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2013/03/22

喩えのお話し、たとえば、こんなの

お久しぶりです、ダンです。
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ご無沙汰でした、サムです。
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二匹そろって、ダン&サム!
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サムどんは、4.5kg
ダン吉は、5.1kg

サムは、すばやくなって、階段を駆け上がり
洗面台から、隣の本棚てっぺんに、一気に跳びのるのだ。。

しかし

ダン吉くん、
君は、飛ぶどころか、
動こうともしないっす。。

上昇志向の、サム
地の民の、ダン

同じネコとは、思えない。

人なつこいサム
人嫌いのダン

おもしろいなあ、性格ちがう。

だっこしてくれぇ  の、サム
だっこさせてぇ   の、ダン

===============

こんな風にちがうものは、たくさんある。

だけど、

こんなもん、出さなくたってね、良いんじゃない。


今、出してみるのは、

ブッダの語り
イエスの語り

いろいろなところで、きれいに対照的な構造が見られる。

その中の一つ。

喩え

これを、ちょっとあげてみよう。

ブッダも、イエスも、喩えをよく用いる。
ブッダの教えが、急速に人々に広まったのは、
喩えを用いて、わかりやすく説いたからだ、と言われる。

イエスも、また、人々には喩えを用いた。

しかし、二人の喩えは、ぜんぜんちがうものだ。


        ◇◇◇
 

わかりやすくするために説いたのが、ブッダ。
わかりにくくするために説いたのが、イエス。


ブッダの喩えは、たとえば、こんなもの。


村の長が、ブッダに尋ねた。
西からきたバラモンは、亡くなったものを、祭祀によって、
呼び起こし、天界に入らせることができると言うけれど
そんなことがあるでしょうか。

ブッダは、答えた。
よこしまで、意地悪な人間が、死んだとき、
「天界に生まれますように」と祈ったとしても、
天界に生まれるだろうか、そうではなく、悪趣に行くだろう。

大きな岩を、湖に投げ込んで、
「岩よ、あがれ、陸に上がれ」と大勢で祈ったら
陸に上がってくるだろうか。

あがってこないように、
悪いことをして死んだ人間は、悪趣に落ちる。

よいことをして死んだ人を、祭祀によって
「悪趣に行きますように」と祈ったとしても、
悪趣に行くだろうか、天界に行くだろう。

油を入れた瓶を、湖に投げ入れて、割ったとしよう。
瓶は沈むが、油は浮いてくる。
そこで、大勢の人が、「油よ、しずめ」と祈ったら、
油は沈むだろうか。

沈むことはないように、
よいことをして死んだ人間は、天界にのぼる。
(『サンユッタ』42.6より)


湖に投げ込んだ大岩と
湖に投げ込んだ油を入れた瓶 がたとえです。

わかりやすいです。


         ◇◇◇

イエスの喩えは、こんなもの。


ある人が、「神の国で食事をする人は幸いです」と言った。
イエスは、こんな喩えを出した。

「ある人が、盛大な晩餐会を開いて、
たくさんの人を招いた。
ところが、招かれた人は、みな、いろいろな口実で、
招待を断ってしまった。
そこで、主人は、怒って、下僕に言った。
町の大通りに行って、貧しい人、
身体の不自由な人たちを連れてきなさい。
下僕は、『仰せの通りにしましたが、まだ、
席があります』と言った。
『道や垣根のあたりにいる人も連れてきなさい、
家がいっぱいになるように』と主人は言った。

あなた方に言っておくが、招かれた人で、
わたしの晩餐会にあずかる人はひとりもいないだろう」
(『ルカ』14.15-24より)

招かれたお客(金持ち)は、招待を拒絶し
貧しい者、身体の不自由な者が招かれる

神の国とは、そのようなもの。


うーん、わかりにくい

が、

わかることがある。

何か、試されている、ということ。


イエスの場合は、喩えによって、
人に、みずからの意志を尋ねている。


あなたは、財産を捨てて、神の国に入りますか。
(金持ちが神の国に入るより、ラクダがが針を穴を通る方がたやすい)


ブッダの場合は、喩えによって
人に、みずからの意志の結果を教えている。


善いことをして生きた者は、おのずと天界に行く
バラモンの行う祭祀の力によるのではない


イエスの用いる喩えは、隠喩となり

ブッダの用いる喩えは、直喩となる。


意志を問い、心を問うものは、隠喩を用いる。
心のありかを、ものごとに託して、知ろうとするからだ。
あなたの心はどのようなもの?


