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2014/07/10

あれ、もう10日。。。「くうっ(空)」

どうして、10日なんだろ?
この前、7月に入ったばかりなのに。
Dsc00747s

実は、本を書いているところなんですが、
それが、
ほんとに、本とに、ホントに進みません。


「空」をテーマにして、『サンガジャパン』の寄稿文を
検討しているところです。


煮詰まるわ
追い詰められるわ
苦しいわ
わからないわ


さすが、「 空 」 です。

からっぽなのに、
人も「食う」のね。


だけど、
苦しんだおかげで、
また、少し見えてきた感じもあります。


「自性を欠くから空である」

って、龍樹の説くこのフレーズを、
ワンパターンに暗記していてはいけないのです。

こんな風に、空のような空である こともあるのです。
Dsc00729ss

上の文は、なんて読むんですか。


そらのような、くうである こともあるのです


と、読むのです。『ダンマパダ』です。


254 虚空に道(足跡)はなく、
外(ほか)においては沙門はない。
虚妄を喜ぶのは人々であり、
虚妄を離れているのが、もろもろの如来である。

255 虚空に道(足跡)はなく、
外(ほか)において沙門はない。
作られたものに恒常なものはなく、
もろもろのブッダには動揺はない。


見つけたのは、こんな  空(くう) です。


「からっぽ」というのは、

見ようによっては、

どこまでも からっぽ
また、
どこまでも、満ちている
また
何でも出てくる
また、
何にもない


ふうむ、四つあるね。
こうなのかな。


「空」を読むコツは、
わたしの感覚では

絶対に、

あたりまえ路線を

はずさないこと、

って、でてきてるんだけど、
これでいいような気がする。


『中論』 を 読めるだけのものが、
そろそろ、そろってきたかなあ。

だいぶ、わかってきたような気がするけど、
気のせいかもしれないし。。ね。

でも、いい加減に、

『中論』に本腰を入れてみよう

って、思い始めました。

しかし、この文も、何だか、煮え切らない文ですね。

いっつも、決心だけは、一人前です、管理人、とほ。

Dsc00740s

日記をせっせと書こう
中論やろう
大智度論を読もう
岡潔の『春雨の曲』にせまってみよう

あと、なんだっけ。。。。

こういうこと書く暇あったら、どんどんやれぇ、管理人!

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コメント

前世は一在家さま

> 12より多くなく、12より少なくないと、こだわる理由があったのでしょうか。

いえ、そうではなく、目安です。
つい12と書いてしまいましたが、確証があるわけではないので、けっこうたくさんある、というように受けとっていただければ、ありがたいです。

今では『中論』だけしか確実に認められていないのが、現状なので、その点に問題を感じているのです。

始めに、九分教があって、それに足していって増えたのかな、って思ってますので、12くらいはあるのではないかと思っています。
でも、考えてみれば、未曾有有法とか、そんなのまで書けたかどうかわからないので、ちょっと自分でも何とも言えません。

すみません、ちょっと早とちり気味で。

ただ、種類として、12のタイプがあって、そのどれでも書いただろうと思うので、およそ、少なくとも12くらいは見つかるのではないかという気がしているのです。

中論、大智度論、方便心論、あと9つですね。

『廻諍論』『六十頌如理論』『空七十論』『ヴァイダルヤ論』

これは、たしかだと思うんですけど、

『宝行王正論』『勧戒王頌』
『因縁心論』

も、ありますね。

でも、12分教のどこに入るかとか、よく検討してないので、何とも言えません。

『大乗破有論』『四讃歌』なども可能性があります。

ガーター(詩偈)の作品が多くなるかなあ。

わたしが注目しているのは、いろいろなタイプの作品があって、タイプに分かれるところが、龍樹らしいという気がしているのです。

紛らわしいこと言ってすみません。

投稿: 管理人エム | 2014/07/25 03:20

ミチ先生、おはようございます。

>だから、少なくとも12は、『論』を著した、と思っています。

12より多くなく、12より少なくないと、こだわる理由があったのでしょうか。

中論、大智度論、方便心論、あと9つですね。

投稿: 前世は一在家 | 2014/07/24 06:03

前世は一在家さま こんばんは。

>あるスレで大智度論の紹介をしましたら、『論』は『経』より格下で解説に過ぎないという意見がありました。

『中論』と『大智度論』は、格下の『論』という立場を守るところが、なかなかえらいところだな、と思ったことがあります。

龍樹の場合、『論』なのですが、12分教という経典の種類にしたがって、『論』を書いていますね。
気づかれていないのですが、そうなっています。
だから、少なくとも12は、『論』を著した、と思っています。

投稿: 管理人エム | 2014/07/23 03:29

>中論やろう
>大智度論を読もう

やる
読む
   とは、 生きる  と いうこと

> 中論を大切にしている

している とは、 生きているということ

大切にするとは、
大切にしていないことを、怠りなく見つめるということ

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/21 06:55

しばらく考えてみます。
有難うございました。

投稿: せんす | 2014/07/20 21:25

ミチ先生、こん**は。

>中論やろう
>大智度論を読もう

あるスレで大智度論の紹介をしましたら、『論』は『経』より格下で解説に過ぎないという意見がありました。

それで私は、「確かに貴方の言う通りかも。
IF 経>>論 THEN 原始仏典>>中論」と答えました。

そこで止論となりましたので、相手の方は中論を大切にしている方だなと推察した次第です。

投稿: 前世は一在家 | 2014/07/20 21:04

せんすさま おはようございます。

むずかしい問題をいただいて、考えています。

>色即是空
>(色形あるもの、それは、からっぽである)

有名なことばですね。漢訳のこの文ですと、そのような訳になりそうですが、サンスクリット語などの文は少しちがっていて、ほかの解釈もできそうなのです。

>『色』『色形』という風に表現した、
>その「想い」や、その「ことば」は、からっぽである。

こう読むと事実を書いた文のように見えますが、わたしの解釈では、「色形はからっぽである(と見る)」というように、そういう見方をとりますという、論理的な立場を表す文として読んでいます。

そもそも「色即是空」という文の意味は、多くの人はすぐにわかりませんよね。
何だろう、と思うので、いろんな訳が出てきて、それはこういう意味だ、ああいう意味だと、解釈され説明されています。

ということは、多くの人にとって「色即是空」という文は、そもそも意味がからっぽであるのではないでしょうか。
何でこんなことを言うんだろう、みなさん思うわけです。

そこで、わたしは、「色を空と見ますよ」という自分のものの見方を明らかにする文として、これをとらえているのです。

>その「想い」や、その「ことば」に入れるものが、人によって、変化するから。

ええっとぉ、「変化するから、空である」と確定する(?)のではなく、「空である」と見るので、「ことば」や「想い」の中身はいろいろになりますよ、という風に、とらえています。

人々の中には、ことばは空ではなくて、意味は一つに決まっている(=自性をもつ)と思っている人もいるからです。


投稿: 管理人エム | 2014/07/19 09:06

春間さま

有難うございます。
しばらく、考えてみます。

投稿: せんす | 2014/07/17 10:57

>色即是空
>(色形あるもの、それは、からっぽである)

色形のないもの も、それらは、からっぽである

>『色』『色形』という風に表現した、
>その「想い」や、その「ことば」は、からっぽである

『色』『色形』という風に表現することが出来ない
その「想い」や、その「ことば」は、からっぽではない

>『色』『色形』という風に表現した、
>その「想い」や、その「ことば」は、からっぽである。

からっぽではない


>その「想い」や、その「ことば」に入れるものが、人によって、変化するから。 

人によって、変化するという観察が、
からっぽです

この“からっぽ” であるという真理が、からっぽです
ひとによって、変化することがない、自性があるからです

真理は  からっぽであるから  自性がある
自性があるモノ の み が 、
      からっぽです

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/17 05:21

すみません。もう少しお願いします。

色即是空

(色形あるもの、それは、からっぽである)

『色』『色形』という風に表現した、
その「想い」や、その「ことば」は、からっぽである。

その「想い」や、その「ことば」に入れるものが、人によって、変化するから。

こういう理解で宜しいのでしょうか?

