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2011/11/08

輪廻列車は銀河鉄道をひた走る

001
何とはなしに、線路というものは、いいもんだ、

って、気がするな。

でも、先日、線路にひび割れが見つかったとかで、
ずいぶんダイヤが乱れて、列車は1時間も遅れました。
いろいろあります。


    +++

線路と、
最近はまってる宮沢賢治と、
そして、
引き出しの中から出てきた星座早見表。

この三つが合わさって、「銀河鉄道の夜」
という物語のことを思い出しました。


頭の中では、ずっと「銀河鉄道の夜」のお話が鳴り響いていますが、
書いてる文章は、次のようです。
あんまり、関係ないかな。。

    +++

線路は、途切れちゃ、用をなさないように、
人の一生も、途切れては、用をなさない。

人の一生というより、生類の生涯って、言った方がいいかもね。


輪廻の長い線路は、どこまで続くのだろう。

人は、死んでも、いつもこの世界に戻ってくる。

死んでも死んでも死んでも死んでも、この世界に戻って、
似たような生涯を送ってしまうのだろうね。


===
生まれ生まれ生まれ生まれて生(しょう)の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し
===
(空海『秘蔵法鑰』)


そのとおりだよね。


よく、

「前世のことは記憶がないのだから、
輪廻してても、この一生しかないのと同じである。
だから、輪廻を考えることは意味がない」

とも、聞くけれど、ほんとにそうだろうか。

輪廻していると知るならば、前世がどんなであるか、なんて、
自ずと知れちゃうことではないだろうか。

よく、

「死んだことないから、死んだ後どうなるかなんて、
わからない。だから、考えても意味ない」

とも、聞くけれど、ほんとにそうだろうか。

生まれてきたら死ぬとわかっていれば、死んだ後どうなるか、なんて、
自ずと知れちゃうことではないだろうか。

    +++

この世の中、善いことなんて一つでもあっただろうか、って
考えてみると
たいして善いことも起こらず、変わり映えしないのが毎日である。

そんな毎日を積み重ねて、やがて死を迎える。

あり得ないような、珍しいことなんて、何にも起こらない。
奇跡なんて、起こるのが奇跡なんよ。

つまりね、
起こることは、原因があって起こることしか起こらない。

寂しい話だけど、みんな結果なんて、想定内のできごとばかり。。

原因もないのに、起こったものは、見あたらないし、
また、そんなものが起こっても困ってしまう。

そうなると、生まれてくるには原因があるとわかる。
そうなると、死ぬにも原因があるとわかる。

    +++

このことを知らないので、

「生の始めに暗い」
「死の終りに冥い」

と、言われてしまうのね、空海さんに。

こうして、無知の闇の中で、
原因を知らないまま、
因果にしたがい
おのずと輪廻しちゃうわたしたちなのです。

    +++

今、生きていること、そのことが、もうすでに輪廻の証のようなものである。

原因があるから、生まれて、今生きている。
原因があるから、生きている者は、死んでいく。

だから、

原因を知ったものは、生を乗り越え、死を乗り越えられる。

輪廻の線路がどうなるのかは、その人だけが知っている。

    +++

暗い銀河の世界をひた走る銀河鉄道は、
人々の生と死を運んでいく、
どこまでも行く輪廻列車のようです。

主人公ジョバンニは、永遠のさいわいを探しに行こうと、
カンパネイラに話しかけます。
「僕たち一緒に行こうねえ」

ところが、カンパネイラは消えてしまいます。
胸を打って泣き叫びますが、そこら辺がまっくらになったように感じるだけなのです。

眼を開けて、ジョバンニは、眠っていたことを知るのです。
そして、現実の世界に戻って
カンパネイラが川に落ちていなくなったことも知るのです。

    +++

ジョバンニは、この輪廻する世界の中で、一人で幸いを
探しに行かなきゃらない。


かれの行く手は、こんなかな。
003

誰でも、輪廻の列車に乗ったものは、一人で行く。
一人でどこまでも出かけて、
線路の先がどうなっているのか確かめに行くんだね。
