« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

2015年1月

2015/01/27

船に乗りたい、船に乗せよう

Dsc01026s
雪に埋もれて、除雪がされないので
車一台やっとの道になっています。

撮るものがないので、こんな写真ばかりね。

さて、そんなことより

「船経」の次の偈に行きたい。

=====『スッタニパータ』

317 かしこい者が、注意深く、これを(自分の)目的となして、
法にしたがって法を実践していきながら、
このような人に親しんで怠ることがないならば、
智慧のある(viññū) 、
分別のある(vibhāvin)、
卓越した者(nipuṇa)となる。

========

じっくり、味わってみましょう。

君は、「かしこい者」だ。

かしこい者なら、316の偈を聞いた後
どうするだろうか。

え、316って、なんだっけ、だって?
もう。。

これ ↓
==316 
人が、誰かから法を聞いて知るならば、
神(devatā)がインドラ神を敬うように、
その人を敬うべきである。
博学(多聞)のその人は、
敬われると、
きよらかな心をもって法を顕わにする。
====

さあ、顕わになったよ、法が。
そこで、かしこい君は、
このようにするだろう。

注意深く
その法を聞いたら、
そのとおりにしてみよう、
法の説くとおりになるかどうか
自分でもやってみようとするはずだ。


だから、
===
注意深く、
これを(自分の)目的となして、
法にしたがって法を実践していきながら、
===
と書いてある。

「目的(attha)」ということばは、
「意味」「対象」「利益」などいろいろな意味がある。

どれでも、いいかもしれないけど、
「目的」を選んでみました。


法にしたがって法を実践するのは、
法を知る大事な方法だ。

「知ることは、そのように成ること」
という
それが、インドの伝統的な「知り方」なのだ。

そして、
このような方法で知りながら、

「このような人に親しんで怠ることがないならば」

君は、

智慧のある(viññū) 、
( 「行」 を開発するのだ)

分別のある(vibhāvin)、
( 「識」 を磨くのだ)

卓越した者(nipuṇa)となる。
(巧みなものとなる)


      ◇◇◇ 


ふーむ、

そのまま読むと、取り立てて大乗の雰囲気は
まだしてこないのだけど、

こういう風に説かれる、ということが、
何か、危機感みたいなものとも
つながるような気がする。

ブッダが、いないとき、
どうやって、修行をしていったらよいのか

という危機感。

そんな心配を
払拭してくれる
経典のような気がするね。


智慧があり、分別のある、卓越した者


これは、あらゆることにおいて
求められる理想の姿だ
現代のヒーローでもある。


この経典が、大乗っぽさをもつのは、

「ブッダはもういない」
という危機感をもって
読むかどうかに

かかっているとも言えそうだな。
Dsc01029s
お、仕事だわ。
朝飯前の、日記だから、
中身に乏しいわ。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/01/25

『スッタニパータ』「船経」 き、きみは、大乗!

Dsc01025s
今年は、岩見沢は、ずいぶん雪が少ない。
駅前の広場が、”雪捨て場化”していません。


        ◇◇◇


以前から、『スッタニパータ』の正体について、
あれこれ検討してきましたが、
だんだん見えてまいりました。

「小部(クッダカ・ニカーヤ)」の中に入っている経典で、
たいへんに古いものだろうと言われています。

ブッダの直説もあるのでは?
などと言われてもきました。

なかなか難しい経典なのです。

でも、ずいぶん、見えてきた感があります。


古い経典というのも、はずれているわけではないかもしれない。

でも、

ブッダの教えの中で、ただ古い層に属する、とばかりも言えない。

これは、古い・新しいという年代的なことが
大事なのではなく、

この経典の、内容が、他の経典類とは異なっている、
ということが大事なのだと思う。


この経典の中には、

みずからの悟りを目的とする
比丘の人たちが、それほど重きをおかないものも、
含まれている。

ここが、この経典の大きな特徴で、
それ故、とくに重要なのだと思う。


何を言いたいかと言いますと!

