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2013年11月

2013/11/26

もれ落ちるもの

廃校になった小学校があります。
ずっと長いこと、誰も立ち入ることがなく、
自然にまかされたままなのです。
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人が入らなくなると、
小さな生き物たちの楽園ができます。

ここには、ね、エゾリスが住んでいるのです。

何度も見かけているけど、すばやいので、
撮れません。

実は、上の写真のどこかに、
なんと二匹、エゾリスがいるんだけど。。。
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見えないよね。

松ぼっくりなどいろんな木の実が落ちてて、
リスたちには宝の山でしょう。

フェンスがあるので、人は入らないし、
中で、自由に遊んでいます。

二匹が、じゃれるように、飛び回って、奥の木まで
あっという間に、飛び回っているのを見ました。

なんて、楽しそうなんでしょか~、
いいなあ~。

カメラが、リスに追っつきません。

ときどき、大胆に、フェンスをぬけて、他の住宅区域にまで、
遠征しているのも見るのです。

怖いのは、カラスくらいかなあ。
でも、カラスも、そんなにいなくなったし。

いつまで、リスの楽園で居続けられるのかなあ、って、
そんな心配をしているのです。


出かける朝が早いときの楽しみは、
エゾリスに出会うことです。

いつか、きっと、写真に撮るぞ!
って、思いながら。


        ◇◇◇


人間の欲望がどこまで広がっていこうと、
どんなに自然を征服しようとしても、

スリッとすり抜けるものがある。
それは、リスだったのだけどね。

でも、リスじゃなくても、同じことで、

スリッと

こぼれる自然がある。。

福島のイノシシの増加も、そうなのかな。


        ◇◇◇


人の気持ちも、人間社会も、同じようなものだと思う。

どんなに求めて得ようとしても、
すべての権力や富や情報をかかえ込もうとしても、

スルッと漏れていくものがある。

どんなに秘密を保持しておこうとしても、

スルッと漏れていくものがある。

なぜなら、人は、すべてのことを
考えられないからである。
求めるものがあるときは、
求めていないもののことは忘れている。

漏れていくものは、求めていなかったもの。。

ここから、推論する人もいるだろう。


わたしたちには、論理がある。
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ブーゲンビリアは、初夏にはピンクの花が咲いて、
初冬の今頃、今度は白い花が咲きました。

もれ落ちるもの。。。それを掬うものでありたい。

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2013/11/19

びび という 駅があります

すっかり木の葉も落ちて晩秋の風景です。
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JR北海道は、ダイヤの本数が減って、
とうとう乗る汽車がなくなりました。

で、鈍行でいきましたら、こんな駅が!

びび 

美々と書くのです。無人駅だと思うな。
何もないもの。
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知らなかったなあ。。
何度も通りすぎていたんだけど、
特急ですと、気づきません。

風景が、さびしい。。いいか、
もう、晩秋から初冬ですものね。
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それにしても、
朝7時に家を出て、晩7時に帰る。。

のは、
まだいいとしても

そのうち6時間乗り物に乗ってる、って!

なんか、めちゃ、時間が無駄な気がする。。

どうせなら、
もう一つ講義を増やした方が効率いいかも。
って、
思うくらいだけど、ね。


       ◇◇◇


昨日は、また、アランの『幸福論』(岩波文庫)を読んでいました。

39スピード

このエッセーの中で、
新型車両によって、
パリとル・アーブルの間が15分旅行時間が、
短縮された、とあります。

「幸福な乗客たち」は、
その短縮された15分を何に使うのか?

「その時間を、プラットホームでの時間待ちに
使ってしまう人が多いだろう。
もう十五分カフェに座って、
新聞を広告欄まで読んでしまう人もいるだろう。
いったいどんな益があるのか。
誰のための益なのか。」(pp.132-133)

アランは、さらに、続け、
「それと同じ時間を、
汽車のなかでむだに過ごしてはなぜ悪いのか」

というのです。

「汽車のなかよりもいいところはどこにもない。」

おお、そうですか!