みんなの幸いを探し求めて。

    ***

話は、一応まとまったかしら。。。ね。

「銀河鉄道の夜」は、悲しい輪廻のファンタジー。
銀河鉄道から、現実に落ちて、
いつもあたりまえに苦しく悲しいことだけ起こることを知るのです。

だけど、救いは、永遠の幸い。ジョバンニのことばは心強いね。

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コメント

> おかなければ、と見るとき、側近にいます。

“自他”という 「二つの観察」 が 
ある “ところ” が
側近に いる(ある) と 分かればよいのですが 、、、、

分かるという VI の基準は、 中心にはありません

見る主体は、見られることによって、起き上がります 、、、、

縁起を外せば、自という字も、他という自も、成り立ちません
起き上がるところを もって(拠り所として)、
起き上がるのではなく
拠り所が、( 顛倒・偏 に )縁起するのです

このことが、 “ 縁起 のり ” です

中心にあるから、側近に移るわけです
次のセンテンスとの間に、
“ 跳出 ” が あることを見逃してはいけません

見逃すから(不注意でいるから)
自ら掘った落とし穴を  見逃して 、
そこに落ち込み “もがく” のです

> 春間さま風ですが。

そのような 風 は、冬の初めによく吹く風です
自己に籠もる用意は、その風に促されます

こもる“ところ”は、中心にはなく、
インディアン サマー のように、煙を吸い込みます 、、、、

投稿: 春間 則廣  | 2011/11/22 07:32

>寝ていて、起きていることを見ることとは、

「いつも目覚めておれ」と言ったブッダのことばが、今よくわかりました。

半眠半睡のとき、実は、もっとも起きていることをよく見ているのですが、なかなか、それが得られないのは、
疲れているせいではなく、
多忙なせいではなく、
気がせいているせいではなく、
とらわれているせいではなく、
悩んでいるせいではなく、
たんに寝たら熟睡するからだと思います。

>自他を “心中側近” に おかなければ、
>そこ(自洲)に移ることは出きません

おかなければ、と見るとき、側近にいます。
春間さま風ですが。

投稿: 管理人エム | 2011/11/22 07:15

“無量”というときの 「量」は 
その言葉を “受けるモノに” 「量」 が あるということです

「量」 が あると わかるときに、 “無量” が 知られます
無量ということは、存在しないのです 、、、、

起きているということと 
同じ理を用いますが、
階梯が違うことに気づいていますか ?

瞑想の中にいると、
「 如実 」 に 
この 「 言葉 」 が、「 行い 」 と なります

投稿: 春間 則廣  | 2011/11/21 08:22

“ オキテイル ” は、
寝ていても “ 起きます ”

起きて “目覚め” ということを知ることと 
寝ていて、起きていることを見ることとは、

起きることに違いがあります(違う階梯だということです)

「 君は何の為に会社にきている 」 
「 やることをやれ 」

誰であっても、
 “ 自らの生を 愛しむ ” 
 “ 自他の生は 慈しみに 包み、、、、包まれる  ”
そのこと 以外に、為すことはありません

イツクシム という 言葉に、二つの見方が生まれます
“自”からの立場と、“他”からの立場です

自からは問いません
他から受けていることを、
“問い”(他から)・問われます(自から)
( この立場の 変換がわかりますか ? )

自他を “心中側近” に おかなければ、
そこ(自洲)に移ることは出きません

言葉は何をさしめすかによって、 即応して(!)
行いに苦楽を産みます
( 苦楽を顛倒することとは、別の“階梯”です )
( 顛倒が 、既に 「苦」 そのものではありますが、、、、 )

「寝ているように見えることが、すでに起きてる証拠です」
という言葉の中から、
二つの 意味(あなたの行い)を見ます

一つは問いません(平等に属することだからです)
もう一つを見つめるときに、
起きているという意味が浮かび上がります 、、、、
(  ここに、 「 願 」 による、量 が生まれるからです )