意志を教え、心を教えるものは、直喩を用いる。
ものごとのあるがままによって、わからせるからだ。
あなたの心はこのようなもの。


          ◇◇◇


龍樹も、隠喩(ウパチャーラ)を拒否した。

「山を焼く」

これも、隠喩?

そう、どうして、「山を焼くなどと言うのか、草木を焼いているのに」

だから、ブッダの説く「法(もの、存在要素)」に至るまで、みな、
このように語ると、隠喩となる。。。。

むずかしいね。

どうやら、      
「行(意志)」ということが、ポイントになるようだ。


イエスは、意志を隠して問い、
ブッダは、意志を露わにした。


どっちが、好きかな、
あなたの意志は、どちらに向かう?

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コメント

それぞれが、それぞれの解釈を、可能性を語り合う、それもまた、それぞれの信仰の形だと思っています。

いろいろ参考にして、いろいろ考えていいと思います。

それもまた、その人の道のうち、そう思います。

投稿: magagiok | 2013/03/27 18:52

みなさま こんばんは。

いろいろな意見を読ませていただいて、ありがとうございます。
議論というより、どれだけの解釈が成り立つのだろう、という方に、興味がわきました。
ほんとうに、どんなことでも考えられそうな気もしてきます。

>あなたの行うべきこととの 整合性はどうなりますか ?

信仰の中で、人の生き方と結びついて、一つの解釈にたどりつくのでしょうね。

そうではないときは、興味であれこれ考えますが、それもまた、悩ましいことです。

わたしなんかだったら、どうすればいいんだろう、って、イエスの前で途方にくれそうです。。。

投稿: 管理人エム | 2013/03/27 17:43

> ここに書き込むということは、すなわち、議論しているということでしょう。

あなたが議論にしているだけです

> 議論するな、も議論でしょうね。

(議 を)論ずる のが、議論です
そのような推測からの 書き込み は、議論に入りません
推測でなければ、断定となります

議論に入らなければ、議論とはなりません

> みな同類でしょう。

同類を履き違えています

平等にあるけれども、
人としての差異はないけれども、
論じなければいられない、そこに問題(相違)があります

自分と同じところに引きずり込もうとするときに、使われる言葉が
「 同類 」 とか 「 同じ穴のむじな 」 とか です

自分は、蚊帳の外において、使う言葉です

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/26 19:22

ここに書き込むということは、すなわち、議論しているということでしょう。

議論するな、も議論でしょうね。

みな同類でしょう。

投稿: magagiok | 2013/03/26 19:08

春間様
>日常を離れて、 道が存在するのなら、 その離れた道を行ってください

>あなたの行うべきこととの 整合性はどうなりますか ?

これ以上イエスのことをあれこれ議論しない方がよいとの隠喩でしょうか、たぶん。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/26 17:11

説明はなんとでもつくけれど、
あなたの行うべきこととの
整合性はどうなりますか ?

説明が不要なのが、善行 です

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/26 11:28

もともと単なる人だったものは、復活させられたからといって、それは神として復活させられたのではない。あくまで人である。

しかし、神が、人として遣わした神の子イエスは、神によって復活させられたことで、神となった、神の右に座るものとなった。

そういう説明も可能になってしまいますね。

投稿: magagiok | 2013/03/26 10:56

magagiok様
>半分人間として生まれて来て、人によって殺された後に神によって復活させられたときに、完全なる神となった、というような。

クリスチャン達は復活(再生)に意義を感じているようですが、「復活したから神だ」とも言えないかと存じます。
聖書(キリスト教テキスト)によりますと、知人のラザロ(腐敗)もヤイロの娘も復活しておりますので。