『スッタニパータ』は
 大乗への門
なのだ


龍樹が、非常に重視した経典であり、
その随所に、龍樹の語りへと通ずるものが
ひそんでいる。


そういう意味で、
『スッタニパータ』は、サンガの比丘たちには、
それほどの強烈なインパクトはなかったように思う。

もちろん、重視はされているけど、
他の四つのニカーヤほどの
熱心さではないような気がします。


       ◇◇◇

読めば読むほど、大乗が見えてくるんだけど、

特に、この「船経」という経典。

彼岸に人々を渡す菩薩の道が説かれる経典です。

http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/nava.htmlhttp://homepage1.nifty.com/manikana/canon/nava.html
「心にしみる原始仏典」「船経」


ちょっと、やってみますよ。見てて。
もちろん、全体をじっくり読んでみて、
こういう結論に達したので、すぐに、
大乗が見えるわけではありません。

「船経」の一番目は、316という番号の詩です。
========

316 人が、誰かから法を聞いて知るならば、
神がインドラ神を敬うように、その人を敬うべきである。
博学(多聞)のその人は、敬われると、
きよらかな心をもって法を顕わにする。

========

これは、ただ読むと、ただ読めてしまって、
何も、感じないかもしれない。

でも、この「船経」全体をよく読んでから
考えると

これは、
菩薩が、菩薩を導く方法を説いていることが
わかります。


最初の 「人は」 とあるのは、 新米の菩薩
「博学(多聞)の人」とあるのは、べテラン菩薩

多聞の人は、別に、悟りを開いた人、とは書いていません。
いろいろ法を聞いてよく知っている人です。

その人から教わるなら、聞いた人は

神(デーヴァター)が、インドラ神を敬うように

敬うべきだと、あります。

この「神」というのが、デーヴァターと言われているのが、ミソです。
デーヴァターと、「ター」がつくと、抽象名詞化されるので、
具体的に「神」と言われるというより
「神的な傾向をもつ者」であれば、
どんなものでも入るような感じです。

たとえば、ヤクシャ(夜叉)のような鬼のようなものも
含まれます。
要するに、神の部類に分類されれば、多少、
レベルが落ちても、よい、という感じです。

ですから、この「神」は、
インドラ神のような有名で立派な名のある神
とはちがうのです。

そんな新米神さまみたいな者まで含めての「神」が、デーヴァターです。

法をよく知っている多聞の人は、インドラ神に喩えられます。
インドラ神は、神さまの中では
圧倒的に知名度が高く
法にも優れていることが知られます。

ですから、新米の神さまにあたる
ふつうの人が、
教えをさずけてくれる多聞の人を、
インドラ神のように
敬うべし、

っと、教えるのです。

悟っている・悟っていないは関係ない。
法を多く知っている者が、
法をよく知らない人に教えるのが
学習の基本のスタイルです。

先輩に教わる新入部員
って感じかな。

でも、これって、大事だよね。
先輩も教えることで、勉強になるし、
後輩は、憧れつつ、
尊敬する先輩の身近で
教えてもらえるんだもん!

こうして、敬われると
多聞の人は、自然と気分が良くなって
どんどん教えてくれる、法を顕わにしてくれる
というわけなのです。

後々、多くの名もない菩薩が

観音菩薩のような名のある菩薩に

教えられて、彼岸へと

進んでいくようなものです。
Dsc01024s

     ◇◇◇


どうでしょう。
比丘たちの法の教え方とは、ちがうでしょう?

いや、同じかな?
でも、どこか雰囲気ちがいますよね。
阿羅漢だの一来果だのという、レベルは、
何もありません。
「多聞」というのが、ちょっと決め手です。

こんな風に

あの手、この手で、法を知っていくやり方を
ブッダは、丁寧に説いているんだなあ。

今日は、ここまでにしよう。
まあ、日記だもんね。
他の詩は、また、別の日に検討しよう。
Dsc01030s

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2015/01/20

足跡

Dsc01007ss

冬になると、目立つのが、足跡。
ふーむ、狐だな。
写るかどうかわからなかったけど、
まずまずだわ。


     ◇◇◇


=======
煩悩が滅尽し、
食(アーハーラ)においてとらわれなく、
空にして無相なる解脱を領域とする人々の足跡は
推し量ることが難しい。
空を行く鳥の足跡を量りがたいようなものである。
(『ダンマパダ』93)
=======