( 方向を持てば、その方向に沿った “階梯” が生まれます )

・・・・

投稿: 春間 則廣  | 2011/11/21 07:27

>その起き方を問います

起きてるように見えないということかしら。

それでも、起きてます。

起きて行うとき、寝ているように見えるかもしれませんが、
寝ているように見えることが、すでに起きてる証拠です。

何だか、話し方が、アランに似てきたような気が。


投稿: 管理人エム | 2011/11/20 20:37

>この教えは5千人の弟子達が退席した後に舎利弗と何人かの高弟にのみ説かれております。

舎利弗で思い出しましたが、長部経典にも舎利弗が登場する経典があります。
「自歓喜経」で、舎利弗は釈尊の前で自身が聞いた法を復唱し、釈尊から正しいと保証されます。
それらの法の中には、入胎の法や前世を想起する神通の法なども含まれております。

空海が唱えられた「生の始めに暗い」ですが、菩薩以外は入胎~出胎までに皆意識(記憶)を失って
しまうという意味かも知れませんね。

>「人間だれでもいつかは仏の智慧を成就できる」という法は、菩薩だけを教化対象とするようです。

でも、いつか仏になれるという希望?を持って、意識(記憶)を失うことを承知で母体に入ってくる
意識体達の心意気は「暗い」というよりも「明るい」かと存じます。

以上、自己レスにて補足まで。>各位

投稿: 前世は一在家 | 2011/11/19 09:36

> 起きてます。

その起き方を問います

> だけど、目覚めた人、って、ことはないですけど。

その判断の 「根拠」 を問います

“根拠” の 起きる “ところ” が 「仏」 です

目覚め・コクスイ  その  (どちらに住するかは)
目覚めて知る   ことです

「  明暗、他に非ざれば、信修すれば、忽ちに  証す 」
「  哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子  」
「  苦しいかな、痛ましいかな、狂酔の人   」

長眠・狂酔 を 認めぬ(信修せぬ)ものが、
当に  そこ ( ここ ) に 立っています

タッテモ イナイシ 坐れども 座 セズ 、、、、

あなたの 「仏」 は、その“世”に、
・    「 世間 有仏 難 」
その “よう” に “有り(立って)” ます
「 常におわせども うつつならぬ 」

その 立ち方 で、足元が見えていますか  ?

> ブッダは、本当に悟った人なんだなぁと、実感中です。

本当があれば、そのあるところが 「仏」 の住するところです
得難き出会いに、あるときに、
(その時の束の間に) 「仏」 に います

それでも、 「 世間有仏難 」 
この意味を知ってください


あなたに当てはまらなくて、
私の世に起きていることです 、、、、
( あてはめるのは、あなたの 「世 に ある」ことです )



投稿: 春間 則廣  | 2011/11/19 07:29

春間さま

>いつ起きるのかな ?

これ、わたしのこと?

起きてます。

だけど、目覚めた人、って、ことはないですけど。

ブッダは、本当に悟った人なんだなぁと、実感中です。

投稿: 管理人エム | 2011/11/19 02:44

「 仏は常におわせども うつつならぬぞ 、、、 」

このことが、

「 世間有仏難 」 


現であっても、夢に 寝る

いつ起きるのかな ?

投稿: 春間 則廣  | 2011/11/17 22:28

己脳の投稿 消えてしまいました 、、、、

エコウ します

アンネー !

経典って、 「仏説」 ですよ !

仏が語って、仏が聞き
仏であうとき 友がいる

Dhp. 182

「 みほとけのよにあることありがたし 」 世間有仏難

出会っていても、わからなければ、出会いはありません
聞いていても、わからなければ、 聞くことがありません

“如是我聞” と聞くのは 「論」 じ ているのではありません

聞くことを知って、行いにあるときに、
語る友と共にあるということです

何処に友がいて、イズ(!) に あなたがいますか ?

