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2012年9月

2012/09/30

なぜ、いま瞑想なのか、な

11

『サンガジャパン Vol.⑪』「なぜ、いま瞑想なのか」

何か、また、タイムリーに瞑想についての特集が組まれました。

「タイムリー」というのは、マニカナの掲示板でも話題になったからです。


全部は、読んでいませんが、
「瞑想」で気になるものをいろいろ拾い読みしています。

個人的には、

★テーラワーダ仏教の系統の瞑想の いろいろ
(スマ長老、ナラテボー長老)

★ネルケ無方禅師による大乗仏教の系統の 坐禅

★ティク・ナット・ハン禅師の正念(気づき)の瞑想

など、現在行われている瞑想の方法を、垣間見て、
おもしろく思いました。


            「瞑想」


ということば、非常に包括的ですね。
でも、これで、いいのだな、と思います。

「生活」の一切と、深く関わっていることが、よくわかるからです。

「哲学」や「思想」だけの一切ではなく、

「生活」や「生き方」の一切に関わるように、特集は組まれています。


ですから、特別に何かをする(たとえば、坐る)ことが、瞑想ではなく、
ありとあらゆるところで、「瞑想」が行われている、ということがわかります。

            ◇◇◇

大きなテーマは、「気づく」 ということですね。

ここに「瞑想」のありかをみているのが、’現代的な’瞑想なのかもしれません。

テーラワーダ仏教の瞑想法が、大きく影響を及ぼしているのでしょう。

「気づき」は、ヴィパッサナー(観察)瞑想ともかかわるからです。

            ◇◇◇

このように、『サンガジャパン vol.⑪』を概観したあと、

あとは、自分の関心にそって、あれこれ思いをめぐらしています。


わたしは、ブッダの説く瞑想だけではなく

インド哲学における瞑想  
とくに、
ヨーガ学派の説くヨーガ
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派のヨーガ

にも興味があります。


なぜなら、明らかに「哲学」や「思想」が異なっているからです。

生活?

過去に生きた インドの沙門たち、インドの比丘たち、インドの遊行者たち

かれらは、およそみな似たような生活をしているように思われます。
書物、伝承から知られるものは、それほど変わりがないようです。
詳しく調べるとちがうかもしれませんが、それを示す資料がありません。

多少ゆるやかな戒を守りながら 修行する 僧院の修行者
厳しい戒律に我が身を縛りながら 遊行する 頭陀行の修行者

かれらは、みな、尊敬すべき沙門・バラモン であったことでしょう。


それなのに、それなのに、

仏教と 非仏教(バラモン教)の 思想は、大きくちがうのです。

圧倒的に違う、その差を無視してしまうことは、
わたしにはできないので、

とうとう、今回、意を決して『梵網経』を取り上げてみました。
(「瞑想と学説を乗り越えて」というタイトルで書きました)

比べる さまざまな見解は、みな、ここにある!

と思ったからです。


つまり、わたしの中にある 一つのことがらは、こうなのです。

瞑想も、また、思想と同じように、種々であって、
それだけのものである。


この、「それだけのものである」ということが、わたしには、大事なことです。

思想をぜったい的な真理と、すぐには考えないように
瞑想もまた、ぜったい的な生き方の基準にならない

ここをはっきりさせたかったのです。

『梵網経』の中で
ブッダの取り上げた六十二の見解(思想)は、
全部が全部、瞑想をともなっている、といってもいいのです。

中には、「思索」「推論」による思想もありますが、これとて、
瞑想皆無といえないのが、インドです。

ですから、たとえ、
瞑想によっていかなる見解が出てこようとも
つまり
瞑想がいかなる真理へと導びくように見えようとも
それだけで、真理かどうか、わからない、ということなのです。

