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2013/10/25

枯れ葉よぉ~、っていうより、紅葉してます

暖かい日があるかと思えば、急に寒くなったり、
気まぐれなお天気です。

台風も来るらしいです。

ここ数日で、はっと気づいたら、紅葉してました。
どうも、あまりきれいに撮れません。
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大学の窓から下を見ると、木々が美しい。。秋だなあ。

帰る途中で、あれ、こんなに紅葉している!と驚きながら
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ぱちっ!

薄曇りなので、どうも、紅葉もくすんでしまいます。
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どうだっ、黄色はきれいに出るかな。

何の実でしょう?ピンクや赤がきれいです。
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めったに通らない道で見つけました。

きれいに写ってね。。お願いしますよ。
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今が、一番きれいな時なんだからね。

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赤、緑、黄色、みんな、勢揃いしてまとめよう。

         ◇◇◇

五来重氏の『高野聖』(角川ソフィア文庫)を読書中です。

日本の民俗学では、柳田国男、折口信夫という名を、
誰でも聞くことでしょう。

方法論を、自分で定めながら研究していくという苦労が、
日本の民俗学には、ありますね。

浅い理解ではありますが、
五来氏の書を何冊か読んでいるうちに、
そんなことを思いました。

一般の庶民ともっとも密接にかかわってきた聖(ひじり)と呼ばれる人々。
聖と俗の入り混じった世界。

論理も倫理もないようにも見えながら、
論理と倫理が見えない柱として貫いている、そんな世界がある。

「宗教」と一言で言ってしまうには、あまりにも混沌しすぎる。

何と呼ぶのでしょうね、こういう世界のことを。。

少し考えてみることにするよ、人々の心の内を、胸の内を。。


というところで、時間切れです。
いかなきゃ、仕事だぁぁぁ~~。

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コメント

風音さま magagiokさま

おはようございます。

>そしてこのように物事の本質に心を傾けることができる生命が出現して来たことも不思議ですね

この一文が、すごく光ってますね。
この文の中に、ここに!、わたしたちがいるんだなあ、という気がして、文を見つめています。

投稿: 管理人エム | 2013/11/02 10:53

ほんとにそうですね。

投稿: magagiok | 2013/11/01 18:35

ずっとずっと遡れば生命の誕生も不思議ですし、その後の生命の繋がりも不思議ですし、そしてこのように物事の本質に心を傾けることができる生命が出現して来たことも不思議ですね

投稿: 風音 | 2013/11/01 15:31

ずっとずっと遡っていくと、自らによって自らを作った、というところに行き着く。

それこそ、全ての存在に共通な真の本質である。

そんなことを考えるのも、人の自然な思考の一つだと思っています。

投稿: magagiok | 2013/11/01 12:46

今、目の前にある牛は、今、牛とされてあるものを指します

今、目の前にある人は、今、人とされてあるものを指します

遠き、遠き過去には、その共通の祖先がいて、自身を作っていた(生み出していた)と考えられているようです。

投稿: 風音 | 2013/11/01 09:04

地球は46億年前に誕生したとか。

牛は何年前から、人は何年前から生まれたのだろうか。

最初の牛は、最初の人は、何から生まれたのだろう。

投稿: magagiok | 2013/11/01 08:38

牛は牛から作られ(生まれ)、人は人から作られる(生まれる)

投稿: 風音 | 2013/11/01 06:35

そういえば、山や川にも仏性がある、とする宗派があるようですね。

その仏性って何でしょう。

あ、スマ長老が大乗を批判するときに、その仏性についても言ってましたね。仏教に常住な実体、アートマン類似の概念を持ち込んでしまった、仏性はそういうものとは違うと言っているようだが、あれは知らず知らずにそういう意味合いで使っている、ということだったような。まあ、スマ長老は、大乗には独断的で手厳しいですからね。

