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2014/04/04

『大智度論』考。。つらつら気分

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春らしい風景を選んでみました。

どこが春なんですか?

きのこが不気味だけど、でも、雪が融けた証拠みたいなもんですよね。

久しぶりに、自分にも休暇を与えよう。
論文も一応書けたし、

と思って、街に出てみたら、なんとぉぉぉ、消費税が8%になってました。

そうだった、そうだった。。出遅れました。


うーー!
8%って、けっこう効きますね。

100円ショップで、お買い物しても、108円だっ!
自分のもの買わないで、
母にコートを買ったら、消費税でギョッとなりました。

これで、10%の消費税になったら、
自分のものも、母のものも、何も買えないなあ。。

まあ、いいか。。買い物する手間が省けて。。

と、前向きすぎること、考えながら、

龍樹に逃避 です。


        ◇◇◇


『大智度論』は、龍樹の作のように考えられないのは、
なぜだろうか?

と、考察してみています。


そもそも、龍樹って、何を書いてるのか、わからないから、
何を書いても、龍樹に見えない、
っていう、もっともな意見もあると思います。


でも、近現代の学者たちが、密かに思っていることは、
龍樹って、冷たい冷血動物のような人間じゃないか、
って、いうことではないか、
って、けっこう勘ぐってしまいます。

まあ、考えすぎなんですが。。。。

『中論頌』を、うまくとらえられないと、
『方便心論』でつまずくと
すごく冷たいヤツで、論理を振りかざして、
相手を糾弾するような人間に
見えてしまうかもしれません。

論法というのは、相手を非難するためにある、
と、考えてしまうと、
そうなっていくかもしれません。

しかし、ほんとうは、そうではないことが、

どんなに隠そうとしても(?)

見えてきます。


龍樹は、よこしまな考えで人を混乱させるような考え方から、
みんなを救おうとしたのだ、
と、実感されます。

多くの人が、これでいいのか、悪いのか、
迷うようなことがたくさんあるのです。

そのときに、理屈を通すということは、どういうことか、
はっきりと示した人

それが、龍樹であるように思います。

すべてが明るみに出るので、
引っかかりのある人には、嫌な存在となるのでしょう。


鳩摩羅什が、『大智度論』を書く、というのは
どういうことなのだろうか。
龍樹が、『大智度論』を書いたのではない、というのは
どういうことなのだろうか。


わたしの目には、ものすごくはっきりしていて、
これほどわかりやすいことはありません。

龍樹は、多くの書を著し、外教徒を教化したのです。

『中論頌』『方便心論』『廻諍論』『ヴァイダルヤ論』などなど。

そして、あらゆる人に対して、
それこそ、
ほんとうの意味で、あらゆる人に対して、

ブッダの教えを、

手に取るように、
わかるようなやり方で

明らかにしようとした。。と思います。


        ◇◇◇


   ★ルージュの伝言、ってか、龍樹の独り言★

みんなを救うため、いったい
どうやって書いたらよいだろうか。。

そうだ、これだ、『般若経』、このむずかしい教えに、
「ウパデーシャ(解説)」をつけよう。

『般若経典』は、誰が読んでもわからない。。
書いた人もわからないかも。。おいおい。。

だから、これを註釈するようにして、
そうして、何から何まで、問われたことに答えよう。

一から始めて涅槃に至るまで。。。そうしよう、そうしよう、いい考えだっ!


っと、龍樹は思ったのね  (わたしの中では)

経典は、
「わたしはこのように聞きました、ある時…」と始まる、

全部説明しよう。

「このように」も
「わたしは」も
「聞きました」も。

何もかも、ブッダの理屈で説明します。
お任せください、無料です。。あ、無量です。.
ごめんごめん、地が出たわ。


「ある時( エーカスミン サマイェー)」

「ある(エーカ)」とは「一つ」ということ。

そこで、「一(エーカ)」が解説されます。
論理に強い論法家は、「一」にこだわるから、

論理でいきますよ、
あなたの論法、使います、生かします。

そして、ブッダの教えに導きます。

どんなことも、説明されないことはありません。

「時」だって、説明しちゃうかんね。

「サマヤ(時)」と来て「カーラ(時)」じゃないのは、なぜですか?

