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2014年5月

2014/05/25

花は盛りに、っていっても。。

寒かったり暖かかったりするお天気で、
気が抜けません。
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仕事に行く途中で、出会う花々が、それは美しいです。。

ほんとに、花は盛りに月はくまなきを、見るもんだなあ。

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今年は、特にチューリップが咲きほこっています。

チューリップと言っても、いろんな形で、いろんな色があるんですね。
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八重桜は、花びらの絨毯。上も下も見事ですわ。
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ライラックは、つぼみと花で、色のグラデーション。
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              ◇◇◇


美しい花々を眺めながら、朝日カルチャーセンターで、
『スッタニパータ』を読んできました。


花は美しいのに、
なぜ、同じ自然の造化である身体は 
汚くてけがれているのだろうか。


『スッタニパータ』第一章11.「勝利経」
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193 歩いたり、立ったり、座ったり、横たわったり、
あるいは、身体を曲げたり、伸ばしたりする 
―― これが、身体の動きである。

194 骨と筋でつながれて、真皮と肉で塗られ、
表皮によって覆われている身体は、
あるがままに見られることがない。

195、196 (身体は)腸に満ち、胃に満ち、
そして、肝臓、膀胱、心臓、肺、腎臓、脾臓、
また、鼻汁、唾液、汗、脂肪、血液、関節滑液、胆汁、膏(あぶら)がある。

197、198 その(身体の)九つの孔からは、
常に不浄物が流れ出ている。
目からは目やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻水、
口からは、ある時は、胆汁を吐き、ある時は、痰を吐く。
身体からは汗が出る。

199 その中でも、頭は空洞になっていて、
脳漿で満ちている。しかるに、
愚かな者は、無明によって身体を美しいものだと
称えるのである。

200 そして、死者が、青ぶくれにふくれてくる時、
墓場に捨てられて、親族は放っておくのである。

201 それを、犬やジャッカルやオオカミやウジが食らい、
鳥やワシやその他の生き物がついばむのである。

202 この世において智慧ある比丘は、
ブッダのことばを聞いて、かれはあまねく了知する。
なぜなら、あるがままに見るからである。

203 「これ(この身体)も、それ(死者の身体)のとおりである。
それ(死者の身体)も、この(生きている身体の)とおりである」と、
身体において、内からも外からも欲を離れるべきである。

204 この世において智慧ある、かの比丘は、
欲や貪りを離れて、不死に到達して
、寂静、涅槃の境地、不滅に至った。

205 この人間は、不浄であって悪臭を放ちながらも、
愛護されている。
種々の老廃物に満ちて、
そこここから生臭いにおいがするのである。

206 このような身体によっているのに、
自分を偉いと思って、他人を軽蔑するようならば、
かれは、「見てないもの」という以外に何といわれるのだろうか。

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「勝利経」をまるごと載せてしまいました。

ああ、こんなに身体ってけがれているのか、って
がっかりしてしまいますが、
仕方ないですよね。

でも

身体の中にある時は、そうでもないのに、
身体の外に出てくると
どうして不浄物と言われるんでしょう?

老廃物って、
なんか、かわいそうですね。
って、同情するような問題ではないか。


身体は不浄である


やっぱ、考えておいた方がよさそうですね。

いつも肝に銘じておけば、
他人を軽蔑するなんてことは、
たしかに、なくなりますね。

ここにつながっていくんですね。

ただ、けがれている、というだけなら、
意味はないけど
それによって、自分を自慢することがなくなり
それによって、他人を軽蔑することがなくなる

これが大事なんだね。


     ◇◇◇


そう言えば、話しは変わりますが、

うちの猫も、すごいです!鼻水!

