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2013/02/27

一粒の麦死なずば。。。 輪廻の謎

130223_152351
いったん除雪が入って、こんなんなりました。

ずっと前から、ここは、こんなんです。
130223_152432
ずっと寒かったので、雪が落ちそうで落ちません。

ではっ、っと


キリスト教の方から、輪廻についての、ご質問があったので、
お答えしてみたいと思います。

===============
一神教では、得られないものが出て来ると言う「輪廻」とは
一体どのような「仕組み」^^なのでしょうか?
===============

「仕組み」ということでいうならば、
わたしは、その「仕組み」の現れている文は、
これだと思います。

キリスト教の場合

その仕組みは
「輪廻しない」という仕組みです。

イエスのことばがあります。

(ヨハネによる福音書12章23-26節)
============
「人の子が栄光を受ける時が来た。
はっきり言っておく。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

自分の命を愛する者は、それを失うが、
この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。
そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。
わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
=============


「一粒の麦が、地に落ちて死ななければ」

ふつうなら、どうなるのでしょうか?


★輪廻にあるわたしの、単純な頭では、
一粒の麦が、地に落ちて死ななければ、  

芽が出る

と、思います。

しかし、

★イエスは、述べます。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、

一粒のままである。


究極には、このちがいに帰着すると思います。

輪廻する場合、「死なないならば」 生ずる(変化する)
輪廻しない場合、「死なないならば」変化しない(生じない)


ここを解明すれば、その「仕組み」として
輪廻すること と 輪廻しないこと の違いがわかる、と思います。


★★イエスの場合★★

地に落ちた死なない一粒は、そのまま変化しません。
何も変わらない。

変わるためには、何かがいります。

死ぬことです。
この死ぬことは、ふつうの「死」ではないようです。

死ねば、多くの実を結ぶのですから、
死は、特別のことがらのようです。

次の文によって、わかります。

自分の命を愛する者は、それを失うが、
この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

「死」とは、自分の命を憎むことで、
それによって、永遠の命を得る、といわれます。

つまり、

麦は、みずから発芽する力はなく、
麦は、命を憎んで、差し出すと (死ぬと)
麦は、永遠の命を得られる

ここで、麦にできることは何かを考えます。

麦には、「死ぬこと(=命を差し出すこと)」を選ぶことができる
それによって
麦には、多くの実り(永遠の命)がある

「死」の選択が、麦にできることです。

ここに、「多くの実り」を与える 原因は、別にいることがわかります。

おそらくは

第一原因である父(神)が、「死」を選択した麦に、永遠の命を与える

のだろうと、推測できます。

どのような「死」を選んでいるのか、そこが、問題になります。
麦には麦の悩みがありますね。。。


       ◇◇◇


第一原因(父)があるとき、「輪廻」ということは起こりません。

「死」の後には、断絶があり、
第一原因が働かないと
何も起きません。

「死」の後に、確実に第一原因である父(神)が作用してくれるのかどうか、

そこに、「謎」があるので、一神教が生まれます。


もし自動的に、神が働くならば、人間の意志に神が従うことになるからです。
そうなれば、神に対する「謎」はありません。

神を信ずることにより、それを最大の条件として、「復活」は起こるのです。

というより、起こると期待されるのです。

あくまで、父(神)はが第一原因だからです。
「信仰」の強さをはかるのも父です、もち!

「復活」するのかしないのか、すべては、父なる神の御心のまま。

         ◇◇◇

一方、

★★輪廻するわたしの場合★★

一粒の麦が、地面に落下して、死なないならば、

ごくごくふつうに観察すると

その麦は、落ちた地面の諸条件により、うまくすると、

発芽するでしょう。

発芽したら、育っていって、うまくすると、
多くの実り(麦)をもたらします。

ここに、輪廻の「仕組み」があります。


「死なない」とは、ここでは、ごくふつうに考えますと、

発芽能力を残す

ということで、

「生ずる」可能性をいうでしょう。


つまり、輪廻する場合も、
この場合の「死なない」とある「死」は、
やはり、特別のことがらのようです。

なぜなら、

麦は、みずから発芽するのです。
みずから生まれる存在で、みずから枯れる存在で、
みずから地に落ちる存在です

地に落ちると、「死なない」ので、
発芽するのです。


麦の畑を観察する人は、このように見るでしょう。

このくりかえしを「輪廻」と呼ぶ、といってもよいでしょう。

『ダンマパダ』325
============
大食らいで、眠りたいときには、ごろごろ転げ回って寝る、
眠り多き愚鈍のものは、
大きな豚がえさで育てられるように、くりかえし母胎に赴く。
============

これですね。。輪廻って。。。。うわっ  すごいわ、この表現。。。


い、いやだ、こんなん、
何とかしたい、と思っても、

地に落ちると、「死なない」ので、生まれます。


うわーっ、「生まれたくない」、
ええっと、「ちゃんと死にたい」(何ですか、これ) (これが、「死」ですね)

と思っても、つまり、輪廻したくない、と思っても


生まれないこと(不生)


へ向かう「仕組み」を知らないので、

一粒の麦は、くりかえし発芽してしまうのです。


        ◇◇◇


ここに、ブッダ登場です。

ここで大事なテーゼがあります。
法の眼を生ずる大事なことばです。

「何であれ、生ずる性質のものは滅する性質のものである」


この一文によって、生まれてきた麦が、
再び生ずることがない、という状態に なれることを、
みずから知るのです。

生じたものは、滅するのだ、と、知ります。
滅すれば、「死なない」とは言えないでしょう。


『ダンマパダ』348
===========
348 前を逃れなさい、後ろを逃れなさい、中間も逃れなさい。
生存の彼岸に到達した人、あなたは、
あらゆるところで心解脱しており、
再び、生まれることと老いることにいたることはないだろう。
===========

わかったよ、
一粒の麦は、うなづくのです。

自分の力で、前も、後ろも、中間も逃れると、
生存から、逃れられるのです。

父(神)はいない、んだから、自分でやれよ、って。
自己を中洲とし、自己をよりどころとせよ、ってよ。

わかったよ、
一粒の麦は、
身を粉にして。。。(小麦粉になりそ)
みずから、滅するように、精進するのです。


麦は、みずから発芽する能力をもち
麦が、欲を厭って、解脱すると
麦は、滅する(=再び生じない)

ブッダは、麦の先生にすぎません。
自分で輪廻してきたのだから
自分で脱するのです。


       ◇◇◇


「輪廻」の仕組みは、

このように、
「輪廻しないこと」の仕組みからも、
推し量って
知られます。

それと、
あるがままに観察することによっても、
知られます。

観察と推論の二つを使って、
輪廻の「仕組み」も知られるのです。

唯一なる神をもたないブッダの教えは、
この世界をあるがままに見て、
そこから知られることによって、
問題を解決していきます。


「輪廻」は、形而上学として、あるのではない、のです。


種々さまざまな見解や意見があって、
入り乱れているとしても、

みずからの生き方を見つめるものには、
必ず、答えが見つかるでしょう。

天にいるネコも
130226_200535

地に横たわるネコも
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ひとしく、
ひとしく。。。一粒の。。(ひとつぶか、これが!)。。麦粒です。

輪廻してるにせよ、してないにせよ、

大きな太った ひとつぶの 麦粒には、かわりません。

それにしても、ひとつぶ5kg。。って!

