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2013年3月

2013/03/27

『サンガジャパン』Vol.13  「言語と仏教」

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『サンガジャパン』Vol.13  は「言語と仏教」という特集です。


         ことば

         ロゴス

この点について、また、龍樹の語法を書きました。
題名は、ちょっと長くて


★幸せになるための「ことばの使い方」
ブッダの法を守った龍樹によることばの自性と「空」の論理


というのです。

龍樹の説くものの中で、もっともインパクトのある語法

「言失」を

徹底させたい、と思って、書いたのです。


これは、「空」に直結する内容です。


「空」ということばについて、

それは、 思想だ と言ってみたり
       哲理だ と言ってみたりしたのですが

今回は、はっきりと
       論理だ と明言しました。


論理  というのは、 形式(枠組み) のことなので、
口でいくら説明しても、さっぱりピンとこないところがあります。

空の解説が、わかったような、わからないような、
なんだかわからないものになるのは
空が、論理だ としっかりつかまえていないからかもしれません。

なので、

論理としての「ことばは空」 を
説明したいと思ったのです。

それは、どのように使われると、「ことばは空」といえるのか
という問題です。

           ◇◇◇


龍樹とブッダのことばの使い方 が、 
「ことばは空」の理想の実践です。

では、どんな風に使うのでしょうか?

==============
それはね、他人のためになっているとき、
「ことばは空」なんだよ

他人の利益のために、使われることばは、
みな、空なのさ。。
=============

こういうお話しを書いてみました。

「言失」は、「空」の論理を支える
大事な運用規則です。


「ことばをくりかえすこと」は、
「言失」という
ことばを使用する上での欠陥である。
「空」の論理が行き渡るところは、
ことばは繰り返されない!

そのことを
今回、この場をかりて、しっかり書きました。


          ◇◇◇

さて、「言語と仏教」について、たくさんの論考がありますが、

今回、迫力のある、読みごたえのあるものは

  藤本晃氏の、ふたつの作品でした。 よかったですよ、とっても。


★自力と他力

親鸞の教えを、ブッダの説く法につながるものとして
きちんと位置づけようと、熱い心で
語る姿には、感銘を受けます。
日本仏教の危機についても、熱く語ります。

★「妙好人」源佐は預流果を悟っていたか

こちらは、妙好人源佐の、素朴とも言えることばから、
伝わってくるものを、確実にキャッチして
それを、ブッダの教えと引き比べてみようという

そんな途方もないような企てを試みる論考ですが、
きっと、多くの読者の共感を呼ぶと思います。

そして、藤本氏の論考そのものの中に
「空」の論理が、生き生きと息づいています。

藤本氏が、このような試みをできるのも、
仏教のことばの使い方が、「空」を論理としているからだと思います。

考察の結果

「(源佐が)預流果に悟ったと断定することは困難であっても、
源佐の生き方と一生涯をかけた導きは、
お釈迦様の時代の預流者たちのそれに勝るとも劣らない、
大いに尊敬し学ぶべきものです」(p.126)

と藤本氏は確信しています。


それは、わたしの論考「幸せになるための「ことばの使い方」」の
最後に書いた部分と、深く通じているように思われてなりません。


「今日に至るまで、ブッダの法は人々に合わせてさまざまな仕方で、
自由自在に語られています。その行為の中にこそ、
ブッダの法が生きているのです」(p。101)


源佐の語ることばの中に、ブッダの法が息づいていることを、
藤本氏は、たしかに見てとったのだと思います。


ブッダの法は、今も、形を変えことばを変えて、
信ずる人の語ることばの行為の中に、生きています。


            ◇◇◇


「空」はいいね! ほんとにいい!

一つは、ことばの中身をカラッポにできること。
そして、そこに自由に名づけられること、意味づけられること。
そして、それをできるための制約は、利他のみ。

このように使われるとき、
ことばは生きている。


●他人のためになる行為だったら、どんなことばを使ってもよい。


この大胆な教えが、「空」のろんりであ~る。


だんだん、話が大胆になるわたし。。。空言だって、言わないでくれぇ

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にゃんか、言ったっすか。。お皿も空なんですけど。。
エサがないと、寝るしかないすよぉ。。


       

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2013/03/22

喩えのお話し、たとえば、こんなの

お久しぶりです、ダンです。
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ご無沙汰でした、サムです。
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二匹そろって、ダン&サム!
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サムどんは、4.5kg
ダン吉は、5.1kg