慢性の鼻炎か、常時、鼻水を飛ばして、
それを、あっちこっちに振りまいてます。


猫の不浄物で、
あるがままに見ても見なくても、
我が家の床は、油断がならない状態です。

いつもティシューペーパーをもちながら、
移動しているのです。

うーーーむ、
いくら、「はな」でも、
いくら、「はな」ざかり でも、

写真に撮れないものも、あるんだなあぁぁ。。。

代わりに、八重桜の花びらを敷きつめた大地を!
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「花」から「鼻」へのお話でした。
浄と不浄のお話でしたかも。


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2014/05/17

論理は戒である 戒より始めよ

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恵み野という駅の前に一本咲いていた桜です。
今年のお花見は、なんとなく、これ一本で終わったような感じですわ。

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咲く時期の遅い八重桜にであいました。
でも、もう、散り始めていますね。

花は、桜からライラックに移ってきましたね。
そして、寒い!

恒例の リラ冷え ですね。


           ◇◇◇


さて、さて、ここしばらく、論理について考えていました。


★論理は、瞑想である


というのは、よく語ってきたことですが、もう一つ、
こういうことも言えるかな、と思います。


★論理は、戒である


これは、ほんとにありがたいことだと思います。
何がありがたいと言って、

論理 というのは、 そう言えるだけではダメで
実践、という 眼に見える部分を持たなくちゃならない、

ということだからです。


つまり、証明する手立てが、二つあることになります。

理論的に、そう言えるということ。
実践的に、そうなっていること。

言い換えれば、二つそろわなくちゃいけないので、
より厳しいとも言えますが、

でも、たしかな手立てが二つあるのは、やはりありがたいです。

論理が瞑想であるのは、

論理というのが、その体系内のあらゆることにおよぶことによります。


とにかく、どのような原則でも、それを体系に入れたら、
体系内の全部が、その原則にしたがって、一斉に並び替えられるのです。

これを、原則を入れた本人がやらなくてはならないので、

どうしても、
一点集中の瞑想だけでなく
あらゆる点におよぶ 禅定が必要になります。

こんな風に、ピッと並ぶのよ、って言わなくちゃ
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それと同時に、

論理は、その説く人が、実際に体現していなければ

意味がない

というものです。


そういう「ものの見方」なのだから、
そのような見方を貫いている、という見本を
示さなくてはなりません。


だから、論理の原則は、戒として、その人をしばるのです。

たとえば、
矛盾律( Aと¬Aが同時にあってはいけない )を
原則としたら、自分が、それを犯してはいけないのです。

したがって、当然、語る内容が、
みずからの論理にしたがったものとなります。


こうして、論理は戒の要素を持つことになるのです。。。


って、考えていったら


つまり、論理って、  


八正道


って、ことだなあ、 って、思いつきました。

正見(正しいものの見方)
正思(正しい考え方)
正語(正しい語り方)
正業(正しい行い)
正命(正しい生活)
正精進(正しい努力)
正念(正しい気づき)
正定(正しい禅定)


論理学者 というのは、戒を守る人だったんだ。


まあ、そんな気もしたけど、
あらためて、考えると、

結局、知らないうち、八正道を目指していたのか。


ブッダ論理は、八正道

論理を語ることは、みずからの戒を語ることである


だから、もし矛盾すると、自分が苦しくなるだけなのよ。。


何か、善いこと、書いてる気がする。   ねっ!


また、つらつら考えますに、自分の守れそうな戒を、

論理として持つなら、自分の論理学が作れる、ということでもある。


ふーーーーーーむ、なかなかいい考えのような気がする、ほんと!


◇◇人は  誰でも  自分の論理学をもたねばならない ◇◇


こんな風に言ってみたら、どうだろう。


「戒」より堅苦しくなくて、押しつけがましくない感じがするけど
「論理学」ということばに、人間、堅くなりそうですか?
そんなことないよね。

たいてい、認められる原則は

先ほどの 矛盾律と

せいぜい 排中律 ( 世界は、Aが Aでないかのいずれかだ)

ですから。


仏教は、矛盾律、一つでいけそうです。

世俗諦で、二つ。矛盾律と排中律。
勝義諦で、一つ。矛盾律。


こうかな?

どう思う?