阿羅漢の境地を歌った詩です。

空ゆく鳥には、足跡はないが、
地をゆく生き物には、足跡がある。

でも

さまようものの無数の足跡で
埋め尽くされたら、
足跡は、もうわからないな。

他の足跡で消されてしまい
どれが自分のものか
自分でも確かめられない。

こうやって、足跡がついても
みんな、忘れて、気にしなくなってしまう。


     ◇◇◇


阿羅漢の行く先ははかりしれず、
空飛ぶ鳥にも飛行機雲のような
足跡はつかない。

凡夫は、自分の足跡をつけて
泥道・雪道を進んでいく。

足跡がつくのは、たぶんラッキーなのだ。

ふり返って、辿っていけるから。

どんなに愚かなことをしていたか
ちゃんと記録されてるのは、
まあ、
やっぱり、良いことなんだと思うな。

それを、消して、
わからなくしようとしてはいけないと思う。


    ◇◇◇

======
心に先導される諸々のものごと(ダンマ)は、
心を最高のものとし、心からなっている。
汚れた心で話したり、行ったりするならば、
苦しみは、かれにしたがう。
あたかも、
車輪が、
車をひくもの(牛)の足跡(パダ)にしたがうように。
(『ダンマパダ』1)
======

こういうことで、足跡がつくのだ。
汚れた心だから、足跡がつく のだとすれば
足跡に足跡を重ねて、
何だかわからないようにするのは

やっぱ、最悪だ。

足跡は、ふり返って見つめるものだな。
Dsc01012ss
おとなりの家からきた足跡だ。。

汚れた心が、悪いということはない。
苦しみがついてくるのが、イヤなのだ。

だから、

狐の足跡だって、生きようとするあかしだと思うと

苦しみも、愛しい。。むむ。

そこまでは言わないか。

でも、必死に餌を探している狐の
心は
あわれで愛しい。。。お互い、煩悩のある身どおし
なぐさめなくっちゃね。


     ◇◇◇


わかったことは、
足跡は、見つめるものだということだ。

見つめてはじめて、苦しい理由や原因が
見えてくる。

悪い行いこそ、黒くはっきりした足跡なのだから、
しっかり見つめるべきなのだ。
じっくり、反省もできるということだよね、きっとね。

最初から、空飛ぶ鳥になろうとしてはいけないのだわ。

最初は、リスの足跡くらいにして、
それから、ムササビをめざす

ってくらいで、いいのかもしれないな。

だってね、ほら、あっという間に
Dsc01019s
足跡も、また、消えちゃう。
反省するのも、雪降る前に、しなくちゃね。

この地上には、こんな煩悩の足跡が、
いったいぜんたい、どれくらいついているんだろう。


| | コメント (3) | トラックバック (0)

2015/01/10

パーリ語テキスト、抱き合わせ用法

Dsc00996s
久しぶりに街に出たので、一枚ぱちり。
木に飾られているのが、白いまゆだまみたいに見えるけど
イルミネーション用の電球です。

せっかくなので、観光しよう??
テレビ塔と大通公園少々
Dsc00998s

角を曲がれば、時計台が見える
Dsc00999s
遠すぎるかも。

車が邪魔だけど、近くで撮ります。
Dsc01000s
なかなか、むずかしい位置にあるなあ、

時計台って。

だから、
ちゃんと、「ここから撮りなさい」スポットがある
Dsc01003s
だから、誰が撮っても、おんなじなのだ。

    
        ◇◇◇


今年初の講義に行って、力のかぎり、
空を講義したら、ふらふらになりました。

大学二つ掛け持ちで、全部で三講なので、
もともときついけど、
最後の授業だと思って、
めいっぱい 「空」 を説いたら、
頭が、酸欠で、空になりました。

学生さんの食いつきが、めっちゃいいんだよね。
特に、男子学生に、人気なのが、「空」です。

わたしの『ブッダの優しい論理学』を読んで、
すごく参考になりました、といってくれた学生さんもいました。

特に、怒りのところがよかったのだそう。

怒りを抑えられるようになってきました、ということで、
いや~、それは、よかったです。

やっぱ、本は、役に立たなくちゃなぁ、

って、あらためて思った次第。


      ◇◇◇


時間がとれそうな時に、地道に作業をしようと、
おちゃらけさまの力作
「オンラインパーリ仏典を比較してみました」の書き込みを
整理してみました。

「オンライン・パーリ仏典を比較してみました」

昔、リンクだけのサイトが、いろいろあったけど、
今も、あるのだろうか。。。

と、思いながら、

おちゃらけさまの努力の結晶を、ありがたく辿りました。


パーリ仏典に関しては、e-テキストの系統は、

おおよそ、二系列ですね。

★今まで出版されたテキストを取り込んだもの
(BJTとかPTSとか略称される)