サムは、すばやくなって、階段を駆け上がり
洗面台から、隣の本棚てっぺんに、一気に跳びのるのだ。。

しかし

ダン吉くん、
君は、飛ぶどころか、
動こうともしないっす。。

上昇志向の、サム
地の民の、ダン

同じネコとは、思えない。

人なつこいサム
人嫌いのダン

おもしろいなあ、性格ちがう。

だっこしてくれぇ  の、サム
だっこさせてぇ   の、ダン

===============

こんな風にちがうものは、たくさんある。

だけど、

こんなもん、出さなくたってね、良いんじゃない。


今、出してみるのは、

ブッダの語り
イエスの語り

いろいろなところで、きれいに対照的な構造が見られる。

その中の一つ。

喩え

これを、ちょっとあげてみよう。

ブッダも、イエスも、喩えをよく用いる。
ブッダの教えが、急速に人々に広まったのは、
喩えを用いて、わかりやすく説いたからだ、と言われる。

イエスも、また、人々には喩えを用いた。

しかし、二人の喩えは、ぜんぜんちがうものだ。


        ◇◇◇
 

わかりやすくするために説いたのが、ブッダ。
わかりにくくするために説いたのが、イエス。


ブッダの喩えは、たとえば、こんなもの。


村の長が、ブッダに尋ねた。
西からきたバラモンは、亡くなったものを、祭祀によって、
呼び起こし、天界に入らせることができると言うけれど
そんなことがあるでしょうか。

ブッダは、答えた。
よこしまで、意地悪な人間が、死んだとき、
「天界に生まれますように」と祈ったとしても、
天界に生まれるだろうか、そうではなく、悪趣に行くだろう。

大きな岩を、湖に投げ込んで、
「岩よ、あがれ、陸に上がれ」と大勢で祈ったら
陸に上がってくるだろうか。

あがってこないように、
悪いことをして死んだ人間は、悪趣に落ちる。

よいことをして死んだ人を、祭祀によって
「悪趣に行きますように」と祈ったとしても、
悪趣に行くだろうか、天界に行くだろう。

油を入れた瓶を、湖に投げ入れて、割ったとしよう。
瓶は沈むが、油は浮いてくる。
そこで、大勢の人が、「油よ、しずめ」と祈ったら、
油は沈むだろうか。

沈むことはないように、
よいことをして死んだ人間は、天界にのぼる。
(『サンユッタ』42.6より)


湖に投げ込んだ大岩と
湖に投げ込んだ油を入れた瓶 がたとえです。

わかりやすいです。


         ◇◇◇

イエスの喩えは、こんなもの。


ある人が、「神の国で食事をする人は幸いです」と言った。
イエスは、こんな喩えを出した。

「ある人が、盛大な晩餐会を開いて、
たくさんの人を招いた。
ところが、招かれた人は、みな、いろいろな口実で、
招待を断ってしまった。
そこで、主人は、怒って、下僕に言った。
町の大通りに行って、貧しい人、
身体の不自由な人たちを連れてきなさい。
下僕は、『仰せの通りにしましたが、まだ、
席があります』と言った。
『道や垣根のあたりにいる人も連れてきなさい、
家がいっぱいになるように』と主人は言った。

あなた方に言っておくが、招かれた人で、
わたしの晩餐会にあずかる人はひとりもいないだろう」
(『ルカ』14.15-24より)

招かれたお客(金持ち)は、招待を拒絶し
貧しい者、身体の不自由な者が招かれる

神の国とは、そのようなもの。


うーん、わかりにくい

が、

わかることがある。

何か、試されている、ということ。


イエスの場合は、喩えによって、
人に、みずからの意志を尋ねている。


あなたは、財産を捨てて、神の国に入りますか。
(金持ちが神の国に入るより、ラクダがが針を穴を通る方がたやすい)


ブッダの場合は、喩えによって
人に、みずからの意志の結果を教えている。


善いことをして生きた者は、おのずと天界に行く
バラモンの行う祭祀の力によるのではない


イエスの用いる喩えは、隠喩となり

ブッダの用いる喩えは、直喩となる。


意志を問い、心を問うものは、隠喩を用いる。
心のありかを、ものごとに託して、知ろうとするからだ。
あなたの心はどのようなもの?


意志を教え、心を教えるものは、直喩を用いる。
ものごとのあるがままによって、わからせるからだ。
あなたの心はこのようなもの。


          ◇◇◇


龍樹も、隠喩(ウパチャーラ)を拒否した。

「山を焼く」

これも、隠喩?

そう、どうして、「山を焼くなどと言うのか、草木を焼いているのに」

だから、ブッダの説く「法(もの、存在要素)」に至るまで、みな、
このように語ると、隠喩となる。。。。

むずかしいね。

どうやら、      
「行(意志)」ということが、ポイントになるようだ。


イエスは、意志を隠して問い、
ブッダは、意志を露わにした。


どっちが、好きかな、
あなたの意志は、どちらに向かう?

