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2014/08/10

暦の上とは、北海道の上で、ということなんだな

立秋を過ぎたら、北海道はとつぜん涼しくなりました。
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暦どおりに、秋っぽいです。
でも、この写真は、ちょっと前に撮ったものです。

それに、あっという間にもう10日。
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この時の速さは、何だろう。

竜宮城に行った浦島太郎並みのスピードで、時が過ぎますね。

しかし、新しく出る本の方は、しばらく時間がかかりそうです。
まだ、数ヶ月先のようです。


なんとなく、物事には、 時機 というのがありますね。

この本は、「空」ということに焦点をあてているのだけど、
『サンガジャパン』の寄稿文を集めたものなので、
話題がばらばらで、
何か、自分としては、
しぼりきれないような、消化不良のような感じがしていました。

その感じが、ようやく抜けてきているので、
だんだん、本として形になってきている、ということかもしれません。

実際には、出版社の事情で遅れているようなのですが、
でも、なんだか、わたしの気持ちと合っているので、
わたしの気持ちの状態が、出版社に影響をおよぼしているのかも。

テレパシーで、出版って決まるのかな。。

また、読者のみなさんの気持ちが、「読もう」という風に
向かってくれないと、本というのは出ないものだから、
そういう意味でも、熟すのを待っているのかもしれないですね。

どう思う、龍樹くん? 


        ◇◇◇


さて、「龍樹」の名前が出てきたところで
龍樹の話題をさりげなく。

『スッタニパータ』を地道に読んでいると、
これは、龍樹が、熟読した経典だということがわかります。

これだったのか!

という感じが、どんどんしてくるので、
もっとよく読まなくちゃ、ならんのです。


スッタ(短い文章)にこめられた法のエッセンスを、
吸い尽くした感のある龍樹の論。

経典の一語に、無数の意味を見出す龍樹。

ブッダの法を、生かし切る術を心得ている龍樹。

論理だけではない、そして、もちろん倫理だけでもない、
インドラ網の目のようにめぐらされた縁起の鈴を
全部知ってる龍樹。

ブッダのように
龍樹もまた、知れば知るほど、深くて底がない。


くめども尽きぬ泉のような智慧がある。。

これかな、「言語で言い表せないもの」って。


言語で表された経典の中から
言語で表されないものを

導き出すのが、仏教のわざ。。。

それは、たとえば、規則だっているけど、乱雑にも動く
こんな形や
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こんな形に表れている。
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何言ってんだかね。
だいじょぶかしら、管理人の頭って。。


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コメント

なるほど
  >  「 快刀乱麻 」のごとく斬る
と、
それぞれの納得があるが、
最初の提示(?) の 「 快刀乱麻 」のごとく   は、
「 快刀乱麻 」のごとく  受け止められていて、
「 快刀乱麻 」の“ごとき”   は 管理人 エム 様 にある

あとの理解は、
管理人 エム 様 の理解を
自らの無明に沿わせた理解

こう理解するように、
これを  「 快刀乱麻 」のごとく
  理解するものがいることを
自 は 知っていて、
他 の 誰か  も 知っている

天網恢恢疎にして漏らさず

私=自(他)が漏れることがなければよいが 、、、、、

投稿:  春間 則廣   | 2014/08/16 09:22

管理人 エム 様

「 快刀乱麻 」
そうと分かる、解答 は、
自らに発する

その“ように” みえる

そのまま見える
そうかもしれないと見える
あたかもそうの如く見える

どれであろうと、一つの名称から、
自らの解答に沿って、受け止められる

下の、末法が、
なぜ 今 正法  ではないのか ?

永遠の生を受けているということが、
末法に住む者には、理解 “ し難い ”

( 「 人の生を受けることは難しい 」 )
   その生きざまを、受け止め自分のモノとすることは、難しいが、
   それを受ける(賜わる)者は、難きことを受けて、
堅き(堅固なる金剛のごとき)存在を自覚する


その金剛なる堅き受け止めが、
光となって、
遍く 世界を 照らしめさせると
 『 遍照金剛 』 と 名付けられる


******

正法(在世) の時

正しい行ないが、
そのままの言葉として説かれ
人は、正しい行いに触れて、感化される

像法
正しい表現が、
流布しようとして、自らが受けた慈悲に基づき
正しい行いに裏付けられて、
正しく流布する

自らの行いが、流布される

正しい表現が、妄想されて、
妄想される名称によって解釈されて、
流布される

正しい表現が、正しい行いに裏付けられて、
正しく流布する

末法の世界(時代)は、それを表している

時というモノは、場所の座標に過ぎない
時代は、虚仮の世間において妄想される

正法の代は、人の坐る 代(座禅の座)

行住坐臥 の 坐 が シャカムニの坐る 「 坐 」

投稿:  春間 則廣   | 2014/08/16 07:50

> まだ、わたしも全部はわかりません。

一緒になれないね !

わたし は 全部 分かります

分からないところが分かるから、
分かる( ように なる )

分かる   までは 
分からない
分からない ということ も 
分からない

投稿:  春間 則廣   | 2014/08/15 22:49

前世は一在家さま

すみません。うっかり、コメントを読み落としてしまっていました。

いや、むずかしいご質問です。
でも、春間さまが、快刀乱麻という感じで、解答してくださっているようにも見えます。

『大智度論』の最初の部分は、はっきりと『スッタニパータ』の引用が出てきますので、わかりやすいかと思いますが、何せ、龍樹ですので、すぐわかるような書き方はしてくれません。
ブッダの法を、自家薬籠中のものとしてから、自分のことばを使って仏法に触れるので、なかなか見つけだすのが難しいかもしれないのです。

一つ、「OKIRAKU掲示板」に書いたのを、参考に引用してみますね。こんな感じに、察知しています。

anuttaraとvaraということばをめぐってのものですが、このvaraが『中論』の帰敬偈に出てくるのです。そこで、この『中論』は、『スッタニパータ』の「宝経」234に多く縁っていると、わたしは知ったのです。

以下、OKIRAKUからの引用です。
============アオサギさまとのやりとりの中で、書きました。

「アヌッタラ」は「ウッタラ(上)」の否定ですので、「これ以上のものはない」と言うことで、「最高の(vara)」ということになります。

これを調御丈夫にかける場合は、これ以上の指導者はいない、という意味をもつでしょう。

ここを説くなら、アオサギさまの書き方にも、それを示す書きぶりが見られるはずなのです。
高速で覚ることができなかったから、アオサギさまが高速化したそうですが、そういうことは、「アヌッタラ」ということからすれば、ブッダとしては大きなことではないかもしれません。

と書くと、また、反論されたと思われるでしょうから、ここは、これ以上はふれずにおきます。

アヌッタラには、もう一つの意味があります。

「ウッタラ」は、「答え」という意味もあります。そこで、アヌッタラで、「不答」と解釈されることがあるのです。
「答えない」ということです。

最後は、「答えない」という答え方で答える、ここに第一義(最高義)の意味を見出すこともできます。

varaは、第一義ともつながっていくのです。

もう少し書きますと、そのことはどこでわかるかといいますと、「宝経」(『スッタニパータ』234)にあることばでわかるのです。

最高(vara)であり、最高を知り、最高を与え、最高をもたらす、この上ない人(anuttara)が、最高の法を説いた。――このことこそ、ブッダの中の殊勝の宝である。この真実によって吉祥であれ。(234)

varaということばが、何度も出てきます。そして、アヌッタラということばもでてきます。

ここをおさえて、龍樹は『中論』の帰敬偈を表したのです。

かれが、わたしにテレパシーでささやいたことです。
========================

このように書いたのですが、『中論』帰敬偈は、

滅することなく生ずることなく、(死後)断滅することなく常住ではなく、同じではなく異なることなく、来るのでもなく去るのでもなく、戯論を断滅する、吉祥なる、縁起を説いた、最高(vara)の説法者である等覚者に対し、わたしは敬礼する。

となっています。
「最高を知り」で、八不中道、「最高を与え」で、議論断滅、「最高をもたらす」で、吉祥なる縁起が、対応しています。それらを説いたのが、「最高であり、この上ない人」である、等覺者(サンブッダ)で、かれに敬礼しています。

ちゃんと、龍樹は、『スッタニパータ』の詩の内容を、つかんで、『中論』に示している、という気がします。

これらを全部詳しくわかるように話そうと思うと、本一冊になりそうです。
八不中道が、どうして「最高を知り」にあたるのかとかですね。

知れば知るほど、ああ、と思うようになるのだろうと思っています。

『中論』は、全部『阿含経典』に跡づけられると見ています。でも、まだ、わたしも全部はわかりません。

投稿: 管理人エム | 2014/08/15 17:00

春間さん
>どこが同じかと、納得を求めるのではなく、
>なぜ同じかを、 求め、得る、ことです

>求めよ、 さらば、与えられん

努力と智慧が足りないということは分かりました。
以降はスッタニパータとの類似性も意識しながら大智度論を読むことにします。

投稿: 前世は一在家 | 2014/08/13 07:26

そういうことを知って、納得して、
「 ああ そうだ 」
「 ああ おおうそだ 」

その二つの間に、なんか違いが生まれますか ?

あなたの生きざまに於いてのことです

知識を得たところで、役に立たせなければ、
知識に何の意味もなく
なんら働くところを持ちません

二つのどちらであっても、
同じ働きが生みだされるところに、
スッタニパータ に 説かれることが あります

聞いて知って、知恵をつけるだけでなく
自ら探し求めて、求むるところを 賜わって、
智慧と為す

智慧とは、人としての 人の生を受けたモノの
働きの素です

どこが同じかと、納得を求めるのではなく、
なぜ同じかを、
求め、得る、ことです

求めよ、 さらば、与えられん

投稿:  春間 則廣   | 2014/08/13 04:09

ミチ先生、こん**は。

>『スッタニパータ』を地道に読んでいると、
>これは、龍樹が、熟読した経典だということがわかります。

例えば「スッタニパータ」と「中論」、「大智度論」のどの箇所がよく対応するでしょうか。

投稿: 前世は一在家 | 2014/08/12 22:35

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