ちょ、ちょっと、ごろごろしていると
『ダンマパダ』325のようになっちゃうよぉぉ

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コメント

ミチ先生、こん**は。

>林菩薩さまに、合掌します。
>不思議なお話ですが、どこかでお聞きになったのでしょうね。それは、過去世のどこかかもしれません。

「林菩薩」と私が仮称しましたら幾人かの仏教徒からは馬鹿にされましたので、大変ありがたやです。
過去世の話と浄土から見ていた話とが混ざっているように編者の みなもとしん(私)は分析しております。

>いくつか、もしやと思うところもございます。確かめて、また、お話ししますね。

出典が分かりましたら適時ご教示願います。 合掌

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/20 18:54

前世は一在家さま

ご本  届きました 

林菩薩さまに、合掌します。
不思議なお話ですが、どこかでお聞きになったのでしょうね。それは、過去世のどこかかもしれません。

仏法をきちんと伝えておられるのが、ほんとうに、ますます不思議です。

信心深い、神仏を大事にするところには、こういう不思議が起こるのだと思います。みなさまが、まじめに受け取っておられることが、一番すばらしいですね。

いくつか、もしやと思うところもございます。確かめて、また、お話ししますね。

よいお話しをありがとうございました。

投稿: 管理人エム | 2013/03/20 18:14

ミチ先生、こん**は。

>ところで、明日、ご出版になったご本が届きます。
> 拝読するのを楽しみにしています。
>
>amazonの読者欄でも、高い評価を得ていますね。
> あるがままに、そのままに、書き留められた貴重な伝承ですね。

まことにありがたや、ありがたやです。
仏教の論理的な面とは対極の不可思議な面の記録ですので、また不明な出典をご存じでしたらご教示願います。

龍樹菩薩や月称菩薩に敬意を払う仏教徒がいるように、私は「林菩薩」に敬意を払っております。

先日もお話しましたが、涅槃入りした仏が「我汝を救わずは正覚を取らず」と仰せられたことが永年の疑問でした。
でも「全訳 入中論」で、如来は完全な涅槃には入らずに無住処涅槃にて衆生済度を大展開されていることを読み腑に落ちました。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/19 20:53

前世は一在家さま

>論理的にはわからないことだらけですが、まあすべてをひっくるめて「信」をえるとこがキリスト教の特徴かと存じます。

ああ、ほんと、ここに尽きてくるかなと思うくらい、よい意見です。

「不合理なるが故にわれ信ず」というところを認めてしまうと、ほんとに何でも出てきますね。

それが、人間、ということかもしれません。

ところで、明日、ご出版になったご本が届きます。
拝読するのを楽しみにしています。

amazonの読者欄でも、高い評価を得ていますね。
あるがままに、そのままに、書き留められた貴重な伝承ですね。

投稿: 管理人エム | 2013/03/19 10:29

magagiok さま

>う〜ん、私には意味不明です。

すんません。
自分でも、まずい説明だと思いますもん。
忘れてください。

簡単にいえば、論理の点でいうと、ブッダと、行動がきれいに逆になっている、ということなんですが、やっぱり説明が悪いです。

>旧約聖書の予言どおりのことが起こっているのなら、本物のイエスなら、こんなこと言うはずがないですね。

詩篇22.1の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのか」を歌おうとした、とも言われますが、それは、イエスに聞いてみなくちゃわからないことですよね。

投稿: 管理人エム | 2013/03/19 10:22

ミチ先生、こん**は。

>マタイ福音書によりますと、神を試すなと述べていながら、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とも叫んでいます。ヘブライ語で叫んだと言うことですね。
> わからないことだらけですね。

またマルコの福音書によりますと、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とも叫んでいます。アラム語で叫んだと言うことですね。
論理的にはわからないことだらけですが、まあすべてをひっくるめて「信」をえるとこがキリスト教の特徴かと存じます。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/18 21:58

>「わが神、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか。」と十字架上にて大声で叫んだ。

旧約聖書の予言どおりのことが起こっているのなら、本物のイエスなら、こんなこと言うはずがないですね。

なるほど、イエスの偽物なら言いそうですね。

ただ、人々の神への罪を贖うために、イエスが人によって痛めつけられ殺される、という手法を、なぜに神が選択したのか、その理由を知りたい、という思いが生じたとしたら、それはありえるかな、という気もします。

親の考えを子が100%分かるとは言えないでしょうから。

投稿: magagiok | 2013/03/18 20:50

>ブッダの説くところと、論理的にあっていますね。
同じことを説いているというのではなく、ブッダのように言わないなら、イエスのように言うことになる、というような、論理のあり方で説かれているので、驚きます。

う〜ん、私には意味不明です。

投稿: magagiok | 2013/03/18 19:35

magagiokさま 前世は一在家さま

こんばんは。

> 被災した我が家の修理に来たキリスト教系ボランティアのアメリカ人が、ルカの福音書が一番好きだと言っていました。

magagiokさま、たいへんだったのですね。

ルカの福音書は、信者さんには共鳴するところが多いだろうなあと思います。

「人はパンのみに生きるにあらず」「神を試してはいけない」

>はぁ〜、うまい、と感嘆しました。

ほんとに。
ブッダの説くところと、論理的にあっていますね。
同じことを説いているというのではなく、ブッダのように言わないなら、イエスのように言うことになる、というような、論理のあり方で説かれているので、驚きます。

立場はちがっても、一つの論理が見えます。だから、きれいに逆になります。

前世は一在家さま

>(参考)マルコ15.34 マタイ27.46
>「わが神、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか。」と十字架上にて大声で叫んだ。

うーーーむ、なるほど。
神を試した男となる。

ルカ23.46では
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こういって息を引き取られた。

となっています。神をあくまで試すことがなかった、という解釈になりますね。

マタイ福音書によりますと、神を試すなと述べていながら、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とも叫んでいます。ヘブライ語で叫んだと言うことですね。
わからないことだらけですね。

投稿: 管理人エム | 2013/03/18 18:01

magagiok様
>イエスが修業中に蛇の姿をした悪魔が現れて、イエスを建物の屋上に連れて行って、飛び降りてみろ、神の子なら神が救うだろう、と唆すと、
>神を試してはならない、とイエスがそれを拒絶するシーンがありました。

良いお話を有難うございました。
それでは、十字架上での男は神を試したのであればイエスでなかった可能性が増します。

(参考)マルコ15.34 マタイ27.46
「わが神、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか。」と十字架上にて大声で叫んだ。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/18 11:02

被災した我が家の修理に来たキリスト教系ボランティアのアメリカ人が、ルカの福音書が一番好きだと言っていました。

ルカの福音書を元に作ったイエスの生涯の映画のDVDを貰ったので、時々観ています。

イエスが修業中に蛇の姿をした悪魔が現れて、イエスを建物の屋上に連れて行って、飛び降りてみろ、神の子なら神が救うだろう、と唆すと、神を試してはならない、とイエスがそれを拒絶するシーンがありました。

はぁ〜、うまい、と感嘆しました。

それで納得できる人が信者になるんだろうなあ、と思います。

投稿: magagiok | 2013/03/17 09:19

前世は一在家さま

>仏教の場合は、経典間の矛盾は、伝承誤差や筆>記者の追加や翻訳差等で説明できるかも知れませんが、
>キリスト教の場合は4つの福音書は聖霊の導きによるものなので、矛盾の説明にも相当の難しさが
>あるかと思料します。

おっしゃるとおりですね。
荒井氏は、その時代の要請するところにも従うと、歴史事情も考慮されているようです。わたしが読んだかぎりではそんな印象です。

「聖霊の導き」というのは、なるほど、と思います。とすると、それぞれの編纂者に、それぞれの論理的な筋というものがあることになりますね。

ルカの書に、もう少しせまりたいです。

全部をちゃんぽんしてしまうと、危険ですね。

「混ぜるな、危険」はどこにでもありますね。

※ 日種族である釈迦族のマークをつけていただけるなんて、光栄です。
光をさえぎる雲にならないようにしなくちゃ、いかんな、われ。

投稿: 管理人エム | 2013/03/16 10:32

ミチ先生、こん**は。

>うーーん。。。キリスト教というのは、ほんとにむずかしい。。

仏教の場合は、経典間の矛盾は、伝承誤差や筆記者の追加や翻訳差等で説明できるかも知れませんが、
キリスト教の場合は4つの福音書は聖霊の導きによるものなので、矛盾の説明にも相当の難しさが
あるかと思料します。

>そうなりますと、ルカ23.46のごとく「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫んでなくなった、という読みをとった方がいいかもしれません。

そうですね、ルカ22.42の「しかし、私の望みではなく、あなたの望みが行われますように。」との整合性がよく取れてます。
「私の望みではなく」という言葉にイエスと天の父との意思の不一致が如実です。

またルカの福音書にのみ先日ご紹介しました如来蔵とも縁起しそうな重要箇所があります。
ルカ17.21「神の国はあなた方の内(within you)にあるのだから」

注)釈迦は太陽族、日種なので、先生にも敬意を表して印を。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/11 22:39

前世は一在家さま

間違って、途中で、送信してしまいました。
続きを書きます。読みにくくてすみません。

>神の立場からと見るとき、コーランの説くような

「イーサーはアーダムと同じようなもの」となりましょうか。

どの立場から見るのか、で、解釈がちがってきますね。

うーーん。。。キリスト教というのは、ほんとにむずかしい。。
何を考えていたか、わからなくなってきました。

また、もう少し考えます。。ブクブク沈みます。

投稿: 管理人エム | 2013/03/11 20:53

前世は一在家さま magagiokさま

むずかしいお話しで盛り上がっていますね。

>他にも変化しない無自性があるのか否かはミチ先生のコメントを待ちましょう

うむむ。。縁起ですが、これも、また、「無常」と見ることもできるかと思います。

また、「如来が世に出ても出なくても定まっている」とも言われますので、変化しない無自性と見ても、悪くはないかもしれません。

どうして、縁起を、無常(変化する無自性)と見るかといいますと、世俗諦から第一義諦にいきますと、もはや「他に縁らず」といわれて、原因をさぐらずに、ありのままに見る見方も出てくるからです。

その場合、「縁起」という因果を見る見方は用いられなくなりますので、「縁起」という関係が変化してしまった、ととることもできるかもしれません。そうなると、変化する無自性、という感じがします。

でも、わたしたちは、必ず煩悩があります。そのかぎりでは、因果関係としての縁起を認めざるを得ないので、「悟れば消えるものとしての縁起」という意味で無自性、かつ、煩悩がなくならないかぎり見いだせる縁起という意味での「定まった(変化しない)」、として特徴づけることができるかと思います。


前世は一在家さま

>天の父のみ心であれば従うと覚悟を決めておりました。

なるほど、そうですね。そうなりますと、ルカ23.46のごとく「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫んでなくなった、という読みをとった方がいいかもしれません。

ここは、ほんとに、いろいろ解釈できそうですね。
マルコ、ルカの間でも、解釈に違いがありそうです。

マルコのように、絶望の内になくなったとすると、異教徒などから見ると、「神の子」と見ることもできるかもしれませんが、神の立場からと見るとき、コーランの説くような「

投稿: 管理人エム | 2013/03/11 20:41

>>magagiok様
>そういうことなら、諸行は縁起するので無常ですが、その縁起を法として捉えると、それは概念としての法だから、変化はしないが無我(無自性)である、ということになると思います。

縁起の法は変化しない、変化しないが無自性とのコメントを有難うございます。
他にも変化しない無自性があるのか否かはミチ先生のコメントを待ちましょう。

>>ミチ先生
>神の国の福音を説いてきたのに、人々はかれを見捨て、最後は、神までも捨てているように見える。。このような失意の中でなくなった壮絶な死を前にして、

おっしゃる通りローマの百人隊長には失意に見えたのでしょうね。
でもイエス自身はゲッセマネで十字架刑(この盃)をさけることを懇願した後に天の父のみ心であれば従うと覚悟を決めておりました。
もし明らかに失意と見えたのであれば、アッラーの啓示の通り「よく似た男」だったのでしょう。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/11 09:00

ちょっと考えてみたのですが、法の中の概念は変化しないが、それでは、その概念が無我であることの根拠は何だろうか、と思いました。

仏教学者の中村氏は、無我の意味は、我がものではない、というのが当初の意味だと解釈しています。

我がもの、の定義については、初期経典では、思いどおりにできるもの、とのことですよね。

縁起を法として捉えて概念化したものは、人の思いどおりになるものではないので、我がものではない、という意味の無我ということになると思いました。

それから、我がものがないときに、我があるだろうか、というのが初期経典にありましたよね。

でもまあ、法則としての縁起を、法としての存在と捉えるのがそもそも間違いかな、とも思います。

また、概念化した縁起ではなく、概念化する前の「ありのまま」を問題にするなら、それは論議できない、なぜなら、論議は概念だから、ということにもなると思います。

投稿: magagiok | 2013/03/11 08:10

>もし縁起の法も空であれば不変でなく変化することになりますが、ややこしいので「縁起の法は不変」ということにしておきたいものです。

スマナサーラ長老の法話を思い出しました。

諸行無常と諸法無我の違いです。

諸行は変化するから無常だが、法の中でも概念は変化しないから、諸法無常ではなく諸法無我と説かれる、というものです。

なるほど、と思いました。

そういうことなら、諸行は縁起するので無常ですが、その縁起を法として捉えると、それは概念としての法だから、変化はしないが無我(無自性)である、ということになると思います。