言い換えれば、
そこにおいて「生きること」を見出しうるかどうか
決めかねてしまうのです。

わたし的には、瞑想は、すなわち、生活そのものというなら、
その中には、「生き方」を示す思想をもっていなければならない、
と思っています。

瞑想と生き方と思想 
かりに三つを取り上げるなら、
三つは、一つのことがらを異なる角度から照らすもの、と考えます。

三つがひとしく一つのことがらを指しているとき、
一貫した論理があるでしょう。
だから、三つの中に一つの論理が見えるはず。。

そうであるとき、
ブッダの、
瞑想・生き方・思想が気になります。


『梵網経』で述べる ブッダの 「生き方」は、

あらゆる見解を、すべて手中に収めているけれども
それらを捨てて、寂静にある

という、

じつは、見解も瞑想も、さらには、生きることすら 乗り越えた姿にある、
ということだろうと見ています。

見解:捨ててる  自己ならざるもの
瞑想:心解脱    自己ならざるもの 
生き方:他に縁る 自己ならざるもの

一貫してる!
すばらしい。。。けど

こういう「生き方」は、いわゆる、生きている、という生き方ではないかもしれませんね。


            ◇◇◇

そこまでいかないわたしたち。

瞑想もさまざまに、思想もさまざまに、生き方もさまざまに

そんな風に、生きていくのでしょう。。。

あら、まとまることはまとまったけど、
なんか、さびしかね。。ええんですかね、こんなんで。

意欲満々で書こうとしてたのに。。
せめて、こんな写真で景気づけ。
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2012/09/26

聖者はひとりぼっち

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これは、何というお花でしょう。
あまりにも見事なので、思わずぱちり。 南国の花?

もう一枚、少し下がったところから。
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完全無欠、ということばが浮かびそうなくらい完成してます。

さて、寝ながら、起きようとして、いろいろ考えていました。

よくあることですけど。

そうしたら、


聖者はひとりぼっち


ということばが、ポッと浮かんできました。

なるほど、聖者は、ひとりぼっちだなあと思います。


十字架にかけられたイエスは、十字架にいたから、
ひとりぼっちだったのではない。

人々の中に入っていったから、ひとりぼっちだったのだろう。


涅槃にいるブッダは、涅槃にいるから、
ひとりぼっちなのではない。

遊行するから、ひとりぼっちなのである。


歩いている姿というのは、ひとりぼっちなのである。

たとえば、畑を歩く宮沢賢治は、ひとりぼっちなのである。


歩いていかねばならない人は、いつでも、ひとりぼっちなのである。


そうか!

プラティエーカ・ブッダ(独覚)という人たちも知られている。

ただ独りで悟る者、教えをとくにとかない者たちのことです。

かれらは、「独り」で悟り、他の人に教えを説かないので、
ひとりぼっちのはずなのだけれど、

わたしには、あまり、ひとりぼっち、という感じが起こらない。


かれらは、きっとどこにも行かないからだろう。
去っていくことがない人々なのだ。


如来(このように来たもの)
如去(このように去ったもの)

いずれも、ブッダのことを指していうことばです。

来たり、去ったりして、しまうのは、歩いているからである。

歩いていくものは、ひとりぼっちなのである。


だからこそ、わたしたちは、如来を求めて涙するのかもしれないね。


どこに行くのでもない、どこから来るのでもない(不去不来)


そんな風に、「般若経典」で、如来を説明するのも、

如来は、ひとりぼっち、と知っているからだろうね。

===

煩悩と、中道が、微妙に絡むところに、

如来が、一瞬、たたずんで見える のかな。。

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独りいく宮沢賢治。
だけど、じっと見ると、
不去不来。。たたずんでいるようにもみえるね。

このご本を、ときどき出しては読んでいます。
西郷竹彦氏『宮沢賢治「二相ゆらぎ」の世界』です。

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2012/09/15

闇をはらう、ろんりのコトバを語ろう

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ワンパターンのこのことば、暑いです。
ワンパターンのこのことば、忙しいです。

これから、明日の予習をしますが、その前に、日記でも書こうっと。
すごいよね!
昨日も書いたのだ、エッヘン。。って、いばるほどのことでもありませんが。
一週間に一度は更新したい、このブログ!