ニャンニャン、教えちゃうよ。

カーラは、「時」を宇宙の根源に置く派も、使うので、
先入見をもちやすいんだよ、ニャンコロリン。。

って、こんな感じで、どんどん説明しちゃうもん。


    ★ 龍樹の 伝言 終わります ★


こんな展開に、見えます、読めます。


『大智度論』の説明の、流れといいますか、感覚といいますか、

けっこう、わたしと気が合ってて、

わたしも、こんな風かな、と思っていると、

それが説明されてる感じがあります。。あ、龍ちゃんとおんなじ、みたいな。

。。親しすぎるぞ。ごめん。


         ◇◇◇


『大智度論』には、鳩摩羅什の訳の影響も感じますが、
それを引いても、
『大智度論』そのものに、勢いがあるし、流れもあります。

論の展開が、ああ、そうなるよなあ、っていう自然な思考に
導かれていく感がありますね。

だから、やっぱり、龍樹が書いた

っていうので、いいんじゃないかと、思うんだよね。


ぜんぜん、論理的じゃない説明してんな、管理人ってば。  by 龍樹

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伸びてけ、『大智度論』!

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コメント

前世は一在家さま

『大智度論』では巻の十五にあたります。初品二十五です。
原文では、このあたりです。

復次若先有心後有生。則心不待生。
何以故。先已有心故。若先有生則生無所生。
又生滅性相違。生則不應有滅。
滅時不應有生。以是故一時不可得。異亦不可得。
是即無生。若無生則無住滅。
若無生住滅則無心數法。無心數法則無心不相應。
諸行色無色法無故。無爲法亦無。
何以故因有爲故有無爲。若無有爲則亦無無爲。
復次見作法無常故。知不作法常。若然者。
今見作法是有法。不作法應是無法。
以是故常法不可得。

この辺までは、『中論』で説かれるような内容ですね。いろいろ説かれますが、生住滅が成り立たなければ、結局は、無為まで成り立たなくなることも説かれています。
それから、外道と声聞乗の立場が以下のように説かれます。

復次外道及佛弟子。
説常法有同有異。同者虚空涅槃。
外道有神時方微塵冥初。如是等名爲異。
又佛弟子説非數縁滅是常。又復言滅因縁法常。因縁生法無常。

これだけでは、分かりにくいのですが、ここには、論証式が前提とされていて、『方便心論』の論法が下敷きになっていると思います。

外道と仏弟子は、常法を説くが、同・異がある、とあり、同は、虚空と涅槃で、異は、外道の説く神・時・方・微塵(原子)・根本原質(プラクリティ、冥初)です。

たとえば、このような表現から、仏弟子が、「涅槃は常法である、作られざるものだから、虚空のごとし」などのように、論証式で表すことができるのです。ここは、『方便心論』2.2.1などに通じています。「同」は「同類」のものということで、涅槃と虚空は、同類とされます。常法として同じということです。それは、『大智度論』から十分読み取れます。論証の極意を知ってる人が書いてる文章です。この時代に、ここまでの論証を想定できるのは、龍樹だけです。
実は、これらの論証式は、のちのちディグナーガやニヤーヤ学派などによって整備されてくることになるのですが、龍樹がすでにそれを示していると言えるのです。

で、また、ちなみに、外道の唱えるいろいろな常法は、『無畏論』の最初に載っているものですね。

つまり、『大智度論』では、龍樹の『中論』の空観の内容を説きながら、一方では、仏教論理学に通じるような論証の仕方も、部派向けに教えている、という内容になっていて、
非常に高度なのです。

