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2013年9月

2013/09/30

『サンガジャパン』Vol.15「戒律」とあれこれ

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『サンガジャパン』の新しい号がでましたので、
ここにご紹介します。

といっても、あまり読んでいないので、表紙だけです。

田口ランディ氏と佐藤剛裕氏の対談
「チベット密教修行と慈悲の行方」を
おもしろく読みかけているところです。

対談が生き生きしてますね。
知らないことがいっぱいあるので、
興味深く読んでいるところです。


特集の「戒律」は、五戒のお話しが多いですね。

わたしも、「五戒」について簡単にまとめています。
今回は、なんとなく、引き気味です。

どうも、「戒律」となると、
居心地が悪い感じがしてくるのは、
そもそも、戒律的でない人生を送っているからでしょうか。

戒律的に、一番興味のあるのは、

「嘘をつかない」という戒律です。

どう語ると、「嘘をつかないことになるのか」というのが

わたしの、人生のテーマのような気がします。

って、こんなにこだわったら、そもそも戒律にならん、
って気もしてきますね。

ネコに小判
わたしに戒律

そういえば、
うちのネコは、「アンタが、戒律」っていうくらい

戒律にきびしいのです。

えさの時間は、絶対厳守。。って、いうより、どんどん早まる。
えさを忘れるな!時間だ、時間だ!って、ニャーニャー

うるさいぞ。戒律にゃんこ


          ◇◇◇


土曜と日曜は、札幌でスマ長老さまの冥想会があって、
そちらに出席していました。

一年ぶりで、長老さまにお会いしたら、
痩せられて、健康になっておられました。

「おやせになりましたね」
「塩をやめたんですよ。あたらしいしゅーきょーをはじめました。
塩断教(えんだんきょう)というのです」


わはは、いいかも。


塩断教の他に、もう一つ新しい言葉がありました。。

「冥想」というのは、あたってないので、
「脳開発プログラム」と呼びます。

なるほど、だんだん、しっくりしてきました。
そうだ、これなら、「今っぽい」

たしかに、

仏教的冥想というより、脳開発プログラムかもしれない。。

自然に変容していく仏教のすがた

その中にある、ブッダの教えは変わらない。。

すごく、不思議な感じがします。

2500年前の、インドの沙門たちが、この世に現れて
「脳開発プログラム」の教えを受けたら、
なんて言うのでしょうか?

2500年前の「脳開発プログラム」(=冥想)って
どんなでしょう?

たぶん、かれらは「脳」にはそんなに気づいてないかもしれないですよね。

すごく違っているんでしょうね。
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      ◇◇◇

ちょっと書いてもいいかな。
秘密かな。

会の中で質問が出て、仏教は、偶然論か必然論かというお話しがありました。

長老さまの答え:

偶然ではない (因果を説くから)

しかし

必然ではない (○○だから)

むずかしいけれども、「中道」という立場というのです。

○○は、ちょっとわたしも聞き逃したので。
後から考えると、長老さまは
条件法だから、という気持ちだったのかもしれないと思いました。

このようなご説明の後、
部屋に戻って、「必然ではない」というところ、
どのように思うか、お聞きになりました。

「<これ>がないとき <かれ>がない」のように
「<これ>がないとき」というのだから、条件があって成り立つので、

運命論や決定論には行かない

という風にお考えでした。

わたしも、同じように思ったのですが、

「行(意志)」ということを思いました。

意志が働くとき、運命論や決定論にはいかないように見えます。
しかし、その「行」もまた、「縁起」の理法の内にあります。

「何であれ、生ずる性質のものは滅する性質である」

というけれども、それは、法の眼としての大枠で、
「行」がいつ滅するかは、決まらない

というように、思って、そのように言いましたら

「生ずるものは、瞬時に滅する」と長老さまはおっしゃったので、

「ああ、そうだった、それが、上座部の教えだった」と
心の中で思いました。

では、「行の相続」が、いつ滅するのかわからない、

というのでもいいんだ、と思ったので、

そのまま、それで納得しました。

長老さまが、引っかかったのは、
「縁」(『サンユッタ・ニカーヤ』12.20)という経典の

「あるがままであること)」、
「あるがままを離れないこと」、
「異ならざること」、
「これに縁ること」

と、縁起の関係を規定している「ここ」だったと思います。

これは、この世の見方なのですが、
それは、ずっとそのようなあり方として見えるのであって、

固定的な「事態」として(定まって)あるのではなく

関係のあり方として(定まって)ある

と見ることだと、思ったので、
そのようなことを言おうとして、わたしももがきました。

たぶん、条件法という言い方でいいのだと思います。

だから、運命論でもなく決定論でもない

言えるのは、「今」についてだけ
未来のことは、「未来形でかたる」

これが、ブッダの法で、良いのだろうと思います。

こんな雑談をしていました。
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こんな話をして、うちに帰ってきて、
今、思うんですけど、

「般若心経は間違いでない?」の記事で使ったのが、
「縁」という経典だったんですよね。

なんか、もしかして。。。
どこかで、
無意識世界の中で、わたしと長老さまは、

『般若心経』の話も、してたんでしょうか?

ぜんぜん、そのときは、意識にものぼらなかったんですけど。
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なんか、長老さまって、おもしろいですね。

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2013/09/21

見えないものが見えてくる日。。

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おみなえしは、毎年、この場所に咲いています。
今年も、同じ場所に、咲いているけど、どうもいつもより花の数が少ないですね。

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今年も、だいたい同じ場所に落ちてる栗。
やっぱり、青いのが落ちてるけど、どうもいつもより小さいですね。

           ◇◇◇ 

今年は、山のドングリが不作だそうです。

って、ことは、クマが近隣にも出てくるってことですよ。。
一応、札幌は、都会ってことになっているので

こんな都会に、クマなんて!

と言っていましたが、どんな都会だろうが、何だろうが、
えさがなければ、クマは出るのです。

大型スーパーの駐車場をクマが歩いていたり、
幹線道路を横切っていったり、
去年は、ずいぶんいろいろなところに出没しました。
今年も、クマったことが、起こらなければよいけどね。

それにしても、

クマもたいへんです、人もたいへんだけど。
生きていくのは、お互い、たいへんだよね。

          ◇◇◇

狭い地球で、70億の人間と他の生き物たちが
みんな平和に共存するのは、たいへんです。

海に放出された放射能は、どこに行くんでしょうか。
しみ込んだ汚染水はどうなるのでしょう。

昨日、学校に行く道すがら、話しをしました。

「震災のとき、アメリカの海岸にサッカーボールとか流れ着きましたよね。
あれ、アメリカまで流れ着いてしまうなら、
同じように流れた放射能は、どうなっているんでしょう?」

「アンダーコントロール(制御下にある)って、
いうのは、
アンダーは、アンダーでも、土の下、ってことでしょうか」

見えないものが、見えないところに行ってしまうように思われるのは、
きっと錯覚でしょう。

見えないものを海に流して、土にしみ込ませて、
どうなるのだろうと、思います。

やがて、それが、現実に見えてくる日がやって来るのではないでしょうか。

あらゆる生き物たちが生きていくためには
見えないものが、現実に見えてくる前に手を打たねばならないだろうと、
思われてなりません。

因果のことわりを知るならば。

多くの人が、自分のことだと思って、関心をもつようになることが、
まずは、必要かなと思っています。

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善い方向に向かうように
あきらめずに
関心をもって行動していきたいです。。

って、思う今日この頃。


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2013/09/12

さっそくですが、秋っ!

どうして、こうも 月日の経つのは早いのだろうか。
とうとう 9月だ、と思っていたら、あっという間に、もう12日。。。

ああ、そろそろ雪が降るかもしれない季節。。
ってのは、さすがに気が早いかもしれないけど、
最近のお天気は、ぜんぜんわからないからなぁ。

だって、ほら、ナナカマドの実がもう赤いでしょ。
どう見ても、秋だ、って言ってるよね。
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ほら、空が高くて、雲は筋雲、秋の空でしょ。
やっぱり、冬に向かってるよね、ちゃくちゃくと。
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        ◇◇◇


どうも、最近、原始仏典を読んでいると、
自分のまわりで、いろんな人達が経典の中から立ち上がって、
話を始めだす気がしてならない。

とくに、バラモンたちとの対話とか、
ふつうの人々が出ている経典を読むと、

かれらが、わいわいがやがや、ブッダの噂話をしたり、
教えの話や、日常生活のできごとを語り合ったり、
ブッダに相談事を持ちかけたり、
とても、人間的な雰囲気がただよってくる。

たぶん、ブッダは、ものすごく尊敬はされていたと思うけど、

でも、経典に登場してくる人物が、
ものすごくざっくばらんで気さくに、ブッダに話しかけているのが、
何とも言えず、ほほえましくていい。

非常に素朴な疑問から、ちょっとむずかしい問題まで、
何でも、ブッダに尋ねて、

それに、きちんと答えてるブッダは、何だか、
とっても、かわいらしい。。。。変な形容だけど。

村人や町の住人、都市の人々、
偉い人も、偉くない人も、
貧乏な人も、金持ちも、
王様も、下働きの使用人も、

み~んな、ブッダとお話してる。。。

考えてみれば、なんとなく、すごいことだ。

誰とでも、話ができる、っていうのは、いいね。


みんなが、ブッダを大好きだった、ってのが、よくわかるよね。


        ◇◇◇


お布施を一生懸命しているマーガ青年は、
どんな人に供物をささげると、その供物は清らかになるのか、たずねます。

いくつもの偈を重ねて、
こんな人々にささげなさいと、丁寧に丁寧に答えるブッダ。

すっかり喜んじゃったマーガ青年は、
どんどんたずねます。
「誰が清らかになって解脱するのですか」
「誰が縛せらレ縷のですか」
「何によって人はみずから梵天界に至るのですか」

もう、聞きすぎ、ですっ、言いたくなるほど、止まりません。
でも、ブッダは、ぜんぜん気にせずやっぱり答えてくれるのです。

また、

サビヤという行者さんは、六師外道の先生方に質問をしたのですが、
かれらは満足に答えることができませんでした。

で、年若いブッダにも、たずねてみようと思います。

「修行僧」とは何をえた人のことか
「温和な人」には何によってなるのか
「自己を制した人」とはどうしたらなれるのか
「目覚めた人」とLはどうして呼ばれるのか

次から次に質問しまくります。

全部 『スッタニパータ』という経典に載っていることです。

たくさんの人から質問されて、

どれにも、丁寧にしっかり答えるブッダ。。
そんな質問、答えられない、なんて言わないブッダ。
満足するまで、こたえてくれるブッダ。。。

いいですねぇ。

こんな人に、会えたらなあ。。
こんなお花をささげましょう。
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だけど、いくら質問できても、

ちゃんと聞く耳を持たなくては、

何もならないけど。。。ね。

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2013/09/03

『廻諍論』と「犀経」と、そして、善き友

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庭のカボチャを収穫しました。

どこから見てもカボチャです。
よくこんな大きなものができたなあ、と。。
肥料も何もやらずに、ほったらかしで。

割ってみます。どきどき。
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おお、カボチャですね。

煮て食べてみたら、ふつうにカボチャでした。
ほくほくして、まあ、けっこうおいしい。。。

売ってるカボチャのようで、ほんとに不思議です。


庭の異常さも、少し、これで緩和された感があります。


           ◇◇◇


さて、ほんとに、

zapoさまには、心から深い感謝をささげます。
道場での議論、ほんとにどうもありがとうございます。

たいへんだったと思いますが。。
こちらも、ほんとに、たいへんでしたが、
わたしは、どこかに着地したような感じがあります。

いろいろ教えていただいてありがとうございました。


          ◇◇◇


『スッタニパータ』の第一章 蛇の章 の中の第三番目
「犀」という経典があります。

これは、「犀の角」という題で、一般には知られるものです。
『ブッダのことば』(岩波文庫)にも、そのように訳されています。

カッガ・ヴィシャーナ ということばが、原語です。

カッガ: 刀
ヴィシャーナ: 角

ということなのですが、「刀の(ような)角をもつもの」ということで、
これ全体で、「犀」を意味するのだ
と、スマナサーラ長老さまが語っています。

http://www.geocities.jp/dhammini131/howa375.html

長年、伝統的に「犀の角」と訳されてきて、
かなりなじんでしまったことばですが、
おっしゃるように、
「犀の角」というより、
「犀」と訳した方が、ブッダの説くところはよくわかります。

