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2013/10/20

異次元・大阪と異域・高野山(あまり)

高野山の写真をひっくり返していますと、
載せていないものも見つかります。

せっかくですので、あげてみましょう。

Photo
高野山だなあ。大きな杉の木に圧倒されますね。

       ***

中之橋霊園、って、こんなところです。
Photo_2
すごく明るい風景で、高野山の杉木立と比べると
別の世界のようですね。

あれ?こんなところに出ちゃった、と不思議な感覚になります。

       ***

大伽藍の中に、ひっそりとあった六角経蔵。
Photo_3
紺地に金泥の文字で書かれた一切経を収めたのだそうです。
「一切経」とか、経典にまつわるお堂ですと、
ついつい気持ちがいってしまいます。

え、その割りに、載せるの忘れてるだろ、ですって。

わはは、ま、まあ、いいじゃないですか。
経典が、ここに、あるわけじゃないもん。

霊宝館の方に収められているとのことです。

       ***

同じく大伽藍の中の山王院の入り口の鳥居です。
Photo_4
狛犬が立派ですね。
やっぱり、伽藍の中とはいえ、鳥居のあるところは、神社の雰囲気です。

       ***

最後は、大師教会本部の建物です。
Photo_5

こんなところでしょうか。
後、もう、めぼしい写真は残っていないようですね。

高野山で気づいたのは、意外と、車いすの対応がなされていることです。

奥の院には、高齢の方も多くて、車椅子で来られている方もいました。
家族全員が、助けながら、おじいちゃんやおばあちゃんと、
一緒にお参りしている姿が、ほほえましかったです。

車椅子で母も来ることができるかなあ、と考えてしまいました。

最後に、光彩マンダラの薄くなったのも、アップしてみます。
薄いよ、マンダラ。。
Photo_6
邪念が入ってるなあ。
変な欲、出したら、だめよ、って、言ってるのでしょうか。

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コメント

前世は一在家さま こんばんは。

今日は苫小牧で仕事だったのですが、4時50分ころには、日は沈んで西の空が赤く、夕闇もせまっていました。

夕日を見ながら、高野山のことを思い出しましたが、あの頃はずいぶん日が高かったんだなあと思ったりしていました。

>撮影されたソニー製のカメラに因・縁があるという仮説を立てました。

なるほど。カメラのせいだというのは、ありえますね。

機会を見て、挑戦してみましょうか。
さあ、どうなるでしょうね。

投稿: 管理人エム | 2013/10/28 19:55

エビ天サンバさま

そ、そんな、秘められた過去があったとは。。
別に、秘めてないですね

ああ、何だか、かわいいですね。コンニャクボールで遊んでる小僧さん。にゃ~~んと、イメージは一休さんだにゃ~~ん。

ほんとにすばらしいと環境にいらしたんですねぇ。うらやましいです。

投稿: 管理人エム | 2013/10/28 19:47

きのこさま

こんばんは。

イマスミン サティ

のところですね。

これは、ロカティヴ アブソリュートと呼んでる文法の変化で、日本語では、絶対句とか遊離節と、辻直四郎先生の文法書に書いてありました。

置格という文法の格があって、その場合、「~において」という意味がでるのです。

その置格が、いくつか並ぶとき、主語+述語の関係ができて条件や原因や状況などをあらわす、そういう用法があるのです。

イマスミンは、イダムの置格、で、サティですが、これは、動詞アッティ(ある)の現在分詞satの置格なのです。

それで、主語述語のような関係になるので

「これがある」と訳され、それが条件のように用いられるので、「これがあるのとき」となるのです。

この絶対句というのは、インドの哲学文献の中では、もう、たくさん出てきて、「~が…するならば」とか「~が…であるとき」とか、しょっちゅう訳すことばなんです。

「これが生ずるによりかれが生ずる」という部分は、

イマッスッパーダー イダム ウッパッジャティ

イマッサ(属格)+ウッパーダー(奪格)

で、「これが生ずるから」と、ここも、条件のように訳されます。

パッチャヤとニローダは、縁起を表現するときに出てきますが、このような「公式」のように、条件文にしてあらわすときには、それがはっきり分かるように、こんな条件法を用いるのです。

投稿: 管理人エム | 2013/10/28 19:32

先生、すみませんm(_ _)m

私、サティには、気づきのサティしかないと勘違いしてました。

辞書をみると、
念、の、サティとは別に

sati:sant(atthiのppr.)のsg.loc.

との項目もありました。

やっぱり、

これあるときはこれあり。
これないときこれない。

だったんですね。

勘違いしてすみませんでしたm(_ _)m

先生は、そういうふうにとらないかもだけど、
この「これ」「これ」は、
私にとっては、時間を置かない関係のようにも思えました。

興味あるところによって、その人にピンポイントで届く?

経典の文章は、空だなぁ、と、思いました。

また、勘違い、どうせしてるだろうけどね!d(^_^o)

貴重なことを教えてもらって、ありがとうございましたm(_ _)m

投稿: きのこ | 2013/10/28 15:01

翻訳 とは

意味を訳す ことです
(解説と同じ意味も持ちます)

言語は、その言語特有の意味以外に意味はありません

(その言語が使われる)そこに生きて、
意味を知ることができます

言葉は目的をもって使われます

その目的を、日常の行いを支えることに
訳すということです

投稿:  春間 則廣  | 2013/10/28 10:38

大師教会本部の写真。寺の小僧だった僕は、夏になるとそこへ送られて、色々仕込まれていました。でも、覚えていることといえば、悪餓鬼四人、長い廊下を使ってコンニャクボールで遊んでいたこと位かな。ちなみに得度もここでした。いやぁ、懐かしいです。

投稿: えび天サンバ | 2013/10/28 10:34

><これ>があるとき <これ>がある
><これ>がないとき <これ>がない

>となるのです。

>イマスミン サティ イダム ホーティ
>イマスミン アサティ イダム ナ ホーティ

>もっとも厳密に訳すなら、上です。ただ、これでは、あまりに何のことか分からないということもあって、漢訳や他の役者の訳にしたがったのですが、


これがあるとき、は、普通、動詞は、パッチェーヤじゃないですか?
先生が例に挙げた文は、動詞が「サティ」ですね。
厳密に訳すと、
これに気づくときこれがある。
これに気づかないときこれがない。
ではありませんか?
あるいは、これに意識があるとき、これがある、これに意識がないときこれもない、とか?


認識するものを、ある、とする理屈からそうおっしゃったのかもしれませんが、

私は、最初、先生のコメントを読んで、ブッダの有名な公式は、
「これあるとき、これあり。」って、ほんとは書かれてあるんだ、と、思いました。
でも、再読すると、サティ、なので、
あれ?と思いました。

ということで、疑問なんですけど、

これ・パッチェーヤ・これ、
これ・二ローダ・これ。
という文が、経典にあるのですか?

それとも、この公式自体は、経典には実はないのかな?
って、いうか、公式の原文って、なんなのかなぁ?

投稿: きのこ | 2013/10/28 09:29

ミチ先生

>同じ時間に三枚取っているので、それを順番に眺めているのですが、だいたい同じ位置に太陽はありますね。まあ、あたりまえですけど。

そうですか。このような稀有の写真が撮れたいくつかの因・縁を私も眺めてみました。
撮影されたソニー製のカメラに因・縁があるという仮説を立てました。
根拠はゴーストはレンズとカメラ本体との複雑な反射によって生じるとネットの解説にあるからです。

つまり、北海道でも仮説の検証ができます。
(検証方法)
・4時から5時位の時間帯に太陽を撮影する(背景は別に何でもよい)
・重要なことはシャッターを切らずに太陽が液晶画面の中央に来るようにアングルを調整する
・例の赤い玉が出だしたら、上下左右対称の8個になるまで方位と仰角を調整する
・ほぼ8個が現れたらシャッターを切り、高野山での写真と比較する

もし、この仮説通りで似たような写真が撮れましても、金剛峯寺では無意識で撮っておりますので、仏様方の関与があった可能性は残ります。

投稿: 前世は一在家 | 2013/10/28 07:25

前世は一在家さま

うーん、わたしの目は節穴かもしれないので、自信はありません。

同じ時間に三枚取っているので、それを順番に眺めているのですが、だいたい同じ位置に太陽はありますね。まあ、あたりまえですけど。

でも、三枚目の、曼荼羅が薄らいでいる太陽は、感覚的に、もう、少し上に登っていっているように、自分では思っているのです。

錯覚だったのかなあ、とか思ったりもしているのですが、どうなんでしょう。

投稿: 管理人エム | 2013/10/28 00:58

きのこさま こんばんは。

>【〈これ〉があるとき〈かれ〉がある。たとえば、〈長い〉があるとき〈短い〉があるように。(一・四八)
>さらに、〈短い〉がないとき〈長い〉は存在しない。自性ならざるものだからである。(一・四九)】
>に、合わせて、真理表7の枠内に、この論理をあてはめたのかな、と、その可能性を想像していました。

ああ、うーーん、そう言われますと、たしかに、そのようにも見えますね。

どちらに、どちらを合わせたのか、分からないですね。
あるいは、合わせたのかも、分からないです。

真理表7は、対になることばが対応するのは、既に分かっていたからです。
もし、上の「長い」と「短い」が見当たらなかったとしても、別の何か例になるようなものを経典や論書から探し出しているかもしれません。

真理表3,5,7は、縁起とそれにに関するヴァリエーションであって、それら全部を用いないと、現実の世界は表せないようになっていると思っていました。

仏教が、真理表の中で意味をもちうるすべての表を有効に活用して文をつないでいることは、十分想像できていましたから、そこに気づいていけばいいだけだったような気がします。

論理の枠があって、それをブッダや龍樹の中に探していけばよかった、という方があたっていると思います。
ほとんど同時に進行しているようなものですが。。

中道は、それを論理の枠に当てはめた、と言っても、嘘ではないかもしれません。これは、本当にむずかしかったと思います。

投稿: 管理人エム | 2013/10/28 00:46

ミチ先生、こん**は。

>実際の時間と、夕日の位置の感覚にずれも生じているのかなあとも思います。

本日、写真を見ていて気付いたことがあります。

10月13日に撮影現場と太陽の位置とで逆に時間が分かります。
太陽の方位(経度)が分かれば、その時の太陽の高さ(仰角)も分かります。

先生の記憶の通りに太陽が移動(上下)したのであれば、「あり得ない写真」となります。
換言しますと、この時期に、その方位(経度)において、あり得ない太陽の高さ(仰角)の写真となります。

もしこの事実が確認できましたら、「中台八葉院」の形のゴースト以上の奇跡と言うことです。
そして奇跡には「作り手」がおられるということでしょう。

いつの日か本ブログを読まれた方、またはお寺の方が、撮影現場で確認される日が来れば分かることです。

投稿: 前世は一在家 | 2013/10/28 00:41

>イマスミン サティ イダム ホーティ
>イマスミン アサティ イダム ナ ホーティ

>『サンユッタ・ニカーヤ』12.21にあります。

先生さま、情報をありがとうございますm(_ _)m

今日のお経、のページで探してみて、おしい!12.20ならあったんだけど、21は見つけられませんでした(^^;;

また、機会があったら、興味を持って読んでみますね!
ありがとうございます。

それで、探してるとき、〈これが生じた〉というお経を見ました。
少しだけ、抜粋引用しますね。


SN 12.31 Bhutamidam Sutta: これが生じた

http://suttatoday.hatenablog.jp/entry/sn12_031

(抜粋引用)
正しく観察することにより、人は『これが生じた』と知ります。
正しい観察により『これが生じた』と知り、人は幻滅し、冷静になり、止め、執着と維持がなくなり、生じることから解放されます。

正しく観察することにより、人は『この栄養素からこれが生じた』と知ります。
正しい観察によって『この栄養素からこれが生じた』と知り、人は幻滅し、冷静になり、止め、執着と維持がなくなり、生じる原因となった栄養素から解放されます。

正しく観察することにより、人は『この栄養素がなくなることにより、生じたものは必ず滅する』と知ります。
正しい観察によって『この栄養素がなくなることにより、生じたものは必ず滅する』と知り、人は、幻滅し、冷静になり、止め、執着と維持がなくなり、必ず滅するものから解放されます。
(抜粋引用終了)


投稿: きのこ | 2013/10/28 00:20

先生さま、こんばんは。

>>先生が、真理表7で、ぐるぐるをワンセットで表現したいのは、龍樹さんの文章と一致させたいから、ということはありませんか?

>いや、おそらく、それは違います。龍樹の説くものの中に、そのように一致させるようなものはないですね。論理の枠組みみたいなものが、はっきり出てくるようには書いていないですね。

>まあ、ただ、書いてあるだけですから。それが論理の文かどうか、普通は気づかないです。

そうですか。私は先生の著書に出てきた、龍樹さんの文章
【〈これ〉があるとき〈かれ〉がある。たとえば、〈長い〉があるとき〈短い〉があるように。(一・四八)
さらに、〈短い〉がないとき〈長い〉は存在しない。自性ならざるものだからである。(一・四九)】
に、合わせて、真理表7の枠内に、この論理をあてはめたのかな、と、その可能性を想像していました。

投稿: きのこ | 2013/10/27 23:44

前世は一在家さま

ちょっと気づいたことです。

>更に奇妙なのはミチ先生の証言です。

とあって、日の沈み具合なのですが、わたしは、すっかり混乱していますよね。
写真を撮ったときは、もっと5時に近いと思っていたりして。

これは、札幌は、日の沈むのが、日本の他の地域より早いと思うので、そんなことも関係しているかもしれません。

実際の時間と、夕日の位置の感覚にずれも生じているのかなあとも思います。

なんか、自分でも、よく分からない感じです。

投稿: 管理人エム | 2013/10/27 15:54

管理人さんが従来の論理学を学ぶうえで感じた苦しみが少しイメージできました。

そして、ブッダと龍樹の言葉に触れて、そこに見出だせる論理に、これだと感じたのも分かる気がします。

投稿: magagiok | 2013/10/27 15:52

きのこさま

>短い→短くない
>なら、また、真理表7に、当てはめればいいし、

それも可能ですね。

>先生が、真理表7で、ぐるぐるをワンセットで表現したいのは、龍樹さんの文章と一致させたいから、ということはありませんか?

いや、おそらく、それは違います。龍樹の説くものの中に、そのように一致させるようなものはないですね。論理の枠組みみたいなものが、はっきり出てくるようには書いていないですね。

まあ、ただ、書いてあるだけですから。それが論理の文かどうか、普通は気づかないです。

>パーリ経典で、
>AがあるときBがある。
>BがないときAもない。

このような文はないと思いますが、しかし、実は、こうなのです。

そもそも「<これ>があるとき<かれ>がある」ですが、

これは、漢訳などにしたがって、このように訳したのですが、実は

<これ>があるとき <これ>がある
<これ>がないとき <これ>がない

となるのです。

イマスミン サティ イダム ホーティ
イマスミン アサティ イダム ナ ホーティ

もっとも厳密に訳すなら、上です。ただ、これでは、あまりに何のことか分からないということもあって、漢訳や他の役者の訳にしたがったのですが、

このように、ひっくり返る例もあることが、あらかじめ分かっていれば、全部<これ>としたのに、と思います。

これは、わたしも油断していると思います。
全部<これ>であれば、本当にどんな関係でも、きちんと描けるからです。
ただ、ブッダほどの人でないと、このような言い方は認められないとも思います。他の人が、これを言ったら、なんでも入ってしまうから、インチキだと言われかねないです。

これについては、他の方からヒントをもらって、気づいたのです。
zapoさまには、お話したことがありますが、あまり評価されていないようでしたね。

『サンユッタ・ニカーヤ』12.21にあります。

投稿: 管理人エム | 2013/10/27 15:41

きのこさま

お返事、はや~い!

>私の考え方だと、言葉の存在論になっちゃうかな?

いんや、ならないと思いますぅ。

なぜかといえば、「長い」と「短い」は揺れ動く関係で、固定的ではないからです。

「長い」だけの世界があるとしますね。

長靴の長さが「長い」である、という世界があれば、他の(短い)靴は、別の呼び名、サンダルとか何とか、「短い」靴、という考えは出てこないと思います。

わたしが子供の頃、春になって雪が解けて道路が出てくると「短靴を履く」という風に言ったんですよ。

わーーい、短靴だあ、って感じです。

もう、長靴じゃなくて短靴履くんだ、って、すごくうれしかったのですが、最近、そんなこと言わなくなりましたね 

靴に、長短がある世界にいたのですが、
今では
おしゃれに、ブーツにスニーカー、パンプスに、ハイヒール、レインシューズにズック靴(?)
ですよね。

ことばが、相対的に用いられないと、個体を示す無数のことばが生まれますね。

投稿: 管理人エム | 2013/10/27 15:21

長い、が、あるとき、短いが生じたでしょう?

長い、が、なかったら、短いも生じなかった、って、関係です。

長い→短い

だから、私的には、別に相対的な言葉の関係をあらわすのが、真理表7、って、無理矢理思わなくても、いいかな?と、今、思いました。(相対的な言葉の関係は、真理表7だと思ってますけと)

短い→短くない

なら、また、真理表7に、当てはめればいいし、

短くない→長くない

なら、また、真理表7に当てはめればいいかな、って、思いました。


先生が、真理表7で、ぐるぐるをワンセットで表現したいのは、龍樹さんの文章と一致させたいから、ということはありませんか?