わたしは、昨日、山のように、『ビッグ・イシュー』を読みました。
それから、その前に、岡本法治さまのお書きになったエッセーなど、
たくさん読みました。

岡本さまとは、「マニカナ」お気楽掲示板に書き込んでいただきましたのが、
ご縁になりました。

で、少々、社会派になったかも。
で、少々、論理派になったかも。

そんなところを一つ。

岡本さまは、広島にいらっしゃる浄土真宗のお坊さまです。

広島の現実を語る一方、
東日本大震災後、現地に入って人々と対話するなど、
全国的に活動されています。

その活動の中で、
「第九条の会 ヒロシマ」の『会報』71号(2011年9月)に
載せられたエッセーがあります。

震災後から戦争前夜へ ~フクシマの闇と、ヒロシマの闇」
(16頁目にあります。)

その中に「ヒロシマの闇」について書かれた部分があります。
平和公園で語り部をなさっている三登浩成さまのお話の抜粋を
あげておられます。

これは、それを、さらに抜粋した、抜粋の抜粋です。
======
「8月6日は、月曜日。8時15分という、
みんなが外に出ている時間を狙って、アメリカは爆弾を落とした。」

「戦後の占領下ではABCCという研究所が作られ、
治療は一切せずに、研究対象とされた。」

「亡くなると解剖され、その内臓が抜き取られ標本にされた。」

「被爆手帳は、一部の人にしか渡されなかった。
しかもそれを受け取ることは、
結婚できないかもしれないということを意味していた。」

「今でも八割の人は、原爆の惨状を語ることができない。」
=====

「お話しの内容は、とても衝撃的なものでした」と綴られていますが、
ほんとに衝撃的なので、ブログにも書いておきます。

書かないと知られていきません。

「66年経っても、ヒロシマは、
まだ闇から解放されていないとのことでした」
と、岡本さまの文章にありますが、
それは、わかります。

このような事実を、被爆国日本に生まれたわたしは、はっきりと知りませんでした。

わたしだけが無知だったかもしれませんが、
しかし、
問題にされてきた様子が見えないのも、確かなことのような。。

フクシマでも、いろいろどうなっているのだろうとは、思ってましたが、
大事な情報が、知られずに闇に葬られている可能性はあるなあ、と
思っています。

『ビッグ・イシュー』には、
震災後のさまざまな人々のさまざまな活動や取り組みが、
今も、さかんに載っていて、わたしには、たいへん貴重な情報源になっています。
よかったら、見てください。

フクシマの子どもたちは、どうしているだろうか、とか、心配になりますね。
いろいろと知ってくださいませよ。
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         ◇◇◇


ヒロシマでも、フクシマでも、大事なことがあると思います。

事実をできるだけたくさん知らせることです。

事実は、認識を通して知られるほかはありません。

一つの事実は、一つの認識から生まれています。
数多くの事実を知らせることで、多面的にものごとが知られます。

情報を隠して、一面的にしか知らせないので、

差別や偏見や、が生まれ

特定の欲望や野望が、人々の心を操作しながら、うごめくことにもなります。


昨日の日記にも書きましたダライ・法王のおことばが、光ります。


「宗教を排して、精神的で、論理的なことについて考えるべき時」


そのときは、   今だ!!


では、最後に、岡本さまのエッセーより。

「ピカに遭った人は、
この世のものとは思えないきれいな光を見たと言われます。
原子の光は美しい。
しかし、それに群がり渦まく権力や欲望の渦は底なしの闇を作って、
やがてわたし達を戦争に導いていきます。
これをを超えていく道は、人間の尊厳を回復し、
誇りをもったコトバをかたりあうことしかないと痛感します。」


わかりました。語るコトバは、論理のコトバ。
論理のコトバを語りましょう。

人々に、あるがままの事実を伝えるコトバを、もちたいです。
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電車は走る。青空の下。。。事実どおりだな、うん。

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2012/09/14

論理的なことについて考えるべき時

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ひさ~しぶりに、『ビッグ・イシュー』を買いました。

しばらく、販売ブースにも行けませんでした。
H田さんとK野さんが、入院・通院中でお休みですので、
M田さん一人でがんばってます。

買いだめしました。6冊です。
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で、197号(2012,08.15)は、ダライ・ラマ14世の特集です。

写真の中のことばを読んでね!

「私は70億人のなかの一人にしかすぎない。
宗教を排して、精神的で、論理的なことについて考えるべき時」

とあります!