「特急列車のことである。」

あれ!がくっ。

「座り心地は、どんな安楽椅子よりもずっといい。
広い窓から、川や谷や丘や村や町が
通りすぎていくのが見える。
目は、丘の中腹に出来ている道路や、
その道路を走っている車や、
川面に浮かぶ船の列を追いかけている。…」

楽しい風景だ。。
特急列車の旅は。

それに引き替え、
鈍行で行く人生の旅は、
どれほどの無駄があるのだろうか。。

朝7時から夜7時まで、
はっきり言って、全部が無駄ではないのか。

アランは、十五分の走行時間の短縮を

「いったいどんな益があるのか。
誰のための益なのか。」

と、言ったのだ。

おお、そうだ。どんな益があるのだ。
全部が、無駄なのに。。。

だから、わたしは、こう言おう!


「いったいどんながあるのか。
誰のためのなのか」


     ◇◇◇

すべてが無駄な鈍行の旅には、

びび(美々)

という駅がある。

なんと、きれいでつつましい名前なんだろう。

誰のための駅なのだろうか。

ほとんど原野の中のように見える無人の駅である。
立ち寄る人もいないだろうに。


きっと、寂しい乗客のために、
作られた駅なんだろう。

この辺に、駅がないと、あまりに寂しい

という、乗客の心をなぐさめるために
出来た駅なのだろう。


無駄の中に、
たった一つだけ、
無駄でないものもある。


びび  という  益(えき)

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2013/11/15

アーチャン・チャー[著]『無常の教え』

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ここ、何日間か、通勤途中で読んでいる本です。
手頃な大きさなのに、なかなか読み終わりません。

======
星飛雄馬氏の訳されたアーチャン・チャー長老の著作
『無常の教え』

です。

アーチャン・チャー長老は、タイのお坊さんで、
瞑想の達人(?)、
タイの森の中に僧院をつくって、
多くの人を指導しました。

森林派と呼ばれるのだそうです。

この書は、アーチャン・チャーの著作とはなっていますが、
アーチャン・チャーの僧院での指導や
日常生活のエピソードなども含まれていて、

本のすべてが、アーチャン・チャー自ら説いたもの、
というわけではありません。

最初の方は、アーチャン・チャーの言行録という感じで、
伝え聞いた内容などが紹介されています。

アーチャン・チャー長老の著作という先入観で
読んでいると
少し落ち着かない感じがするのですが、

徐々にアーチャン・チャー長老のことばが
多くなってきますと、

やっぱ、いいです!

次第に、本そのものが、タイトにしまってくるようです。
本が、きんちょーしてるかんじがしてきます。


         ◇◇◇


飛雄馬氏の柔らかい日常表現による訳とは裏腹に、
アーチャン・チャーのことばの一つ一つが、
深い意味をになって、わたしたちに
さりげなく、しかし、強烈に 訴えかけてきます。

そして、本の3分の1をすぎたあたりから、
随所に、
アーチャン・チャー長老のことばの中に

そのまま、経典が透けて見えてくるのです。

ああ、ここは、相応部のあの経典だ、
あ、こっちは、この経典だ、
一夜賢者経もある、
これは、聖求経だなあ

と、こんな感じで、経典の森を散策するかのようです。

ほんと、読みながら興奮してきます。

何ということでしょうか。

すべてが、アーチャン・チャー自身のことばなのに、
紛れもなく、
経典そのものの内容が、足したり引いたりせずに、
説かれています。

何も足さず
何も引かず

それなのに

自らのことばで、

そして、そのまま、内容が経典。。すごい!

なかなか読み進められなかったのは、
勝手に興奮してたせいかもしれないです。

ひょっと挿入された一行でも、深い意味があります。
ぜったいに油断できない内容が、
油断を誘うかのように、
平易な日常の流れるような表現で
書き留められています。

特に、わたしがすごいと思ったのは

正面から
「不生」とか「不死」とか、ということを、

堂々と語っていることです。

これは、とても難しい教えだと思うので、
多くの人は説くことをためらうと思います。

しかし、まったく臆するところなく、構えることなく
さらっと、「不生」「不死」を語るのです。

第三章苦 21「ブッダは死なず」

この節の他にも、本書の中では、
「空を理解するものを、死王は追うことができない」
という『スッタニパータ』のことばで
「死なない」ことを説きあかしています。


       ◇◇◇


たしかに、この通りにすると悟れると思う。。。

本当に、この本の通りにすると、
悟れる、という思いがわきます。

たえず、くりかえし説かれる教えは、
ただ、ひたすら「常ならず」という無常を説くことばです。

手を変え品を変え
無常が多彩に語られます。

こうして、アーチャン・チャー自身が、悟りへと向かったのだ
と知るのです。


読み終わったとき、、


わたしの、頭の中に、一つのことばが浮かびました。


自然に出てくる、このことば。


    ~~ 阿羅漢 ~~


ああ、かれは、阿羅漢なのだ、

供養の礼をささげます。


二度三度、読み直してみても、
やっぱり「阿羅漢」という思いが消えません。

本当に、2500年前に世に出た仏法は、
今もなお、人を悟りに導いているのだと知るのです。

奇跡の一つにちがいないです。
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2013/11/12

ブッダ論理  風の論理 ひゅーーー

降りましたね、雪
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ポプラの葉が、たくさん落ちてて、冬と秋が交錯してます。

車の跡も、黒く冷たそうです。
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うう、ま、負けるか、っと真っ赤な秋。。のなごり
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でも、やっぱり、これから冬ですよね。。


         ◇◇◇


皆さまにご愛顧いただいた『ブッダ論理学五つの難問』
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どうやら、そろそろ役目を終えたのかな、というところです。

増刷などのラインからは、はずれたみたいで
今、出回っているだけしかなくなりそうです。

でも、、出てから八年も経過してしまいましたから、
やはり、時代の流れとともに
流れていく運命なんだなあ、と思っています。

さよなら、ブッダ論理学五つの難問

そろそろ、あたらしい展開がほしいですよね。


この本の中身は、別の形で、
また世に出て行けばいいのかな、って思います。


自由に語る、ということが次第に難しくなってきている、この今。

真実を語りたいものは、
ブッダ論理学を、学ぶべし。。

こころひそかに。。

ことばがいくら、しばられても
真実が漏れ出すように、
ブッダの論理は、つくられている

この世の中で、真実というものが、
今まで、なくなったことがないなら、

やはり、それをあらわす手段はあるはずだ。

真実が露わにならないことはない。

だから、
真実を伝えていくことは、
これからもできるだろう。


ことばは空だから、

これを知るものは、

ことばに操られずに

ことばを自由にする


論理が通用しなければ
真理は、呪句に載せよう。
マントラにしてしまおう。

声明にしよう。
音にしよう。

どんな風にでもなるのが、ブッダ論理。
論理であることすら、
気にしないのが、ブッダ論理。

透明な風の論理。。ブッダ論理。。

う、うう、ぞくっ。。

ハクション。。

あ、風邪の論理は、やね!
はやく治そ、風邪論理
と、いうところで、今日はこの辺で。
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アビイ・ロードのジャケットに似てない?


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2013/11/06

論理について

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magagiokさま

論理学というのは、目的をもった学問です。

世界について、それを「一切」と規定して語り、
どこまで、一貫して論理をつらぬけるか、
それを追究する学問だと思います。

論理的な基準を設けたら、それを変えずに、
どこまで世界を語りうるか、
そこが論理のおもしろさと醍醐味です。
ときに、現実と矛盾するように見えても
論理を優先して語るということもします。
その体系は、閉じていることが完全性を示しますが、
なかなかそれはむずかしいのです。

矛盾をみせるとき、そのとき、
どのように論理的に折り合いをつけるかも、
論理の仕事です。
命題論理は、論理の一貫性を命題計算の中に認め、
論理的に閉じていることを優先させようとしています。

ですから、論理上はなり立ちますが、
現実的におかしな点も出てくることになるのです。
それは、重々、承知していることなのです。

現実と合わないから命題論理が間違いだ、ということは、
そもそも、論理の出てきた筋道を知っていない、
と批判されることにもなるでしょう。

わたしは、それは十分承知した上で、
命題論理の計算性の上からも、
実は、問題が出てきはしないか、
と、ちょっと指摘しているのです。

これは、まじめに考えてみると、
論理学者なら、何を言わんとしているか、
わかると思います。

命題計算が、体系の中で自在に行われて、
必ず解をもつとするなら、
要するに、
命題計算において体系が「閉じている」と言えるなら、
そのとき、その計算は、

◆◇ 何ごとも述べてはいないだろう ◇◆

と、いうことを指摘するものだからです。
計算しても意味がないのではないか、ということを、
暗に示しているのです。

即ち、真理表の一行目がなり立っていれば
(特に前半の八つについて)、
命題計算は、可能ということになります。
(真理表3も含意の変形として認めたとき)

この辺は、自分で検討してみてください。

これに対して、
論理学者がどう答えるのか興味がありますが、
それは、今のところに沈黙で、答えてはくれません。


        ◆◇◆


一方、わたしの提示したブッダ論理なるものはどうでしょうか。

これは、「現実」というものを、論理の基準にするもので、
認識による「あるがまま」が基本であります。
この点を、
論理的な一貫性を持ち出すために、「縁起」という関係が、
ブッダにより見いだされたのです。

ですから、その点では、論理的に一貫します。
それは、自分でも証明済みという風に思っています。
どこまでも「縁起」を貫いていけるのです。

なぜなら、現実というのは、時間により制約を受けるので、
その「時間」を「順序」に置き換えて、
論理として取り込んでいるからです。

時間をもたないように見える、思惟の世界のことですら、
「思惟の世界だ」と意識するとき、
思惟の流れとして時間が入ってきます。

思惟そのもの(思われた内容)は、
時間を意識しなくても構いませんが、
それをあらためて考えるときに時間が入ってきます。
これが世俗諦です。

第一義諦も、言語によって語られることによって到達されます。
ここにも時間が入っていることがわかります。

そして、思惟の世界について、時間を抜いて考えたいとき、
縁起から導かれる「空」の論理が活用されます。
時間から逃れることはできません。

そして、
最後の到達点「涅槃」は、論理外として、
語られることはありません。


◆◇語りえぬことは、語るな◆◇


論理の鉄則です。これを守って、ブッダは語りました。
語りえぬことと語りうることをきちんと分けることが、
「論理」ということだからです。


ですが、
このブッダの論理にも、欠陥がないわけではありません。

論理的に閉じている世界を、現実に重ね合わせる形で、
ブッダは、取り出し示してみせたのですが、

しかし、わたしが、命題論理の欠陥としてあげたような
「何も語らないことになる」という指摘は、
ブッダの場合には、どうなるだろうか、ということなのです。

実は、これは、ブッダにもあてはまります。
うまく涅槃まで到達しうるなら、
論理的には何も語られなかったことになります。


ただ、論理的に語られていると言える場合は、
輪廻にあるときのみなのです。


ブッダ論理は、輪廻にある場合に限って、
非常に有効にはたらきます。

涅槃に到達したものには、
捨てるべき筏に過ぎず、
論理は必要なくなります。

そこまで説いたのが、ブッダの論理です。
語るものと語らないもの、
これらが厳密に線引きされているのです。


       ◆◇◆


命題論理は、真理表に定義づけられた接続詞を用いて、
命題計算することが可能です。
否定、連言、選言、含意、等値とおおよそ五つが一般的です。
他にもありますが、ふつうは、これらです。

この中で

真理表の3を
「真理表の5(含意)における前件と後件を入れ替えた関係を示すもの」
とするとき、

あらゆることが、一見計算可能であるように見えるのですが、
それは、
あらゆるものがあらゆるものとあらゆる関係を結びうる、
という、
ただの「有」の理論を推し進めることになるだけではないのか、
という風に、考えています。