諸仏諸菩薩 ボーサット してません

ボーーディ サットヴァ

サッサト ヤ  ( サット サト sat 聖ya ) リナサイ

やることやって、
イルコト satya  シャベッテ

サッサト 練って
ササト  起きなさい

投稿: 春間 則廣  | 2011/11/17 08:17

自分事 !

ですか ?      

他人事です 、、、、


自他不二でなければ、どちらでもありません

投稿: 春間 則廣  | 2011/11/17 07:31

ミチ先生、おはようございます。

>たぶん、神さま目線(?)というのが、『法華経』には必要なんでしょう。衆生の目線では、この経典は扱えないような気がしていました。

法華経の方便品第二にも同じようなことが説かれておりますね。
春間氏からもコメントがありましたが、神様目線ならぬ「菩薩目線」が必要なようです。

この教えは5千人の弟子達が退席した後に舎利弗と何人かの高弟にのみ説かれております。
「人間だれでもいつかは仏の智慧を成就できる」という法は、菩薩だけを教化対象とするようです。

投稿: 前世は一在家 | 2011/11/17 07:03

前世は一在家さま

おはようございます。ほんとに線路は続く  でございます。

>私は師から伺いましたが、かの出口氏もこの辺りを詳説していたかと記憶します。

そうですか!
なるほど、そうだったのか。。

『出口王仁三郎著作集』第一巻に、「信仰の堕落」というエッセーがあって、これを読んでたいへん感心しましたが、今のお話しとも通じますね。

天御中主神からはじまって、万有神教(汎神論)にまでいたります。スケールが大きくて、一切智の広がりがありますね。

おもしろいです。『法華経』が、また、ちょっと見えてきた感じもします。

たぶん、神さま目線(?)というのが、『法華経』には必要なんでしょう。衆生の目線では、この経典は扱えないような気がしていました。

ありがとうございます!

投稿: 管理人エム | 2011/11/17 04:55

ミチ先生、こん**は。

>応身(ニルマーナ・カーヤ)のブッダでしょうか。なるほど!

法身クラス:大日如来
報身クラス:観世音
応身クラス:釈迦

神道系では法身・報身・応身を神(梵天)界・幽界・現界の存在と見なす教えがあります。
私は師から伺いましたが、かの出口氏もこの辺りを詳説していたかと記憶します。

線路は続くよ、どこまでもと銀河鉄道はどこまでも続きますが、異教間の対話も結構続きますね。

投稿: 前世は一在家 | 2011/11/16 21:59

前世は一在家さま

おはようございます。

>あれほどの方の再生であれば歴史に残るだろうと思料するからです。

応身(ニルマーナ・カーヤ)のブッダでしょうか。なるほど!
具体的に世に現れるとすれば、次は、弥勒仏まで待たなくちゃいけないのかしら、と思ってましたが、もっと早く現れてほしいですよね。

すべての人には、仏性がある。。そうだと思います。
でも、ほんとにブッダになるのは、至難のわざです。

>一つの道で大成した人々に自己愛を超えた共通性を感じるからです。

ああ、それはわかります。願わくば、彼らの仕事が純粋に光輝きますように。
誰かに悪用されたりしませんように。


投稿: 管理人エム | 2011/11/16 09:13

> 法華経では「ずっと昔に悟っておられた」
という自己申告がございましたので。


「 法華経を正しく読むことが出来るのは
    (自らを除いて)最澄しかいない  」  

というのが、道元 の 法華経の読み方です
日蓮も、それと、同じところから世界を眺めます

すべての人が菩薩であるということを知る、
そのすべての人の
 (中に生きる、その一人である) 一人が為に、
万人への法華経があります (ここに親鸞が住みます)

正しく読むとは、
正しく読むように、
(自らが作り出している)生きざまを見る ということです

( 自己の生きざま以外に、世界はありません ) 

( それが、 「他力」 に よるということです 、、、、 )

自らの生きざまが、
法華経 の “読み” 方 、“聞き” 方 です

他人の自己申告は、誰の為にありますか ?