>もしかしたら月称菩薩が警告していた想定読者以外が空観を読んだ場合のリスクなのかなと感じております。

空を先に読んでしまうと、善悪を忘れます。順序が大事になってくると思います。

投稿: 管理人エム | 2014/06/10 01:57

ミチ先生、こん**は。

>『大智度論』のあの該当個所に出合ったとき、『方便心論』も『中論』も、龍樹が著したのだと、強く実感しました。

済みませんが、当初の私の質問は「方便心論」と「中論」との無為の説き方の違いについてでして、
「大智度論」は比較対象に入っておりませんでした。

>『大智度論』(『大正蔵』25.p.171b)

多分ココ↑だとしたら、第何巻の上か下か、章の題も教えていただければ幸いに存じます。

>「應時語」という項目にあるとおり、善悪を語り(輪廻を語り)、次に空を語るなら、人は理解できるだろうと述べています。

ネットでは輪廻を否定して、空を語る自称仏法者をよく見かけます。
もしかしたら月称菩薩が警告していた想定読者以外が空観を読んだ場合のリスクなのかなと感じております。

投稿: 前世は一在家 | 2014/06/09 21:10

> 大丈夫です。
  もし間違っていたら、わたしの方が、この世界を捨てます。
   生きる価値のない世界だと思います。           <

貴方が捨てられる世界であるのなら、
その世界はもともと、捨てられている世界です ( 存在がない・虚仮 )

捨てうことが適わないから、 「虚仮」 です
( 何故かは、虚仮にいる限り分からない )

この世界に捨てられるということも成り立たない

捨てる神あれば拾う神あり

二つは同時に成り立つことで、順序があると迷誤する


あなたが決める、 あなたの価値

あなたの指摘するであろう “間違っている” 価値感

生きる価値を、価値と呼ぶな !

生きることに価値はないが、価値がないということに価値がある
そこにある価値は、生きることにしかない

価値がない世界がありますか ?

あるかないかは、あなたの “開いた” 世界= 価値感 が 決める

元々あるモノは、元からある
元にないモノは、今もない ( あなたの不要とする価値観のことです )

ないモノを云々する虚しさ に 囚われている 無明の人生

 

投稿:   春間 則廣   | 2014/06/09 08:53

前世は一在家さま

だらだらと書いてしまい、読みとりにくかったでしょうか。

自分でも、一刀両断に説明したいのですが、これが精一杯です。 また、世俗諦と第一義諦という説明は、あっているとも外れているとも言えない感じもあるのですが、とりあえず、このようにご説明して、あと一生懸命考えます。

『大智度論』のあの該当個所に出合ったとき、『方便心論』も『中論』も、龍樹が著したのだと、強く実感しました。

大丈夫です。
もし間違っていたら、わたしの方が、この世界を捨てます。
生きる価値のない世界だと思います。

投稿: 管理人エム | 2014/06/09 01:41

ミチ先生、こん**は。

詳細な解説を有難うございました。
世俗諦では有為と無為との区別が説かれ、第一義諦では何れも無いと説かれるということですね。

第一義諦では衆生を誘引することもできないので、まず世俗諦で誘引するということのようで、智慧から生じた方便なんでしょうね。

投稿: 前世は一在家 | 2014/06/08 21:12

> 「應時語」という項目にあるとおり、善悪を語り(輪廻を語り)、次に空を語るなら、人は理解できるだろうと述べています。

「 人 」 って、誰を指しますか ?

あなたが入る

あなた以外に誰が入ろうと、あなたに入らなければ、
入るという意味がない

誰に入っていかなくても、あなたがいれば、人には入る

> すなわち、世俗諦を語り、第一義諦を語るなら、そこも理解できることでしょう

そう語って、理解しない人がいるのなら、
そこは理解できないというのが妥当です

誰でも理解できることであれば、誰も説かない

誰も理解していないという理解があるから、
仏説を聞く者が説く

説く者は、聞いているのか いないのか ?

聞く者 が いれば、語る者 が いる
(聞く必要にあれば、いつどこでも何からでもどのようにしても 聞こえる)

必要がないという必要を、順序に沿っておくと、
「 後の者が 先に 天国に入ることは適わない 」

認識に 順序は あるや否や ?

聖書は、聖なることを説いていない
「 後の者が先になり、先の者が後になる  」  ( ルカ 13―30 )

そういう 置き方、置くモノ を 翳障  とする   (  順序を置く  )

 

投稿:   春間 則廣   | 2014/06/08 06:51

前世は一在家さま

一見すると、まったく違うことを説いているようですが、ほんとうにそうでしょうか。

A)作られざるもの(無為)を観じるならば、作られたもの(有為)から解脱する。 (釈尊「感興のことば」26.21)

B)涅槃は作られたものではないので恒常である。(龍樹「方便心論2.2.1」)

A)をもとに、B)は、言えますね。
作られたものを離れて解脱すれば、無為である涅槃は、恒常となります。有為が無常ですから。
部派の説くところです。

部派にとって、この論証は正しいでしょう。これが『方便心論』で説かれます。しかし、『方便心論』でも、第四相応品においては、同や異を説く論証に対して、反論も述べていきます。このあたりは、「空」ということばはでてきませんが、『中論』に向かうお膳立てがそろってきているところだと思います。同と異を否定するので、不一不異の立場が現れてくるところだと思います。

『中論』では、生住滅を否定して、有為を否定し、それにより無為も成り立たないとしてしまいます。こちらは、大乗に入ってきますね。「空」が効いていると思います。

いずれも説けるところが、龍樹です。
前者は、世俗諦をおさえて、後者は第一義諦において、説かれる内容だと思います。

ここは、『大智度論』(『大正蔵』25.p.171b)に、そのまま載っていますので、ご覧になってみてください。

部派の有為・無為の区別については、外道の説とともに説かれています。

外道及び仏弟子が常法を特に、同あり、異あり。同とは虚空と涅槃となり。……

などと説かれていて、ここは『方便心論』における、論法をしっかりおさえてあります。同と異は、証明すべきものと同類のもの異類のものを指しています。

こういうことを説いているのは、『方便心論』しかありません。
論法を確立したところでは、部派の立場が明らかに示され、言語を否定していくところで、大乗の空の立場が明らかになる。

両方を縦横に語っているのが、龍樹だと思います。

どちらを説いても、仏法をはずさず説けるのが、龍樹のすごいところだと思います。

『大智度論』のこのあたりを読んで、『大智度論』作者も龍樹であることを実感しました。『方便心論』『中論』どちらも知らないと説けない内容です。

仮設されるならば、それに合わせた説き方ができるのが、龍樹です。

「應時語」という項目にあるとおり、善悪を語り(輪廻を語り)、次に空を語るなら、人は理解できるだろうと述べています。
すなわち、世俗諦を語り、第一義諦を語るなら、そこも理解できることでしょう。

どうでしょうか。

何かを主張するわけではなく、論理の構造を示すのが龍樹だと思います。


投稿: 管理人エム | 2014/06/07 23:16

ミチ先生、こん**は。

>わたしは、『方便心論』『中論』『廻諍論』を論法にかかわる三部作としてあげたのですが、それでみますと、まず、『方便心論』が来て、次に『中論』がおかれます。

A)作られざるもの(無為)を観じるならば、作られたもの(有為)から解脱する。 (釈尊「感興のことば」26.21)

B)涅槃は作られたものではないので恒常である。(龍樹「方便心論2.2.1」)

C)以上のように、生・住・滅は成立しないが故に、有為(作られたもの)は成立しない。
また有為が成立しないが故に、どうして無為が成立するであろうか(成立しない)(龍樹「中論」7-33)

無為に関する龍樹の解説ですが、「方便心論」と「中論」とで異なる言い方がされているようです。
両方とも龍樹の著作だとしたら、四悉壇となり、対告衆の違いということで説明がつくのでしょうか。

と2カ月近く前の記事ネタですが最近疑団が生じましたので。

投稿: 前世は一在家 | 2014/06/07 20:59

> 、「中論」は智慧と慈悲と功徳の整った菩薩候補者向けに書かれ、
もし想定読者以外が読めばかえって邪見に陥るというようなコメント(警告)をされてました。

菩薩候補者 などはいません
大乗に信を起こした者を 菩薩 と呼びます
本人が決めることではありません

悟りをすでに得た、法蔵菩薩が 
悟り を “知って” 、
「 その悟り を 得じ 」 と 「 (十八)願 」 に 生きる


生きている菩薩が 聞くことの適う者です
それ以外は、 邪見 = 顛倒 = 無明 です

その “コメント” を “信じる” のなら、
自分の立ち位置が 見えます(観世)
「中論頌」  に ついて、
どのような 者 が 語っているのかを見失っています

わたしが語り、
あなたが聞く
( “わたし”の立場を問いつつ )
“あなた” の 立場(洲) を 問うています


>>  諸法は皆ことごとく空寂であって、自己はなく人(プルシャ)もない、幻のごとく変化(へんげ)したもののごとくであって真実はないと。このような深遠なる事柄は、智者は了解するが、普通の人が聞いたら、迷って理解するのを断念してしまう。これは、「時宜にしたがって語るもの」とは言えない。もし、諸々の存在には行為(業)があり、結果や束縛や解脱など、行為をなす者や享受する者があると説くとすれば、知恵の浅いものがかりにこれを聞くならば、たちまち信じ疑うことはない。棒と台木を錐もみして、たちまち火が生ずるようなものである。もし説き明かされた(空の譬喩)が直前(の業・輪廻説)にしたがっているならば、人々は皆信じ楽しむであろう。このようなものを、名づけて「時にしたがって語るもの」というのである。  <<

語る者がいても、聞く気がない者には、
機縁(時)が訪れにくい

機に従って、説くことが起きる
“時”という実体はありません

長(永遠) と 短(説かれる刹那) は 
「 縁起 」 に よって、その長短を決されます

永遠の時(機縁)は、いつも、ここにある

ここにあっても、機縁がないと、
 “時” が 順序に沿って、生まれ出る

順序があるなら、順番を待つことが生まれ出る

先のモノ(法蔵菩薩)が、後になることは適わない

投稿:  春間 則廣  | 2014/04/11 07:06

前世は一在家さま

こんばんは。

>「大智度論」、「方便心論」等の著書がその「中論」の解毒剤だったのではと仮設しております。

仮設ではなくて、おっしゃるとおりでよいと思います。

わたしは、『方便心論』『中論』『廻諍論』を論法にかかわる三部作としてあげたのですが、それでみますと、まず、『方便心論』が来て、次に『中論』がおかれます。

『方便心論』の中に、そのことがはっきりと説かれています。

『應時語』という項目です。

 【問い】どのような語りによって人々は信じ了解するのだろうか。
 【答え】もし愚か者のために深遠なる事柄を区別して(こう言うと)しよう。すなわち、諸法は皆ことごとく空寂であって、自己はなく人(プルシャ)もない、幻のごとく変化(へんげ)したもののごとくであって真実はないと。このような深遠なる事柄は、智者は了解するが、普通の人が聞いたら、迷って理解するのを断念してしまう。これは、「時宜にしたがって語るもの」とは言えない。もし、諸々の存在には行為(業)があり、結果や束縛や解脱など、行為をなす者や享受する者があると説くとすれば、知恵の浅いものがかりにこれを聞くならば、たちまち信じ疑うことはない。棒と台木を錐もみして、たちまち火が生ずるようなものである。もし説き明かされた(空の譬喩)が直前(の業・輪廻説)にしたがっているならば、人々は皆信じ楽しむであろう。このようなものを、名づけて「時にしたがって語るもの」というのである。