★第六結集(CS)(1954年、ヤンゴン)のCDなどを取り込んだもの

何でも、新しいものが良いと思いがちだけど、
CSは、どうなんだろう。

例えば、第一次結集の時は、
出版記念の何とか、みたいなものは、なかったはず。

出版されてないからね。

ただ、弟子たちの頭の中にしっかり刻み込まれて、
それで終わっています。

”心清らかなる阿羅漢要素”以外は含まないように、
経と律は編纂されました。

しかし、

今日、”阿羅漢要素”以外のものが、
どうしても入ってしまいます。

サンギーティ(結集)自体が、”阿羅漢要素”以外も含むかな?
すみません、こんなこと言って。

さらに、
出版事業に、”凡夫要素”がまじります。
せめて、”優婆塞要素”が入るといいけど、
なかなかむずかしいかもしれません。

凡夫に、ミスはつきもの。
出版に、ミスはつきもの。
読者に、ミスはつきもの。

テキストは、多くの人の汗と努力の結晶だけど、
ミスはおまけについてくるものと知って、

慎んで受けとりたい。

そういう意味では、
古いテキストは、古いテキストとして
新しいテキストは、新しいテキストとして

そのまま、あるがままに、いただきましょう。


二つの系統を、抱き合わせてみていこう。

というのは、
「仏の教え」フィルターは、各人の心にあるのだから。

仏の教えか、そうでないかは、
「心清浄」のフィルターを
通るかどうか、で決まります。

だから、個人個人で、フィルターを、
作っていかなくちゃ、ならない。

そのために、仏典があります。

仏典を清めるために、修行があり
修行の目的のために、仏典がある。

お、ここにも、抱き合わせ構造が!

互いに清め合いながら
仏典も、個人も、完成をめざすわけなのね。

おお、ようやくここで
Dsc00988s
この写真が、使えるわ。
抱き合わせ猫写真です!

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2015/01/03

今年の計画だおれ

あっという間のお正月ですね。
Dsc00980s
撮るものがないので、猫にしょ。
変わらぬお二人さんです。

さて、もう、3日ですね。

おせちが、カウントダウンで、
間に合わず

年賀状も、印刷ミスが続出で
間に合わず

そのまま2015年に突入しました。

なんとなく波乱の幕開け風です。

そうだ、5年当用日記も買ったっけ。。
まだ、何も書いてないけど。


        ◇◇◇


日記を書く前に、
恒例の、今年の計画を立てよう。 

「今年の計画だおれ」

と名づけておけば、できなくても大丈夫ぃ。

★今年は、ヨーガの勉強をします!

以前に、伊藤武氏から頂戴した
「ゴーラクシャ・シャタカ」の私家版
Dsc00982s
イラスト豊富で、楽しい。
それに
とてもしっかりとした訳と解説で感心します。

これで、ゴーラクシャから入って、密教の方面まで、
ずりずりと這い進んで行けたらいいなあ、と思ってます。

マントラ、ヤントラ、マンダラ ほい!
って、感じにいきたいけど。。

というのは、
今、アイアンガー・ヨーガの翻訳をしているので、
腰を据えて、ヨーガの方面を探ってみたいのです。


★後は、やっぱり、『中論』だにゃ。
これの、しっかりした研究をまとめてみたいけど、
1年で、間に合うのだろうか。


仕事が減るはずなので、
すごく期待しているのです。
ようやく、『中論』に取りかかれる、って。


今まで、「やるぞ」「やるぞ」と言いながら
なかなか取り組めなかったのは、
仕事と介護で忙しいのもありますが、

でも、

研究の視点が定まらなかったせいもあります。

どういう書としてとらえるか

という点で、あれこれ悩んで
うろうろしていました。


      ◇◇◇


『中論』は、構造的に非常に緻密に構成されている書です。

決して、後から何章かつけ足した、
などと言われるような書ではありません。

ブッダの法の中で、どのような地位を占めるのか、
という点もはっきりさせたいのです。

そういう意味では、
まだまだ仏法の極め方が、足りないなあ、と思っています。

自分の本ですが
『構築された仏教思想 龍樹』を、読んでいました。

自分で書いたはずなのに、
「なるほど」とか思いながら読んでいるのが、
なさけないっす。


そういうわけで


初心にかえってがんばろ。
そういえば、

『ブッダ論理学五つの難問』が出てから、
10年経ったんですね。

早いものだわ。

次の5年を、また、区切りにがんばってみよう。
当用日記の一冊分ですね。

少し、新しい展開をしなくてはね。
Dsc00977s
全然、展開せず、丸まってるだけの二人。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »