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2013/03/27

『サンガジャパン』Vol.13  「言語と仏教」

Samjap13_big

『サンガジャパン』Vol.13  は「言語と仏教」という特集です。


         ことば

         ロゴス

この点について、また、龍樹の語法を書きました。
題名は、ちょっと長くて


★幸せになるための「ことばの使い方」
ブッダの法を守った龍樹によることばの自性と「空」の論理


というのです。

龍樹の説くものの中で、もっともインパクトのある語法

「言失」を

徹底させたい、と思って、書いたのです。


これは、「空」に直結する内容です。


「空」ということばについて、

それは、 思想だ と言ってみたり
       哲理だ と言ってみたりしたのですが

今回は、はっきりと
       論理だ と明言しました。


論理  というのは、 形式(枠組み) のことなので、
口でいくら説明しても、さっぱりピンとこないところがあります。

空の解説が、わかったような、わからないような、
なんだかわからないものになるのは
空が、論理だ としっかりつかまえていないからかもしれません。

なので、

論理としての「ことばは空」 を
説明したいと思ったのです。

それは、どのように使われると、「ことばは空」といえるのか
という問題です。

           ◇◇◇


龍樹とブッダのことばの使い方 が、 
「ことばは空」の理想の実践です。

では、どんな風に使うのでしょうか?

==============
それはね、他人のためになっているとき、
「ことばは空」なんだよ

他人の利益のために、使われることばは、
みな、空なのさ。。
=============

こういうお話しを書いてみました。

「言失」は、「空」の論理を支える
大事な運用規則です。


「ことばをくりかえすこと」は、
「言失」という
ことばを使用する上での欠陥である。
「空」の論理が行き渡るところは、
ことばは繰り返されない!

そのことを
今回、この場をかりて、しっかり書きました。


          ◇◇◇

さて、「言語と仏教」について、たくさんの論考がありますが、

今回、迫力のある、読みごたえのあるものは

  藤本晃氏の、ふたつの作品でした。 よかったですよ、とっても。


★自力と他力

親鸞の教えを、ブッダの説く法につながるものとして
きちんと位置づけようと、熱い心で
語る姿には、感銘を受けます。
日本仏教の危機についても、熱く語ります。

★「妙好人」源佐は預流果を悟っていたか

こちらは、妙好人源佐の、素朴とも言えることばから、
伝わってくるものを、確実にキャッチして
それを、ブッダの教えと引き比べてみようという

そんな途方もないような企てを試みる論考ですが、
きっと、多くの読者の共感を呼ぶと思います。

そして、藤本氏の論考そのものの中に
「空」の論理が、生き生きと息づいています。

藤本氏が、このような試みをできるのも、
仏教のことばの使い方が、「空」を論理としているからだと思います。

考察の結果

「(源佐が)預流果に悟ったと断定することは困難であっても、
源佐の生き方と一生涯をかけた導きは、
お釈迦様の時代の預流者たちのそれに勝るとも劣らない、
大いに尊敬し学ぶべきものです」(p.126)

と藤本氏は確信しています。


それは、わたしの論考「幸せになるための「ことばの使い方」」の
最後に書いた部分と、深く通じているように思われてなりません。


「今日に至るまで、ブッダの法は人々に合わせてさまざまな仕方で、
自由自在に語られています。その行為の中にこそ、
ブッダの法が生きているのです」(p。101)


源佐の語ることばの中に、ブッダの法が息づいていることを、
藤本氏は、たしかに見てとったのだと思います。


ブッダの法は、今も、形を変えことばを変えて、
信ずる人の語ることばの行為の中に、生きています。


            ◇◇◇


「空」はいいね! ほんとにいい!