先に『中論』のような「空」を主体にした書を読むと混乱しますが、順序にしたがって、善悪(因果)を先に知ってから、空にいくなら、納得できるだろうとするものです。

「方便心論」が龍樹作ではないとされているのが、大きな痛手になったとも思われます。

また、『大智度論』が龍樹作と信じられていたころは問題があまりなかったのですが、その『大智度論』も龍樹作ではないとされるに至って、龍樹は、正しく評価されることがなくなったと思っています。

投稿: 管理人エム | 2014/04/10 23:00

こん**は、ミチ先生

>龍樹は、多くの書を著し、外教徒を教化したのです。
>『中論頌』『方便心論』『廻諍論』『ヴァイダルヤ論』などなど。

月称菩薩は「入中論」の中で、「中論」は智慧と慈悲と功徳の整った菩薩候補者向けに書かれ、
もし想定読者以外が読めばかえって邪見に陥るというようなコメント(警告)をされてました。

それでは智者の龍樹菩薩はこのリスクを想定していなかったのでしょうか?
当然、想定していたことと考えます。

「中論」という両刃の剣のリスクを回避する為の何らかの備えをしていたことと推測します。
「大智度論」、「方便心論」等の著書がその「中論」の解毒剤だったのではと仮設しております。

検証は専門家の先生方の研究成果を待つことに致しております。

投稿: 前世は一在家 | 2014/04/10 21:13

>わたしだけが読むわけではない
>聖徳太子も智顗も鑑真も空海も親鸞も道元も そのように読む

そうですよね。えらいなあ。。。。

って、思うんですよね。
法華経を読むと、羅什は、『大智度論』を大事にしていたんだなあと思うことがあります。

そうなんだけど、わからないところも多いんですよ。

『百論』の羅什訳読んでみてくれませんか。

投稿: 管理人エム | 2014/04/05 21:46

> 羅什だけの意見では、訳は通らなかったのかもしれません。

鳩摩羅什 の 思い・理解 どおり 訳されている

読まなければ 、読請できない

わたしだけが読むわけではない
聖徳太子も智顗も鑑真も空海も親鸞も道元も そのように読む

歴史が証する ということは、善知識が証するということです
岩波文庫の 翻訳 は、いい加減な読み方です

岩波書店の梵漢和対訳であっても、意味が正確に伝わるには、
読み手 の 生きざま が  必 要  と なります

> まあ、それでも、大事なところをおさえると、仏法は伝わるのかもしれないです。

大事なところが、仏法です
大事でないところはありません 
(達磨に大小があっても、イリコは全て、同一です)
すべて押さえて、仏法がある
一つでも押さえれば、すべてを捕まえている

> 。。が、羅什訳ですと、どうも梵本など読むときとちがう感じがします。少し、何か雑味が入っている感じです。

梵語で読むほど、梵につうじているわけではありませんが、
日本語で読んでも、漢語で読んでも、
間違った訳で読んでも、真意(仏法) は 通じる  

要は、自分が持って、観ているかどうかです

> どうでしょうね、こういう点?

