラッキーだった。

まったく、3億円の宝くじにまさるラッキー度!

ありがとう、ありがとう
かみさまほとけさま。。ん(?)


     ◇◇◇


縁起的に見るならば、
あらゆるできごとには、原因がある。

多くの原因や条件が一緒になって
結果を作っていくのです。

もし「わたし(自分)」というのがあるとしても、
それは、条件の一部にすぎない

自分がしっかりすることも大事だが、
それだけでは、世間を自由にわたっていけないのです。

分かるでしょう。

望む結果を得たいなら、
多くの条件を組み合わせて、
そこを操って、結果へと進まなければなりません。

操る、って今書いたけど、
ほんとには、操られる、ってのも、入ってる。

そのやり方を、ブッダは、

中道

って、言ったんだ。
エゴを出さない道だね。
いろいろ組み合わせて自然にうまく行く道だけど、
そうする道を選ぶ方法が、

「中」の道    なるほどなぁ。


誰でも、できごとの縁起(因縁)を
すべてわかるわけではないのです。

だから、

望んだことが、誰でも手に入るわけではないのです。


そう知るならば、


愚か者とつき合うことなく
賢い者とつき合って
供養すべき人を供養できたら

その時

あなたは、最高にラッキーだ

と知ることでしょう。


人間に生まれることはむずかしい。
ブッダに出合うこともまたむずかしい。

Dsc01094s
お、満月だったのか。

満月の夜に、満月のような「ラッキーな法」に出合えて

マハー・マンガラ で スッタ

| | コメント (11) | トラックバック (0)

« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »