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2014/07/23

あるく、あるく、あるく、あるく

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ちょっと前になりますが、歩いていたら、
空がなんとなく虹色に見えて仕方がないので、写真に撮りました。

やっぱり、何かの光が写ってますね。

では、もう一つ。
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綿アメみたいな気もする雲と空です。

7月は、どうも、
いろいろ
めちゃめちゃで、
ぐちゃぐちゃで、
悲惨な展開になってきてます。

21日は、休日ですが、講義があったのを忘れてしまいました。

ひたすら、すみません、すみません、すみません、すみません、と
連発して、なんとかしました。

はぁ~~、謝っても補講はちゃんとあります。

忙しくて、いろいろ
追い詰められてくると、
何かを、必ず、忘れてしまう。

まだ、何かを忘れている気がするけど

どうか、気のせいでありますように。

まあ、お花でも ご覧ください。
Dsc00762s
しかし、なんとなく倒れてますよね。。。

将来を暗示しては、いないだろな。


           ◇◇◇


さて、話題を変えて、少し気分も変えてみよう。

先日ご紹介した『一分で読むブッダの教え』(サンガ)ですが、

その中で、気に入っている一篇があります。


19 歩くという重要性   (p.44)

===
歩くということは深い哲学です。
ただA地点からB地点に行く、
という大したことのない話しではありません。
昔は「歩く」ことには深い意味がありました。
===

とあります。

これは、わたしも、思っていたことなので、

おお!!
っという感じで、読みました。

===
歩くということは、
いろいろな人に会うこと、
いろいろな環境に出会うこと、
いろいろなちがう環境を経験することです。
ずーっと自分を変えること、
学ぶことなのです。
====

これは、わたしも、そう思います。
遍歴遊行することは、
多くの出会いをもち、多くの経験を積むことと同じです。


と、ブッダについては、
こんな立派な考えも浮かぶのですが、


しかーし、

自分はどうでしょうか。


といいますのも、
わたしも、実は、よく歩くのです。

仕事の行き帰り、
地下鉄、バス、JRなどを使うほかは
ひたすら、歩いています。

だいたい多いときで、8kmくらい
少ないときは、2-3kmだけど。

どうして歩いているのか、
よくわからないんだけど、
なんとなく、歩いてしまうのです。

歩きながら

「こんなことをしちゃいられない、
何か考えないと。。。」

と、いつも想いながら
ほとんど、目立ってよいことも考えず
歩いてます。

は、っと気づいて

「こんなことをしちゃいられない、
何か考えないと。。。」

と思い、
気づくと、また、何も考えてません。

なんて無駄なんだ

「こんなことをしちゃいられない、
何か考えないと。。。」

と、また想いながら、
気づくと、ただ歩いているのです。

そして、やっぱり、何も考えずに
がっこに着いちゃいう。。

ああ、損したわ。
無駄に、時間を過ごして、何も考えなかった、
と思う毎日です。


このような日々を送っているのですが、
なぜか知らないけど、
それでも
歩くことは、大事だと思っているのです。

======(p.44)
歩くということは学ぶこと。
歩いていろいろな人に会って話してみて、
猫に出会ったら猫にもちょこっとしゃべったり、
犬に出会ったら犬にもしゃべってみたりして、
ずーっと人生は変わって変わって
成長していったのです。
======(『一分で読むブッダの教え』)

うーーん、そうか。。

わたしの場合は、
犬や猫にも会わずに、
カラスに襲われたりするだけだけど、
ほかには別にないけれど
なぜか
歩くんですよね。
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なぜだろう。


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コメント

>「悲」という方が強く出るかもしれません。

と書いてみたものの、ここには「空」が効いていますから、
やはり、

>そして慈しみの心は縁起して、いつの間にか自身が安寧な幸福者になっている

ということに帰着していくのでしょうねぇ~、ふー 

投稿: 管理人エム | 2014/08/02 09:24

>そして慈しみの心は縁起して、いつの間にか自身が安寧な幸福者になっているということでしょうか。

そうかもしれないです。

でも、わたし的には、すごく幸せって感じではなくて、空気のような穏やかな幸せ感ですね。

大乗の極意は、もっと「切羽詰まった慈悲」である「大悲」ではないだろうか、って、思うのです。

求めるものは、他者とのつながりで、そこに「慈悲」を働かすと、「悲」という方が強く出るかもしれません。

投稿: 管理人エム | 2014/08/02 09:20

>いつものこっちゃ  ない ?