仏を崇める心の横で、法華経を読請すれば、
鳩摩羅什と会話できる

> どう思われますか。

思うのではなく、見て知る = 聞いて知る 
 = 自分の “している” ことを、 “聞いている” 
言 が そこにあると分かる


投稿:  春間 則廣  | 2014/04/05 20:12

お!春間さま

>異論あり
>(法華経の訳者である)鳩摩羅什 が、論法に通じていなければ、
> 法華経は正しく訳せない

うーーーん、そうかも。。そうですよね。っと、安易になびいてみますが、どうなんでしょう、と、内実、思います。

羅什は、個人だけで訳したのではなく、国家的な事業として、多くの僧侶たちと集団で、訳を決めていきました。

胡本を手にとって、口に秦言を宣ぶ、というように訳したのですが、このまま受け入れられたのではなく、その後意味を整える、文章を装飾するなどした、とあります。

羅什だけの意見では、訳は通らなかったのかもしれません。まあ、それでも、大事なところをおさえると、仏法は伝わるのかもしれないです。

。。が、羅什訳ですと、どうも梵本など読むときとちがう感じがします。少し、何か雑味が入っている感じです。

どうでしょうね、こういう点?
どう思われますか。


投稿: 管理人エム | 2014/04/05 13:59

> 羅什は、論法にかんしては、ほとんど知らないと思いますので、龍樹をほんとうに理解するのはたいへんだったと思います。

異論あり
(法華経の訳者である)鳩摩羅什 が、論法に通じていなければ、
法華経は正しく訳せない

龍樹の理解ではなく
仏教の理解が問題です


> 論法というのが、なんのためにあるのか、

仏法(真理)を明かすため  です


> そこを明らかにできないのが、羅什の力量不足のところかもしれません

していても、受け止める方に問題があれば、
どちらの問題かは、 受けとめる方が(自らの真理とする法によって)判断する

誤訳の一つ ( 道 = 真理 は 一つ )

884
真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。

諸々の道があるとする その中の一つの道を行くものは、
自らの一つの真理をほめたたえる

( その一つの道は、諸々の道を その中に通しているか、
          はたまた、   並ぶ “ことができる” 応答か ?)


投稿:  春間 則廣  | 2014/04/05 09:35

前世は一在家さま

>と経典を額面通りには読まずに、少し智恵を使って視座を変えてみます。

お!おお! わたしの名づけた読み方では、それは「大乗読み」と言います。

どんどん原因を探って探って、もとに行くと、お釈迦さまは、生まれた時に、すっくと立って7歩進んで「天上天下唯我独尊」と述べた、というところまで戻れるかもしれません。

すでに結果は見えていた、という立場ですね。

見えてはいるけど、それは、やはり、一生を人々のために費やすという行為によってしか得られない、というのもその通りですよね。

龍樹は、どうなのかなあ。

投稿: 管理人エム | 2014/04/05 09:25

ミチ先生、おはようございます。

>ブッダも、アーナンダに魔がさしていて、「もっと生きてください」と頼まれなかったため、悪魔のことばを受けて涅槃に入ることにしました。

魔がさすことが起こった縁は釈尊の四悉壇(四枚舌)で側近の彼が一番悟りが遅かったからではないかとの見方もあります。
この場合は因は釈尊にあり、一切智者はご存じだったと思料します。

また別の見方をすれば、釈尊は八十才で涅槃入りすると別の方に伝えていたともどこかの経論で読みました。
この場合も因は釈尊にあり、一切智者はご存じだったと思料します。

イエスもゲッセマネで「この盃(十字架刑)を取り除いて下さい」と父神に懇願したことからも、この世をいつ、どう去るかをよくご存じだったと思料します。

また梵天界、神界の住人達から見れば、穢土の娑婆に降りてご苦労されておられる聖者達には早く戻ってきて欲しいと願うやも知れません。

と経典を額面通りには読まずに、少し智恵を使って視座を変えてみます。

投稿: 前世は一在家 | 2014/04/05 07:27

前世は一在家さま おはようございます。

>近現代の学者たちだけでなく、龍樹を知っている現代人の大半がそう思っているのではないでしょうか。

あれぇ~、そうですか。
『中論頌』しか読まないから、そう思うのかもしれませんね。

確かに、また、鳩摩羅什は『龍樹菩薩伝』を書いています。

前世は一在家さまも、羅什にちょっと抵抗感がありますでしょうか?