“ 自己 ” というモノが、どこにあるかがわかれば
“ 他己 ” のありようが、 「縁起」 します

「自他不二」 (!) とは、
「自分事のように、他人を思いやる」 (!) ということとは違います


その(!)“心”のあるところも、
その(!)“心”を見るところも

「 慢 」 “ 心 ” という 住処にあると分かれば、
  ( マン は 自力であって、 他力に縁起します  )

それ(慢心) を 見る “ところ” が 何処にあるかが 
縁起       します

投稿: 春間 則廣  | 2011/11/15 08:00

ミチ先生、おはようございます。

>>御釈迦様は「涅槃」が一番の目標のように説きながら、実は何度も「再生」されてますね。
>これは、よくわかりません。法身のブッダのことかな、と思ったりしています。
>菩薩は、たくさんいるんじゃないかと思ってます。実は、世の人すべて菩薩です。
でも、気づいてないのだと思っています。

法華経では「ずっと昔に悟っておられた」という自己申告がございましたので。
ただし、この2500年間は再生されていないかも知れませんね。
あれほどの方の再生であれば歴史に残るだろうと思料するからです。

現代でも自称釈尊の再生だという方々を時々見かけます。
私は信者の方々に「心の中で師に質問してみて下さい」と申しております。
釈尊の再生であれば、少なくとも読心通は使えると思うからです。

同じく法華経には、世の人すべて仏性を持ちやがて仏になり得るとあります。

仏教で菩薩と呼ばれるクラスの方々が、偉大な科学者や芸術家や事業家として再生してきているのではないかと存じます。
一つの道で大成した人々に自己愛を超えた共通性を感じるからです。

以上、先のかきこの補足にて。

投稿: 前世は一在家 | 2011/11/15 06:58

前世は一在家さま

>御釈迦様は「涅槃」が一番の目標のように説きながら、実は何度も「再生」されてますね。

これは、よくわかりません。法身のブッダのことかな、と思ったりしています。

菩薩は、たくさんいるんじゃないかと思ってます。実は、世の人すべて菩薩です。
でも、気づいてないのだと思っています。

>なお神道系でも神々が幾憶万年の経綸に沿って、人と世界の創造を続けておられると伺ってます。

そうなんですか。
インドのように、スケールの大きなお話しですね。スケールが大きいのは、いいことですよね。
人間の思惑を軽く超えてしまえる感じがします。

出口王仁三郎氏の説く神さまも、納得のいくものです。とても論理的です。

投稿: 管理人エム | 2011/11/15 06:26

イズコ に 再生 していますか ?

実証してください
( 仏菩薩に出会ったことがありますか ? )

そのうえで、事実に基づく、仮説を構築してください

アルタ が 耕す“タ” ではないと、
ブッダは 説きます (この世にわたしは聞き及びます)

ヒトを除いて この世 はなく
この 世界= 世間 を 除けば、
ヒト に いたります    

ノゾイテ ゴラン  !!