大乗は空に縁起、無自性の意味を持たせて、法空を説いたので、縁起の法も空なら変化するのか、という疑問につながってしまうのだと思います。

投稿: magagiok | 2013/03/10 22:59

みなさま こんばんは。

ああ、どうも、置いてきぼりを食らってしまいました。
今、一生懸命、読んでいます。

前世は一在家さまの、聖書をコーランと比較しているのは、とても、すばらしいと思います。

わたしも、イスラム教を知って、「ああ、この宗教が生まれてくれてよかった」と思いました。
キリスト教のあいまいなところを、きれいに払拭するかのような、明快さに惹かれます。

ムハンマドは、預言者(使徒)であって、神とは隔絶した存在であること、コーランは、神の啓示であること、神は絶対唯一であり、神に子どもも奥さんもいないこと。

こういうところが、すっきりしていますね。

で、終わったかもしれないのですが、人にも神にも見捨てられたようになって、イエスが十字架にかけられたあと、ローマの百人隊長が、「この人は神の子だった」とつぶやくところがあります。

この「神の子」ということばは、わたしたちふつうの人の実感なのではないかと思います。

虐げられた人のために、ファリサイ派などのユダヤ社会の上層部と争い、神の国の福音を説いて着たのに、人々はかれを見捨て、最後は、神までも捨てているように見える。。このような失意の中でなくなった壮絶な死を前にして、このような、誰も行わない生き方を選んだ彼こそ、神の子にふさわしいのではないか、という、そんな気持ちかな、と思いました。
ですから、この「神の子」の「神」は、一神教の神とか、そんな区別もなく、ただ神というだけのもの、空なる神であるかもしれないなあと思った次第です。

あれこれ、いろいろ漁っているところです。

投稿: 管理人エム | 2013/03/10 21:02

magagiok様、住人各位

>聖書とコーランの相違は、やっかいですね。

ムハンマド(モハメット)は632年に世を去り、650年頃には一冊の標準クルアーン(コーラン)が編纂されております。
よってモハメットの生前にテキスト化が進んでいたことになりますから、改竄と追加はより困難であったかと思料します。

尚、新約聖書にはイエスが世を去って50年後以降に筆記された4つの福音書があります。
4つの福音書間で相互比較をすると多くの食い違いがあることが研究者達からも指摘されております。

コーランと新約聖書とを比較するよりも、旧約聖書とコーランとの比較も興味深いことです。
隣人愛のイエス、慈悲の釈迦と比べて、ヤハエもアッラーも激しく従わなかった人間達へ神罰も似ております。
尚、イエスとヤハエとの意思の相違はゲッセマネでの懇願によく現れております。

かのアインシュタインは「人に賞罰を与える神は信じない」と言い無神論者と思っている人も多いようです。
でも彼は法則の美しさを称賛し、法には立法者がいるはずだと言って、彼の定義する神=立法者=法の設定者、だったと私は理解しております。

さて仏教では多くの法が説かれており、アビダルマでもよく整理されております。
その法が自性(不変)なのか、無自性なのか、誰かが設定したのか否かは議論も尽きないこと(無記)かと存じます。

もし縁起の法も空であれば不変でなく変化することになりますが、ややこしいので「縁起の法は不変」ということにしておきたいものです。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/10 17:09

>嘘というよりも、明らかにできない神界の秘め事のようですね。

人は、神を知ることはできない、人にできることは、神を信じることだけである。そんな言葉を思い出しました。

聖書とコーランの相違は、やっかいですね。

すべては神の御心のまま、なのでしょうか。

神の深慮か、戯れか。

神は、人を試しておられる。

神は、人をして遊んでおられる。

あるいは、どちらかが嘘か、若しくは、どちらも嘘か。

人は、いろいろに考えてしまいますね。

投稿: magagiok | 2013/03/09 07:20

妙手 という言葉があります

理に則った ことは 妙手 にある

ひとりでに、出来事がその理に乗っていく 、、、、

ユダ の行い( に対する解釈 )も
正理 = 真理 に外れることはありません

どのように 則 って いるかは、
理を知ると分かる

ブッダ とは、
真理をしって、真理の道にある者  という意味です

キリスト( コーラン )に こだわる理由はありますか ?

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/09 00:43

magagiok様
>ということは、聖書かコーランのどちらかが嘘となりますよね。大問題ですね。

嘘というよりも、明らかにできない神界の秘め事のようですね。

整合性3:ペテロは「あの男は知らない」と否認した。

真実はユダが一番知っていたことになりますが、彼もまもなく死にました。

このネタは重大かつ、これ以上は憶測になるので止論と致したく。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/08 23:46

は〜、びっくり仰天です。そうなっているのですか。

ということは、聖書かコーランのどちらかが嘘となりますよね。大問題ですね。

>何故、アッラーがこのようなイベント(十字架の刑)をイエスの中止の懇願も無視して実行したのか?
今のところイスラム教テキスト(コーラン)にて私は見出せておりません。

コーランにも、すっきりしない面があるのですね。

なんだかなあ〜。

投稿: magagiok | 2013/03/08 21:49

ミチ先生、住人各位

イエス(イーサー)をこの世に出した天の父(アッラー)からの回答は実にシンプルで論理的です。

回答:十字架にかけられたのはイエスに似た別の男

整合性1:天の父の命であれば死を厭わないイエスがゲッセマネにて身もだえして苦しんだ。
整合性2:最期の神の救いを期待していたが裏切られた十字架上での人物の台詞。

何故、アッラーがこのようなイベント(十字架の刑)をイエスの中止の懇願も無視して実行したのか?
今のところイスラム教テキスト(コーラン)にて私は見出せておりません。

今後、イスラム教徒の人口がキリスト教徒を上回るそうですが、両者の争いの回避は難しそうです。

クリスチャンの春間さんのコメントもお待ちしております。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/08 18:40

>「呪われている」民衆の位置に立ち、否、むしろ自ら「呪い」となって十字架にかけられ、人にも神にも見捨てられ、孤独な中に凄絶な死を遂げたが故にこそ、「神の子」として受容されたのである。


自ら呪いとなる、とはどういうことなんでしょうね。

人にも神にも見捨てられたことが、それでなぜ神の子とされるのでしょう。

説明不足という感がしますよね。

投稿: magagiok | 2013/03/08 11:45

前世は一在家さま

>(マルコ15:34) (マタイ27:46)
>「わが神、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか。」と十字架上にて大声で。

富岡幸一郎氏『使徒的人間―カール・バルト―』を読んで、ここの解釈に「へぇ~」と驚いたのですが、イエスに起こったことは、神が自由な意志で人間の姿をとって、罪人の一人となったことだ、とあったことです。

また、荒井献氏によりますと、マルコ福音書によって解釈していますが、マルコの言いたかったことは、次のようなものではないかと言うのです。

『イエス・キリストを語る(上)』(p.185)から引用してみますね。

何よりもイエスが、地上にあって、「律法を知らない」「不浄な民」として差別され「呪われている」民衆の位置に立ち、否、むしろ自ら「呪い」となって十字架にかけられ、人にも神にも見捨てられ、孤独な中に凄絶な死を遂げたが故にこそ、「神の子」として受容されたのである。しかもそのことは、ペトロをはじめとするイエスの弟子によってではなく、ユダヤ人あるいはユダヤ人キリスト者にとっては「敵」であるローマ軍の隊長によって、はじめて告白された。こうして「神の子イエス・キリストの福音」は、十字架によって敵意を滅ぼし(エフェソ2・16)、民族主権主義を超えて万民のものとなる。

このようなマルコのメッセージを、読むとるべきだと、荒井氏は述べています。

イエスと神の間だけではなく、ユダヤの民の「貶まれている人々」にまで、いや、「敵」とされる人々にまで、視野を広げて読む、ここに、キリスト教の発展があるなあと思いました。

わたしも、このイエスの最期のことばの中に、神への信頼を読まない方がよい、という荒井氏の解釈に、共感します。

「人の子」イエスは、あくまでも神の僕(しもべ)となることによって、「神の子」とされる、という感覚が大事であるように思いますが、むずかしいので、もう少し考えてみます。
すごく、むずかしいですね。

投稿: 管理人エム | 2013/03/08 09:51

Santaさま

遅くなってすみません。

ミトラス教のお話し、ありがとうございました。
牛を屠るという儀式については、何かちょっとだけ聞いたことがあります。

>牛はそのままでは太陽の周りを左回転する、退廃や無明、罪の象徴としてある、ということになりましょうか。

そうなんですね。興味深いですね。
一時さかんに信仰されていたということも読みましたが、今ではほとんど知られなくなってしまったのも、これまた、興味深いです。

これまでに消えてしまった宗教はどれだけあるんだろうと思います。
逆に、キリスト教とイスラム教で、人口の半分以上を占めている今日も、希有なことなのかな、と思ったりもします。

投稿: 管理人エム | 2013/03/08 03:33

santa様

キリスト教テキストから見れば、イエスと天の父との意思の相違が現れております。
(マルコ14:36) (ルカ22:42)
「アバ、父よ、あなたにできないことはありません。私からこの盃を取り除いて下さい。」とゲッセマネで苦しみもだえながら懇願。
 ※この盃=十字架での処刑

この2千年の間、多くのクリスチャン達が殉教しました。命よりも信仰が重かったからでしょう。
ましてイエスが自身の処刑(十字架)を恐れるはずもございません。別の理由があったので苦しみもだえられたのでしょう。

その別の理由をアッラーは啓示し、コーランに記載されておりますが、それも原因でキリスト教徒とイスラム教徒とは争っております。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/06 17:14

>「わが神、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか。」と十字架上にて大声で。

詩篇(第22篇)を唱え始めて事切れた、という話ですが、もしそういうことが実際にあったとすれば、主が全ての国々を統べるように、と祈願すると共に、自らの救いも祈願したのでしょう。実際のところは分かりませんが。

投稿: santa | 2013/03/05 16:55

>ここは、よくわかりません。よかったら、ミトラス教との関係をもう少しくわしく教えてください。

信仰や思想などが宗教化するときには、教義や儀礼などを備えなければなりませんが、ミトラス教の教義は実際、キリスト教(カトリック)に吸収されてしまったのか、ほとんど見る(知る)ことができません。キュモンやフェルマースレンといった考古学のこの分野の先達がしているのは、ほとんどイコノロジーで、それ以上の知識は得るのが難しい状況です。しかし、石に彫られて残されたイコンや文などから、ミトラス神は太陽神の使者で仲介神とされていたようです。牛は古代においては、木星を象徴していたようですが、その牛を屠るという象徴的な儀礼は、実際行われていたかどうかはわかりませんが、太陽の自転の方向、つまり時計回りを得るためのものだったと考えられます。牛はそのままでは太陽の周りを左回転する、退廃や無明、罪の象徴としてある、ということになりましょうか。

>神の業としたかったということでしょうか。

たぶんそうでしょう。

投稿: santa | 2013/03/05 15:37

>「わが神、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか。」と十字架上にて大声で。

そうですよね。変ですよね。

死を受け入れたようで、でも、死にたくはなかったのでしょうか。

人の子として遣わされた神の子だから、と説明されるのでしょうか。

投稿: magagiok | 2013/03/05 11:51

>(わたしが)信じると、思想的に、世界(ローカ)のバランスが崩れるような気がするからです。

はぁー、そういう感覚は私にはないですが、そうか、人にはそういうのもあるんだなぁー、と思いました。

投稿: magagiok | 2013/03/05 11:20

神の作りたもう 種 に、
血肉に囚われるモノが 、 
よい・悪い  の 商量 を 起こす

悪魔でさえ、神の作りたもうた種 です

よい働きを為すかどうかは、耕し方に拠る、畑によります

神は、そのものの 働きを想定して、
ミを作りたもう

よい 畑に 悪いた種をまきますか ?
( よい 畑は よい心をもたなければ、耕すことはできません )
( 耕されて、(よい) 畑に なる )
( 荒れ地という概念は、耕す畑がなければ、 成り立ちません 、、、、 )

ハタ  とは何か ?   ハタ ト カンガエル   、、、、、


ミ とは 血肉 の ことです
一粒の種 が  血肉 です 

それが理解できない者には、
ぶどう酒とパン  とは、 悪魔の腹を満たす、一時の快楽の対象に過ぎません

血肉 は、 神よりもたらされて、悪魔の手に渡り、
それを受け取る者の 血肉となります

荒れ地を耕しても、種をまかなければ、
荒れ地に過ぎません

(  耕すには、収穫を想定 し 、 収穫には 実りがあります  )


ミノリ  を 聞くことは 難しい ( Dmp.182 )

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/05 08:49

ミチ先生、住人各位、おはようございます。

>イエスが旧約聖書の予言どおりに殺される、その死を受け入れることの正当性を表現するための比喩としては、どうなのかなあ、(中略)。
>それと同じ気持ちは、イエスが人類の罪の贖罪として十字架に処せられたという説明にも生じます。

私もどうなのかな、と思っております。
イエスは「良い種には良い実」、「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」と説かれ、これは因果の法かと存じます。
つまり、衆生が蒔いた悪カルマをイエスの十字架で代わりに消すのでは、因果の法に反するでしょう。

キリスト教テキストから見れば、イエスと天の父との意思の相違が現れております。
(マルコ14:36) (ルカ22:42)
「アバ、父よ、あなたにできないことはありません。私からこの盃を取り除いて下さい。」とゲッセマネで苦るしみもだえながら懇願。
 ※この盃=十字架での処刑

(マルコ15:34) (マタイ27:46)
「わが神、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか。」と十字架上にて大声で。