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2013/03/11

かれをわれは<バラモン>と呼ぶ

3月9日で、この雪の回廊!
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いくら北海道でも、これはないです。
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人も車も雪の中。。
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日ざしは、明らかに春なのに。。

朝日カルチャーセンターで、
『ダンマパダ』を読んでいます。

こつこつ読んで、とうとう第25章まで来ました。
全部で、26章です。

第25章 比丘の章
題26章 バラモンの章

今、掲示板で批判的に取りあげられている「バラモン」という名が
最後の章を飾っています。

カースト(身分制度)の頂点にいる「バラモン(ブラーフマナ)」
インドのカースト制度は、非常に起源が古く、
そして、そのため、
人々の生活・慣習・習俗全体に大きな影響を及ぼしています。

身分制度からくる苦しみが、
インドの人々を覆い尽くしているかのようです。

だが、

この語を、あえて用いて、ブッダは法を説くのです。

また、「バラモン」の章の前に、「比丘」の章をおくという、
この『ダンマパダ』の構成も、非常に意義深いと思います。


比丘たちは、まだ修行の身ですが、

阿羅漢となって、最高の境地を得たものを

ブッダは

「かれを、わたしは、バラモンと呼ぶ」

と、宣言するからです。


       ◇◇◇

比丘たちは、出家の修行者です。
教団(サンガ)の中にあり、自分の修行に励みます。


===『ダンマパダ』第25章「比丘の章」より

377 ジャスミンが、萎んだ花を捨て落とすように、
比丘たちは、貪欲と怒りを捨て落としなさい。

378 身体が静まり、ことばが静まり、よく定にあって静かであり、
世の財を吐き出した比丘は、寂静なものと言われる。

379 みずから自己を責めなさい。みずから自己を反省しなさい。
比丘よ、自己を守って、気づきをもつなら、安楽に暮らすだろう。

380 自己こそが、自己の守護者である。
自己こそが、自己のよりどころである。
それゆえに、商人が、賢い馬を制御するように、自己を制御しなさい。

381 ブッダの教えを信じ喜び、歓喜の多い比丘は、
行(志向作用)の寂滅した、安楽なる、寂静の道に到達するだろう。

382 若くあっても、ブッダの教えに努力する比丘は、
あたかも、雲から顔を出す月のように、この世界を照らすのである。
=====

自己を保って、他によらず、修行をすすめる比丘は、
やがて、目的の 最高の境地に達します。

ここは、あくまでも、自己を依りどころにして進みます。
個人主義的な印象をもたれる人もいるでしょう。

だが、いったん、覚りを得ると、
煩悩から解脱して、一切にうち勝った者に、

ブッダは、

「バラモン」という名を与えているのです。


           ◇◇◇

くりかえしになりますが、
バラモンは、世俗の中で、最上位のカースト(身分)です。

その名を与えて、ブッダは、聖なる弟子たちを、
世に送り出すのです。

世俗の中で通用することば、そのことばによって、
聖なる仏弟子たちは、呼ばれることになるのです。


かれらは、<生まれ>によって、バラモンとなったのではありません。
かれらは、その<行い>によって、バラモンと呼ばれるのです。


かれらが、一足、一足、世の中に踏み出していくたびに、

「バラモン」ということばは、あらたな意味をもって

人々の心の中に、しみ込んでいくのです。


「ああ、かれこそが、ほんとうのバラモンだ」
「かれは、誰も差別せず、心清らかな教えを説く」

というように。


===『ダンマパダ』第26章「バラモンの章」 (中村元訳)

399 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、
忍耐の力あり、心の猛き人、―かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

418 <快楽>と<不快>とを捨てて、
清らかに涼しく、とらわれることなく、
全世界に打ち勝った英雄、―かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

423 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、
生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、
完成すべきことをすべて完成した人、―かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
====

このようにして、ブッダと聖なる弟子たちは、
さまざまに遍歴しながら、
世界をあらたに作りかえていったのです。

インドにおいては、カーストの縛りを解きほぐし、
人々の利益のために、意味とことばのそろった法を
説いて、人々の心を苦しみから解放したのです。


<生まれ>によってバラモンであった人々も、
そのことばに、最高の意味を与えられて、
不満があるはずはありません。

みずからも、努力して、<行い>においても
バラモンたろう、とすることによって、
世界は確実に変わっていったと思われるのです。


神が7日間で世界を創造したよりは、
時間がかかるかもしれませんが、

この世にある聖者たちも、
確実に世の中を創造していけるのだ
と知ることは、

何か、希望が、ありますね。


       ◇◇◇ 


3月11日、大震災からまる二年が経ってしまいました。

この世の無常を知り、とらわれを捨てて、
しかし、なおも、
多くの人とともに生きようとするならば、

この世において「バラモン」たることが、求められます。

「バラモン」 ―― 世俗と覚りを結ぶ架け橋。


ブッダは、
個々の覚りを説いて、出家者だけに教えたのではなく、
あらゆる人々に教えを説いていたことを

ブッダの説く「バラモン」ということばによって

知るのです。

世のバラモンたちよ、人々のためにあれ。


そして、

天よ、雪はもうけっこうです。。。

やっぱり、最後が。。いまいちな~~

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