投稿: 春間 則廣  | 2011/11/13 08:35

ミチ先生、こん**は。

>お釈迦さまも、五欲はほどほどがいい、って言ってました。

御釈迦様は「涅槃」が一番の目標のように説きながら、実は何度も「再生」されてますね。
菩薩達もわざと「涅槃」に入らずに、何度も「再生」されてますね。

その理由は、この世(現界、3次元物質世界)をとっても重視されているからではないかとの仮説を立てております。
人もこの世界も「み宝」なのではないかということです。

なお神道系でも神々が幾憶万年の経綸に沿って、人と世界の創造を続けておられると伺ってます。
勿論、「五欲」を人に与えたのは神仏ですし。

投稿: 前世は一在家 | 2011/11/12 16:22

前世は一在家さま

おはようございます。

>春は焼酎、夏は冷えたビール、秋も焼酎、冬は熱燗ですね。

四季折々、風情がありますねぇ。
そろそろ熱燗に移行する季節になってきました。

お釈迦さまも、五欲はほどほどがいい、って言ってました。
ほどほど感は、幸せ感! 感、燗、乾杯。

投稿: 管理人エム | 2011/11/12 09:12

ここにきて 何を か 言わん や

「 まだ見えませんか ? 」


自分の  いる状況を、
選ぶこと   も、
選ばれている 状況です。。。

投稿: 春間 則廣  | 2011/11/11 08:26

ミチ先生、こん**は。

>前世は一在家さまは、こっちかしら。

春は焼酎、夏は冷えたビール、秋も焼酎、冬は熱燗ですね。

あー、この世は刺激的で、美しく、正に至高の芸術品ですね。

乾杯!

投稿: 前世は一在家 | 2011/11/11 00:17

前世は一在家さま

>私も時々ミチ先生と同じように考えることがあります。
 
>特に飲み屋で美味しいお酒と料理をいただいている時は、かなり不敬ですが、
>「神霊界より見守りし者達よ、我を羨むなかれ。これ生ける者の定め、喜びなり。」と。

お! 意見があったところで、では、 乾杯といきましょうか(笑)。

前世は一在家さまは、こっちかしら  。

と、酔いのまわったところで(あら、もう)お話しますと、けっこう自分としては悲惨な状況にあっても、この世で輪廻している方がいいような気がします。

経験したことのないようなことを経験できるって、不幸なんですけど、得難いことだと思って貴重な気がするからです。

>現界(この世)こそ最高の芸術品(み宝)

ほんと、そんな感じ!!
どんな状況でも、幸せというのはそれなりにある、というそんな芸術品。

わたしって、ただの楽天主義かもしれません。

投稿: 管理人エム | 2011/11/10 02:06

ミチ先生、こん**はです。

>そうなんですが。。そのどっちにも割り切れない人は、世の中のことを一切知りつつ、あるいは、一切を知っていきながら、そこにとどまり輪廻します。
>自由だからこそ、そういうこともできる、とも言えますね。

私も時々ミチ先生と同じように考えることがあります。 
病気、貧困、争いに巻き込まれていなければ、現界(この世)が一番楽しいのではないかと。
天国、極楽浄土は美しく、安寧であっても、変化や刺激が無くて退屈するかも知れませんね。

特に飲み屋で美味しいお酒と料理をいただいている時は、かなり不敬ですが、
「神霊界より見守りし者達よ、我を羨むなかれ。これ生ける者の定め、喜びなり。」と。

神仏が最後に現界(この世)を創造されたのであれば、現界(この世)こそ最高の芸術品(み宝)の
可能性もあるかと存じます。

投稿: 前世は一在家 | 2011/11/09 23:41

前世は一在家さま

>「永遠の幸い」ですか。

はい。主人公の気持ちは、作者宮沢賢治の気持ちであるようにも、思われます。
『法華経』の世界の中で生き、菩薩の道を歩もうとしながら、修羅の道にも踏み入れている、そんな作者の姿が浮かんできます。

>対極のオプション、自由でしょう。

そうなんですが。。そのどっちにも割り切れない人は、世の中のことを一切知りつつ、あるいは、一切を知っていきながら、そこにとどまり輪廻します。

自由だからこそ、そういうこともできる、とも言えますね。
なんか、すごいなあって、思います。何だかよくわからんのですけど。

投稿: 管理人エム | 2011/11/09 10:17

ミチ先生、おはようございます。
>主人公ジョバンニは、永遠のさいわいを探しに行こうと、カンパネイラに話しかけます。

「永遠の幸い」ですか。
輪廻するたびに神仏に近付き、内なる神性(仏性)に目覚めて天国(極楽浄土)に住して、輪廻から抜けることかと存じます。

輪廻するたびに獣の近付き、現世でもあの世でも地獄に住するのも対極のオプション、自由でしょう。

投稿: 前世は一在家 | 2011/11/09 06:50

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