なので、「犀のように」と訳していきましょう。

さて、この「犀」という経典は、
「犀のように、ただ、一人行じなさい」という定型句が
最後におかれるもので、非常によく読まれている経典です。

その経典をずっと読みながら、

「ただ一人行じなさい」

という意味を噛みしめておりました。


この経典は、全部で40の偈からなっています。
単純に読むと、「一人で行じなさい」「一人で行きなさい」
と言っているのです

たとえば、最初の偈です
===
35. あらゆる生き物に対して刀杖を下に置き(=暴力をふるうことなく)、
それらのいずれをも害することなく、子を欲しないようにしなさい。
まして、どうして仲間がいるだろうか。
犀のように、ただ一人行じなさい。
===

「不殺生」の戒めが、ここで説かれ、
子を求めたり、仲間を求めていくことがないように、
と説かれます。

一人行じなさい、ということばに、
厳しさを感じでしまうのです

が、

実は、一つだけ、定型句のない偈があります。
第45偈です。

===
45.もし、智慧ある者で、共に行を行い、善く住する、
賢明なる者を友としたならば、
あらゆる危難に打ち勝って、心に満足をもって、
気づきをそなえて、かれとともに行じなさい。
===

ここ読みますと、わかることは、

「犀のように、ただ一人行じなさい」

というのは、
現実的に、物理的に、「ただ一人で行く」という意味でない
ということだと、明らかになりますね。

賢明な者を友とするとき
かれとともに行きなさい

と述べているのを知るのです。

この経典は、まとめると、こんなことを述べているのだ
と知ります。

すなわち
====☆☆☆☆====
賢明な者を友として、かれと行きなさい
もし、そのような者がいないなら
犀のように、一人で行きなさい
====☆☆☆☆====
ということが、説かれているのだと知るのです。

経典の、何度もくりかえされる

「犀のように、ただ一人行じなさい」

ということばに、非常に厳しいイメージをもつのですが、
善き友を得て行く道を、合わせて説く、この経典は、
ほんとうは、とても優しい経典です。

そして、ここを言いたいのです。
ここを通過したのが、龍樹だなあという、
そんな気がする偈です。

===
55 見解の悶着を脱して、決定を得て、道にいたり、
「わたしに智が生じた。他の人によって導かれる必要はない」として、
犀のように、ただ一人行じなさい。
===

ちょうど、ここに、『廻諍論』が置かれていると思います。
「諍論から逃れていく、回避していく」という論が、
『廻諍論』ではないでしょうか。

さらに、見ましょう。「犀」の経典は、こうも語ります。

====
58 弁才があって、広く豊かで、多くを聞いた、
法を保っている友に親しみ近づきなさい。
さまざまなことがらを知って、疑いを調伏しなさい。
犀のように、ただ一人行じなさい
====

善き友を得て、いっしょに行くとしても、
親しく近づいて交流するとしても、
最後は、やはり、
犀のように、ただ一人行ずることを忘れてはいけない

ということでしょうか。

諍論を乗り越えて行く道を示して、
ブッダは語りかけていますね。
議論や討論がそれ自体で虚しいのではなく、

大いに討論して乗り越えるとき、

それらを語りあえる善き友に出会うことは

道のすべてである

と言えると思います。
これも、ブッダが、アーナンダに語ったことばです。

「アーナンダよ、よき友情をもち、よき仲間をもち、
よき交遊を有するということは、
これは聖なる修行のなかばではなくして、
そのすべてである」(『サンユッタ・ニカーヤ』45.2 増谷先生訳)

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