投稿: magagiok | 2013/11/01 04:05

乳製品は乳から作られる。

牛の乳なら、牛から作られる。

牛は‥。

この世の物質の成立を支えているものが背後(例えば別次元)に有る。

それが真の本質である。

現代科学はまだそれを解明出来ない。

なんてこと言い出す人がいそうだなあ、なんて思えます。

そういえば現代科学は、ダークマターとかダークエネルギーという、見えない何かの存在を主張しているようですね。


投稿: magagiok | 2013/11/01 03:19

どう考えても、乳から作られている以外に乳製品の本質ってないように思います

投稿: 風音 | 2013/11/01 00:21

>多分、21世紀の科学では乳製品の「本質」をある化学式で説明することが可能かと存じます。


現代科学は、乳製品の正体を化学式で表せるのでしょうね。

そして、その正体は、2500年前に問題とされていた、常住なる、他に依らず自らによって有るという本質(自性)ではない、とされることでしょう。

でも、現代でも、現代科学には限界がある、乳製品の本質たるもの、が突き止められていない、現代科学が明らかにしたものは、それは乳製品の本質以外のものであり、本質たるもの、乳製品そのもの、は別に有るのだ、それは人間存在も同様である、常住な本質が人間存在には有るのだ、いずれ科学もそれを解明することになる、と唱える宗教家がどこかにいそうだなあ、と思いました。

投稿: magagiok | 2013/10/30 08:12

>というところで、本当に問題なのは、そこではなくて、命題論理は、わたしには、欠陥があるように見える、ということなのです。
真理表5をP⊃Qと読むとき、
真理表3をQ⊃Pと読める、
としてしまうことです。こうなると、P⊃Qが成り立てば、Q⊃Pも成り立つことになり、問題が出てくるように思うので、そこを問題にするために、クジラを出したのです。


なるほど、本題はそこですね。

真理表5に関するイマジンブレーカーさんの一連の解説は、勉強になりました。

これからいよいよ、イマジンブレーカーさんも「本題」の解説を始めるようです。

さて、イマジンブレーカーさんは何を問題視しているのか、論理学に素人の私には見当もつきませんが、ちょっと興味深いです。

投稿: magagiok | 2013/10/30 07:44

ミチ先生、住人各位

真理表が話題になりましたので、最近感じていることをば。
最後の真理表16「四句分別」についてです。

一昨年の桜も去年の桜も今年の桜も同じであり、同じではなく、同じで異なり、同じで異なる訳でない。
2500年前の釈尊の時代にはDNAという概念が無かったので、直接知覚しても言葉では衆生に表現できなかったことでしょう。

だから「桜の花も桜に非ず、幹も桜に非ず、種も桜に非ず。現象界で知覚できる何れも桜に非ず。」と説かれたことでしょう。
これを「桜はない」と釈尊は説かれた、と主張する人達が所謂「断見派」でしょうか。

同様に「牛乳もヨーグルトもチーズも醍醐もバターも、現象界で知覚できる何れも本質では非ず。」と説かれたことでしょう。
多分、21世紀の科学では乳製品の「本質」をある化学式で説明することが可能かと存じます。

2500年前は言語表現できなかったことも、現代では化学式や原子顕微鏡では説明できるということです。
将来は無記だったこと、修行完成者のみが直接知覚できたことも、科学で説明できるかも知れませんね。
以上、昔は科学者だった者の私見ですので。 合掌

投稿: 前世は一在家 | 2013/10/30 07:21

magagiokさま

ごくろうさまです。

>命題論理学の真理表においては、2行目は、それは「ならば」の定義に反するからという理由で、その「ならば」が偽とされるものが、現実世界においては、有り得ないから、その「ならば」は偽とされますね。

そうですよね。
ふつうに言えば、この世の中に「クジラであって、ほ乳しないもの」が、見つからない限り、

「これがクジラであるならば、これはほ乳類である」

という文は、成り立っている、ということになります。

たとえ、クジラが絶滅しても。


というところで、本当に問題なのは、そこではなくて、命題論理は、わたしには、欠陥があるように見える、ということなのです。

真理表5をP⊃Qと読むとき、

真理表3をQ⊃Pと読める、

としてしまうことです。こうなると、P⊃Qが成り立てば、Q⊃Pも成り立つことになり、問題が出てくるように思うので、そこを問題にするために、クジラを出したのです。

今までの反応を総合しますと、

ここは、突かれていたいところであると判断しました。命題論理の方でも、できるだけ話題をそらそうと努力しているように見えます。

ixtlanさんとか、三浦氏とかも、都合が悪いと何も言わないですが、言わないところが、わたしには「そのとおりだ」という肯定に聞こえるのです。

投稿: 管理人エム | 2013/10/30 06:04

また間違ってたようです。

ややこしい。

書き直してみます。

「‥したがって、この文は、真理表5の実例として正しい。」(『ブッダと龍樹の論理学』P.37)

現実の世界で文句なく成立するこの文「これが鯨ならば、これは哺乳類である」が真理表5の実例として正しいかどうかを検証するために、真理表5の右側の真偽(P⊃Qの出力)によって、右から左に検証してみました。

そうなると、右側が真とされているのは、1行目、3行目、4行目ですよね。

そこで、まず1行目ですが、この行は、鯨であり、哺乳類であるケースですから、これはまさしく、実例そのものですから、それが真理表でも真だというのですから、問題なく現実と真理表の一致ですよね。

3行目は、鯨ではないが、哺乳類のケースですね。例えばイルカ。だから現実に有り得ますね。この場合、「これが鯨でないならば、これは哺乳類である」という命題の「ならば」の真偽は現実の世界ではどうなるでしょう。ちょっとややこしいので、とりあえず、大目に見て真として、これも現実と真理表の一致としましょうか。

4行目は、鯨でなく、哺乳類でもないケースですね。例えば鮭。これも現実に有り得ますね。そして、やはりちょっとややこしいので、3行目と同様に、とりあえず大目に見て真として、これも現実と真理表の一致としましょうか。

さて、最後に、真理表の右側でP⊃Qを偽とされている2行目です。それは、鯨であって、哺乳類でないケース。現実世界では、有り得ないとされています。この場合には、現実世界において「これが鯨ならば、これは哺乳類ではない」という命題の「ならば」の真偽はどう扱われるでしょうか。

これは、現実世界ではそれは有り得ないから、その「ならば」は偽とされますよね。

命題論理学の真理表においては、2行目は、それは「ならば」の定義に反するからという理由で、その「ならば」が偽とされるものが、現実世界においては、有り得ないから、その「ならば」は偽とされますね。

理由は違えども、どちらも偽という出力は同じ。

これは、現実と真理表の一致と捉えていいんじゃないでしょうか。

前回の私のコメントとかなり違っちゃいました。

さて、今回もまた間違ってるかな‥。

投稿: magagiok | 2013/10/30 00:41

また考えてみました。

「‥したがって、この文は、真理表5の実例として正しい。」(『ブッダと龍樹の論理学』P.37)

現実の世界で文句なく成立するこの文「これが鯨ならば、これは哺乳類である」が真理表5の実例として正しいかどうかを検証するために、真理表5の右側の真偽(P⊃Qの出力)によって、右から左に検証してみました。

そうなると、右側が真とされているのは、1行目、3行目、4行目ですよね。

そこで、まず1行目ですが、この行は、鯨であり、哺乳類であるケースですから、これはまさしく、実例そのものですから、それが真理表でも真だというのですから、問題なく現実と真理表の一致ですよね。

3行目は、鯨ではないが、哺乳類のケースですね。例えばイルカ。だから現実に有り得ますね。この場合、「これが鯨ならば、これは哺乳類である」という命題の真偽は現実の世界ではどうなるでしょう。ちょっとややこしいので、とりあえず、大目に見て真として、これも現実と真理表の一致としましょうか。

4行目は、鯨でなく、哺乳類でもないケースですね。例えば鮭。これも現実に有り得ますね。そして、やはりちょっとややこしいので、3行目と同様に、とりあえず大目に見て真として、これも現実と真理表の一致としましょうか。

さて、最後に、真理表の右側でP⊃Qを偽とされている2行目です。それは、鯨であって、哺乳類でないケース。現実世界では、有り得ないとされています。この場合には、現実世界において「これが鯨ならば、これは哺乳類である」という命題の真偽はどう扱われるでしょうか。

いや、ちょっと待って、現実世界で有り得ないケースということは、真理表と現実の一致の検証に該当しない、対象外、ということではないでしょうか。

それを、そのケースが現実の世界で有り得ないことを理由にして、P⊃Qを偽として、だから真理表と一致するとする。

それが管理人さんの手法、ということになりそうですね。

そしてそれが、命題論理学の立場からは、ナンセンス、それじゃ真理表じゃない、P⊃Qの真偽判定の何たるかを分かっていない、と批判されることになっているのではないでしょうか。

投稿: magagiok | 2013/10/29 20:19

エビ天サンバさま

陽根石、調べたら、分かりました。

ヒンドゥー教では、インダス文明までさかのぼると言われますが、なんと、シヴァ神のリンガに相当するものですね。

そして、道祖神のように、大きな樹木の下とか、辻のところに祭られていて、みな、一生懸命拝んでいます。

投稿: 管理人エム | 2013/10/29 10:24

肯定においてと置き換えて、
どう意味が変わるのか ?

変わらないところを考えてごらん

>   否定において、座り心地がよくなると  <

否定している自分を肯定できるならば、
それが 顛倒


この意味が分かるようになると、 禅定にいる

投稿:  春間 則廣  | 2013/10/29 10:16

エビ天サンバさま

>縄文時代の陽根石とか、道祖神とかのこととかも。

陽根石というのは、知りませんでした。
でも、分からないんですが、とても大事なことのように思います。

ヒンドゥー教の中にある民間信仰の部分に目が行くと、日本の中にある様々な風習や風俗と、不思議なほど共通しているように思われて、日本のことも知りたくなりますね。

宝の山に、わたしたちは住んでいる、

そんな気がしてきましたよ

投稿: 管理人エム | 2013/10/29 10:00

magagiok さま

>でも、現実にありえないことは、現実世界では真にはできないから、それは偽ということでいいんじゃないの、それが現実世界のルールだよね、ということでいいのでは。

ブッダ論理に落着っ 


本来、わたしが問題にしたこととは違うのですが、これはこれで、こうなるかな。

目は口ほどにものを言うように、「否定」というのは、「肯定」ほどにものを言うのです、みたいなところでおさまったでしょうか。

否定において、座り心地がよくなると、どんどんブッダの世界に行けるんだと思っています。

投稿: 管理人エム | 2013/10/29 09:51

命題論理学の真理表5(P⊃Q)は、理論上、

Pが真でQも真なら、P⊃Qは真となる(1行目)

Pが真でQが偽なら、P⊃Qは偽となる(2行目)

ということを示している。

当たり前ですよね。

さて、現実世界にその真理表が合致するか検討すると、Pが真でQが偽、という2行目が現実にありえないケースにおいては、ありえないのだから、それは真偽判定不能、ということになるのでは。

だから、ありえないケースなのでP⊃Qを偽と判定するのは、おかしい、ということになるのでは。

でも、現実にありえないことは、現実世界では真にはできないから、それは偽ということでいいんじゃないの、それが現実世界のルールだよね、ということでいいのでは。

そんなことを考えました。

投稿: magagiok | 2013/10/28 18:51

私のコメント読み返してみたら、私が勘違いして理解しているな、と思える部分が見つかったので、とりあえずコメント削除したかったのですが、それはできないようですので、とりあえずそのままで‥。