一つは、ことばの中身をカラッポにできること。
そして、そこに自由に名づけられること、意味づけられること。
そして、それをできるための制約は、利他のみ。

このように使われるとき、
ことばは生きている。


●他人のためになる行為だったら、どんなことばを使ってもよい。


この大胆な教えが、「空」のろんりであ~る。


だんだん、話が大胆になるわたし。。。空言だって、言わないでくれぇ

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にゃんか、言ったっすか。。お皿も空なんですけど。。
エサがないと、寝るしかないすよぉ。。


       

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コメント

前世は一在家さま みなさま

こんばんは。みなさま、盛り上がっていますね。
すっかり、出遅れて、読む方に専門です。

>大智度論の「四悉壇」ですね。
>また分かり易くご解説いただければ幸甚に存じます。

四悉檀ですね。ここは、わたし、ちょっと自信があります(笑)。
『方便心論』の中に、「シッダーンタ」ということばが出てくるのですが、これが、『チャラカ・サンヒター』という医学書の中の論理学の記述の中にあることばなのです。
悉檀は、このシッダーンタ(究極のことがら、または、定説)を音写したものと思います。

それを生かしながら、龍樹は、独自に仏法の中にある「執って語る語り方」の4種をまとめているのです。

その『方便心論』にある4種と、『大智度論』にある4種の悉檀とは、内容的に対応しているのではないかと思っています。『龍樹と語れ』のp.204以下に説いています。くわしく知りたい場合は、拙著でお確かめください。

ですが、

この四悉檀の内容については、ブログの中で、少し書いてみますね。

どうなりますか、わかりませんけど、ちょっと挑戦してみます。

ちなみに、『大智度論』が龍樹作だと確信したのも、この四悉檀の内容にふれたときです。

投稿: 管理人エム | 2013/03/31 20:55

藤本先生 こんばんはっ!

すばらしい論考を二つも、ありがとうございます。

やっぱり、ゾクゾクしましたか。。それは、悪寒ですね、まさしく 
わたしも、読んでゾクゾクしました。こちらは、悪寒ではなく、感動のゾクゾクです 

つたない解説も誉めていただいてすみません。
ぜんぜんあたってないじゃん、とか言われたらどうしよう、と、ちらっと思ったのですが、
誉めていただいて、よかったです、ほ。

今日も、ちらちら雪が降っていました。
ネコ二匹だけは、ぬくぬくしています。
わざわざコメントありがとうございます。

これからも、拝読するのを楽しみにしています!
ご活躍くださいませっ!

投稿: 管理人エム | 2013/03/31 20:39

 ご無沙汰しております。藤本晃です。
『サンガジャパン』誌での先生のご論考を楽しみに拝読しております。

 なんだか背中がゾクゾク(悪寒?)して久々にこちらを開けてみれば、身に余るお褒めの言葉を発見! 恐縮しております。

 それにしても、数学も論理もできない私の駄文&駄論述をこのようにすっきり解説してくださるとは、恐れ入りました。ありがとうございます。
 玉石混交の「般若経」の内容などから鮮やかに真理を語った龍樹菩薩も真っ青?ですね。

 先生の慧眼と慈悲とユーモアと、わずかにでも私にもあればなあと、ないものねだりの今日この頃です。

 今年はことのほか寒さが続きますね。北海道の大変さもビジュアルに伝わります。先生も猫ちゃんたちご家族も、お体にもお気をつけくださいますように。

投稿: 藤本晃 | 2013/03/31 19:28

>自分の理解を信じるという信。
>自分の理解した範囲を受けいれるという覚悟。

そうなると私も思います。

そして、覚悟する、という意識が必要のない、子供のように素直に信じる、ということになれたらなあ、なんて思います。

チューラパンタカは、そうだったんだろうなあ、と思います。

投稿: magagiok | 2013/03/30 04:35

magagiokさま、

将来、もしかして騙されるかもしれないけれど、
今は、まだわからない。

そこで「信」、なのだと思います。

自分の理解を信じるという信。
自分の理解した範囲を受けいれるという覚悟。

(これは私個人の理解ということで)

投稿: おちゃらけ | 2013/03/29 22:02

>理解した上で騙されるのは、騙されること???

言葉の上では、理解した上で騙される、だから、騙される、ですよね。

それが、騙される、でないなら、理解した上だから騙されていない、という表現になるのでしょうね。

理解の中身が問題になりそうですね。

騙されている可能性があることを理解した上で、その可能性を完全に排除して信じることにした、ということなら、理解した上で騙される、ということになると思います。

騙されている可能性を排除せずに、半信半疑なら、理解した上だから騙されていない、ということになりそうな気がします。


投稿: magagiok | 2013/03/29 21:48

ミチ先生、住人各位、こん**は。

>●他人のためになる行為だったら、どんなことばを使ってもよい。

この文章を見て最初に思い出したのは、大智度論の「四悉壇」ですね。
また分かり易くご解説いただければ幸甚に存じます。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/29 20:54

magagiokさま、こんにちは。

> 本当に覚悟が大事なのでしょうね。

なぜ?なのか、わかりませんが、magagiokさまがおっしゃる「本当に…」は本当の事をおっしゃってるんだなぁ、と思います。

おしゃかさまが鵜呑みにしないで自分で確かめなさい、とおっしゃったのは、妄信ではなく、必ず自分でちゃんと理解しなさいとうこことです、というのをどこかで読んですごく納得したことがありました。

magagiokさまの「本当に…」はちゃんと実感されてる感じが伝わります。

となると、

> 信じる、ということには、たとえ騙されていたとしても構わない、私には他に道がないのだから、という覚悟が必要な気がします。

ちゃんと理解した上ならば、「騙される」ということはないかもしれません。騙されるというより「それでも受けいれるよ」なのかもです。

理解した上で騙されるのは、騙されること???


> ばれない嘘がつけるなら‥。でも、悟っていない我々には、無理なのでしょうね。気付かれてしまうのでしょうね。

ばれないウソがないならば、
真実はちゃんとあきらかになるさ、ってことかもです。

検証せずして妄信する…のでななく、
検証して、実感して、理解する。

それは右往左往するのではなく、自分の信(理解)を信じることでもあるので。

投稿: おちゃらけ | 2013/03/29 19:42

>言う覚悟が必要なのか、聞く覚悟が必要なのか

本当に覚悟が大事なのでしょうね。

信じる、ということには、たとえ騙されていたとしても構わない、私には他に道がないのだから、という覚悟が必要な気がします。

>もしも、生死にかかわる病の告知とかだったら?

ばれない嘘がつけるなら‥。でも、悟っていない我々には、無理なのでしょうね。気付かれてしまうのでしょうね。

投稿: magagiok | 2013/03/29 09:26

読めるから 善哉

読んで 考 が 得られる から 善哉

あなたに信をおくから 善哉


定義 と 記述 は 階梯が違う !

定義があって、
その枠に閉じこもって、記述するから、
自由という 平等 の 土台に外れる わけです
(どのように外れているかが、曖昧な状態)


何を欠いても自由

書く事を書かなければ、自由を欠いている
何を書くべきかは、
“覚” を 書く
欠く べき事 を 顛倒せずに 選択する
(選択はいいけれど、両手のどちらかが、選択されて顕わされる)

好きにしなさい !

それ(?) が 、 “ 怠りなき精進 ” の 意味です

心配して、記述しているのではありません

安心 して 共に安楽への道を歩もうとして
書き込んでいるのです

信頼が根底です


あなたが 皆を信頼しているように、
わたしの信頼は、ソコカシコ にある
         ( 怖くないのが不思議です  )
ここに、このように、 あなたの 信頼があるけれど、
どのような信頼 か 、
定義せず(根拠を持たず) 記述できますか ?

ソウシタ ところで、根拠がない ! 
( 定義にかかる 定義は 入用 ? )

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/29 08:41

>往生するよ !

ああ、やっぱり。

>君の定義が 傷つけること は 何かな ?

定義じゃなくて、記述であります。

定義なら。。いろいろズダボロですね。
記述でも、似たようなものかな。。

ま、地獄、行きたいし
(やけだ、管理人)
 

投稿: 管理人エム | 2013/03/29 02:10

仕事を辞めた知人が家族にそれを言いたくなくて(または言えなくて)、毎朝毎朝時間に起きて仕事に行く格好をして家を出て一日中ブラブラと時間をつぶしていたんだ、、、というのを聞いたことがありました。

言う覚悟が必要なのか、聞く覚悟が必要なのか
言わせるべきか、聞かせるべきか

もしも、生死にかかわる病の告知とかだったら?

真実 と ウソ
言う と 聞く

利他はむずかしいですね。。。

言う者も、聞く者も
真実でも、ウソでも
どちらも、どちらでも
「事実」を負う覚悟が必要なときがありますです。

覚悟ができないとき、人は願うとか祈るとか、
「他はない」かも…

ウソがイヤならば
願いがウソにならないような覚悟が必要ですねぇ。。。

他がなければ、決断はひとつ。

投稿: おちゃらけ | 2013/03/28 14:19

>わたしは、経典は事実の記録と確信しています。

確信できたのは幸いなことだと思います。

投稿: magagiok | 2013/03/28 13:05

往生するよ !

往生すれば、傷つきは存在しない ???

気づ付き やすい人 の
傷つき方に おいて 、、、、

同乗するかな ?
傷つく事 に 顛倒する人に 、、、

同情 という ジョウ(表層)に流される 、、、、

痴(=智) を 掉さすと、竿がまるで、角のような “情”景 になる


傷ついているかな ?
顛倒していても 、、、、
( 傷つくという事を顛倒する )

( 迷誤にあって、傷つく を 定義する )

君の定義が 傷つけること は 何かな ?

定義する事によって、
その定義にしたがって、サンスカーラを積んでいく

その積まれる、中に積み上げられる
君の定義の傷つく事 が 引きずって行を積む 、、、、

その定義にしたがって、傷つけないようにする事によって、
傷つくことはないのかな ?

気付かなければ、
それまで 、、、、
気付かないままに、 行 は 流されていく 、、、、

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/28 12:49

>キヅイテ イナイヒト は キズツク という事を知らない

知らないわけでもないかもしれません。

千人殺せば、往生できる

もしかしたら、千人殺しているかもしれない。。気づいたとき、往生してたら、キズツクと思います。キヅイテ イナイヒト だった自分。

===
人を傷つけまいと思って
真実を語らないことが いつも 不実になる というわけでもない。

語らないことによって、その中に、もう一つの真実がひそんでいるから。


こういうのは、どうでしょう。

投稿: 管理人エム | 2013/03/28 11:00

>悟ったら、経典に書かれていることが全て事実かどうか分かるのでしょうね。

悟ってもわかるかもしれませんが、悟らなくてもわかるようにも思います。

わたしは、経典は事実の記録と確信しています。

ものごとには、起こることと起こらないことがあります。
起こることは書かれますが、起こらないことは書かれません。書かれていることが、ふつうには起こらないようなことであっても、書かれていることによって、それは、起こったのだ、と思います。

そして、確かめることもできます。

「煩悩がなくなった」と書いてあって、煩悩がなくなっていることが、経典中に起こっていれば、それは、そうなんだと、納得します。

自分に煩悩があるので、ないことが起これば、それに気づきます。自分とちがうから。
(自分なら、こう書けないや、って思う)

煩悩あって善かった。。。経典の真実がわかるわ
って、それはないかな 

投稿: 管理人エム | 2013/03/28 10:16

悟ったら、経典に書かれていることが全て事実かどうか分かるのでしょうね。

でも、悟ったら、経典が全て事実かどうかを気にする自分はいないのでしょうね。

そして、悟っていない相手に応じて、真理を如何様にでも語るようになる、そう思います。

投稿: magagiok | 2013/03/28 09:15

>私は、自分で、確かめたいです。
>真実を自分で知りたいっ!

同感です。

投稿: magagiok | 2013/03/28 08:57

02:48 への 返答 8.42

> その人を傷つけることをおそれるなら、

あなたの “恐れる” 傷つき方です
キズイタ ひとは キズツカナイ
キヅイテ イナイヒト は キズツク という事を知らない
( あなたの “恐れる” 傷つき方です )

イエスは 傷ついては いない ( 不死にある )

命の “生きよう” = “生き様” = 息吹 を知ると、
最後に引きとる息から、新しい呼吸が始まる  とわかる 、、、、
クンパカ は その直ぐ近くにあります
( 止息 ではない のです 、、、、 )

大地の呼吸と一体になると、
命の呼吸のありようを知る

傷つくことを恐れることはない ( これが「 二の矢の喩 」 です )

言わなきゃだめだと思って言うことと、
思わず言うこととの間に、
何等差異はありません

人における差異がないように、ない  ということです

その差異を見つける人に、論ずる差異があるだけです

こういうふうに、
全て関連をつけることができないと、
ジショウ  を 如実に見ることはできないのです

“何かの為” という 目的をおくのが許されるのは
こういう事を知るための “瞑想” が 
働きを得る場所にある時だけです

歎異抄 13
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/tanni/tanni-13.htm

思いというモノは、
仏にあるモノ以外は煩悩なのです

(わたしの) “この” 思いが、煩悩かどうかを検証すれば、
綴られていることが真実かどうかが分かるように作ってあります

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/28 08:43

>事実のみを語るという言葉を信じることは、それも理に適っていると私は思います。

私は、自分で、確かめたいです。

真実を自分で知りたいっ!


でも、まあ、確かに、四聖諦は、苦集滅道で、まずは、その諦(真理?)ですね。

投稿: きのこ | 2013/03/28 07:13

説いている内容が理に適っていて、実践である程度それを検証も出来たから、事実のみを語るという言葉を信じることは、理に適っていると思います。

投稿: magagiok | 2013/03/28 07:08

きのこさん、おはようございます。

こちらこそ、いつもありがとうございます。

事実のみを語るという言葉を信じることは、それも理に適っていると私は思います。

投稿: magagiok | 2013/03/28 06:57

釈迦は実は悟っていない、と解釈する人もいるようですね。

それで納得できる人は、それでいいと思います。

それで納得できるなら、その人には何も問題ないでしょう。

問題なのは、他者のそういう解釈を気にする自分、ということになりそうです。

事実のみを語る、という言葉を信じようとすることは、その人にとって何も問題ないと思います。

自分の信じるところを他者にも信じさせようとすると、非論理的な言い争いになる場合が多いですよね。

投稿: magagiok | 2013/03/28 06:50

わ、また、送信ボタン押してしまいました〜
アホアホ〜(^^;;

と、思ったら、magさん、おはようございます。


実は、前に、magさんと、輪廻からの解脱のことで、そういう会話をしていて、だから、先生の文章から、すぐにウソに私の頭の中で勝手に結び付けちゃったのだと思います。先生、ごめんなさいm(_ _)m

私はその時、もし輪廻の真相を知らないのなら、輪廻からの解脱なんて、言わないでっ、って、私の頭の中の妄想の釈尊にそんな気持ちになっていました。

magさんへ。
私は釈尊の言うことを全部盲信したくなるような釈尊好きなんですけど^^;、magさんと会話してもらったりする中で、「盲信あかんな、とか、自己責任、とか、それぞれの人にそれぞれの考え方があるんだな、」とか、すごく大事なことをいっぱい学べてきたと思っています。
感謝しています。ありがとうございます。


大事なのは、その人の実際に役に立つかどうかですね。
お釈迦さまも経典で、役に立つかどうかにポイント置かれていますね。

では、失礼します。

投稿: きのこ | 2013/03/28 06:35

わ、途中なのに、間違えて送信ボタン押してしまいました^^;

えっと、先のコメントの続きです。

例えば、私は、悟りたくて釈尊の話を聞いてるつもりなんですけど、

釈尊自身が、悟りの境地を知らないのに、「悟れるよ。この方法したらいいんだよ。」って、本当は知らないのに、ウソも方便みたいに、堂々と説法してたら、すごく悲しいと思って、ウソつきの釈尊だったらいやだよぅ、と、初めのコメントを書きました。

投稿: きのこ | 2013/03/28 06:18

絶対にばれない嘘は、嘘と言えるでしょうか。それが嘘だと絶対にばれないのに。

でも、嘘だと分かって傷つくことが多いから、嘘はつかれたくない、と思うのですよね。例えば浮気の嘘とか。

しかし、嘘だということが後で分かっても、それでよかったと思えるようなら、そんな嘘なら許せる、あるいは感謝するのではないでしょうか。そのときは、あれは嘘ではない、あのときの私の真実だった、と思えるのでは。

投稿: magagiok | 2013/03/28 06:17

エム先生へ

ありがとうございます。

経典が、本当に釈尊が語った内容とした時、

先生が書いてくださったように
>でも、わかることがあります。自分が真実だと思っていて、それとちがうことを言うか、言わないか、という、自分についてのことは、はっきりとわかります。
>たぶん「ウソをつかれたくない」のは、事実かどうかというより、その人が、真実と思っていることとはっきりちがうことを、だます意味でいうことですよね。

その意味で、釈尊がウソ言ってるとしたら、と、想像すると、悲しくなりました。

事実かどうか、というより、もし、それが真実でなくても、釈尊が自分で思い込んで人々の幸福を願って指導したことなら、私は、釈尊の発言が事実とすれ違っていても、(私の場合は)まったく気にしません。
信じたのは、私です。

でも、釈尊が、自分で事実とも思ってないことを、あるいは、断定的に

投稿: きのこ | 2013/03/28 06:12

相手にすぐに嘘とばれて、相手を傷つけるようなことでは、それでは方便にならないですよね。

そのときは相手がそれを事実だと受けとめて、相手の役に立つから、それが方便になるのですよね。

投稿: magagiok | 2013/03/28 06:03

事実のみを語る、と言った人が説いたこと(例えば輪廻)は、全て事実だ、というのは、事実のみを語ると言ったことを信じているからですよね。

事実のみを語る、というのが方便で、場合によっては事実でないことを語る、と解釈する人にとっては、事実のみを語ると言った人の説いたことには、事実ではない方便もある、と解釈するでしょう。

投稿: magagiok | 2013/03/28 05:55

きのこさま

スマ長老さまの「事実」とあるのは、「あるがまま」ということかな?

きのこさまのいう「ウソ」はなんだろ?

わたしね、ウソはどうしてもつけないようになってるのが、縁起の成り立つ世界なんじゃないか、と思うのです。

その人が傷つくかもしれないけど、その人のためになる!と思うなら、言うと思います。もう言わなきゃだめだ、と思って、言うと思います。

その人を傷つけることをおそれるなら、その人のために言わないと思います。いつかわかるかもしれないけど、それは今じゃない、と判断します。今なら、その人は、たえきれないかもしれないと思うからです。ウソを言うのではなく、「真実を言わない」を選択するのです。

===
あきらかなウソをつけば、誰でも傷つくだろうと思います。
というか、自分が、そもそも傷ついてしまうかも。

やっていないのにやっています、という。
やっているのに、やっていない、という。
===

だけど、何が真実なのだろう?
自分が真実だと思うことについて、上のようなことをいろいろ悩むわけですが、そもそも、自分の真実なんて、ほんとに真実かどうかわかりません。

でも、わかることがあります。自分が真実だと思っていて、それとちがうことを言うか、言わないか、という、自分についてのことは、はっきりとわかります。

たぶん「ウソをつかれたくない」のは、事実かどうかというより、その人が、真実と思っていることとはっきりちがうことを、だます意味でいうことですよね。
だまそうとするのでなければ、何を言われても、その人の個性みたいなものかもしれない、っと、思わないではありません。
その人なりに、一貫性があるかどうか、ということで。

だから、龍樹は、どんな変なことを言ってても、ぜったい、ウソはついていないことがわかります。

ブッダも、ウソをつかないです。

たとえば、輪廻は方便だという意見があります。方便とは、ある意味、「ウソ」という意味を含んでいます。

それは決してない、とわかることが、ブッダがウソをつかない、と知ることだと思います。

龍樹が、どんなに言い争っているように見えても、「言い争っていない」と言えば、やっぱりそうなのです。

ああ、これが「言い争うな」ということか、と知るのです。

なんか、いろいろな方向に話がずれちゃいました。

投稿: 管理人エム | 2013/03/28 02:48

>●ゲーデルの証明不可能性と龍樹さんの六句論議(その中身はほとんど知りませんけど^^;)に関わり、論争しない。ので、見解をたてない。


でも、龍樹さんは、会話(縁起)する。

投稿: きのこ | 2013/03/28 01:52

出典が、経典なのかわからないんですけど、スマナサーラ長老の本に、釈尊の語り方のポリシーと長老がされている文章が載っていたので、引用しますね。

『これでもう苦しまない』(スマナサーラ長老著・学研新書)P147・148より引用

(引用開始)
『 お釈迦さまが定めた「おしゃべり六箇条」

お釈迦さまは、自分がどんな立場で人々に語っているかということについて、こう説明されています。
人に語る場合は、耳触りのよいやさしい言葉を語るべきだ、という一般人の考えがあります。この考えにもとづいて、「釈尊は必ず他人に耳触りのよいやさしい言葉のみを語りますか?」と訊かれました。するとお釈迦さまは、「そんな決まりはありません。時と場合によります」と答えられたのです。
それから、言葉を発するときのお釈迦さまのポリシーを詳しく説明されたのです。