一瞬、「倫理的なこと」と読み間違ったかと思いました。

いいのよ、ちゃんと、「論理的」って書いてあります。


なんと!こう言っちゃなんですが、わたしと同じ意見です。
すみません、法王さま、ずうずうしかったですね。

法王さまと同じ意見です、って、直します。いえぃ~


なかの記事を熟読。。

インタヴューの方がこう言っています。
「最近ご自身のツイートで、注目を集めたものがありますね。
『宗教を排して、精神的、論理的なことについて考えるべき時がきた。
ますます私はそう確信する』。そうお考えになる理由はなんでしょう?」


法王さま曰く
「多くの人にとって、宗教とはたんなる日々の儀式であって、
あまり大きな意味をもっていないのかもしれません。
……
 古くから伝えられている精神的な教えや、自然の法則は、
個人にとって計り知れないほど大きな恩恵です。
宗教を真剣にとらえない人々は、
このような知識が足りていないのではないでしょうか?」


なるほど。
単純に、宗教を否定しているわけではなくて、
たんなる儀式として漫然と宗教に寄りかかっている人々に
問題を提起しているのですね。

伝統的な古い精神的な教えや自然の法則とは、
きっと、縁起のことかなあ。。
それは、はっきり述べられませんが、
もう一度、宗教を、見直してみよう、という提言と捉えられますね。

「論理的」というのが、何か、法王さまらしいような。。
理屈に合ったものを、わたしたちは、求めていきましょう、と
70億人の一人として、
語りかけています。


ストレートに伝わりましたよ、わたしには。

法王さま、そうしましょう! そうしましょう!

70億人の二人目が、賛成します。

ちょっと、これから、三匹目も見つけてきます。
にゃんとな、こらこら、君たち、賛成しておくれ!
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にゃんだすか? ろんり。。それ、食べれるもんなの?

ちっ!しょうがないやつ、じゃ、こっちの4匹目は、どうかしら。
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ぐーこ、ぐーこ、ろごーす、ぐーす。。

も、もしかして、ロゴス、って言った?言ったの?

返事ないすね。。猫にロゴス、っていうからなぁ、無理かもね。

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でもね、

世の中に、「論理」ということばあるだけで、
なんとなく幸せな気持ちになる今日この頃。。いいね!ろごす。。

ごろごろすごす、もっといい。。


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2012/09/12

気づきのある毎日 であればなあ

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あっという間に、9月も11日。。9.11ですね。

あの同時多発テロ事件は、いつ、だったんだろう、って、ふと思いました。
2001年だったんだ!
もう11年も経つんですね、

その後、イラク戦争やアフガンとの紛争が起こってくるわけですね。

長い泥沼の紛争や闘争の苦しみが続いていくことになります。

月日だけが過ぎていきますね。

過ぎてくなぁ。。人間は、なんも変わらないけど。。

と、もうろうと考えながら、毎日を何とか生きてます。

9月に入って、ここ一週間、死にものぐるいで、
原稿書いて、採点を仕上げて、やれやれというところです。


ふにゃーーーーーーっ!
つ、つらかったよぉ~~~っ!

『サンガジャパン』と『文芸教育』の原稿は、
本気で
本気で、
つらかったでございます。

いずれも、お釈迦さまがらみ。

お釈迦さま、
お釈迦さまのおかげで、何とか毎日無事に生きていけます、

って、言いたいけど。。。それも、ま、事実なんだけど、
はっきり言えば、
わたしがおシャカになりそうです。

1日24時間しかないのに、1日30時間労働した気分です。

さすがに家族から同情の声があがるほど。。

なんか、いっそう、母が、キリッとしてきました。
介護してる側が、こんなボロボロじゃ、
あてにならないや、ってぇ、思われたかも。

「治れば、手伝ってあげられるんだけどねぇ」
って、言われて、
「おお、おお、治ってぇ~」
と、チョーまじで、期待するわたしです。

これも、逆説的には、一種の治療法??

=====

さて、なんの話をしようと思っていたかと言いますと!