もうちょっと考えてみます。

投稿: magagiok | 2013/10/28 18:00

そして、イマジンブレーカーさんの出した例も興味深いですね。

P(北海道在住者)、Q(共産党員)。

これだと、2行目は、現実に有り得るケースになりますね。

北海道在住者であり、共産党員でないケースは、有り得ますよね。

そして、そのP⊃Q、北海道在住者ならば共産党員ではない、は真理表では偽ですよね。

有り得るけど偽になる。

なるほどと思いました。

しかし、やはり現実に照らすと、北海道在住者ならば共産党員でない、は偽ですよね。

北海道在住者が全て共産党に入らない、ということは、有り得ない、ですよね。

ということは、それは、現実には有り得ないから偽、ということになりますよね。

しかし、しかし、では、1行目のP⊃Qはどうなりますか。

北海道在住者ならば共産党員である。

これは現実に有り得るでしょうか。

真理表では当然に真ですよね。

北海道在住者が全て共産党員になるのは、現実には有り得ないですよね。

北海道在住者ならば共産党員である、は、現実には有り得ないから偽ですが、真理表では真です。

これは真理表を現実に適用できない例になりそうですね。

投稿: magagiok | 2013/10/28 13:53

道場でのイマジンブレーカーさんの一連の書き込みを読んでみました。現状では私はその半分ぐらいしか理解できていませんが、何を問題としているのかが、やっと私にも見えてきた気がします。

命題論理学の真理表は、理論上の定義に合致するかどうか、矛盾しないかどうかという基準で真偽判定されて作られている。

管理人さんは、その理論上の真理表が現実の事象に合致するかどうか、現実に適用できるかどうかを判定するために、現実の事象においてそれが有り得るかどうかを基準にして真偽判定している、ということだと私は理解しました。

管理人さんのそういうアプローチは、あり、だと私は思いますね。

ただ、管理人さんの説明は、言葉が不足していて、それを読む相手に、この人は命題論理学をちゃんと理解していないと感じさせてしまう、ということだと思えます。

もちろん、悪意で考えれば、管理人さんは、命題論理学を間違って理解していて、それが文章に現れたと考えられるとも思います。

いずれにしても、それは本題ではない気がしますね。

とりあえず私の理解は以下のとおりです。

命題論理学における真理表5(P⊃Q)の2行目は、Pが真でQが偽のときは、P⊃Q(PならばQ)という命題は、偽になる、なぜなら、P⊃Qは、PであるならQでもある、という定義だから、PだけどQではない、のは、PならばQの定義に反するから、ということを示している。

それは理論上、当然そうなる。

では、その理論上の真理表を現実の事象に照らしたらどうなるかを管理人さんは検証した。

そこでPに「これは鯨である」を入れ、Qに「これは哺乳類である」を入れて、現実に鯨を指した場合を考えた。

そうすると、真理表5の2行目のP⊃Qは、これが鯨ならばこれは哺乳類ではない、ということになるが、鯨であって哺乳類でないことは現実にはありえないので、この場合のP⊃Q、これが鯨ならばこれは哺乳類でない、は現実世界においても偽とされる。

1行目は、鯨であり、哺乳類であるケースだから、そのP⊃Q、これが鯨ならばこれは哺乳類であるは、現実に合致するから真理表と同じに真になる。

3行目と4行目のP⊃Qは、命題論理学では真とされているが、それは現実世界においては、必ず真だとは言えないが、しかし必ず偽だとも言えないケースなので、とりあえずは、真理表どおりに真という扱いでも問題ないだろう。(というより、それは現実生活では問題にならない)

よって、命題論理学の理論によって作られた真理表5(P⊃Q)は、現実に合致する。現実に適用できる。

と、そういうことを管理人さんは言いたかったのだろうと私は理解しました。

投稿: magagiok | 2013/10/28 13:04

記事色々拝読して、大乗、タントラ、山伏などについて考えていました。縄文時代の陽根石とか、道祖神とかのこととかも。五来重氏の『高野聖』、僕も読んでみよっと。

投稿: えび天サンバ | 2013/10/28 10:42

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