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あるがままに草を食む


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2014/05/05

「ある」は、執着のあかし。。ああ無常

やっぱり、春は桜ですね。
あっという間に咲いて散ってしまうから
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毎年、やっぱり、桜の写真をアップしてしまうなぁ。
はかないものは美しい。

こちらもはかないキバナノアマナという草本。
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ほんとうに一時現れて、あとは他の草にうもれてしまいます。
なかなかキレイに撮れないのも、悲しいです。

        
        ◇◇◇


ちょっと、学問について、小考察してみます。

近代の学問というのは、
主観ということを排除して、
客観ということを重んじてきたのです。


できるだけ、普遍性を追求していこうとする態度が、
この客観重視の傾向を生んできたのでしょう。


科学の言語は、数学であるのも、ここからきています。
また、
論理学も、数学的なやり方を取り入れて
機械的に割り出すような手法がとられました。

だから、

数学的な記号表記が、論理学でも取り入れられたのです。

論理的であることは、客観的である

と自負をもっていわんとするかのようです。

現代記号論理学
数学的論理学

などと名前がついているのも、客観重視の現れだと言えます。


ですが、数学的に分析する方法は、はるか昔、

すでに、ブッダが見出し行っていたものでもあります。

           ***

ブッダは、
日常表現で語る言語と、
ブッダの教えを語る言語を、
使い分けています。

★日常表現においては、重要なのは語順です。
語る順序に、その人の気持ちが表れます。


★教えを語る言語において、重要なのは有無(肯定・否定)でしょう。
あるとないに、その人の見解が顕れます。


こういう二つの★の表現は、
正しいのか正しくないのかわからないけど、

世俗諦と第一義諦という二つの真理から見ると
そうそう外れていないようだ。

日常表現では、語順を大切にする因果を語ります。
教えを説く表現では、見解を離れる空を語ります。


ほらね、うまくおさまるので、合っているみたいだ。


そして、これらの二つの表現には、
主観や客観という分類は、合わないように見えるのです。

主観であるといえば、主観である
客観であるといえば、客観である

だから、主観・客観にかかわらないので、
ブッダの教えは学問的ではないのでしょうか。
どうなんだろう?


            ***

でもね、最近思うのは、

っていうか、

前々から思ってたことだけど


学問に欠かせない「見解」というのには、執着が絡むよね。。。。


うーーーーーーーーーーん、


学者には、欲や怒りや、なんやかやの心があって、

それが、見解を特徴づけるのではないか?

という考えが浮かびます。

客観性を重視する姿勢だけでは、
どうしようもないほど、
執着というのは、目に見えにくく現れにくいのではないか

という気がします。


学者というのは。。自分も学者のなれの果てなので、
言いにくいけど、

しがみつきたがる

という習癖があるのではないだろうか。。。どうなん??


さあ、どこに、その「しがみつく心」は、潜んでいるのだろう。


それは、語ることばの中に潜んでいるのだ!


きゃー、こわっ!


どんな風に潜んでいるかというと、

概念、という形で、
単語の中に、ドンと居座っていたりする。

「概念」というのを持ちだしたら、
次にくるのは、
「存在する(ある)」ということである。

たとえば、牛の概念を考えよう。
四つ足で、白黒まだらで、モ~となく動物。

かりに、これが、牛の概念とするなら、
こういう動物について、そういう動物は「いる」、と言いたくなるでしょう。

だって、ほら!
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どう見ても、「牛はいる」と言いたくなってしまう。

いないと言われると、余計に「いる」と言いたくなる。


牛は実在するのだ!


と、説くとき、見解が生まれ、もうそこには客観性も見えるのです。

認識によって、確かめることができるから。


こうなると、どこに執着があるというのだろう。
確かめられるじゃないか。

見えるでしょ?


こうして、「客観的である」という信念と共に
思いの中にことばの中に

執着が、牛の形をとって、現れるのです。


ほんとに、「牛がいる」と思うことが、執着の心だったなどと、
誰が気づくだろうか。


こうして、あらゆる学問は、「ある」もの「いる」ものを探し求めて
発展してきたのです。


「ある」は、執着の証。。。なのかぁ

よし、一気にいこう!
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桜にレンギョウ、しだれ柳は ある  のか ないのか

やがて消えていくものは、いとおしい。

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