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2013/03/11

かれをわれは<バラモン>と呼ぶ

3月9日で、この雪の回廊!
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いくら北海道でも、これはないです。
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人も車も雪の中。。
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日ざしは、明らかに春なのに。。

朝日カルチャーセンターで、
『ダンマパダ』を読んでいます。

こつこつ読んで、とうとう第25章まで来ました。
全部で、26章です。

第25章 比丘の章
題26章 バラモンの章

今、掲示板で批判的に取りあげられている「バラモン」という名が
最後の章を飾っています。

カースト(身分制度)の頂点にいる「バラモン(ブラーフマナ)」
インドのカースト制度は、非常に起源が古く、
そして、そのため、
人々の生活・慣習・習俗全体に大きな影響を及ぼしています。

身分制度からくる苦しみが、
インドの人々を覆い尽くしているかのようです。

だが、

この語を、あえて用いて、ブッダは法を説くのです。

また、「バラモン」の章の前に、「比丘」の章をおくという、
この『ダンマパダ』の構成も、非常に意義深いと思います。


比丘たちは、まだ修行の身ですが、

阿羅漢となって、最高の境地を得たものを

ブッダは

「かれを、わたしは、バラモンと呼ぶ」

と、宣言するからです。


       ◇◇◇

比丘たちは、出家の修行者です。
教団(サンガ)の中にあり、自分の修行に励みます。


===『ダンマパダ』第25章「比丘の章」より

377 ジャスミンが、萎んだ花を捨て落とすように、
比丘たちは、貪欲と怒りを捨て落としなさい。

378 身体が静まり、ことばが静まり、よく定にあって静かであり、
世の財を吐き出した比丘は、寂静なものと言われる。

379 みずから自己を責めなさい。みずから自己を反省しなさい。
比丘よ、自己を守って、気づきをもつなら、安楽に暮らすだろう。

380 自己こそが、自己の守護者である。
自己こそが、自己のよりどころである。
それゆえに、商人が、賢い馬を制御するように、自己を制御しなさい。

381 ブッダの教えを信じ喜び、歓喜の多い比丘は、
行(志向作用)の寂滅した、安楽なる、寂静の道に到達するだろう。

382 若くあっても、ブッダの教えに努力する比丘は、
あたかも、雲から顔を出す月のように、この世界を照らすのである。
=====

自己を保って、他によらず、修行をすすめる比丘は、
やがて、目的の 最高の境地に達します。

ここは、あくまでも、自己を依りどころにして進みます。
個人主義的な印象をもたれる人もいるでしょう。

だが、いったん、覚りを得ると、
煩悩から解脱して、一切にうち勝った者に、

ブッダは、

「バラモン」という名を与えているのです。


           ◇◇◇

くりかえしになりますが、
バラモンは、世俗の中で、最上位のカースト(身分)です。

その名を与えて、ブッダは、聖なる弟子たちを、
世に送り出すのです。

世俗の中で通用することば、そのことばによって、
聖なる仏弟子たちは、呼ばれることになるのです。


かれらは、<生まれ>によって、バラモンとなったのではありません。
かれらは、その<行い>によって、バラモンと呼ばれるのです。


かれらが、一足、一足、世の中に踏み出していくたびに、

「バラモン」ということばは、あらたな意味をもって

人々の心の中に、しみ込んでいくのです。


「ああ、かれこそが、ほんとうのバラモンだ」
「かれは、誰も差別せず、心清らかな教えを説く」

というように。


===『ダンマパダ』第26章「バラモンの章」 (中村元訳)

399 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、
忍耐の力あり、心の猛き人、―かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

418 <快楽>と<不快>とを捨てて、
清らかに涼しく、とらわれることなく、
全世界に打ち勝った英雄、―かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

423 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、
生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、
完成すべきことをすべて完成した人、―かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
====