投稿: 前世は一在家 | 2013/03/05 08:02

magagiokさま

>わたしは、たとえ、ほんとうに神がいても(?)(この感覚、わかりますか)、

「神は存在するから、わたしは神を信ずる」という信仰の仕方は、とらない、と言ったらいいのかな。。

投稿: 管理人エム | 2013/03/05 07:26

oさま

> バルト面白いですね。神学の解釈史が分かってないと分からないことばかりですが。

わたしも、知り始めたところで、ものすごく興味があります。
神学の解釈史は、よくわからないので、ブッダ論理を使ってます。

キリスト教は、人間が、聖書をいかに読み込むか、という壮大な思想的実験の歴史であるようにも思います。

カール・バルトのあたりを中心にして、ユダヤ教とキリスト教は、互いに新しい関係を結ぶことになるのではないか、という、漠然とした印象をもっています。

もう少し勉強してみます。

投稿: 管理人エム | 2013/03/05 07:17

magagiokさま

ちょっと、なんとコメントしたらよいかわかりませんが、magagiokさまの気持ち、わかるところが多くあります。

わたしは、たとえ、ほんとうに神がいても(?)(この感覚、わかりますか)、信じないことが悪魔の業であろうと、自分は信じないと思います。

(わたしが)信じると、思想的に、世界(ローカ)のバランスが崩れるような気がするからです。
その意味では、magagiokさまのように、心を主としています。
キリスト教も心を主としてはいるでしょうけど。

>信念を曲げて権力に迎合したら、それはいずれ廃れる、信念を貫いてこそ多くの実を結ぶ、それだけで意味が分かりますよね。

そうですね。そうやって、キリスト教は続いて来ましたね。ユダヤ教も。

キリスト教は、また、ユダヤ教は、殉教によって存続してきた、とも言えるのかもしれません。

なかなか、すごい歴史ですよね。

キリスト教を考えると、素直にことばを出すこともためらわれますね。なかなか、するっと、ことばが出てきません。


投稿: 管理人エム | 2013/03/05 07:07

エム先生、

 バルト面白いですね。神学の解釈史が分かってないと分からないことばかりですが。

 『ロマ書』第二版序文の文献学との兼合いが興味深いですね。やはり、マテリアルな本文だけではどうしようもない。で、解釈するわけですが、その解釈の妥当性をバルトはどこに持っているのか、まだ分かりません。

 そこに一番興味あります。

投稿: o | 2013/03/04 10:06

> 信念を曲げて

あなたの信念が曲がっていないという信念を持つのなら、
その信念の持ちようは、
テルゼ 様  と 同じになります


あなたの真っ直ぐ が 
曲がっていたならば、
真っ直ぐな  信(真)念 は、 
曲がって    真直 ではなく捉えられます


真っ直ぐが
どこにも存在しないということ を、

「 無我 」 という  教えで説くのです

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/04 08:00

>でも、思想のせいにするという点からすると、キリスト教の思想は、ずいぶんむずかしいことになりそうに思います。

すべては神の御心による、神が主ということを信じることができる感性による、と私は思っています。

そして私には、その感性は少ないようです。全くないわけではないですが。

すべては、自らの心による、心が主という考え方に私はより強く共感しています。

スマナサーラ長老が、主なる神が存在するなら、キリスト教は当然に正しい、というようなことを言ったのを聞いた記憶がありますが、まさしくそのとおりで、だから、主なる神の存在を信じられる人には、キリスト教は問題なく正しいのでしょうね。

その感性の希薄な私には、なんでそれで納得できるのか、それを信じようとすることができるのか不思議に感じることがあります。

一粒の麦が、地に落ちて「死んでこそ」多くの実を結ぶ、という例えは、私の感性でも、それは変で、地に落ちて「死なずに生き残っているから」芽が出て多くの実を結ぶのだと捉えます。

イエスが旧約聖書の予言どおりに殺される、その死を受け入れることの正当性を表現するための比喩としては、どうなのかなあ、適切と言い切れるかなあ、というちょっとすっきりしない気持ちが生じます。

それと同じ気持ちは、イエスが人類の罪の贖罪として十字架に処せられたという説明にも生じます。

それが私の感性なのでしょう。

ちょっと思い出したのですが、千利休が秀吉に謝ることを拒否して切腹を受け入れるシーンで、信念を貫いてここで死んでこそ私の茶道は永遠に残る、と言ったドラマを見たことがあります。

信念を曲げて権力に迎合したら、それはいずれ廃れる、信念を貫いてこそ多くの実を結ぶ、それだけで意味が分かりますよね。

投稿: magagiok | 2013/03/04 07:24

Santaさま

>聖書記者はどうしても死ぬことをその後に来る豊饒の条件としたかったのでしょう。

神の業としたかったということでしょうか。
ミトラス教の方は、ほとんど知らないのですが、そうですか、牛を屠っていたんですね。

>仏教的に言えば貪・瞋・痴を殺害して無明を滅ぼし、涅槃に赴く、といった所でしょうか。

ここは、よくわかりません。よかったら、ミトラス教との関係をもう少しくわしく教えてください。

投稿: 管理人エム | 2013/03/03 20:27

magagiokさま

まったくの正論ですねぇ。
ほんとうにそう思います。

このような思想は、ちょっと言い方を変えるだけで、ちょっと重心を移動させるだけで、ずいぶん変わってしまいます。

>仏教者としては、仏教の輪廻思想をちゃんと知ったうえで、その輪廻思想を云々すべきであり、中途半端な知識で、輪廻思想の有害性を指摘するから、ややこしくなるのですよね。

ほんと!そう思います。
やはり、思想が出てくる必然性や原因をよく知って、より良く正しく使うことにより、思想は生きてくると思いますね。

magagiokさま、冴えてるなあ。
思想だけのせいにしてはいけないですね。そうやって、思想を封ずるのは、横暴ですね。

でも、思想のせいにするという点からすると、キリスト教の思想は、ずいぶんむずかしいことになりそうに思います。

いかに思想を生かしていくかも、われわれの智慧ですよね。
あらゆる思想は、よい面と悪い面をもっているのですから。

投稿: 管理人エム | 2013/03/03 20:22

麦として死ぬ、という言い方は普通、しないのではないかというのは同感です。聖書記者はどうしても死ぬことをその後に来る豊饒の条件としたかったのでしょう。思い出すのはミトラス神の英雄的な牛屠りが豊饒をもたらす、というミトラス教の教義のことです。仏教的に言えば貪・瞋・痴を殺害して無明を滅ぼし、涅槃に赴く、といった所でしょうか。

投稿: santa | 2013/03/02 19:08

輪廻思想をちゃんと知って、それを正しく使うことが大事であり、それが悪用されたことを根拠に、輪廻思想など仏教にはないほうがいい、という短絡的な思考をする人がいるようですね。

そんなこと言い出したら、自らの命を投げ出してこそ神によって永遠の命を得るという思想も悪用されましたから、ないほうがいい、ということになってしまいますね。

仏教者としては、仏教の輪廻思想をちゃんと知ったうえで、その輪廻思想を云々すべきであり、中途半端な知識で、輪廻思想の有害性を指摘するから、ややこしくなるのですよね。