(1)耳触りが悪い、事実でもない、聴く人の役にも立たない言葉は 語りません。

(2)耳触りがよいが、事実ではない、聴く人の役にも立たない言葉は 語りません。

(3)耳触りが悪いが、事実です。しかし相手の役に立たないならば、 語りません。

(4)耳触りがよいし、事実でもある。しかし相手の役に立たないならば、 語りません。

(5)耳触りが悪いが、事実です。そして聴いたならば相手の役に立ちます。そのような言葉を時と場合を見計らって 語ります。

(6)耳触りがよく、事実でもあります。聴く相手の役に立ちます。そのような言葉を時と場合を見計らって 語ります。
(以上、引用終了)


・・・むむむっ、
事実ではなく、役に立つ。の、項目が、ないっっ

個人的に言えば、ウソつきのお釈迦さまなんて、気分的には、ぜったいいやだなぁ

でも、別問題として、

他人にウソつかないで、って、それは私の依存だなぁ。

投稿: きのこ | 2013/03/28 00:12

>●他人のためになる行為だったら、どんなことばを使ってもよい。

最初からこんなふうに言われたら、もう、会話してても、なに言われても、疑心暗鬼になるもん。

って、先生の『ブッダの優しい論理学』(石飛道子先生著・サンガ新書)のp191「Ⅱ 他者には説得がある 一 善く語る」を読みました。

二つのことを思いました。

●ゲーデルの証明不可能性と龍樹さんの六句論議(その中身はほとんど知りませんけど^^;)に関わり、論争しない。ので、見解をたてない。

●『四つの支分を具えた言葉は、みごとに説かれたものであって、悪しく説かれたものではない。あやまりなく、非難すべきところなく、智者に属するものである。なにが、四つであるか。』(p195より引用)
この経文を読むと、四つ同時に具えた言葉が、みごとに説かれたことばだ、と、言ってるように、私には読める。
ただ、優先順位はついてるのかもしれない、なぁ。

と、以上の二つの感想を持ちました。

そこから、派生して、釈尊の語ったとされる言葉としての『正法』 と、 すべての生命のための『仏法』 とを 思いました。

投稿: きのこ | 2013/03/27 23:41

magagiokさま

>相手に応じて、如何様にでも語る、ということでしょうか。

おお、クールに反応してくれました。

如何様にもなんですが、やっぱり、きのこさまに書いた4つの語り方の順序かなあ。。

でも、考えちゃいますね。
真実を押さえることと、それを語ることはちがうんだって、わかります。

真実をしっかり押さえて、その上で、相手にあわせて善く語る、って、むずかしい。。。でも、めざしたい。

投稿: 管理人エム | 2013/03/27 21:19

きのこさま

ありゃ。。穴があったかな。。

おしゃかさまぁ、おせーてください、どのように語ればよいのでしょう。

1,最上の善いことばを語れ
2,正しいことわりを語れ。
3,好ましいことばを語れ。
4,真実を語れ、偽りを語るな。

大好きな人は、最高に善いことばを語ってくれて、正しい人で、好ましい優しいことばを語って、ウソをつかない。。。こんな人だったら、もっともっと大好きになりますね。

投稿: 管理人エム | 2013/03/27 21:14

相手に応じて、如何様にでも語る、ということでしょうか。

投稿: magagiok | 2013/03/27 19:02

>●他人のためになる行為だったら、どんなことばを使ってもよい。

でも、わたしは、大好きな人から、ウソつかれたくないっ!!

って思うわたしは、ワガママでしょうか、、、

お釈迦さま、苦労させて、ごめんねっ

え〜ん

ε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(…>_<…)┘

投稿: きのこ | 2013/03/27 18:29

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