このようにして、ブッダと聖なる弟子たちは、
さまざまに遍歴しながら、
世界をあらたに作りかえていったのです。

インドにおいては、カーストの縛りを解きほぐし、
人々の利益のために、意味とことばのそろった法を
説いて、人々の心を苦しみから解放したのです。


<生まれ>によってバラモンであった人々も、
そのことばに、最高の意味を与えられて、
不満があるはずはありません。

みずからも、努力して、<行い>においても
バラモンたろう、とすることによって、
世界は確実に変わっていったと思われるのです。


神が7日間で世界を創造したよりは、
時間がかかるかもしれませんが、

この世にある聖者たちも、
確実に世の中を創造していけるのだ
と知ることは、

何か、希望が、ありますね。


       ◇◇◇ 


3月11日、大震災からまる二年が経ってしまいました。

この世の無常を知り、とらわれを捨てて、
しかし、なおも、
多くの人とともに生きようとするならば、

この世において「バラモン」たることが、求められます。

「バラモン」 ―― 世俗と覚りを結ぶ架け橋。


ブッダは、
個々の覚りを説いて、出家者だけに教えたのではなく、
あらゆる人々に教えを説いていたことを

ブッダの説く「バラモン」ということばによって

知るのです。

世のバラモンたちよ、人々のためにあれ。


そして、

天よ、雪はもうけっこうです。。。

やっぱり、最後が。。いまいちな~~

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コメント

>職業にまで広がる制度は、その全体を壊すと、人々が暮らしていけません。

民衆に永く定着した制度をトップダウンで急激に変革しても、人々は対応できないでしょうね。

バラモン階級の猛反発は必至でしょうし、バラモン教を信じている大多数の民衆も戸惑うことでしょう。

それが内戦の火種になって、他国の侵略を誘因するかも。

そんな状況では、バラモン階級を目の上のタンコブと思っていた王も、そのバラモン階級の特権を奪うことには躊躇しそうですね。

釈迦の死の数百年後にインドを統一した王が仏教を取り入れたというのは、政治的な意図を感じます。新しい国作りをするのにバラモン階級が邪魔でその力を弱めようとした、というような。

でも、それ以後に隆盛を極めたかのようなインドの仏教も、イスラムの侵攻という外的要因があったにせよ、結局は廃れて、バラモン教を引き継いだヒンズー教が盛り返すのですよね。

信仰を伴って民衆に根付いた制度というのは、なかなかに、しぶとい、でしょうね。

投稿: magagiok | 2013/03/16 11:28

magagiokさま

>ただ、釈迦が王に対してカースト制度を止めるよう強く働き掛けた痕跡はないようですね。

ここに、少し現代人の偏見(?)もあるような気がします。

社会の制度と生きる道とが、一つのものであるとき、「制度的に変える」という発想は起こらないのではないか、と思うのです。

遊牧業で暮らすとき、隊商を組んで行くとき、そこに必要なルールが決まっていて、人はそれに従います。制度的に嫌だからと、一人が反抗すれば、すべての人がすぐ死に向かってしまいます。

現代でも同じですよね。
会社や企業が、会社の利益のみ追求して人々を搾取するのはけしからん、といっても、すぐ会社を壊そうとはしないようなものです。制度的なものは残して、その中で解決していこうとします。

職業にまで広がる制度は、その全体を壊すと、人々が暮らしていけません。
身分意識や差別意識を壊そうとすることは、有効ですが、制度が壊れても、差別意識そのものが壊れないと何もならないような気がします。


だから、ブッダは、王様を教化しているのだと思います。
仏教の僧侶たちが、王様やバラモンなどと積極的にかかわるのは、そこにあります。

王様をしっかりと教化しておけば、民は、幸せに暮らしていけるからです。

カウティリヤの『実利論』も、王様のなすべきこと定めて、なかなかなものです。それと仏教の教えで、アショーカ王は帝国を築きましたね。ダンマ・アショーカといわれるようになりました。

ナーガセーナ長老は、ミリンダ王を教化しました。
アシュヴァゴーシャは、カニシカ王の先生してました。
龍樹は、サータヴァーハナ朝とかかわって、王を教化しています。

世の中の人々が幸せになる道を、積極的に開拓していったのが、インドの仏教だと思います。
このことは、あまり知られておらず、ほとんど話題になったことがないけど、わたしの調べたところでは、このような影響力のある方法で、世の中を変える手伝いをしていたのが、仏教の祖師たちであるように思われるのです。

どうでしょう、こんな考え方?


投稿: 管理人エム | 2013/03/16 10:12

バラモン  という 概念には、
差別が起きています

それは、「 願 」 という
方向 を おくから生まれる序列です

顔(頭) が 向くところが、方向 です

そちらへ進まないと、足元は危うい 、、、、


差別 という 商量は、あなたに起きて、龍樹に論破される

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/13 09:42

世俗を捨てて、執着を捨てる修業して真のバラモンになるのですから、そのバラモンには、上位身分の意識とか特権を求める気持ちなども当然に捨て去られていますよね。

それに、釈迦を特別待遇しようとした相手を戒めた経典がなかったでしょうか。

そしてまた、その真のバラモンは、他者に対して何ら差別的な扱いをすることがないでしょうね。

つまり、そのような真のバラモンについて説いたということは、生まれによる身分はもちろんのこと、行為による身分による差別も否定しているということですよね。

ただ、釈迦が王に対してカースト制度を止めるよう強く働き掛けた痕跡はないようですね。

執着を喜んでいる世俗の大多数の人には、カーストは廃止できない、釈迦の教えを理解できないと見越していたからだろうか、なんて思います。

そんな状況下では、釈迦を頼ってきた相手を世俗の生まれによる身分にかかわらずに公平に扱う、ということが現実的な手法だったということでしょうか。


投稿: magagiok | 2013/03/13 00:12

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