また初期教父エイレナイオスも同時代の信心深いクリスチャン達が死者を蘇らせたと著書「異端反駁」に明記しております。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/26 09:19

>イエスは、三位一体説をとると、神の子となるのではないかと思いますが、そうなるとどうなるのでしょうね。

イエスは、人の胎内から生まれていますから、いかようにでも人の要素を加味した説明が可能になる、という気がします。

半分人間として生まれて来て、人によって殺された後に神によって復活させられたときに、完全なる神となった、というような。

復活は、胎生ではなく、超越的ですよね。

投稿: magagiok | 2013/03/26 07:32

人には 生きていく上に、
いろいろな局面が訪れます

神の子であっても、その例には、外れません

聖書にある言葉は、
全て一つの道を指し示しますが、
そのどれをとるかは、
自らが直面している、事象という 現実的なところにあります

それが、聖書のどこに当てはまるかは、
日常的な問題解決となります
キリストの言葉は、そのようなところに生きています

あなたの今、突き当る問題は何ですか ?

日常を離れて、
道が存在するのなら、
その離れた道を行ってください


離れる道に、沿う道はありません

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/25 23:30

ミチ先生、こん**は。

>イエスは、三位一体説をとると、神の子となるのではないかと思いますが、そうなるとどうなるのでしょうね。

クリスチャンの多くが殉教したことを鑑みますと、三位一体のイエスが普通の人になって苦悩したというのはあり得ないようにも思います。

ここでクリスチャンの春間さんのコメントもお待ちします。

また、どこかで止論にしたいと存じます。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/25 19:35

magagiok さま 前世は一在家さま

コンピュータが、一瞬、壊れたかと思って焦りました。
まだまだ、修行がたらんです、こんばんは。

おもしろい話題をご提供いただいてありがとうございます。ボランティアのキリスト教の方のお話しは、興味深くお聞きしました。

>そのときイエスは単なる人として苦悩を受けることとなった。

イエスは、三位一体説をとると、神の子となるのではないかと思いますが、そうなるとどうなるのでしょうね。

投稿: 管理人エム | 2013/03/25 18:14

旧約の予言によって予め知っていたことで、覚悟もしていたことでも、現実に神に壁を作られたことに直面して、そのときイエスは単なる人として苦悩を受けることとなった。だからこそ、身代わりが成立する、とそう説明されるかもしれないなあ、なんて思いますね。

投稿: magagiok | 2013/03/25 09:02

magagiok様、おはようございます。
>神が、イエスを人々の罪の身代わりとされたことで、そこで初めて神とイエスとの間に壁を作ったので、イエスは神の意図が見えなくなった、

ゲッセマネでの懇願から、予めイエスは天の父の「壁」をご存じでしたので、イエスは神の意図がよく見えておりましたかと存じます。
次回はこう聞いては如何でしょうか。

(参考)マルコ14.36 ルカ22.42
「アバ、父よ、あなたにできないことはありません。私からこの盃を取り除いて下さい。しかし、私の思いのままにではなく、思し召しのままに。」
 とゲッセマネで苦しみもだえながら懇願。
 ※この盃=十字架での処刑

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/25 07:11

キリスト教ボランティアの在日アメリカ人と久しぶりに会ったので、イエスが十字架上で、我が神なぜ私を見捨てたのか、と言ったことについて、どう解釈するのか質問してみました。

神が、イエスを人々の罪の身代わりとされたことで、そこで初めて神とイエスとの間に壁を作ったので、イエスは神の意図が見えなくなった、そして、その後にイエスが神によって復活させられたことで、その壁は取り払われたのである、ということのようです。

なるほど、そうきたか、と思いました。

そのアメリカ人は、プロテスタントで、父親が宣教師として来日したそうです。

投稿: magagiok | 2013/03/25 05:10

>イエスにも意志があり、神にも意志がある。。。

そうです。お二方の意志の相違があった珍しい事例が先日紹介したゲッセマネでのイエスの懇願です。

仏が心変わりした2つの事例も珍しいですが。スジャータと梵天に対して。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/24 17:38