神にすがるということも、輪廻思想も、どちらも人の感性の産物だと私は思っています。

もちろん、どちらもそれが事実、真実である可能性を私は否定しません。

投稿: magagiok | 2013/03/02 07:46

輪廻思想が悪用されたのと同様に、死んでこそ、自らの命を投げ出してこそ多くの実を結ぶ、永遠の命を得る、という思想も悪用されてきましたよね。

人ってやつは‥、ですね。

投稿: magagiok | 2013/03/02 07:08

Santaさま こんばんは。

>一粒の麦が地面に落下して死ななければ、芽は出ないというのが正しい言い方ではないでしょうか?一粒の麦として死ぬ、ということが、種となる条件であり、種になることによって永遠の生命を得る、と理解していました。

ん?どれどれ、どんな感じになりますか。

「麦として死ぬ」→「種となる」→「芽が出る」(=永遠の命を得る)

こうでしょうか。
「種となる」が、挿入されるのですね。
イエスの喩えは、象徴的な意味合いもありますね。

大事なことは、「麦として死ぬ」ことですよね。
(種と)芽のことは、わたしが、仏教的に解釈するために補ったので、キリスト教的には、合わない部分もあるかもしれません。

麦として死んでしまったら、後は、神さまのなさる業なので、わたしたちは、黙ってみているだけかもしれませんね。
それで、ただ、イエスは、「死ねば多くの実を結ぶ」とだけいうのかもしれません。

一方、キリスト教を離れて

自然に観察するときは、麦が地に落ちて(死なないなら)、麦は、同時に、種だから、そこで芽が出るだろう、と、みました。

麦が地に落ちても芽がでてこないとき、「この麦、死んでるね」って、言うんじゃないかと思ったのです。

「麦として死ぬ」とは、ふつうは言わないかなと思ったのですが、どうでしょうか。

麦として死んで、種になって、芽が出る、という風に考えるなら、一段階、概念的な操作が入りますね。自然界としては、そう説明しても成り立ちます。

が、
「芽が出る」を「永遠の命を得る」とするなら、この文はキリスト教の解釈になるのでしょうか。

投稿: 管理人エム | 2013/03/02 01:38

種 だけでは 
永遠の生命   には ありません( を 得ることはありません )

法華経にあるように、
法雲 が 必須 となります

必要に応じて(因があって)
雨を降らせる(縁がある)


因縁があって、

死があり(生があり)
死があって、生命があります( 生があるから死があります )

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/01 17:09

一粒の麦が地面に落下して死ななければ、芽は出ないというのが正しい言い方ではないでしょうか?一粒の麦として死ぬ、ということが、種となる条件であり、種になることによって永遠の生命を得る、と理解していました。

投稿: santa | 2013/03/01 16:33

>モウシラナイ !    

わ、 ばくはつ しますた

わたすも シラナイ ! 

投稿: 管理人エム | 2013/03/01 16:15

しれない

ことは
知られない  

知られないかもしれない

モウシラナイ !   

投稿:  春間 則廣  | 2013/03/01 10:09

前世は一在家さま 

>その時、元の種はどこにも無いので「死んだ」とも言えます。

そう、そうです。そうも言えます。
「死」というのには、いろんな意味を見出すことができるなあ、と、すごく考えてしまいました。

ここに「死」を見ると、花を咲かせ、実を結ばせるのは、神の業というようにも、言えなくもないです。

>種と実とは異なるようで異ならず、不一不異でしょう。

第一義諦ですね。このあたりになりますと、神の業から、脱出してきましょうか、どうでしょう。
考えると、頭が痛いです(笑)。

>次に実は種となり、これの繰り返しは輪廻に似ておりますね。

そうですね。
なので、「一粒の麦」を輪廻との接点としてみたのですが。
インドの輪廻思想では、麦や米や豆の中に、輪廻のもとになるアートマン(魂)が入って、それを食べた男性の精子の中にアートマンが移行することによって輪廻していくと考えられたりもします。

>この植物の輪廻が動物、人間に無いというのは不思議でしょう。

そうですねぇ、ほんと。
先ほどのインドの古い輪廻思想も、植物を媒介にして動物も輪廻する、という思想になっています。
動物の輪廻は、ブッダの見つけたごとく、貪欲などの渇愛だ、というのは、もっともなことのように思われますね。

一度しっかり輪廻のメカニズムを検討しなくちゃだめですね。

課題ができたわ、ありがとうございます。 


投稿: 管理人エム | 2013/02/28 12:56

春間さま

>神に出会うとは、
>神を品定めすることと変わりありません

いさぎよいくらい、すっきりしたお答えで、ありがとうございます。

あらためて、ふりかえって考えてみたいと思います。

>あるから、(聞いて知ろうとする限り)
>( あなたには )
>わたしの 「行」 を そのまま見ることができないわけです

申し訳ありません。


>あなたが神です 、、、、

「申し訳ない」という 思いをもつ 神、、、、
って

もう少し、なんとかなりませんかね、わたし。

春間さま、ありがと。

投稿: 管理人エム | 2013/02/28 11:51

> 種が地に蒔かれて発芽すればやがて花や実を結びます
> 種となり、これの繰り返しは輪廻に似ております

輪廻 というのは、
誕生と( 成長と ) 死 と 同じことであり、違うことです
人であることの確認が 「 輪廻 」 です
(同じということは、違いが見つけられないという意味を含みます )

すべての(有情の)細胞には、
    “DNA が 存在”  しています
これは、 “如来    蔵 ”と 呼んでも構いません
ひとつの DNA が 一つの仏世界 です

一つとして、同じ DNA は (違う個体には)ありません
同じ個体に、違うDNA は 存在できない仕組みになっています 、、、、
これが、平等(一味)の意味です

( 同じだと思うのは、違いが見えない  からです 、、、、 )
( 違う と思うのは、同じところを見ないからです 、、、、 )

(ひとつの DNA が)
どのように展開しているかは、
展開のさせ方によって、違って見えます

話題を変え、論の展開を違えれば、
言っていることは違うことのように受け止められます

生きている様をいつも言っているのです 、、、、
( 聞くところは生きざまにあり、開くところも生きざまになります )


 


違いがなければ、同じは見えない

これが分かれば、それがわかる

ソレ (ル)トコロ ( ココ ロ )ヲ シルト
「 縁起 」 の 「 理 」 は 
すぐ横(心中即近)にあると分かります

投稿:  春間 則廣  | 2013/02/28 07:40

ミチ先生、春間様、こん**は。

>一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
> 一粒のままである。
> だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

種が地に蒔かれて発芽すればやがて花や実を結びます。
その時、元の種はどこにも無いので「死んだ」とも言えます。

種と実とは異なるようで異ならず、不一不異でしょう。
それは桜の種は桜の実(サクランボ)になり、栗ではないので分かるでしょう。

次に実は種となり、これの繰り返しは輪廻に似ておりますね。
この植物の輪廻が動物、人間に無いというのは不思議でしょう。

投稿: 前世は一在家 | 2013/02/28 00:40

出会っているのが、あなたの神、です

神に出会うとは、
神を品定めすることと変わりありません

あなたの神は、あなたが望むようにその姿を変える
あなたに(も)なる 、、、、

出会っているのは、あなたです 、、、、

“わたし” に 出会う 、、、、

> 「神」に対するアプローチの仕方

あなたがアプローチするのではなく
カミがあなたにアプローチしています

あなたが神です 、、、、

> を、聞き取りたかったというのがほんとうかもしれません

かもしれないこと を 前提に、かもしれない事 を 積むと
どうなるか想像つきますか ?