Photo

この本を読んでいるところです。

バンテ・H・グナラタナ長老著 出村佳子氏訳
『マインドフルネス 気づきの瞑想』(サンガ)

瞑想の本は、今や、たくさん出版されていて、
誰でも気にいったものを読むことができます。

本の帯には、「西洋人に語りかけた」とありますので、
西洋の人々の疑問に、よく答えてあるのだと思います。

たしかに、その意味では、
現代人のニーズに応える
瞑想の本の中の一つ。。。

という、感じもするのですが、

しかし、それを乗り越えて、
上座部の仏教の基本姿勢がしっかりと書かれているのがいいです。

瞑想の本は、読んでるだけじゃダメだ
自分で瞑想しなければ意味がない、

というのも、実際だと思うのですが、
しかし、また、

読むだけで、瞑想になる!

という本が、何かほんとうに瞑想の本ではないか、

などと、図々しいことも思います。

そして、この書には、そんな要素も含まれているように思います。

===
ほとんどすべての瞑想法は、
本質的にリラックスすることを目的にしています。
心を集中させることを強調し、心を一つの対象や思考に
集中させるのです。鋭く徹底的に集中するなら、
深い幸福感に満ちたリラックスの状態に至るでしょう。
これが「禅定」(jhAna、ジャーナ)と呼ばれるものです。
===(p.38)

このように述べられ、禅定に到達したら、多くの人は、
これで目的が達成されたと、
残りの人生をその経験をくりかえすことだけに費やす、と説くのです。

ヴィパッサナーは、
このような禅定のリラックス感のためにあるのではなく
別に目的がある、といいます。

それは、気づきだと言います。
集中力とリラックスは、気付くための必要な付随物だとされます。

===
この二つは先駆となるものであり、便利な道具であり、
役に立つ補助物です。
しかし、集中力やリラックスを得ることが
ヴィパッサナーの目的ではありません。
目的は、智慧
 です。
===(p.39)


これですね!

ここが、しっかり述べられているだけでも、
この本は価値があります。

瞑想は、智慧を生む手段である

というのが、わたしも大事に思うところです。

そうそう、『ダンマパダ』にもありました。
=============
372 智慧のない者には、禅定はなく、禅定のない者には、智慧はない。
禅定と智慧のある人、かれにこそ、涅槃は近い。
=============

リラックスだけじゃない、
智慧を開発する瞑想

ここが、仏教の説くところ。

今日は、ここを強調して、終わろうっと。

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コスモスは、いいね。


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2012/09/03

『梵網経』を歓喜する『自歓喜経』

暑い毎日ですね。
ほんとに9月ですか?
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お墓参りにお供えしたお花とネコ。。

あ、「お供えした」はお花だけです。
ネコにはかかりません。

では、お花だけ。
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そんじゃ、ネコだけ。120903_074403
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さてさて、『自歓喜経』と『梵網経』の話題が出てますね。

一昨日の未明、ようやく原稿を仕上げました。
難行苦行でした。

なぜなら、『梵網経』の話題を取り上げようとして、
ほんとに死にそうな目にあっていたからです。

原稿、ボツになるかも。。ドギマギ。。

『梵網経』が、いかにすごい経典か、骨身にしみました。


ブッダさまさま、ほんとにおそるべし!
わたしのような、凡夫未満みたいのが、
おそれしらずに、扱えるようなものではありません。
ごめんなさい、ごめんなさい、ほんとすみません。

っと、
口先では謝りながらも、それでも、
何とか食らいつく。。。かたい!


ほんとに 一切智者 だということを、

無限大で 実感する!!!

なんて、こった!

『梵網経』は、
外教徒の62の見解を、取り上げた だけ!だと、思うでしょ。
そして、
ブッダは、それを乗り越えている だけ!だと、思うでしょ。
そして、
外教徒の62の見解は、否定された だけ!だと、思うでしょ。