春間さま magagiokさま 前世は一在家さま

コメント欄に書こうとすると、それぞれ、ちがうご意見が書かれていて、「うーーん」と悩んでいる内に、時が経ってしまいました。

それだけ、キリスト教はわかりにくいということでしょうか。

イエスの喩えには、「行(意志)」のありどころを見つけるのがむずかしい、という感じがします。

金持ちは、神の国に入りづらい

金持ちだからいけないのではなく、「神より金」というところがいけないのでしょうね。
だから、金持ちは、神の国に行きたがらない(=招待を断る)が、貧しい者は素直に招待を受ける、ということですか。magagiokさまの読みが、素直だなあと思いました。

春間さまのように、イエスの目で見ると、矛盾が出てくるのかも。
誰でも入れる神の国が、金持ちに閉ざされているように見えるのは、誰のせい?

招待を拒絶するのは、金持ち
なのに
招待されてないのが、金持ち
であるかのような印象を受けます。

金持ちにある矛盾を見つけ出して暴くのがイエスなのでしょうか。
いつも、表現が、一般論のように見えていながら、必ず、最後は個人の意志へと、するっと転換されますね。

そういう点で、前世は一在家さまのおっしゃるように、トマス福音書は、見ているとおりの素直な表現で喩えが語られるので、直喩のようになっているのですね。
矛盾した状態の中で、個人の意志を問おう、という風にすると、隠喩のようになるのか?!

イエスから、また、神に、議論を引っぱり上げると、いっそうややこしくなりそうですね。
イエスにも意志があり、神にも意志がある。。。

うううむ、わからなくなってきました。
。。あ、朝カルの予習します、あせあせ

投稿: 管理人エム | 2013/03/23 10:07

ミチ先生、住人各位、おはようございます。

>イエスの喩えは、こんなもの。(中略)
>神の国とは、そのようなもの。

イエスは隠喩ですか。
私の好きなトマスの福音書にも「神の国」の説法がございますが、直喩のようにも思います。

ナグハマディ文書 トマスの福音書 3章
イエスは言われた。「あなたがたを惑わす者たちが[見よ、神の国は天にある]と
あなたがたに言うならば、空の鳥があなたがたより先にそこにいるであろう。
彼らが[それは海にある]とあなたがたに言うならば、魚があなたがたより
先にそこにいるであろう。しかし神の国はあなたがたの中にある。
そして、外にもある。あなたがたは、自分自身を知るならば、知られるであろう。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/22 11:41

聖書の該当部分を読んでみました。

招待を断った人(金持ち)は、自分の財や家族の用事を優先させて、それで招待を断っているのですね。

それは、金持ちが神に対する態度と同じだ、ということなのでしょうね。

金持ちは、財や家族を大事に思う自分の都合で神の招待を解釈してしまって、神の招待の真の意味を知らない。

それはつまり、神の招待を拒絶していることになっている、ということかなと思いました。

聖書のその部分には、その続きとして、塔を築こうとするときに十分な金があるか計算しない者があるだろうか、基礎だけ築いて完成出来なかったら、人々から嘲笑されるだろう、だから、財産は全部捨てないと私の弟子になれない、というような言葉もありますね。

これも分かりにくいですが、いくら財や家族があっても、それは神の国に招待されるのには十分ではなく、むしろ、神よりも財や家族を優先することが神の招待を妨げるから、それは捨てなければならない、ということを言っていると思いました。

それは、仏教における出家を連想させますね。

投稿: magagiok | 2013/03/22 09:59

 < 免れぬ 招き >


招いた “ある人” は、 招かれて、そこに晩餐会を開いたのかな ?


招かれたお客(金持ち)は、招待を拒絶し
貧しい者、身体の不自由な者 を 招く


読み方の矛盾に気が付くものは、
翻訳の矛盾を、読みとれる

(  神の国に招かれていないモノはいない  )

その穴には、アルタという 網が 張り巡らされている、
アルタを携えるモノには、 ラクダ が 必要となる 、、、、

その網が、
華厳であるか
仮虚であるか は 、


網の穴を通るときに分かる 、、、、


投稿:  春間 則廣  | 2013/03/22 08:29

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