想像を絶することが起きている 、、、、

起きて いて  も、
起きているか  も   しれない 、、、、


投稿:  春間 則廣  | 2013/02/27 22:57

>あなたは聞いて
>(分かろうと)判断しようと します

うーん、たぶん、今回は、それはダメだろうと思っていましたから、そういうことでもなかったのです。

>神に出会うまでは、神の姿を見ることはありません

ここを読んで、出会えるものなのか、といいますか、出会ってもいいのか、というように思ったのです。

わたしが出会っていないのは、ただ、出会おうとも何も思ったことがないからでもありますけど、神について語ることは、それは、わたしたちにとって、ひじょうにむずかしいことになると思うのです。

カール・バルトという人が、
「われわれが「神」というとき、自らその意味を知っていると思っている。われわれは世界における最高の地位を神にあてがう。それは原則的にわれわれや事物と同一線上に置くことである。…」というように、述べています。(『ローマ書』)

人間の側が、神に近づいて、自己の意識の中に神をもってしまうことを、いましめているのだと思います。

神に出会っても、いいのですが、出会っても、どうにもならんのが、神なんじゃないかとも、思うわけです。

神と人との間には、一線がしかれてしまうのではないか、ということなのです。

>あるから、(聞いて知ろうとする限り)
>( あなたには )
>わたしの 「行」 を そのまま見ることができないわけです

まあ、そうですね。
聞いて知りたいことは、
というより、
神に出会ったことがありますか、という問いに、対する、「答え方」を見てみたかったということかもしれません。

知識がほしかったわけではなくて、春間さまの「神」に対するアプローチの仕方を、聞き取りたかったというのがほんとうかもしれません。


投稿: 管理人エム | 2013/02/27 22:11

あなたは聞いて
(分かろうと)判断しようと します

ブッダに出会う

出会うとどのようになるか
聞いて分かろうとする

砂糖は甘い
甘いモノを食したことがないモノが、
砂糖の味をいかに知るか ?

聞いて分かりますか ?

塩 は(塩)辛い
辛いモノを食べた事がないモノが、砂糖と塩との差を、
聞いて分かりますか ?

どちらも
(我が)身の中にある味ですから、
食したことがないモノはいないのですけれど 、、、、


喩えとしてなら、分かるかもしれません
( 分かりたくないモノには、理解は訪れない )


わたしは、文章を一読しただけで、
その文章を構成する、その者の 生が、
いかようにあるかが分かります

聞く必要はありません

言葉で、状態が(知識として)分かるのではなく、
言葉という 「 行 」 を
       ありのままに観ることができるからです

もちろん、
そこまで分かるわけですから、
言葉の 習熟度も、一読で分かります


但し、 見ていることと、
見ているモノを言葉で表すこと とには、乖離があります

あるから、(聞いて知ろうとする限り)
( あなたには )
わたしの 「行」 を そのまま見ることができないわけです

( ここにある 乖離 = 飛躍 が 読みとれれば、ソウトウノリカイリョク です )

投稿:  春間 則廣  | 2013/02/27 19:14

> 神に出会いましたか。
> また、摂理を知りましたか。

過去形 ですか ?
過去完了形  ですか ?

現在進行形  です 、、、、


あなたに出会って、わたしに出会う
わたしに出会って、わたしを知る

投稿:  春間 則廣  | 2013/02/27 14:54

>ニンゲンケンカ  かも 、、、、

とくれば、

ひつよーだ、っとなりますにゃん!

投稿: 管理人エム | 2013/02/27 14:27

春間さま

>神に出会うまでは、神の姿を見ることはありません
>摂理を知るまでは、摂理を知ることはありません

もし、神に出会わなくても、摂理を知らなくても、語るすべを、ブッダは教えてくれました。

あるがまま

というのです。

無明にある人が、採用できる数少ない「ものの見方」です。


ところで、春間さま、

春間さまは、神に出会いましたか。
また、摂理を知りましたか。

わたしは、神には出会っていないですが、摂理の方は、なし崩し的に雪崩うってくることを、知っているかもしれません。気のせいかもしれませんが。

投稿: 管理人エム | 2013/02/27 14:25

> そこを信じます。

独りのモノなら信じる意味はない
共有できていないところに、一緒に住む = 共有

生きているということが 「 有 」 です

足場は共有されていても、
理解は共有できていない

共有できない理解の元で語ると、
あなたと共有するモノが(語れ)なくなる

ここを見ている   と いっても、
そこを見ています  と いう

ニゲンカ とは ニンゲンカ かな ?

ニンゲンケンカ  かも 、、、、

投稿:  春間 則廣  | 2013/02/27 13:52

>「死」 ・ 「復活」 ・ 「原罪」 
>どの一つを取り上げても、あなたが知っている理解は、
>あなた以外には ありません
>( 共有すると錯誤するのは 自由 = 摂理 です )

共有するかしないかは、問題ではありません。
聖書と名づけられるものは、万人に開かれている、という、そこを信じます。

いろいろな人が、それこそ、いろいろに述べているのを、わたしは読みました。それぞれにそれぞれの真実を。

無数に行きかう思惟の混濁の中で、ブッダを基準にすると、何が出てくるのか、ということだと思います。

観察と推論

ここに足場があると思います。

輪廻と涅槃には区別がない

ということを知るならば、宗教がどのようであれ、見えてくるものがあります。

人というものです。

そこを見ています。


投稿: 管理人エム | 2013/02/27 13:14

キリスト教 とは、
確立されている概念 では ありません
確立されている概念 を  「真意」 と いいます


カトリック   も あれば、
プロテスタント も あります
( 異端 ? である )グノーシス もあります

自らにおいて、理解と信仰を 峻別できるのなら、
真意は自らの元にあります

あなたの理解する( 信仰する ) キリスト教 も あります

真実に基づく、 わたしのイエスがいます

「死」 ・ 「復活」 ・ 「原罪」 
どの一つを取り上げても、あなたが知っている理解は、
あなた以外には ありません
( 共有すると錯誤するのは 自由 = 摂理 です )

縁起に基づかない
言葉は働きを為しません
( よしんば為しても、理に乗って理解されません )


このことは、宗教を超えて

「 摂理 」 です ( 自由との関連が分かれば、“真”意 を知る )
(  真意 とは 摂理 です  )

この 「摂理」 とは “ Providence ” ですが、
“divine  providence” としてもかまいません

神に出会うまでは、神の姿を見ることはありません
摂理を知るまでは、摂理を知ることはありません

分かるまでは分からない

これは、宗教を超えた 約束事です


投稿: 春間 則廣 | 2013/02/27 12:15

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