「何があるのか?」「何でも!」 (クワイン『論理学的観点から』の序文より)

このように答えた、クワインの問いと答のように、
あらゆるものを、結果的に、無秩序に認めることになる論理が、
西洋論理である、と理解しています。


このことは、ブッダに出会うまでは、
わたしには知られませんでしたが、
ブッダの世界を知って、
また、
命題論理にも、それが語りうる世界があることがわかりました。
パルメニデス、プラトンと続く
「ある」という存在論の強固な世界です。

語られる世界が、「ある」の存在論として示され
語る論理が、西洋論理学としてあると、理解しています。

これに対して

語られる世界が、
「あるのでもなくないのでもない」の認識の世界として示され、
語る論理が、ブッダ論理としてあると、理解します。


終わります。
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おじぎにみえる?

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2013/11/05

久しぶりに『無畏註』などなど、雑記

やっぱり、紅葉の残り物で、ごめんちゃい。
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何だか、おもしろい紅葉の写真かな、って、思うので、アップします。

それに久しぶりに、こんなのも。
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何とかと煙は、高いところが好き、っていうけど、
「何とか」って、サムのことだったのね。

ダン吉君は、ぜったい、高いところにはあがりません。

重くてあがれないかも。。ダン吉よ
ネコであることを捨てているのか、君!

なかなかだっこさせてくれないし、すぐ逃げるけど、
最近、それでも、だいぶなついて、
鼻をすりすりするまでになりました、えらいぞ、ダン吉!

でも、かわいがってると、すぐ、サムがよって来て
ダン吉を、いじめるにゃん!

ネコにはネコの「自我」。。エゴならぬ、ネコがあるのね。

わかった、わかった、おまえはネコの中のネコ

サ゛ム゛だ  ん?
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フン!

サムの写真しかないのじゃ、さびしいね。
ダン吉、君も被写体になっとくれ。
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ま、まるい。。

うーーん、動かないし。。あれ?

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やっぱり、自己主張してるなあ、サ゛ム゛

にゃんだ、もんくあっか
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わかりましたよ、きみ、きみが、大将  サ゛ム゛将軍!


      ◇◇◇


ようやく、わずかの暇を盗んで、『無畏註』を読んでみました。
それから、
また、『八千頌般若経』も、サンスクリットで少し読んでみてみましたが、
『金剛般若経』のギルギット本に比べると、
よみやす~~~いです。
ヴァイディヤ本だからかもしれませんが、
スムーズです。

梶山先生の訳があって、これが、今では、
ほんとに、貴重だなあ、って思います。

中公文庫の中に入っている『八千頌般若経』(1)(2)
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こういう訳を、きちんと出すのが、学者の仕事だな、と思いつつ。。

なかなかできない自分がうらめしい。

っと、グチっぽくなってはいけないよ、わたし。

ところで、
『無畏註』は、一般的に龍樹の作品ではないと思われています。

いろんなことが言われていて、学者の間では、
龍樹の自註であるのは、あやしいということになっている。。

のだが!


どうして、どうして、論理の追求の確実さには、
いつも、驚いてしまいます。

似ていると言われるけど、
青目とは、やっぱ、違う。


『無畏註』の短い一言が、解釈の無限性を想像させます。
確実に、ブッダにつながっていることを示すかのようです。

一方

青目は、いかにも、誰かに教えてもらった注釈者の域を
でない感じがして、
青目自身への興味より、むしろ、
かれに教えた人を知りたくなります。

たぶん、龍樹が、教えたんじゃなかろうか、と想像してみたりもします。


結局、『無畏註』の作者が、誰であっても、
かれは、ほとんど龍樹クラスの人だ、ということがわかります。

龍樹クラスの人は、誰であっても、みな、龍樹でいいような気がします。
なぜなら、空だから、それでいいのだ、という風に思うのです。


そんなことは、まあ、どうでもいいのだけれど、
これをヒントに、『中論』をあらためて、見直しているところです。


発展途上なので、決まらないなあ、最後が。

最後は、時間がほしいよおぉぉぉ

って、さけんでみよ


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