パーリ経典で、
AがあるときBがある。
BがないときAもない。

の語順でそのまま載ってるところありますでしょうか?
もしあるなら、その箇所読んでみたいな、と、思いました。


投稿: きのこ | 2013/10/27 15:04

magagiokさま

>管理人さんには、西洋論理学は、まじめに取り組むと死にたくなるくらい苦しみに満ちている、ものだったということでしょうか。

そのとおりですね。実際、そうだったですね。
これを教えなくてすむなら、どんなことでもします、という感じです。
お金だけのためなら、やめて、コンビニかどこかでバイトする方がましです。

だから、ブッダ論理を見つけることになったのです。自分の納得する論理学を見つけようと思ったからです。
インチキだと思われないように、何とか本にして、それで教えれば、詐欺師ぃとか言われないでもすむと思いました。

困ったらすがれるのは、お釈迦様ですね。
どんな難事も解決してくれると思います。

>具体例がさっぱり思い浮かばないのですが、例えばどういうことなんでしょう

うーーーん、説明するのも、なかなかむずかしいです。

インド論理とかやってないと、これがエゴなんだとは、気づかないかもしれません。

でも、よく注意して読むと引っかかるところが出てきます。

真理値(真と偽)が論理の根幹にあるのに、それが、どんなものかきちんと説明されている教科書が一つもないことです。

そこから始まるのに、始まりが何か分からないって、不思議だと思いませんか。

「事実どおり」であれば、真、という風に、ほのめかされたりもしますが、それとても、おおっぴらに述べるわけでもありません。

なかで、多少明解に述べているのは、タルスキーという人の論文です。

====
文「雪が白い」が真であるのは、雪が白いときまたそのときに限る
====

これは、西洋論理学の本質的な点をうまくついているようにも思います。これが、今のところ、真理の一つの基準になっていると思います。

何だか、あまりはっきりしているようには思えないかもしれませんが、これで、少し、わたしもすっきりしたところがあります。

とにかく、現実の事柄について論理を適用しようとしている、と分かるからです。

しかし、現実には、命題論理は、論理の門にすぎず、通り抜けたらあとはすっかり忘れられて、概念に深く関わる論理学が主流になっていくのです。

概念を扱うと、どんなことでも思惟の中にあれば、なんでも出てくるので、学者の意のままという状態になり、真実や真理の縛りが効かなくなることが多いのです。

気づかないかもしれませんが、エゴですよ。勝手に分類したり、勝手に法則づけたり、思いつきでどうにでもなる世界のように思われるのです。

何も決まらないのに、無数の説が出て、しばらくすると忘れられる、というくり返しで、論理学は「発展する」と錯覚されるような世界になってきます。
論理は、考え方、見方だから、基本的には一つで、それで一貫すべきものだと思います。

すごくいやですよ。

「ご飯を食べて、そして、学校に行きました」という文も
「学校に行き、そして、ご飯を食べました」も、同じ文として扱います、といわねばなりません。

現実には、そういうことはないのに、です。そして、現実とあわない分、何か論理的なメリットがあるのかといえば、何もないのです。命題計算ができる、とか言ってみても、使われなければ、計算できても何もなりません。

投稿: 管理人エム | 2013/10/27 14:59

>短がないとき、というここ、二行目と四行目でしょうか。
>三行目じゃなくて。

おっしゃるとおりです。
間違えちゃった、すみませんm(_ _)m

私の思考としては、

私達の世界を考えるとき、例えばフランスパンを表現するとして、

1.長いという表現がある、且つ、短いという表現もあるかなー?→ある!普通に長短使うもんな。

2.長いという表現がある、且つ、短いという表現がないことあるかなー?→長いしかない世界なんて、ないやろ、たぶん。

3.長いという表現がない、且つ、短いという表現があることあるかなー?→短いしかない世界なんて、ないやろ、たぶん。

4.長いという表現がないとき、短いという表現もないことってあるかなー?→ある、かんじ。なんにも、評価せえへんねんな。

で、真偽偽真、です。

私の考え方だと、言葉の存在論になっちゃうかな?

いろいろ、すみませんm(_ _)m

投稿: きのこ | 2013/10/27 14:45

苺屋毒蛙さま

>枝とかの具合の奇跡なんですかね。

あ、枝か。。気づかなかったです、ぜんぜん。

お日さまは、ただのお日さまで、カメラを向けたら、ファインダーに赤い丸みたいな光が見えたので、「あれ?」って、思いました。

肉眼では、丸はなかったですね、あたりまえだけど

カメラに、赤いセロファンはっつけてるのでもないですよ、もち。

ほんと、どうして、こんなにきれいに八個の丸と紫の輪が見えるのか、教えてもらいたいです。。

神さま、仏さま、おしえてくださいませませ。。

投稿: 管理人エム | 2013/10/27 13:57

>長・短
>○・○/○
>○・× /×
>× ・○/×
>× ・× /○

>短がないとき(二行目、三行目)どちらも、長がない結果値、ということで。

短がないとき、というここ、二行目と四行目でしょうか。
三行目じゃなくて。

二行目は、接続詞は成り立たないので、「長い」という意味は、単独の、ある長さのことを指すのかもしれないです。

四行目は、長い、という観念もないことになり、接続詞は成り立ちます。

長いがあるとき、短いがある (一行目)

この一行目の接続詞を維持したいとすれば、思考としては、四行目は、きのこさまの考察を含めて、

短いがないとき、長いがない (四行目)

という表現になるのかな(ブッダ的にはです)。

西洋論理的には

「長い」の観念がなく、「短い」の観念がないとき、この相対的な関係を示す接続詞7(長いと短いは等値の関係)は、真である

となるのか。。だんだん、こんがらがりそうです。

投稿: 管理人エム | 2013/10/27 13:37

苺矢さま

>日輪の写真は本当にマンダラみたいですね。
>どういうふうに光が割れたらこういうふうになるのでしょうか。
>枝とかの具合の奇跡なんですかね。

技術的な説明ではレンズや本体内部での反射が縁で起こったゴーストとなります。
グーグルで「太陽 反射 ゴースト」で検索すれば、いくつも解説がございます。

ただし、このようなマンダラ(金剛峯寺の中台八葉院)みたいに映り込むのは奇跡的でしょうね。
ミチ先生が使用したレンズ&撮影時間&撮影アングル&背景(木々の枝など)の全ての縁が揃う必要があります。

更に奇妙なのはミチ先生の証言です。
「写真を撮ろうと思った時は、お日様がけっこう上の方にあるような気がして、いざ写真を撮ったときは、下にある感じがしているのです。
背景が暗いですよね。もう、沈むんだなあ、と思いながら撮っているのですが、撮り終わったら、また、上に戻ったような気がしました。」

もしかしたら太陽(大日如来)が10月13日4時23分のしかるべきアングルまで移動されたかもしれませんが、これは現地で調べれば分かります。

以上、写真にはあまり詳しくありませんが、ネットで調べた範囲でのコメントまで。

投稿: 前世は一在家 | 2013/10/27 07:43

>真理表5は、きのこさまがおっしゃるように、とても大事ですよね。
だから、西洋論理でも、これをメインに据えたんだと思うのですが、そこだけを説いて、因果律を消してしまっているので、結局、エゴだけが目立ってしまう結果になるのだろうと思っています。
たとえ、語る人にはそのような気がなくても、エゴにしか見えないような、そんなシステムになっているのです。
この論理学は、実際に、まじめに取り組むと死にたくなるくらい苦しみに満ちていると思います。


具体例がさっぱり思い浮かばないのですが、例えばどういうことなんでしょう。

管理人さんには、西洋論理学は、まじめに取り組むと死にたくなるくらい苦しみに満ちている、ものだったということでしょうか。

投稿: magagiok | 2013/10/26 23:18

おっじゃまー

日輪の写真は本当にマンダラみたいですね。
どういうふうに光が割れたらこういうふうになるのでしょうか。

枝とかの具合の奇跡なんですかね。

誰か詳しい人に解説してもらいたい。

投稿: 苺矢毒蛙 | 2013/10/26 20:03

> この論理学は、実際に、まじめに取り組むと死にたくなるくらい苦しみに満ちていると思います。

生きる喜び に 満ちあふれる ようなもの でなくては 、、、、


ヴィリヤ は 苦を産みません

喜びを 見つけること
喜びがあると知ること
苦が解消されること

それらが 精進に値することです

投稿:  春間 則廣  | 2013/10/26 16:39

また、間違えてしまった…>_<…

>短がないとき(二行目、三行目)どちらも、長がない結果値、ということで。

短がないのは、(二行目、四行目)の場合です。m(_ _)m

投稿: きのこ | 2013/10/26 11:26

あ、先生、

長・短
○・○/○
○・× /×
× ・○/×
× ・× /○

この真理表7の接続詞自体を、
「長があると短もある、短がないときは長もない」、とみることもできるかな、と、思いました。
短がないとき(二行目、三行目)どちらも、長がない結果値、ということで。

って、接続詞になってないからだめですね(^^;;


投稿: きのこ | 2013/10/26 11:20

あ、間違えちゃった


>長いという言葉がある、且つ、短いという言葉もある状態・真
>長いという言葉がある、且つ、短いという言葉はない状態・偽
>長いという言葉がない、且つ、短いという言葉もない状態・偽
>長いという言葉がない、且つ、短いという言葉もない状態・真

三行目、間違えて表現してます。
三行目は、
長いという言葉がない、且つ、短いという言葉がある。ですm(_ _)m

わかりやすく○×で書きますね。

長い・短い
○・○/○
○・× /×
× ・○/×
× ・× /○

投稿: きのこ | 2013/10/26 11:04

先生さま、ありがとうございます(*^_^*)
伝わってよかったです。

>きのこさま、「気持ち悪い」という感覚は、とても大事だと思うのです。そこに、嘘(矛盾)が必ずあると思うからです。

例えば、ixtlanさんにとっては、ルールから外れることは、とても気持ち悪いことなんだろうと私は、推測しました。
ルールを恣意的に、自分の都合よいように、時には変えて、ときには利用してるように思えるんじゃないかな?と、思いました。

それが、先生のおっしゃる、西洋論理学はブッダ論理学を誤りとする、感覚なのかもしれませんね。
ブッダ論理は、嘘だ、気持ち悪い、と。

私は、議論の中で、真理表を見て、途中で驚きました。

なんて、ふたつの関係性が、わかりやく載っているんだ!

関係性をクローズアップして、西洋論理での真理表の動き方は崩さず(前件と後件を途中で変えたりしない、など、)表に当てはめれば、

西洋論理学に慣れている方も、ブッダの論理(考え方)がわかりやすいんじゃないだろうか、と、思いました。


命題論理の回路で考えてみますね。(違うかもだけど)

長い・短い

長いという言葉がある、且つ、短いという言葉もある状態・真
長いという言葉がある、且つ、短いという言葉はない状態・偽
長いという言葉がない、且つ、短いという言葉もない状態・偽
長いという言葉がない、且つ、短いという言葉もない状態・真

こういう関係で、「長い」と「短い」が使われているとき、「長い」と「短い」は相対的な言葉として使われている、と、思いました。
片方では、成り立たない、言葉のペア。(それが、二行目と三行目の真偽値で分かる。)

投稿: きのこ | 2013/10/26 10:58

きのこさま

>長いがあるとき→短いがある
> ・・・・・・・・短いがないとき→長いもない。

>伝わりますかね、

ああ、伝わりましたよ。
たぶん、何かの意図があって、このように書いたのだろうとは思ったのですが、そこがよく分からなかったので、余計なお世話を書きました。

こうしてみると、命題論理のルールを用いると、必ず手間が増えるんですよね。

いつも、思います。
頭の悪いやり方だ、って。

ほんと、何とかならないかなあ、って、思って、ブッダ論理に至ったようなものです。

真理表5は、きのこさまがおっしゃるように、とても大事ですよね。
だから、西洋論理でも、これをメインに据えたんだと思うのですが、そこだけを説いて、因果律を消してしまっているので、結局、エゴだけが目立ってしまう結果になるのだろうと思っています。
たとえ、語る人にはそのような気がなくても、エゴにしか見えないような、そんなシステムになっているのです。

この論理学は、実際に、まじめに取り組むと死にたくなるくらい苦しみに満ちていると思います。

きのこさま、「気持ち悪い」という感覚は、とても大事だと思うのです。そこに、嘘(矛盾)が必ずあると思うからです。

投稿: 管理人エム | 2013/10/26 09:48

大縁経、すごい!と、思いました。

http://sekkha01.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/dn-15-maha-nida.html#search_word=大縁経