そんな、簡単なもんじゃないんです。。
って、これだけでも、簡単じゃないけど、
それが、簡単に見えるくらい、もっとすごいのです。


======
とつぜんですが、
こうして
ボロボロになって、原稿仕上げました。
======

    ~~~~~~ 

起きてみましたら、このブログに、
magagiokさまと前世は一在家さまのコメントがありました。

『自歓喜経』にかんするコメントが寄せられていました。

それを拝読しますと、
なんとなんと、6年以上も前に議論されていた問題が
また、今再び復活しているようなのです。


★★ 輪廻する問題、『自歓喜経』の謎 ★★

6年前に、
前世は一在家さまが、ある掲示板に質問されていたのが
話の発端です。

サーリプッタがブッダの説を讃歎する話を述べた『自歓喜経』の中の
常住論について、次のように述べておられたそうです。
そのままの引用を紹介してもらいました。

> 原始仏典:自歓喜経と法華経:如来寿量品第十六との共通真理
>
> 原始仏典(長部経典)の中の「自歓喜経」は釈尊とサーリプッタ(舎利弗)
> との対話ですが、興味深い一節(常住論)があります。
> 「アートマン(個我)と世界は常住であり、なにものも生み出さず、不動
> であり、石柱のように固定していて、かの生けるものたちは生死流転し、
> 輪廻しているけれども、まさに常住不変に存在している。」
>
> 尊者サーリプッタ(舎利弗)は釈尊の面前で信仰の喜びを表明したので
> 歓喜経と命名されたそうです。
>
> 法華経でも、これまで「常住不変のものは無い」と説いてこられた
> 釈尊が一転して、「実は世界も仏(神)も実相は常住不滅である」と
> 説き、弥勒菩薩ら高弟でも愕然とした次第です。(如来寿量品第十六)
> 四諦などの真理も実は方便(真の如き)だったことがはっきりします。
>
> 長部経典と菩薩乗(法華経)の共通の究極真理のようです。


釈尊は、常住論を説いたのではないか、という内容かと思います。
そして、サーリプッタがそれに感動して讃歎しているのが
『自歓喜経』の内容ではないか、ということでもありましょう。

これに対して、わたしは、コメントを求められましたので、
『法華経』はわからないのでパスして、
『自歓喜経』について、サーリプッタが讃歎したのは、
常住論そのものではなくて、ブッダの解説の仕方である、と、
次のように述べました。

【わたし:管理人エム】
> ブッダは「他人の説だけどね、常住論はこんな教えですよ」と
> 説明したのですが、その説明の仕方が、最高だったと、
> サーリプッタは歓喜しているのです。
> そこでは、第一経の『梵網経』の中の説明と同じものが、
> サーリプッタの口によってもう一度語られています。

このようなお話しで、それはそれで終わって、月日は流れ、
6年経って、2012年9月2日、

また、再び、『梵網経』と絡んで『自歓喜経』が問題になりました。

前世は一在家さまのコメントより抜粋です。

【前世は一在家さま】
> 同じ長部経典の「自歓喜経」では三つの常住論の中の一つを
> 釈尊は最高だと説いたと舎利弗が表明し、
> 仏陀もその表明が正確であると保証されました。
> それは下記の常住論ですが、
> 「梵網経」の62の見解の中に含まれますか?

> 「アートマンと世界は常住であり、何物も生み出さず、不動であり、
> 石柱のように固定していて、かの生けるもの達は生死流転し、
> 輪廻しているけれども、まさに常住不変に存在している。」
> (参照:長部経典Ⅲ、春秋社)

> 62の中に含まれるか否かに関係なく、
> 釈尊の悟りに近い論だということでしょうか。


         ◇◇◇ 

 ここで、お答えしなければなりませんね。
■1■サーリプッタは、ブッダの説いた何に讃歎しているのでしょうか。
■2■ブッダは、ほんとうに三種の常住論(の一つ)を説くのでしょうか。

サーリプッタの理解の仕方は、
お城の一つしかない門を見張って、そこを通る人々を掌握するように、
法の入り口を見張って、そこから種々の系統の法のあり方を知る
というものです。