実は、わたしも、以前は、ずいぶん疑いの目で見ていました。
ほんとにちゃんとわかっているのかしら、って。

羅什は、論法にかんしては、ほとんど知らないと思いますので、龍樹をほんとうに理解するのはたいへんだったと思います。
また、『百論』は、論法の応用能力の高い提婆の書ですので、けっこうきつかったような感じです。
はっきりは書きませんでしたが、『大智度論』をもとでに、婆藪の註釈を書き換えたりしているのではないかと思います。

『龍樹菩薩伝』を補ったり、訂正したりするかのように、『付法蔵因縁伝』という書があります。
この書は、『方便心論』を訳した吉迦夜が、著したもので、かれは、非常によく龍樹を理解した人だという気がして、わたしの本の中でも、龍樹の伝記は、『付法蔵因縁伝』によって書きました。

龍樹が、最後に怨みをもっているお坊さんに「生きててほしくない」と言われて亡くなるところですが、ここは、わたし的には、ブッダと同じだなあという感じがしています。

頼まれて法を説き、頼まれて生きる、というのが、ブッダであるからです。
ブッダも、アーナンダに魔がさしていて、「もっと生きてください」と頼まれなかったため、悪魔のことばを受けて涅槃に入ることにしました。
ブッダは、何度も、アーナンダに誘いをかけるように暗に尋ねたのに、アーナンダはそれに気がつかず、涅槃に入ることを決めた後で、あわてて長生きしてくださいと頼むのですが、時すでに遅し、だったと経典にあります。

龍樹も、同じように、頼まれて生きる、という側面があるのだなあと思いました。蝉の抜け殻のように肉体だけ置いて、どこかにいってしまったのは、輪廻の身だからだろうと思います。

論法というのが、なんのためにあるのか、そこを明らかにできないのが、羅什の力量不足のところかもしれません。
苦しみを抜くための道具でもあるのですが、ただ相手批判という点だけが強調されているのかもしれませんね。

投稿: 管理人エム | 2014/04/05 04:39

ミチ先生、こん**は。

>でも、近現代の学者たちが、密かに思っていることは、
>龍樹って、冷たい冷血動物のような人間じゃないか、
>って、いうことではないか、

近現代の学者たちだけでなく、龍樹を知っている現代人の大半がそう思っているのではないでしょうか。

そういう『果』をもたらした『因』は、「大智度論」を訳した当時の龍樹研究の第一人者?が「龍樹菩薩伝」も書いているからです。
色情の悪業を積んだお仲間3人は死んでしまい、龍樹も「君も私が居ない方がいいと思うか。」と寂しい台詞で蝉の抜け殻になったと書かれております。
大勢の弟子達にみとられた釈尊の功徳との対比は鮮明かと存じます。

いや、そうではないのだと理証する為の『縁』の一つが「大智度論」研究なのではと読んでおります。

投稿: 前世は一在家 | 2014/04/04 21:38

> 誰が造ったかではなく、
> 誰が行いに顕わすかが問われることです

そうなんですよね。
だから、龍樹、龍樹とかしましくなる。

だって、龍樹って、空なんですから。


おもしろいなあ、って思ってます。

なんとなく、こんな気がします。
どうでもいいからこそ、まじめにその気になってみるかな。。。なんだろね、この感じ。


投稿: 管理人エム | 2014/04/04 14:41

> まあ、いいか。。買い物する手間が省けて。。

手間を省くとは、そう言う時には使わない
買い物をするのを止めておくと  考えることが、手間なのです
するべきことをするときには、出来ることをする
出来ることは、するべき事に付随して起きている

そう云うところを外して
「 手間が省けて。。」 と 短絡する

おもしろさを狙うのは、道化を受け入れること
( 哀れでも、受け入れてはいけない )

> と、前向きすぎること、考えながら、

前か後ろかは、縁起にあること
前向きのことではない
くるくるしていることを よく知ってください


龍樹 龍樹 と かしましい

誰が造ったかではなく、
誰が行いに顕わすかが問われることです

ちょうど、
キリストが、ブッダの言葉を顕現するように

投稿:  春間 則廣  | 2014/04/04 14:27

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