投稿: きのこ | 2013/10/26 08:43

>思惟の中に何かあるとすれば、「長い⇒短い」の、この思惟の順序だと思うので、「短い」がない時には「長い」もない、というようになるのではないかと思うのです。

先生さま、すみませんm(_ _)m
ここ(長いがないとき短いもない)、先生にとってはこの順は気持ち悪いだろうなぁ〜、私もなんかどこかで気持ち悪いなぁ〜、と、思いながら書きました。

議論として、あまりに、命題論理のルール、ルール、とこだわられているようなので(^^;;、西洋論理学の今あるルールで前件と後件の関係を当てはめれないか、と、私は試みました。
その書き方に沿うとすると、先生のその順番は、
私の試みでは、二つに分かれることになるな、と、考えていました。

長いがあるとき→短いがある
・・・・・・・・短いがないとき→長いもない。

伝わりますかね、

命題(長いがあるとき短いがある)
長・短/
○・○/○
○・× /×
× ・○/×
× ・× /○

短・長/命題(短いがあるとき長いがある)
○・○/○
○・× /×
× ・○/×
× ・× /○

う〜ん、気持ち悪いだろうなぁ、と思います、すみませんm(_ _)m

瞬間を切り取る関係性のイメージで、
「長い」に依りて「短い」が生じる。と考えたときの関係性、(このとき、長いと短いは相対的な関係。条件式を命題としてその真偽パターンセットでの成り立ち方での関係)

そして、「短い」を因として、思考の中に新たな言葉が連鎖してでてきたなら、それを、次の瞬間の関係性として考えてみました。
「短い」に依りて「長い」が生じる。

う〜ん、すみません、、、

だって、ルール、ルール、言ってて、進まないなぁ、と思ったから、じゃあ、ルールに沿ったら、少しはわかりやすいのかなぁ、と、思ったので、ルールに沿って表現できないか、と、試しました。
ああ、ルールという文字がいっぱい
勝手にすみませんですm(_ _)m

投稿: きのこ | 2013/10/26 06:47

先生さま、おはようございます。


>そして、真理表3が生まれるために、実は、真理表5も見いだされてくるわけです。
>このあたりが、微妙にややこしいですが。

真理表5が、真理表3に、影響を与えるのではないかと、自分では思いました。
この、真理表5が、正確にものごとをあてはめるのがめちゃくちゃ難しいんだと議論の途中で私は思いました。

真理表5のあてはめ方を間違うから、真理表3での苦しみも生まれる。

間違った選択肢を選ぶ。

自分がよかれと思い(原因は○○と決めつける)、自分の考えに沿って新たに起こした結果が、望み通りにはならない(自分の予測の原因と結果と、事実の結果は違う)。

釈尊の言葉で「縁起がわからないから苦しむ」とか、「縁起は難しくて賢い人しかわからない」とかいうかんじの言葉は、真理表5を正確に使うというのはものすごくに難しいということを指してるような気もするな、と、いうようなことを考えました。


投稿: きのこ | 2013/10/26 06:11

きのこさま

どんどん思索が進んでいきますね~。
zapoさまのおっしゃるとおり、すごい理解力だなあと感心しています。

>真理表5を経て、その結果、真理表3があるわけではない。
>真理表3は、真理表3で、単独に成り立っている現象関係。と、思いました。

なぜ、真理表3が独立しているかというと、これ、認識により生じてくる関係ということで、ブッダの体系では、ここから出発するのだと思います。

そして、真理表3が生まれるために、実は、真理表5も見いだされてくるわけです。
このあたりが、微妙にややこしいですが。

最初に真理表5が、単独であるわけではない、という点で、きのこさまのおっしゃるとおりかと思います。


ところで、「長い」と「短い」のところですが、

「長い」があるとき「短い」がある

として、また、

「長い」がないとき「短い」がない

とされていませんでしたか?
真理表7の場合です。

違ったらすみません。

この「長い」と「短い」ですが、相対的な問題にかかわるので、こういう風に考えたらいいのではないかと思っています。
ちょっと、お話してみますね。

紐を見て、ずいぶん「長いな」と思ったとします。そうすると、それにつられて、もっと短くてもいいのに、とか、短いのもないかな、とか、今度は、「短い」が出てきます。

そこで、「長いがあるとき、短いがある」と、この順序で、思惟が進むのですが、これの、「ブッダの公式」の否定の方は、

「長い」がないとき 「短い」がない

には、ならないのではないかと思います。

「長い」は、紐を見て言ったので、始まりは「長い」なんだけど、後は、何かを認識して「短い」と出てくるわけじゃなくて、頭の中で、「短い」が生まれてきています。

そうなると、思惟の世界のことになるので、ここで、意識されるのは、「長い」から「短い」が出てきた、この順序が、ここで事実としては定まっていることではなかろうか、と思うのです。

ですから、この順序が保たれるように、そこを意識して、「ない」という方も考えることになるので

「短い」がないとき 「長い」がない

と、いう式になるだろうと思うのです。

もし、「長い」がない、と、本当にそうであれば、当然「短い」も出てこないのですが、その場合、何にもいわれないだろうと思うのです。

思惟の中に何かあるとすれば、「長い⇒短い」の、この思惟の順序だと思うので、「短い」がない時には「長い」もない、というようになるのではないかと思うのです。


投稿: 管理人エム | 2013/10/26 00:49

>真理表5は別に無関係
って、考えていいのかな?と思いました。

意味が取りづらい表現かな、と、思いましたので、別の表現します。

真理表5を経て、その結果、真理表3があるわけではない。

真理表3は、真理表3で、単独に成り立っている現象関係。と、思いました。

投稿: きのこ | 2013/10/25 16:45

現実の現象を考えるとき、

真理表3の関係性が成り立っていること自体には、

真理表5は別に無関係

って、考えていいのかな?と思いました。

投稿: きのこ | 2013/10/25 16:27

こんにちは。


>この、真理表5P⊃Qから、真理表3Q⊃Pを導くという考えは、命題論理では、当然として問題にもされませんが、現実に考えますと、ブッダ論理であろうとなかろうと、非常に問題が多いです。

そういうふうに考えたらだめ、ってことですね。了解です。
前件と後件は、常に新しい関係、と、思えばいいかな、と、思いました。

その瞬間の関係。

真理表5によって真理表3が導きだされたわけではなく、

原因を考えてるときは真理表5、

現実は真理表3、

全く別の現象と考えたらいいのかな、と思いました。

・・・

ちょっと違うかもだけど、
「あなたお金払うならば品物をあなたに」が成り立つとき、反対も成り立つとしたら、
「品物をあなたにならばあなたお金払う」も成り立つのさ〜、と、品物を無理矢理置いて代金請求されそうですもんね。
そんなのいやだ〜

投稿: きのこ | 2013/10/25 15:56

道場を見てみたら、新たな展開が始まったようですね。

いよいよ本題だ、ということだろうか。

投稿: magagiok | 2013/10/25 07:32

ちょっと私には具体例がピンとこないのですが、論理の悪用、濫用、屁理屈、とそんなことを連想しました。

ここで殺してあげることが仏の慈悲、なんてセリフが歴史ドラマであったなあ、なんて思いました。

投稿: magagiok | 2013/10/25 07:23

>で、問題なのは、PQを入れ替えて、Q⊃Pとしたとき、この文は成り立つかどうか、ということが問題になっているのです。

magagiokさま

この、真理表5P⊃Qから、真理表3Q⊃Pを導くという考えは、命題論理では、当然として問題にもされませんが、現実に考えますと、ブッダ論理であろうとなかろうと、非常に問題が多いです。

記号なので、みなさん、気がつかないのですが、ありとあらゆるデタラメが「⊃(ならば)」の記号によって結びつけることを、認めることになるからです。

論理学を主張するもののエゴが押しつけられることになります。
恐ろしいことだと思います。

つまり、真理表の一番目のケースが成り立つなら、あらゆるものは意のままに順序づけることも可能だということになりますね。

無明の自覚なく、無明の中で、何ごとかが言われて、そのときどきの力関係で、よしとされていくことになるのではないかと思います。
実際、そういう世界に生きているのかもしれませんけど。。。

ブッダ論理は、自分たちが、無明から出発することを自覚しながら、それでもどう言えるかを模索するものだと思います。

投稿: 管理人エム | 2013/10/25 03:59

>よく覚えていない、ということですね。

ええっと、なんとなく説明するのが難しいのですが、書いているときは、自分の思考の流れに乗って語っているので、一つの論の流れを意識しているのですが、同時に、他の可能性もあれこれ考慮しています。

他の解釈で来ても、これが言えるかな、とか、他に言われている論理学書の内容などとも照らし合わせながら、一つの文章を作るわけです。

ですから、文は一つで簡単なのですが、いろいろな状況をすべて含んで書いているのです。

その「いろいろな状況」の中に、指摘された内容も入っていたかなあ、それをきちんと自覚して意識していたかなあ、どうかなあ、ということです。

無意識の可能性の中のものか、意識的に考えた内容なのか、どっちだっけな、みたいな感じです。

投稿: 管理人エム | 2013/10/25 03:45

>で、問題なのは、PQを入れ替えて、Q⊃Pとしたとき、この文は成り立つかどうか、ということが問題になっているのです。
これが形式的には成り立つと、西洋論理の真理表上は言えることになるようだが、それはおかしいだろう、とわたしは言いたいのです。


それが本題で、それがブッダ論理に繋がるということでしょうか。

投稿: magagiok | 2013/10/24 21:56

>実は、自分でも、どうだったかなあ、とか思いながら読んでいました。


よく覚えていない、ということですね。

いずれにせよ、それは本題ではないから、どう解釈してもらってもいい、どう解釈しても「偽」に違いはない、という感じでしょうか。

投稿: magagiok | 2013/10/24 21:08

magagiokさま

>そのありえない条件が成立するならば、その場合は、「これが鯨ならば、これは哺乳類である」は偽となる。

>そう言いたかったということでしょうか。

そう取ることもできますね。
自分でも、そういう風に読むこともできるなあと思いました。
それで、いいと思います。

他の可能性としては、どんな読みがありますかね。

クジラであってほ乳類でないものは、今のところいない。したがって、「これがクジラならこれがほ乳類である」という文が偽になるという場合は、ないので、この文は成り立つ。

いろんな表現が可能ですよね。

真理表は、接続詞を定義づける役目をするので、その真理表をいろいろに読んで表現することが可能です。

投稿: 管理人エム | 2013/10/24 20:16

magagiokさま

ここは、わたしは、相手に任せているところなのです。

自分で説こうとして説いているところではなく、西洋論理のあり方を西洋論理が説くようにただ展開しているだけなのです。

だから、そのように取ってもらっても、いいですよ、ということです。

西洋論理にかかわるところは、みなそうです。
読みうる可能な読みであれば、どう読んでもらってもよいのです。
それで、考えてもらって、最後に矛盾が出てくるように展開しています。

実は、自分でも、どうだったかなあ、とか思いながら読んでいました。
自分が読むように、人もそう読んでくれるとは限らないので、人の読みに合わせて解釈しているところもあります。
どのように読んでも、論理そのものは決まってくるので、多少の読みの相違は大丈夫なような気がします。

投稿: 管理人エム | 2013/10/24 20:08

これが鯨ならば、その鯨が哺乳類でないことは、現実にはありえない。

そのありえない条件が成立するならば、その場合は、「これが鯨ならば、これは哺乳類である」は偽となる。

そう言いたかったということでしょうか。

投稿: magagiok | 2013/10/24 20:07

>>そして、真理表5の2の場合は、『この文は』、クジラであってほ乳類でないことはありえないので偽である。」という意味なのでしょうか。

>そう取ることができます。


管理人さんは、そういう意味で書いていないが、管理人さんが書いたその文章からは、そう取れてしまう、ということでしょうか。

投稿: magagiok | 2013/10/24 19:45

magagiokさま こんばんは。

>道場での議論が止まっちゃいましたね、どうしたんでしょう。

どうしたのでしょうか。ixtlanさまが、同じところをグルグル回っているように、わたしには見えます。

何度言っても、理解できないところがあって、発想を変えることができません。

わたしが、何をねらって、ここを書いているかが分かれば、あっているかどうかは別にして、少なくともわたしの意図していることは読めるはずだと思うのですが、クジラの類種関係(存在論的立場)にこだわっていると思い込んでいるので、完全に混乱して、その結果、わたしが誤解していると思っています。

たとえ、仮に、わたしが命題論理を誤解していたとしても、わたしの論旨に矛盾がなければ、それはそれで問題点であるので、検討しなければならないはずですが、そこにも至ることができないでいます。

ということを前提にして、お話しします。

===
> そして、真理表5の2の場合は、クジラであってほ乳類でないことはありえないので偽である。」という文章が問題になっているということでしょうか。

特に、ここに引っかかっているようですね。

>そして、真理表5の2の場合は、『この文は』、クジラであってほ乳類でないことはありえないので偽である。」
という意味なのでしょうか。

そう取ることができます。

真理表の、第二番目のケースは

Pが真、Qが偽の場合です。その場合、クジラを指して、「これ」というなら、
「これがクジラである」は、真
「これがほ乳類である」は、偽の場合を見つけることはできません。
同じ「これ」ですから、「これ」がクジラなら、それを指して「ほ乳類である」と述べていることになります。

ですから、クジラで、ほ乳類でないなら、「これがクジラなら、これはほ乳類である」というこの文が、真となるか偽となるかを考えると、偽になります。
クジラでほ乳類でないのに、「クジラならほ乳類だ」とは言いません。ですから、第二番目の条件が成り立つときに、この文を言うなら、偽である、とされます。

一方、現実を見ますと、この世において、クジラでほ乳類でないものはあるかと探すと、今のところ、そういうケースにはあたったことがないのです。

この場合は、「クジラならほ乳類だ」という文の方から見て、原子命題の方を眺めることになるかもしれません。
Pが真で、Qが偽の場合、という条件を探してもないので、そもそも、その条件の下で、P⊃Qを主張することは、現実には起こりません。人は、ウソを語らないようにできているからです。そこで、もしP⊃Qをあえて言えば、偽になるわけです。

真理表は、右から左に読むこともできますし、また、左から右に読むこともできます。
P真かつQ真の場合 P⊃Qは真
という方向で読むことができる(左から右)

P⊃Qが真であれば、起こりうるのは、第一番目のP真かつQ真、第三番目のP偽かつQ真、それと、第四番目のP偽かつQ偽の場合であるという方向でも読めます(左から右)

このような真理表の読み方が、ixtlanさまには飲み込めていないと思われます。

で、問題なのは、PQを入れ替えて、Q⊃Pとしたとき、この文は成り立つかどうか、ということが問題になっているのです。

これが形式的には成り立つと、西洋論理の真理表上は言えることになるようだが、それはおかしいだろう、とわたしは言いたいのです。

====
西洋論理で言えば、P⊃Qが成り立つと同時に、Q⊃Pも成り立つ、というような場合も、ないわけではありません。

例えば、Pに「雪は白い」という文を入れ、一応真としましょう。また、「2+2は4である」をQにいれ、これも真としましょう。

これは、P⊃Qの文を作ると、これは、真です。
「雪が白い」が真で、「2+2が4」が真でないことはないからです。十進法としてください。
そして、これをPとQを入れ替えたQ⊃Pを作っても、同じように成り立つのです。

ですから、形式的には、このような真理表5のPとQを入れ替えると真理表3になる、といっても、良い場合もあるのです。

ですが、現実には、そうならないケースも出てきます。
そのようなケースとしては、今のようなクジラの場合ですが、これは、ixtlanさまは、命題論理ではなく述語論理で扱う問題だ、として切り抜けようとしています。

そう来ると思ったので、述語論理で扱うとしても、命題に直すことは可能であるので、「これはクジラである」「これはほ乳類である」と単独の命題として見て、現実に、そのケースがあるかどうかを認識によって確かめる命題論理の基本的な真偽の決定に還元して、わたしは考えているのです。
(存在論的な類種関係の概念規定によっているわけではありません。だから、述語論理では扱えないのです。)

クジラであって、ほ乳類でないものを見たことがない、というこのことを用いて、「これがクジラなら、これがほ乳類である」を導いていることになります。

これは、インド論理学の考え方を応用しているのです。

で、命題論理の形式的な定義づけからすると

もし、このような文が成り立つとすれば、「これがほ乳類ならばこれはクジラである」(Q⊃P)という文を作って、これも正しいとは言わないだろうということです。

しかし、昔から、「逆必ずしも真ならず」と言われていることですし、西洋論理の見方をもってしても、成り立ちません。
この場合、西洋論理と、わたしが言うのは、古典的な形式論理のことを指していると見ていただいても構いません。

ですから、命題論理の、真理表5のP⊃Qを用いて、そこから、真理表3をQ⊃Pとすることには、命題論理的にも大きな問題だと思っています。人工言語としての論理学を考えるとしても、やはり、一考しなければならない問題でしょう。

これは、命題論理の方で、何とかきちんと答えるべき問題のように思います。


投稿: 管理人エム | 2013/10/24 18:24

道場での議論が止まっちゃいましたね、どうしたんでしょう。

私には、なかなか理解できないのですが、
「実際にクジラを指して、こう言うなら、<<表2>>の真理表5の1の場合に相当し、この文は真である。
 そして、真理表5の2の場合は、クジラであってほ乳類でないことはありえないので偽である。」という文章が問題になっているということでしょうか。

この文章は、
「実際にクジラを指して、こう言うなら、<<表2>>の真理表5の1の場合に相当し、この文は真である。
 そして、真理表5の2の場合は、『この文は』、クジラであってほ乳類でないことはありえないので偽である。」
という意味なのでしょうか。

そして、『この文は』とは、どちらも、「これが鯨ならば、これは哺乳類である」ということですか。

投稿: magagiok | 2013/10/24 14:12

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