サーリプッタは、系統立てて知る方法を得て、
それによって、ブッダの常住論の立て方は、最高!と
知ったのです。

その常住論は『梵網経』に述べられています。
サーリプッタは、なんと!あの、むずかしい『梵網経』を
みずからの力で、理解していたのです。ほんとすばらしい。

でも。。

ここは、わたしも、サーリプッタの気持ちがわかるような気がします。

なぜ、わかるかというと、
わたしも、サーリプッタに倣って、同じようにして、
ブッダの法を探って行ったからなのです。

そこから、サーリプッタと同じように、感嘆してしまうのです。

では、常住論もみましょう。

常住論は、三種であって、このような説き方は最高だ、と
サーリプッタは述べます。

どんな風に説いたか。

心統一(サマーディ)により
個人の過去世をずっとたどって見ていくのが、一つ。
個人の過去世をたどり、世界の生成か破滅かを見ていくのが一つ。
個人の過去世をたどり、世界の生成と破滅を見ていくのが一つ。

これをわかりやすく言い換えると、
1 人がどんな境涯をたどったかを見る場合
2 人の境涯と、世界の周期を破壊か生成かだけを見る場合
3 人の境涯と、世界の周期もずっと見ていく場合

このような分類で、常住論を解説したその論の立て方は最高なのです。
もっと明確にしてみます。サーリプッタ尊者の解釈によります。

過去と未来に分けて、ブッダは分析しています。
1 過去だけを知るが、未来についてはわからない常住論
2 過去を知り、未来の一部について知る常住論
3 過去を知り、未来も見通す常住論

アートマンと世界についての常住論は、この三つです。
こういう分類で説かれるなら、ほかに、常住論はないでしょう。

すばらしい。。ここに気づいたサーリプッタ尊者もブラボー!


===
で、ここからなのです。
===

ブッダは、それでは、これら常住論を説いているのでしょうか。

つまり、アートマンと世界について常住だ、としているのでしょうか。

残念ながら、それは、ありません。
これらの常住論は、接触によって感受されたもので、
渇愛から生まれたものだ、とします。

ブッダは、「さらに勝れたことを知る」と述べて、
アートマンと世界とが常住だ、とする説をとりません。

この説を採らない、とするのはたしかなことですが、

しかし、

まったく、何もかもすべて否定している、というわけでもありません。

よくよく見ますと、この常住論は、
常住論という部分だけを抜いてしまうなら、
常住論の中身の解説は、実にすばらしいのです。

ですから、ブッダは、このような解説を、自分の法の説明にも使っているのです。
過去世をずっと見ていく智慧について、
ブッダは、同じような説明を用いているのです。

ですから、常住論の説明は、捨てずに、
ただ、「常住論」という主張だけを、捨てている、と言えましょう。

ブッダは、常住論よりもっと勝れていることを知っている、と
述べています。

それは、なんだと思いますか。

自分の目で見たことだけを語って、見ていないものは、語らない、
とする態度です。

ですから、過去世をずっと見たなら、それは語りますが、
アートマンと世界が常住かどうかは見ていないので
語らないのです。

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で、前世は一在家さまの、おっしゃること、いくらかわかります。
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3の常住論について、ブッダは、その説明を採用しているのです。
ただ「常住だ」とはいいません。

いわないのですが、
ずっと過去世をどこまでも見ることができますし、
未来の世界の生成と破壊の周期もすっと見ることができるのです。

過去も未来も見ていけるブッダ

『法華経』の「如来寿量品」に出てくる如来も、同じですね。

ただ、『法華経』も、「常住だ」とはいいません。

如来の寿命は無量である、とはいいます。
過去にどこまでも遡ることができます。
だから「久遠である」といいます。

でも、「常住(サッサタ)だ」とはいわないのです。


「常住」は、数えなくてもわかってしまう永遠性をいいます。
「久遠」「無量」は、数えていくと数え切れないことをいうのです。

如来は実際に非常に長い時間この世にとどまって滅することがない、のです。


年を数えなければ、ブッダは生きられません。
数えもせずに、永遠だ、とは言えないのです。

だから、無数の劫を数えて、ブッダの寿命を知るのです。無量であると。


こういうことではないでしょうか。

前世は一在家さまのおっしゃりたかったことは、
こういうことではないかと思います。

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ちなみに、
「常住論」と「無量の寿命」という考え方のちがいは、

数学の、実無限 と 可能無限

の考え方のちがいに等しいようにも思われます。


ふーーーっ!
ようやく書きました。

もう少し、うまく書けたらよかったですが、
それでも、何とか、言いたいことをまとめられたかな。

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