いつものこっちゃ なー

いつも、こういう自覚が生まれるんです。


知らんぷりって何だろ?

投稿: 管理人エム | 2014/08/02 09:14

自らがすでに、自分のモノではない

他者よ、何処に 、、、、

投稿:  春間 則廣   | 2014/08/02 06:48

>慈しみの心というのは、他者に向けて広げていくものですものね。

そして慈しみの心は縁起して、いつの間にか自身が安寧な幸福者になっているということでしょうか。 

なんだか大乗の極意みたいですね。 合掌

投稿: 前世は一在家 | 2014/08/02 05:47

ま 知らんぷりは

知らんぷりにしておこう

投稿:  春間 則廣   | 2014/08/01 18:25

仏であるということと、
仏であることを知ることとは、
違う階梯にある

仏であることを知る者は、
仏でないことを自らに知る

王家に生まれ、
劣家を知る

王家を知るまでは、劣はない

経王 の 何たるかを知る時、
諸経の何たるかを知る

諸経 を証する時、経王を知る

投稿:  春間 則廣   | 2014/08/01 11:01

> 幸せは、幸せによって  のみ  起きる

その時、
起きていることを
幸せと 知ることはない

「諸仏のまさしく諸仏なるとき は、自己は諸仏なりと覚知することを用いず、しかあれども証仏なり、仏は証してもてゆく 」

投稿:  春間 則廣   | 2014/08/01 10:56

>  7月は、どうも、
いろいろ
めちゃめちゃで、
ぐちゃぐちゃで、
悲惨な展開になってきてます。   <

いつものこっちゃ  ない ?

有るのはない ?

情にあるものが、有漏と呼ばれる

投稿:  春間 則廣   | 2014/08/01 10:50

> 幸せな夫婦の仲むつまじい様子

その様子
 を 支える 世界に目を向ける時
世界のありようは、
仲むつまじい かな ?


何故慈しみの心につつまれているか ?

つつまなければいけない、現実があるから

幸せは、幸せによって  のみ  起きる

広げていかなければならない、
その世間のありように、
則(法)を 広げる意味が生まれ出ている

表面に流されると、
そこにある 静けさを見逃す

そこの流れを見逃すと、
穏やかな海に漂うと顛倒する

投稿:  春間 則廣   | 2014/08/01 10:37

前世は一在家さま おはようございます。

>異教にも「幸せになりたいと思えばなれず、相手の幸せを願った時に幸せになっている」とあります。

そうですね、ほんと。
岡潔も『春雨の曲』の中で、述べています。

自分の欲から出る楽しみは一時だけれど、幸せな夫婦の仲むつまじい様子を見ると、次の日にも心が暖かい、って。
いつまでも幸せが続くということですね。

だから、初期仏教の方でも、「慈悲」ということを強調して説くのでしょうね。

慈しみの心というのは、他者に向けて広げていくものですものね。

投稿: 管理人エム | 2014/08/01 09:42

ミチ先生、住人各位、こん**は。

>阿羅漢になりたければ、それが近道でしょうか。

仏教の目的は苦を滅し安心を得ることだそうですね。
でもね、自己の安心・平安を追い求めている内は得られず、捨てた時に安寧を拾うのではないでしょうか。

「衆生済度」を換言しますと「衆生救済」となり、更に換言しますと「利他」となります。
「利他」の実践者に共通することは「無私」に近く、「我が無い」ということです。←大乗のコツかな。
俗世の雑事を『泥』と譬えますと、「泥の中のドジョウ掬い(雑事の中での衆生救い)」かとも考えます。

異教にも「幸せになりたいと思えばなれず、相手の幸せを願った時に幸せになっている」とあります。

以上、『近道』という文言が縁で、『急がば廻れ』という横レスでした。

投稿: 前世は一在家 | 2014/07/30 22:47

私の友人の資産は2500億位のものです
金銭的に見れば、大したことはない

その貧乏人が、なぜ、呼ばれるか です
( 一行の中で、自分が一番貧乏だったと、平松が言いました )

人の価値は、金では量れない

> ロスチャイルド家の人々も、なんか、たいへんそう。

人の荷 も、“たいへん”  か どうか

量るには、量る方向が必要となり、
「願」 に沿っての、量が生まれる
“ 沿う ” ということは、 “ (たいへん) そう ” とは違う

真理に推測は成り立たない
否定も成り立たない
(否定するのは、煩悩の為せる技 )

その煩悩具足の、悪人のために、 「願」 が置かれる

弥陀の本願は、ソコ にある

そこ  に あって、荷を負う、衆生の煩悩を負う

そこ  とは  足下の  底

愚底の愚 と 最澄は言ったが、
言ったから知ったということにはならない

空海は、“底” を 教え示す
スグ“ソコ”   即近 仏法  非遥 心中

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/29 11:12

>一台数億円・数十億円 の 車での旅です

>ロンドンから、飛行機輸送でフランスに行き、
>それをいつでも収容できる、コンボイを引きつれて

高い車となると、車も、乗り物の旅をするのですね!

大昔に聞いた話しですが、インドの大金持ちの人と文通をしている人がいて、

「わたしは、夏には、海水浴にいきますが、あなたは海に行きますか」
みたいなことを聞いたら、

sailingをする、って書いてあって、書いてあることが、すでにお金モチッ!って、驚いたことがありましたっけ。

子供心には、海水浴ほど楽しそうじゃないな、って思いましたが(笑)。

>身の “丈” は、人によって違うが、
>他の生き物のように、人にはその“差”が置かれていない

ここに、loka(世界)がありますね。

「赤い馬」という経典で、ブッダが、「世界の果てを求めて行ったら行きつく前に死んじゃいました」と述べた赤い馬という神様に答えています。

意識もそなえ心もある此の一尋の身体に即して、世界そのものと、世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。(『神々との対話』岩波文庫、p.145)

ロスチャイルド家の人々も、なんか、たいへんそう。

投稿: 管理人エム | 2014/07/29 10:21

> 船の旅?

一台数億円・数十億円 の 車での旅です

(こういうことは、ネットには出にくい)

ロンドンから、飛行機輸送でフランスに行き、
それをいつでも収容できる、コンボイを引きつれて

次の世代に、顔つなぎをするわけです
跡取り同士の顔合わせともなります

ロスチャイルド一族の総資産は、
兆のケタではなく、京の桁です

身の “丈” は、人によって違うが、
他の生き物のように、人にはその“差”が置かれていない

生きるという意味を知ると、
生の活かし方が見える

長短は縁起 (長い人生は、矢のごとく過ぎる)

シャカムニは即近に今生きている

どのように生きているかを知ると、
呼ばなくても、あちらからやってくる

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/29 08:35

>当主と、その後継ぎ達 十二組によって構成される
十日間の旅から帰りました

数字が、おもしろいですね。十干十二支みたいです。
船の旅?

>かのエリック・クラプトンの、
>  会いたいという希望は断っても、
>ロスチャイルドには断りを入れず
>そういうことは、
> 囲いの内か外か ?

うーーん、こっちは、囲いのうちを意識してそうですね。

「囲い込む」ということばが、どこかに浮かんできます。

囲いの外を語らない

囲いの外も内も手中に収めているとき、旅は終わっているのかも。


投稿: 管理人エム | 2014/07/29 08:08

善哉 は 善財童子 のこと
53次の旅に立つ


究竟涅槃  

涅槃は常に、足下にある
その位の意味です

言い替えると、
地獄ぞ一定住処なる

地獄と知る時、
そこでそのまま 往生浄土

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/27 18:54

> ダメである と知る時、その道が悟りへの道

親鸞の教えるところで、
親鸞が教えを受けたところです

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/27 18:38

春間さま

>その現在に洲をおいて、頑張る

おお…

>ダメから出発してもダメにしかいけない
>既に、ダメ という 道を選んでそこに住むから

あ、そんな感じはあるかも…

>本覚・如来蔵 から旅に出るから、
>善哉は、行き着くところを、願として設定できる
>進む道そのものが、悟りの道
>悟りへの道しか、悟りにはたどり着くことができない
>その道が、ダメからイズル理由がない
>ダメである と知る時、その道が悟りへの道
>ダメから出るのではなく
>如来の賜りもの

前は行き着いたところが悟り、と思ってましたが、悟りへの道を歩き出す、ということそのものが、もうある種の悟りのなのかな、と感じました。レールに乗っかる感じもありますか。

本覚・如来像から旅に出るっていいですね。いろいろと、ありがとうございます。

投稿: PL | 2014/07/27 18:33

頑張る前提に、
頑張らなくてはダメな現在がある
その現在に洲をおいて、頑張る

ダメから出発してもダメにしかいけない
既に、ダメ という 道を選んでそこに住むから

本覚・如来蔵 から旅に出るから、
善哉は、行き着くところを、願として設定できる

進む道そのものが、悟りの道
悟りへの道しか、悟りにはたどり着くことができない

その道が、ダメからイズル理由がない

ダメである と知る時、その道が悟りへの道

ダメから出るのではなく
如来の賜りもの

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/27 12:01

エム先生

いろいろなお話、ありがとうございました。がんばります。

投稿: PL | 2014/07/27 11:33

アメリカの野望が、
金銭崇拝主義の野望の象徴
(ユダヤ資本家の野望)

その象徴が、ハリウッドに顕われ出る

その野望でさえ、
自らの幸せを、こいねがうことから生まれ出る

話は変わるが、
私の最も親しい友人(平松潤一郎)が、
ロスチャイルド一族の誘いを受けて、
当主と、その後継ぎ達 十二組によって構成される
十日間の旅から帰りました

ロンドンのロスチャイルドが主宰した旅行です
そういうことを知らなくて、
世界を理解しがたい

かのエリック・クラプトンの、
 会いたいという希望は断っても、
ロスチャイルドには断りを入れず

そういうことは、
囲いの内か外か ?

ここって、どこ ?


投稿:  春間 則廣   | 2014/07/27 11:20

>囲いの外の存在がない

仏教というのは、結局、ここなのかなと思います。

投稿: 管理人エム | 2014/07/27 10:14

PLさま

>なんとなく、仏道修行しようとする人は、俗世の雑事は離れた方がいいのでしょうか

阿羅漢になりたければ、それが近道でしょうか。

スマ長老さまは、世俗のテレビ番組を一生懸命に観て、煩悩を勉強しています。

また、わたしは、世俗にあって通勤中に仏典とか読んでいます。

おもしろいですよね。
世俗にいればいるほど、仏教の世界が、悟りの世界が、広がっている感じがしてきます。

おそらく、逆もあるのでしょう。悟りにいればいるほど、教団の中は、案外俗っぽいところがあるかもしれません。

経典の註釈なんか読むと、比丘たちの日常は、わたしたちより、煩悩っぽい感じに書かれていたりします。たぶん、微妙なところだと思うんだけど、そもそも煩悩が少ないので、ちょっとでもあると目立つのかもしれません。

どんなものの中にも悟りの要素を見出そうと思うなら、世俗にいればいいかもしれませんね。智慧を開発する道です。

また、はやく悟りたいなら、出家の道でしょうか。心清浄を得る道です。

今のところ、こう思っています。

投稿: 管理人エム | 2014/07/27 10:10

エム先生

>そうですねぇ、わたしもわからないですが、とにかく、出会いが多ければ、経験も多くなり、「仕事をこなす」能力も身につけられるかな、と、思っています。

はい。

>その仕事を、他人のためになるように、そして、自分のためになるように、もっていく、というのが、世俗にあっては、大事なことかなと思っています。

やっぱり、そうですよね!

>世間にながされてしまわないように、気をつけながら、なんでもやってみる中道、ってのは、どうでしょう?

え、「世間にながされる」って、なんでしょうか。

なんとなく、仏道修行しようとする人は、俗世の雑事は離れた方がいいのでしょうか…なにかの論書にそんなことが書いてあった気がしまして。なるべく、俗事の中に道を見出したいと思うのですが、それは困難なのでしょうか。

いつもすみません、同じようなことばかりで。でも、やっぱりこうして、聞いてしまいます。

投稿: PL | 2014/07/26 22:45

>  分からないことは、
    必ず顛倒にある  <

分からないことには、存在がない

存在がないことについて分かることはない

人は全て分かっていることで世界をつくる
( 分からないということが分かる土俵は何処 ? )