投稿: せんす | 2014/07/16 22:27

>それしか入らない、と思うなら、自性をもつといえるのではないかと思いますが、一時的に入るならば、ただ「からっぽではない」といわれるのではないかと思います。

ああ~わかりました。
有難うございました。

投稿: せんす | 2014/07/15 16:26

>そうしますと、「想い」や「言葉」は、その人の経験を放り込む時、その人独自の自性を持ち、放り込まない時、からっぽということですね。

「その人独自の自性をもつ」といってもいいのかどうかは分かりません。

それしか入らない、と思うなら、自性をもつといえるのではないかと思いますが、一時的に入るならば、ただ「からっぽではない」といわれるのではないかと思います。

投稿: 管理人エム | 2014/07/15 03:36

そうしますと、「想い」や「言葉」は、その人の経験を放り込む時、その人独自の自性を持ち、放り込まない時、からっぽということですね。

投稿: せんす | 2014/07/14 17:28

>私が枠を想定してしまうのは「からっぽ」という言葉に付随するイメージ作用ではないということですね。

あ、いいえ、「からっぽ」に付随するイメージでよいのではないかと思います。

http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/sunna.html

「小空経」を読みますと、枠とか器とかのイメージで「空」ということが語られていると思います。

>内外の認識対象をくくる「想い」や「言葉」が枠や器のようであるということでしょうか?

そうです。例えば、「せんす」という音(ことば)があったとします。

「せんす」と聞いて、すぐ、風を起こす扇子を思ったとしたら、「せんす」は意味においてからっぽではなく、「扇子」を意味しているので、つまって(?)います。
しかし、「せんす」と聞いて、何のことか分からず何も思わなかったら、それは意味において「からっぽ」であるということになるのじゃないでしょうか。

例えば、「せんすさんって、よいせんすをおもちですね」っていわれて、

当然、センスが良い、という意味だと、思って疑わずにいるとき、「せんす」は、センスという自性をもち空ではない、ということになりますね。

でも、あれ、「わたしの扇子をほめたのかな、それともセンスをほめたのかな」と決められないとき、自性はからっぽになっています。

投稿: 管理人エム | 2014/07/13 15:57

「 縁起 」 に あるから 「 空 」 である
しからば、 「 縁起 」 は 「 空 」 で、縁起にあるか ?

縁起も空も、自性にある
自性にあるから、 「縁起」 で 知る

「 理 」 は、自性を持つ
「理」 は 「 自性を持たないという、自性 」 に、無自性としてある

存在の縁起は空ではない

人が生きるという意味を知る時に、不生を知る
不生を知る時に、縁起を知る


******

>  煮詰まるわ
    追い詰められるわ
    苦しいわ
      わからないわ  <

苦が湧く時に、行にある
( 業にある時、苦にある )
そのままで涅槃だと知る時、業態 を知る

> 人も「食う」のね。

人は人を食う
人が何故、四食に入るかを知ると、
四食の枠は、無限へと広がる

シャカムニを食って、ムニ(と)なる

「 大毘婆沙論 」
(  一者摶食,二者觸食,三意思 食,四者識食  )


自分のしている通りのことを、シャカムニもしている

自分で(知って)していると思っていたが、
シャカムニが為したから、自分に伝わったと知る
(  そうして牟尼を遮二無二空  )

真理を見るとは、見る目を、授かっていると知ること

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/13 08:00

>後は、ここから類推して、心の中の「想い」だとか「ことば」などを、枠や器のように考えるのではないでしょうか。

私が枠を想定してしまうのは「からっぽ」という言葉に付随するイメージ作用ではないということですね。

内外の認識対象をくくる「想い」や「言葉」が枠や器のようであるということでしょうか?

投稿: せんす | 2014/07/12 15:25

せんすさま こんばんは。

>「からっぽ」と表現した場合、私は「からっぽ」の枠(わく)に相当するものをいつも考えてしまうのです。

>そういうものは、仏教的に何か表現されてあるのでしょうか?

その発想は、よく分かります。
わたしの場合、枠というより器のようなものを考えてしまいます。

お釈迦さんのあげた例では、講堂がありますね。講堂の中には、象とか馬とかの動物はいない(からっぽ)けれど、比丘たちがいるとかね。

後は、ここから類推して、心の中の「想い」だとか「ことば」などを、枠や器のように考えるのではないでしょうか。

想いやことばですと、これらも消えていったりしますから、枠や器もシャボン玉みたいな感じにとらえる方がいいのかもしれないですね。

投稿: 管理人エム | 2014/07/12 00:26

こんにちは。
毎日暑いですね。

変な質問かもしれないのですが、

認識対象に即して、そのものの空性を
「からっぽ」と表現した場合、私は「からっぽ」の枠(わく)に相当するものをいつも考えてしまうのです。

何かあるのかと。

そういうものは、仏教的に何か表現されてあるのでしょうか?

投稿: せんす | 2014/07/11 13:48

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