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2013/10/17

異次元・大阪と異域・高野山(金剛峯寺の巻)

高野山で一泊した次の日、14日の朝から、
見残したところを何とかまわろうと、
金剛峯寺と大伽藍の方面に行きました。

しみじみと、高野山のすばらしさがわかってきました。

神仏習合し、人々が求めるものが、ほとんど何でもあります。
真言密教の総本山金剛峯寺があり、
御大師さまもおられます。
御大師信仰の信者さんたちも見かけました。
善男善女の願いを受けとめる水向け地蔵もいて、
たくさんの建造物や歴史的な文化遺産にも目を奪われます。
お墓もいろいろあって、お参りも出来ます。
護摩供養もしてもらえるし、宿坊などではいろいろ体験も出来ます。
お坊さんたちの修行の様子も教えてもらえます。

山を守る神々もいます。御社には、四社が勧請されているのです。

ほら、七五三も、出来ますよ。
Photo_24
金剛峯寺の中に、張り紙がありました。

宗教的な、ありとあらゆる願いを受けとめる高野山。
天上の宗教都市。

心清らかな人々の集うところ。。。うーん、すばらしい!


        ◇◇◇


ちょっと、話がずれてしまいましたが、
もう一度、金剛峯寺の門と外観をどうぞ。

今日は、昨日(13日)とは違って、人は少ないです。
Photo_25
では、門の中へ、どうぞ。ご一緒に。

Photo_26
誰もいないでしょう。

それじゃ、内部を拝観しましょう。空いてて、いいですね。

写真が禁止されているところがあるのですが、
禁止と書いていないところは、写しても大丈夫だと思って、写真を撮りました。
たぶん、大丈夫だよね。

ではでは、まず、お庭を拝見。
Photo_28

Photo_27
お見事ですね。
足跡とかついてませんね。。どうやって、筋をつけるのでしょう?

このお部屋は、撮影禁止の札はなかったので、ぱちっ!
Photo_29

真然上人の廟を、廊下の突き当たりから、拝観することが出来ます。
Photo_31

説明も何とか撮りました。全部は読めないけど、アップ。
Photo_33

それでは、囲炉裡の間にまいりましょう。
大きな台所のわきにあります。
Photo_34
お供えは、大根とにんじんとサツマイモが、斜めに切って立ててあります。
これは、いろいろなところで見ました。
このお供えの斜め切りは、生きのよいことを見せるためだそうです。
豪快なお供えですね。どうやって、お供えを召し上がるんでしょうね。
かぶりつくしかないかな。。。

説明もご一緒に、どうぞ。
Photo_35

それから、お釜も!
Photo_36

お釜も説明がいりますね。
Photo_37
実用的だなあ。
もし、炊き出ししなくてはならなくなっても、2000人分のご飯が炊けるから、
すごく重宝です。
この台所を小僧さんたちが忙しく走り回っている様子が、目に浮かんできます。

ああ、すっかり堪能しました、高野山。

死ぬまでに、もう一度、行きたいです。

今回は、なぜか、御大師さまに会えそうな気がして、
奥の院をうろうろしたのですが、何も兆候はありませんでした。

でも、
西塔の方角の夕日の写真が撮れたので、
夕日の中に、御大師さまがいたと思って、
満足しています。

ではでは、みなさんも、ご堪能ください。

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コメント

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投稿: adizero tempo | 2013/11/12 20:17

それから、考えた、というのは語弊があるでしょうね。

深い瞑想の果てに直観した、あるいは、啓示を得たというのが、なんとなく妥当な感じがしそうですね。

投稿: magagiok | 2013/10/22 11:19

あらゆるものを取り込んできたヒンズー教を定義するのは難しいという解説を読んだ記憶があります。

ヒンズー教は、インドの伝統的な神々に帰依するインド人の宗教の総称、そのバリエーションは多数、と私は理解しています。

そして、仏教もバリエーション多数ですよね。

でも、やはり共通点は見出だせそうですよね。

投稿: magagiok | 2013/10/22 09:02

ヒンズー教は、インド教ということで、インド人が考えてきた宗教というのが私の理解です。

そして、インド人といっても、歴史的には他民族の流入、混血があったでしょうから、そうなると宗教も融合するのが自然だと思っています。

そもそも双方のオリジナルの宗教に共通点があり、そしてその融合の仕方にも、世界の他の地における融合例と共通点がある、同じ人間が考えてきたことだから、と思っています。

投稿: magagiok | 2013/10/22 08:43

magagiok さま

>ヒンズー教は、ヒンズー教が考える宇宙の真理、ヒンズーの神を一番上に置き、

ずっとお聞きしていると、少し違和感があります。

「ヒンズー教が考える」というところが、「?」って思います。

ヒンズー教というのは、日本の「神道」と言われる宗教(?)と似ていて、自分たちで、これを主張し、これを教理と定めて宗教を立ち上げようというところが、はっきりしません。自然発生した宗教現象を、名づけたことばのように思われます。

バラモン教の伝統と民間信仰と、仏教などの諸思想をその都度必要に応じて混ぜ込んでできあがっているような信仰の形態で、神々もたくさんいます。

おおざっぱには、輪廻、バラモンを含むカースト、シヴァ、ヴィシュヌなどインドの神々、アートマン、ブラフマン(ことば)など、人間の営みの全体(ダルマかな)をまとめて、ヒンドゥーと呼んでいるようにも思うのです。

日本人が、自分たちを日本人だと思うような感じなのだろうか。。

日本の民俗学の本を、今、さかんに漁っているのですが、研究者たちも、このとりとめないように見える、混沌とした、それでいて秩序だった、日本人の精神世界に戸惑っているように思われます。
柳田、折口などの説を出発点にして、諸説がバラバラと吹き寄せのように研究史の上に降り注いでいるように見えるのです。

日本人に元々あった土着の原風景に、仏教がどのように入り込んできたのか、道教、陰陽道、儒教などの中国思想がどう影響したのか、というように、いろいろ研究されていますが、ヒンドゥー教のように、日本人も、生活習慣や習俗として、何でも素直に受け入れながら自分たちの身の丈に合わせてきたのじゃないかと思って、そもそも、発想を変えた方が良いのかもしれない、等とも思う次第です。

何か既成の思想が外から入ってきた、と外の目で見るより、自分たちはどうしたかったのか、という内の目で見ることが良いのかなあ、などと、あれこれ思案中です。

ほんと、難しくてわかりません。

投稿: 管理人エム | 2013/10/22 08:15

>  自らの信仰の対象を一番上に置き、
   他の信仰の対象をその下に取り込む、
   こういう構図は、みな共通だと思います。
   同じ人間のすることですからね。      <

人に違いはなく、人は平等にあるけれど、
人はそれぞれ自分の道を歩んでいると顛倒する

平等に(共通の構図で)顛倒する ?

顛倒しない人がいれば、平等はそこにおいて崩れる
同じ人間 が いないことになります (同じではない人間がいることになります)

平等ではない と いうところに、 「平等」 は 立脚する立場を与えます

その立場を 論にすると、 仏陀の論理 が 顕われ出ます 、、、、

それを学ばなければ、論理学はない !


一番上というのは、一番遠いところをさします

一番遠いところが、一番近くにある
  と 教える    のが   仏教です


あなたのいちばん身近なところにあるものを否定している

それが何を指すかを知ることが、仏教です

投稿:  春間 則廣  | 2013/10/22 07:25

人種が違っても、同じ人間ですから、精神性に共通点があるということだと思っています。

現代のヒンズー教では、仏教のみならずキリスト教など他の信仰の対象をも取り込んでいるそうです。

浄土教のその僧侶の語ることと共通点がありますね。

ヒンズー教徒が日本の神道の神のことを知ったら、それもヒンズーの神、宇宙の真理の化身だと説明するのだろうと思えます。

初期仏教は、釈迦を一番上に置いた。

ヒンズー教は、ヒンズー教が考える宇宙の真理、ヒンズーの神を一番上に置き、大乗仏教は、大乗仏教が考える宇宙の真理、仏性を一番上に置く。

自らの信仰の対象を一番上に置き、他の信仰の対象をその下に取り込む、そういう構図は、みな共通だと思います。

同じ人間のすることですからね。

投稿: magagiok | 2013/10/22 07:02

magagiokさま

>事実、神道側からは、神々の化身が仏なのである、という逆本地垂迹説が提唱された歴史があるようですね。

現在、浄土真宗の三木悟住職がyoutubeで「現代仏教塾」のビデオを視聴できるようにされてます。
その中で「報身の如来は複数おられて、仏教では阿弥陀様、キリスト教ではイエス様、神道では天照大神様と呼ばれている」という講義がございました。

確かに仏教の梵天は古神道では大天津神とも呼称されているので、この講義は腑に堕ちました。
国や言語や時代で呼称は異なりましても、衆生済度、人類救済のご意志は共通しているかと存じます。

投稿: 前世は一在家 | 2013/10/21 23:17

>ただ、そういう点から考えても、「言挙げしない」とされるところの神道は、多く、仏教と共通の要素をもつと思います。


言挙げしない、という言葉を初めて知りました。明言しない、というような意味ですね。

神道が、その教義を明言しないというスタンスであったとしても、それは、仏教との融合を容易に受け入れるかどうか、とはまた別だと思えます。

もちろん、民衆にとっては、普段から神道の教義が詳しく明言されていないのであれば、実は神々は仏の化身なのである、という本地垂迹説が提示されれば、なるほどそういうことかと受け入れやすいでしょうが、神道側は簡単にはそれを受け入れないでしょう。

事実、神道側からは、神々の化身が仏なのである、という逆本地垂迹説が提唱された歴史があるようですね。

やはり、そういう対立構造になりますよね。

投稿: magagiok | 2013/10/20 14:40

なお、釈迦が惑わせるという言葉から、一休さんを連想したので調べてみたらありました。

『釈迦という いたずら者が世に出でて 多くの者を迷わするかな』(一休語録)

どんな意味でそう言ったのか私は知りませんが、初期経典の数々の言葉や、不滅の魂を認めないという姿勢は、多くの民衆にとっては困惑しますよね。

その意味では、不滅の仏や、出家禁欲からの離脱を説く大乗は、多くの民衆にとって困惑しない、ありがたい教え、まさしく大乗だと思います。

投稿: magagiok | 2013/10/20 13:55

ウィキペディアで調べてみました。

釈迦は、ヒンズー教の重要な神の化身の一人とされていますが、しかし、必ずしもその神と同等の崇拝を得ているわけではないようですね。

釈迦は、悪魔や人々を惑わせてヴェーダ聖典から離れさせた異端、という位置付けが基本のようですね。

インドには、一時期、仏教が隆盛してバラモン教が廃れたという歴史がありますよね。

ヒンズー教が仏教を取り込む必要に迫られ、それを取り込むに当たって、その事実をどのように扱うか、そこが問題になったと思えます。

ウィキペディアに次の記載がありました。

『ヘルムート・フォン・グラーゼナップはこれらの発達は、ヴァイシュナヴァ派のために仏教徒に勝利し、このような重大な異端がインドにおいて存在できた事実を説明しようという、仏教を平和裏のうちに吸収するためのヒンドゥーの欲求であるとした。 』

聖典の中には、釈迦は、悪魔を惑わせた、動物の犠牲を禁止させた、という好意的な記載もあるようですね。

釈迦は異端を説いたが、その釈迦をヒンズーの重要な神の化身として扱う。

仏教を取り込むにはそれが必要だったのでしょうね。

それは、初期仏教を取り込むために、初期経典を釈迦の説法と認めた上で、その初期経典を小乗であり方便であるとして、その上に、仏の常住を説く法華経を位置付ける、というのと、構造的に似ていると私には思えます。

同じ釈迦が説いた経典でも、大乗は初期経典をそれほど崇拝しませんよね。

それは、ヒンズー教徒が、釈迦をヒンズー教の神の化身としながらもその釈迦をそれほど崇拝しない、ということに似ているのでは、と思います。

投稿: magagiok | 2013/10/20 13:36

magagiokさま

>ヒンズー教において、釈迦はヒンズーの神の化身の一人とされているらしいですね。

そうなんですが、これ、ちょっと問題があって、第九番目のアヴァターラは「ブッダ」なのですが、よい意味での権化ではないようです。
人々を惑わす反面教師的な役割として見られているようです。
ただ、詳しく調べたことがないので、ちょっとよくわからないのですが。

>それから、インドの民衆へのインタビューで、釈迦の教えはヒンズー教と違わない、と返答される様子をテレビで見たことがあります。

ああ、わたしも、ヴィデオで見たことがあります。一般の人たちは、あまり詳しい理論などを知らないでしょうから、こういう風に見ているのかなと思ったのです。


>しかし、取り込むからには、自らの教えに矛盾しない形にアレンジされることでしょう。

そうですねぇ。それは、あると思います。アートマンを認める立場は、認めない立場と対立しますから。

ただ、そういう点から考えても、「言挙げしない」とされるところの神道は、多く、仏教と共通の要素をもつと思います。

清き、明き、正しき、直き心を尊ぶところ、仏教にも通じてますよね。
国家神道になると、また、別ですけども。

投稿: 管理人エム | 2013/10/20 10:39

rdorjechang さま

はじめまして。
何度も高野山にお出かけになっているのですね。ああ、うらやましいです(笑)。

結縁灌頂も受けられたのですね。
わたしの行った時には、金堂は、もう閉まっていたのかなあ、と、今頃になって、思ったりもします。

阿字観体験は、宿坊でも体験できたのですが、4時半からでしたので、とても間に合いませんでした。うらやましいわ、ほんと。
実際に体験できるというのも、高野山の大きな魅力ですよね。何か、その人だけの特別のもの、というのが得られるように思いますものね。

人々を癒し、喜ばせて幸せにするために、その根底には、多くの仏・菩薩たちの、たいへんな修行があることに思いを寄せる人は、あまりいないのかもしれませんが、でも、人々は、どこかでそれをも感じ取っているのかも。。って、ちょっと思います。

チベット仏教のむずかしい理論も、人々を救おうとする、仏・菩薩の智慧の証のようなものですね。

投稿: 管理人エム | 2013/10/20 10:21

いつも楽しく拝見させていただいております。初めて投稿させていただきます。高野山に行かれたのですね。私は10月2日にエム様がスルーされた金堂で金剛界の結縁灌頂を受法しました。翌日には金剛峯寺で「ちょっと一息阿字観体験」に参加しました。御廟ではお大師様にごあいさつ。霊宝館、大師教会など高野山は何回訪れてもワクワクします。私はチベット仏教を学んでおりますが、どうも論理的、理屈っぽくなってしまうのですが、高野山を訪れると大日如来とお大師様に包み込まれてしまいます。素朴な信仰心って、いいなあと思います。

投稿: rdorjechang | 2013/10/19 15:13

ヒンズー教において、釈迦はヒンズーの神の化身の一人とされているらしいですね。

それから、インドの民衆へのインタビューで、釈迦の教えはヒンズー教と違わない、と返答される様子をテレビで見たことがあります。

ヒンズー教は、あらゆる教えを取り込む、と紹介されていました。

しかし、取り込むからには、自らの教えに矛盾しない形にアレンジされることでしょう。

釈迦の教えを取り込む場合でも独自のアレンジがなされていると思います。

だから、それは仏教とは対立することになる。

そういう構図は、全ての宗教に共通だと思います。

空海の密教が仏教諸派の教えや神道を絶妙に融合したものだとしたら、それはその内部で対立がないのは当然であり、そして、既存の仏教諸派や神道とは対立関係にあると思えます。

投稿: magagiok | 2013/10/19 08:51

magagiokさま

>ヒンズー教を連想しました。

似てますよね。
でも、やっぱり、ずいぶんちがうと思います。

ヒンドゥー教は、仏教と対立して、アースティカ(正統派)とナースティカ(異端)のように、はっきりと哲学的に分かれます。
正統、異端という言い方がピッタリしているかどうかわかりませんが、ヴェーダの権威を承認しアートマンを認める立場とそうでない立場とに分かれます。

でも、日本の神道、あるいは、神祇信仰は、思想みたいなものがはっきりないので、仏教といろいろな関係を結びますね。

神さまの方が、仏さまに救ってもらったり、また、護法神みたいに支えてあげたり、本地垂迹説のように権化思想で語られたりもします。

高野山は、山の神さま他いくつもの神さまが、仏教の聖地を守ってくれているという関係のようです。

この「習合」というのは、不思議な関係で、混合しているところもあれば、それぞれ独立しているところもあり、相いれないようでありながら、融和している、そんな関係のように見えて、そこもすごいことだなあと思うのです。

仏教だけじゃないところが、人々をほっと癒すような気がします。

霊場や門の入り口には、必ず手水舎(てみずや)があって、神道のしきたりで、身を清めるようになっているところも、面白いなあと思いました。

投稿: 管理人エム | 2013/10/19 07:45

エビ天サンバさま

ゴマ豆腐、おいしかったです。宿坊でも出たので、二度食べることができました。

きなこか何かをかけて、甘くして食べることもできますよ、って言われましたが、わたしは、わさび醤油でオーソドックスに。

光彩曼荼羅は、高野山に行った証拠のはんこのようなものでしょうか。

投稿: 管理人エム | 2013/10/19 07:33

旅のレポート&写真、素晴らしいです。特によかったのはゴマ豆腐と光彩マンダラ。ゴマ豆腐食べたい~

投稿: えび天サンバ | 2013/10/18 12:06

>神仏習合し、人々が求めるものが、ほとんど何でもあります。


ヒンズー教を連想しました。

投稿: magagiok | 2013/10/18 10:33

さっそくですが、秋っ! 9/12


>たくさんの人から質問されて、
>どれにも、丁寧にしっかり答えるブッダ。。
>そんな質問、答えられない、なんて言わないブッダ。
>満足するまで、こたえてくれるブッダ。。。

>いいですねぇ。

(  いいかい ?   欲  聞きなさい  )


経典を好きなように読むからそう思える(迷誤する)わけです

誰でもブッダです
誰の問いに対しても、納得がいくまで答えます

誰でも問いに満足して、問いを終わらせます

新たな問いに入るけれど、“機”が熟すまで、
問いには“気”がつかない


そいう日常に、誰でもいます


秋が過ぎて行っても、
(過ぎていくことを理解せず)
過ぎゆく 秋に 気がつかない

気がつけば  a ki ( 気がつく 機 では ない a )

あかずともあいてきにあるおちばかな

?

投稿:  春間 則廣  | 2013/10/18 07:47

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