分かってもわっからなくても、
全智にある

分かるまでは、世間に存在がない
存在が起きても、そこは世間(という囲い)の中

囲いの外の存在がない

無限遡及と、(顛倒して)片付ける

ソーユーコトデハナイ

ムキュー ということは、追求に (大きく)乗る

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/26 10:03

> わたしもわからないですが、とにかく、

分からないことは、
必ず顛倒にある

顛倒にあると分からないこと は ,
“とにかく”  と 隅に追いやられる

鹿に角があるのも不思議
ウサギにあるのが、あなたの当然

> 出会いが多ければ、経験も多くなり、

経験が多くても、学びはそれに付随するわけではない
一芸に秀でるモノは、すべてに通じうる

最小から最大を得る
最大から、得るモノは、最大であるとは限らない

> 「仕事をこなす」能力も身につけられるかな、と、思っています。

馴れは 起きる
慣れると、気を使わずともこなせるようになる
その、余力を、いかに使うかは、別の階梯

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/26 09:41

PLさま おはようございます。

>7月は自分もいろいろ仕事が回ってきて、けっこう精神的にもきてます...笑

ああ、たいへんですね。
来るときは、けっこう束になって襲ってくるのが仕事ってヤツです。

>先生、やっぱり、多くの出会いをもち、多くの経験を積むことも、自分のためになるのでしょうか。

そうですねぇ、わたしもわからないですが、とにかく、出会いが多ければ、経験も多くなり、「仕事をこなす」能力も身につけられるかな、と、思っています。

その仕事を、他人のためになるように、そして、自分のためになるように、もっていく、というのが、世俗にあっては、大事なことかなと思っています。
世間にながされてしまわないように、気をつけながら、なんでもやってみる中道、ってのは、どうでしょう?

投稿: 管理人エム | 2014/07/26 09:15

与えなくても変化している
そう知ろうとしない者に、
変化という常住が与えられる

どこまで行っても、
自分の世界(無明という識から離れられない)

孫悟空は、観音の手の内で、飛びまわる
ここまで来たぞ( = そこへは、入っていない )
着いたところが、また始まりのところ


常住と変化(無常)の関係


死んでも分からない  時 に 、
  輪廻(マンネリ) している

即今に死んでいる(如実に生きている)と、
不生にある


> けっこう精神的にもきてます

精神の世界は、無窮にある
肉体 の み が 、白骨 と 化す

宗教の骸骨を得るまでは、肉の乗るところを得ず

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/26 07:02

エム先生、おはようございます

7月は自分もいろいろ仕事が回ってきて、けっこう精神的にもきてます...笑

最近、どこへいっても、控えめに、聞くことは多けれど、自分の考えは語らないようにしているつもりなのですが、どうも吸い込まれるように、仕事や役が回ってきます。「そっちへ行け」って言われてる気がする…あるいは無意識に、そういう志向生の持ってしまっているのか…ギクッ、みたいな。

>遍歴遊行することは、
>多くの出会いをもち、多くの経験を積むことと同じです。

先生、やっぱり、多くの出会いをもち、多くの経験を積むことも、自分のためになるのでしょうか。ちょっと言い方をかえると、環境の変化という刺激を自分に与えることで、生きることのマンネリを防ぐ、みたいな道もあるのでしょうか。

投稿: PL | 2014/07/26 06:28

>  あるきながら、そんな気も、ちょっとしています。
   だけど、気づかないん      だけどね。   <


気付くくことが大事ではなく、
歩くことが大事です

誰もが歩いているが、
誰でも目指しているが、
( 誰でも望んでいるが )

前後ろを顛倒する時がある
(   前後ろが、 「 縁起 」 に あるから   )

顛倒していなくて、前に進んでも、
次の瞬間、 顛倒すると、 すべて顛倒するときもある
  (  顛倒が瞬間の時もある  )

顛倒と知ると、顛倒しなくなるが、
知らぬからと言って、顛倒しているわけではない

> 気付かないん
> だけどね

だけどもね 、 、、、、、

>> 気付かないん (だけ) だけどね

大事なことは “ 歩く = 歩みを進める ” こと

「 願 」 に 沿うこと


沿っているかどうかを知ることも大事なことではあるが、
沿うことが大事

分かるのは、してからでも遅くはない
ほんの少しの、智 が “ 「 毫釐も差あれば、天地懸に隔たる 」 ”

人知 と 仏智 を 隔つのは、ほんの少し( 「 毫釐の差 」 )

> “ ちょっと ”  しています

一歩には、その「 毫釐 」 が 入る

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/25 04:31

> 瞑想への入り口は、そういうところに開いている

なんか、どこか、そんな気もしている毎日。

あるきながら、そんな気も、ちょっとしています。

だけど、気づかないんだけどね。 

投稿: 管理人エム | 2014/07/25 02:54

>  気づくと、また、何も考えてません。

考えても、何も考えていないと、決めれば、
気付いている対象は気づきに至りません
(気づかない事の構造は、そういう風にあります)

自分で囲って、その中に迷い込む

> なんて無駄なんだ

無駄かどうかを決めることが、一番の無駄

人の生に無駄はないが、
無駄だと、短慮する心には、馴染みやすい

> 「こんなことをしちゃいられない、
何か考えないと。。。」
と、また想いながら、
気づくと、ただ歩いているのです。 <


気付いていない( ? 何にかな ? )
 けれど、
瞑想への入り口は、そういうところに開いている

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/23 19:49

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